新型コロナウイルス出現の意味と対策
榊 博文(社会心理学、説得学)2020年5月5日
第I部 新型コロナウイルス出現の意味
新型コロナウイルスの猛威
新型コロナウィルスが世界中で猛威をふるっているが、このような凄まじい猛威は同じコロナ型ウィルスであるSARSやMERSではみられなかったことである。SARSは、2002年11月に中国の広東省で発生し、世界中で発症者約8000名、そのうち死者774名で、9ケ月後の2003年7月にWHOは収束宣言を出したが、日本での感染例はなかった。MERSは2012年以降、サウジアラビアなど中東地域で発生し、一応世界中に伝播したがSARSほど伝播した訳ではなかった。日本でも感染例はないと言われている。
SARSやMERSはウイルス自体が強力な毒性を持っていたので感染者の病状もひどく宿主である人間を殺してしまい、結果的にウィルス自身も死んでしまう。そこで予防対策としては、感染者を早く見つけ出し、隔離してしまえばウィルスが広く拡散することを防ぐことができ、それ故にこれらのウィルスが世界中で伝播したものの、感染者や死者の数はそれ程大きいものではなかった。
しかし、この新型コロナウィルスは、毒性がそれほど強くはなく、感染しても症状が出ない人や症状が軽くてすむ人もいて、当初、人々はこのウィルスを軽くみていた。しかし、この新型ウィルスは潜伏期間が長く、無症状の人でも他の人々に感染させることが分かり、しかも比軽的軽症だった人が突然重篤になることも後になって分かり、現在、世界中で多くの死者を出している。
2020年4月21日時点で、この新型ウィルス感染者の数は日本国内で11,119人、死者の数は186人であったが、5月2日時点で感染者の数は14,576人、死者の数は482人と増加している。
国外においても2020年4月21日時点で、感染者数2,303,158人で、死者の数は157,663人であったが、5月2日時点で感染者の数は3,343,777人と、百万人以上も増え、死者の数は238,659人と、8万人以上も増加している。SARSやMERSと比較した時、このウィルスの感染力の恐ろしさは驚異的である。
このウィルスが、無症状の人でも他者への感染力を持っていることを私が知ったのは今年(2020年)の2月頃のことであり、その点においてこのウィルスは非常に恐るべきであり、凄まじい損害を人類に及ぼすであろうことを予感していた。その予感の通り、中国の武漢で発生したこのウィルスは、今や中東、ヨーロッパやアメリカそしてアフリカ、南米でも猛威を振っている。日本も例外ではなく、東京、大阪など大都市のみならず地方の県でも感染者が増加する一方で、離島でも感染者がでている。
各国の対策の違い
このウィルスの発生源である中国の武漢では、全体主義国家のもつ強大な権力によって、都市封鎖を行い外出を禁止した。そのことによっていち早くこのウィルスを押さえ込むことに成功したと言っても良い。その点においては、ヨーロッパ諸国も同じで、都市を封鎖し外出禁止令も出し、罰則を国民に課した。ただ異なる点は、中国が普段から全体主義国家であるという点に対して、ヨーロッパ諸国は普段は民主主義国家であり主権在民である。ただこの新型コロナウィルスに対しては、緊急非常事態として、中国と同様の対応を試みた。
しかし、中国がいち早く武漢の都市封鎖を解いたのに対して、感染が遅く始まったヨーロッパ諸国は収束の兆しをいまだに見せていない。但し、早すぎる封鎖解除は第2波、第3波の到来を招くので慎重にしなければならない。1918年1月から感染が始まり、1920年に収束したとされているスペイン風邪(スペインが発生源という意味ではなく、発生源については諸説ある)も、第2波の方が死者数が多い。
一方日本は、憲法の制約により都市封鎖・外出禁止をすることが出来ず、外出自粛要請、営業自粛要請するなどの「お願い」ベースで、国民の「自主性」に委ねる対応をとっており、欧米から見れば非常に生ぬるいやり方になっている。
2週間自縮してダメならばさらに2週間自粛し、それでも効果が出ないならば緊急事態宣言を出して様子を見、結果如何によっては自粛要請に従わない業者名を公表するなどの少しだけ強い策に出るというように、戦力の逐次投入という、太平洋戦争の時に日本がソロモン諸島のガダルカナル島奪回作戦で採った方式を取ろうとしているのである。
戦力の逐次投入
ガダルカナルで何が起きたか少し詳しく説明しよう。日本海軍は戦線拡大のためにガダルカナルに飛行場を建設したが、米軍に奪われてしまったので大本営はガダルカナル島奪回作戦に出た。その時点で、ガダルカナルでは米軍海兵隊11,000人に対して、大本営は敵の人数も火力・戦力も調べないまま、中国戦線で成果をあげた陸軍最強の精鋭部隊である、一木清直大佐率いる一木支隊900人を投入。一木支隊はたった1枚の海図を頼りにタイボ岬に上陸。鉄砲を武器として海岸沿いに米軍を攻略しようとしたが、一木支隊の攻撃を事前に察知していた米軍は、機関銃による十字砲火、迫撃砲による攻撃、一木支隊の後ろに回った戦車隊からの攻撃、更に飛行機からの機銃掃射などの容赦ない攻撃をし、一木支隊はほぼ全滅。一木大佐は責任をとって自決した。最前線の敵の情報も知らないまま、東京にいて作戦立案した大本営の責任は重い。
大本営はその後、川口支隊6,000人を投入、海岸沿いではなくジャングル側から肉弾突撃を試みるも、ほぼ全滅。大本営は更に、第2師団及び第38師団を投入。戦ったのは主に第2師団であるが、この時の陸上軍の人数は、米軍23,000人、日本軍28,000人で、人数では日本軍の方が上回っていた。しかし、大本営は米軍の火力も戦略も調べることもなく作戦指導、結果はほぼ全滅。大量の死者を出した。
空からは、当時、世界最速最強の零戦を投入。基地があったラバウルからガダルカナル到着まで3時間もかかり、米軍機と空中戦をする時間は帰りの時間を考慮すると僅か15分。零戦は果敢に戦ったがガダルカナルの歩兵を助けるまでは及ばず、この戦いにおいて、真珠湾以来の百戦錬磨の多くの優れた搭乗員と多くの零戦機と爆撃機を失った。加えて多くの軍艦と輸送船も失い、戦力の逐次投入は大失敗に終った。
制空権も制海権も失ったままの日本軍は、その後の戦闘において米軍に対して優位に出られず、太平洋の島々から本土防衛まで防戦一方となり、戦争の行方はミッドウェーの敗戦ではなく、この戦力の逐次投入をしたガダルカナルの敗戦によって決定的になったと言ってよい。
先手必勝
新型コロナウィルスに対しても、本来ならば思い切った策を出し、一気にウィルスを押さえ込むという方法の方が優れているのではないか。「経済を成長させる」と同時に「ウィルスも抑制する」との両面作戦を取ろうとしても、結果として二兎を追う者は一兎も得ずと言うことになりかねない。まず先にウィルスを押さえ込んだ方が経済的ダメージも少ないだろうということは私のような素人でも分る。
このウィルスとの戦いは「戦争」であると言っても良いだろう。戦争と言うのは19世紀、20世紀までは、国家と国家、民族と民族の間の戦争であったが、このウィルスとの戦いは「人類とウィルス」との戦いである。その意味でこれまでの戦争とは概念が全く異なり、各国が協調・協力してこのウィルスと戦わねばならない。
中国のような全体主義的国家が、自国に似た体制を持っている国の方がさまざまな点で優れていると言うことを主張し始めたら、欧米や日本のような民主主義国家はどの程度反論ができるであろうか?貧しい国々の中には、このコロナ危機を口実に全体主義的独裁体制を施行しようとする国も出てくるかもしれない。
誰も全体主義国家や独裁体制を望みはしない。ただ、1つだけ言える事は、このような強力なウィルスに対してのみ、全体主義国家のようになり、強権発動するのは悪くなさそうであるということであるが、その場合、強権発動がどのように行われているか国民一人一人が知ることが出来、国民が国家を監視する双方向監視システムが必要である。
造物主の意図
人間の体内に巣くうがん細胞はその数を増やしすぎると、宿主である人間を殺してしまい、その結果、がん細胞も死んでしまう。人間にとっての宿主は地球であり、人類だけが進化の過程で特別に他の種からはみ出してしまった。その数が急加速度的に増え、膨大なエネルギーを消費することによって宿主である地球は滅びてしまう。加えて、進化の過程において、人類は戦争が大好きな種になってしまった。地球にとって、地球を破壊している人類は敵であるから、地球はウィルスと言う武器を使って人類を滅ぼそうとしていると考えることができる。
この世界を作った造物主がいるとすれば、造物主は多くの動物や美しい植物を作り、魚類や昆虫や人類などを作ったと同時に、寄生虫や細菌やウィルスも作ったにちがいない。造物主はもしそれを神と呼ぶならば、特に人類に味方する神ではなく、アインシュタインは「神はこの世界を作ったが、その結果には関心を持たない、そういう神ならば私は神の存在を信じる」と言った。
神がそのような存在であるならば、アフリカで何の罪もない子供たちが飢えで死んだり、罪もない母子が飛んできたトラックのタイヤにぶつかって死んでも、アウシュビッツで何が起きても、核兵器が実際に使用されても、特に何の責任も感じないのである。むしろ人類は何十万か何百万か分からないが多くの動植物種及びその他の種を絶滅させ、この地球を滅ぼしてきたのであるから、造物主は人類を削減し滅ぼす方向に舵を切ったと考えることができる。
一方、人類が一致団結して戦う相手ができたという事は人類にとってある意味でとても良いことであり、人間同士で戦争をする意味は全くないことになる。国家と国家が、民族と民族が、お互いに強調し協力しあうことがお互いのためなのであることを、この未知のウィルスは教えてくれていると我々は解釈する程利口でなくてはならない。国家による膨張主義は20世紀までの話であり、21世紀においては膨張主義はもはやアナクロニズムであることに気付くほど人類は賢いことを願うのみである。
価値観の転換
人間の文明はとどまるところを知らず発展し、クローン人間を作るなどの技術を有し、もはや行き着くところまで行き着いた。ここらで立ち止まって人類の将来を真剣に考え、反省してみる必要がある。
この新型コロナウィルス(COVID-19)が生まれる前にSARSやMERSなどのウィルスが生まれ、それ以前にもいくつかのコロナウィルスが感染症を引き起こしていたようであるが、人類はSARSやMERSにも反省をせず、従来の快適な文明生活を送ってきた。しかし、この新型コロナウィルスは、人間にとっての多くの喜び、例えば親しい仲間と飲みに行くこと、親しい間でも2メートルは離れていなければならないこと、夜の外出は控えること、恋人とも密着してはいけないこと、自分の肉親が入院しても面会にも行けず、死に顔も見ることもできないことなどの現実を、我々に突き付けた。
感染した人を隔離するという事は、自分も隔離されるということと同義なのであり、自分が死ぬ瞬間を誰にも看取られないということと同義である以上の、遥かに重たい意味をもつ。
コロナウィルスのコロナとは、太陽のコロナとその形が似ているからそのように名付けられているのだろう。太陽と太陽のコロナは人間にとって生きていく上で必要不可欠であり有用であるが、コロナウィルスは逆に生きていく上で邪魔で有害な存在である。同じ形をしたものが片方が有用であり、片方は有害であるとは何と言う皮肉であろう。太陽のコロナは途方もなく大きな存在であり、もう片方のコロナウィルスは限りなく小さな存在であるが、その形が似ていることにおいて、そこに深い意味が隠されているとしか考えられない。
このウィルスとの戦いは1年、2年あるいは3年と長いものになるだろう。その間われわれは、外出、歓談、飲み会、旅行、映画鑑賞などの楽しみを奪われ不便な生活をしなければならない。このウィルスは、人間に対して「人間であることを止めよ」と言っているのだ。我々の生活の仕方は大きく変っていかざるを得なくなる、即ち文化文明が変っていくということである。
人類はいかにあるべきか
多くの科学者や都道府県知事が、国民に対して「外出するな、人との接触をやめろ、3密を避けろ」など行動変容を求めている。多くの人たちは概ねこの要請に従っているが、一部の人たちにはこの声は届いていないことが問題である。すなわち、この未知の新型コロナウィルスの場合、最終的には個人の自覚にかかってくるのであり、国民一人ひとりの自覚をどこまで期待できるかということである。太平洋戦争は日本国民の自覚なきことが招いたことを忘れてはならない。
人間は食料さえあれば生きていくことができる。もう少し文明的な生活をしようと思えば、住む家と農業などの食料産業と医療機関とがあれば十分である。しかし、人間はこれだけでは満足しない。娯楽、外出、飲酒、歓談、賭け事、旅行等々、それらの文化文明を欲するのである。このように高度な文化文明を築いてきた人間は、経済成長を押しとどめ、これ以上の地球の破壊を止める程度の、20年前か50年前位の、(私は経済学者ではないので正確な数字は言えないが)経済水準と生活水準で満足するという、価値の転換をしなければならないであろう。
(言葉の定義からすれば、精神文化とか物質文化とか言った時、そのどちらもあり得るが、文明に関しては、物質文明のみが存在するのであって精神文明は存在しない)
ウィルスが人類を襲う時間間隔が次第に短くなってきた。COVID-19をワクチンの開発によって押さえ込むことが出来たとしても、人類が価値の転換をし、地球破壊を止めない限り、今後も新たなウィルスが次々と人類を襲うに違いない。
第Ⅱ部 新型コロナウイルス収束のための説得学からの提案
説得学からの視点: 人々に行動変容をしてもらうために
筆者の専門である「説得学」の観点から日本の現状について少し言及してみよう。人々の「行動」を変容させるには、まず、人々の「態度」を変容させる必要がある。「態度」とは、行動の前の準備状態であり、「認知」、「感情」、「行動」の3つの成分から成っている。これらが変化した後に「態度変容」が起き、「態度変容」が起きた後に「行動変容」が生じる。態度変容させるということは、すなわち説得するということであり、説得のテクニックは筆者が開発したものも含めて多数あるが、今回の新型コロナウィルスに対しては「恐怖説得」が最も有効である。この言葉に対して人々は悪い印象をもつかもしれないが、強力な説得テクニックの一つである。
今回の新型コロナウイルスの場合の恐怖説得は、まず、外出禁止令、都市封鎖令などを出し、「それらの法律に従わなかったら、あなたは逮捕され、禁固3年、罰金50万円などを課される。しかし、法令に従えばそれらの悪い事態を避けることが出来、あなたは近い将来普段通りの生活をすることができる」と言って、法令を守らせるという形になる。
罰則は今回のケースの場合、大きければ大きいほど効果があり、これだけでウィルスを封じ込めることができる。しかし、今の日本の憲法ではこれを実行するのは不可能である。憲法を変えてこれを行うことも考えられるが、その手続きにかかる長い時間を考慮すると、そのことは今は考えないで話を進めることにしよう。
次に打つ手は、やはり「恐怖説得」である。
現在の事態における恐怖は2つに分けられる。1つは新型コロナウィルスがもたらす病気そのものへの恐怖である。自分が感染し重篤になる、苦しく、咳き込む、呼吸も自力ではできなくなり、場合によっては死ぬこともある、感染爆発すれば入院させてもらえず、PCR検査すらもさせてもらえず、悲惨な死に方をすると言う恐怖が現実のものとなる。
もう一つの恐怖は、自分が解雇される、店舗や会社が倒産する、家族が路頭に迷う、収入のめどがいつまでも立たない、自殺者が増える、などである。
しかし、2つ目の恐怖は1つ目の恐怖がなくなれば解消される。人々が外出せず、感染爆発がなく、オーバーシュートもなければ、感染者数が減少に向かい、新型コロナウィルスによる死者数が収束に向かうことになる。したがって非常に大事な事は、感染症の専門家が言うように、国民1人1人が自覚し、外出を控え、人に会うのを8割減らせば良いのである。
どうすれば8割減らすことができるのか。現実的にはこれはかなり難しい問題であるが、それを実行出来なければ現状からの完全なる脱却はいつのことになるか誰にも分からない。では、方策は何か?
実は、防護論的観点からは、恐怖説得は3つの要素からなっており、1つは問題の深刻さの程度である。新型コロナウィルスに感染した場合の病気の恐ろしさを人々が十分に深刻に捉え、その深刻さを評価できるか否かである。人々が深刻さを十分に理解できるならば人々は対処行動をとる、すなわち外出しなくなる
2つ目は対処行動を取らない場合のその悪い出来事が生起する可能性である。つまりこの事例で言えば、外出を繰り返すととんでもない事態に陥り、自分も自分の家族も社会経済も崩壊してしまうという、有害な出来事が起きることをきちんと認識できるかどうかである。もし、認識できるならば人々は外出しなくなる。
3番目は、その有害な出来事を避けるための、「外出しない」という行動の有効性である。すなわち外出しなければ、そして人々と接触をしなければ、悲惨な事態になることを避けることができるということを、人々が認識できるかどうかである。もし悲惨な事態を避けることができると認識できるならば、人々は外出しなくなる。
この3つの認知すなわち、脅威の深刻さ、有害事態の生起確率、対処行動の効果性について人々に十分に知らしめることが出来、人々が十分に認識し理解できるならば、人々に防衛動機を喚起させ、外出をしなくなることがかなりの確率で期待できる。「お願い」をするより先に、この3つの認知(知識)を持ってもらうことが非常に重要である。
この3つの点については、科学者や心ある都道府県知事の度重なる発言で大部分の人々は分ってきているようであるが、国民全員が分っているかというと必ずしもそうではなさそうである。保健所逼迫、院内感染、医療崩壊が叫ばれ、PCR検査してもらえず死亡する人、自宅隔離中に死亡する人、感染して路上で死亡する人がでても、危機感を持たない人たちがおり、彼らは外出自粛を守らず、観光地などに出かけ、夜間飲食をする。他県にパチンコをするために外出し、50人もの人々が多摩川の河川敷でバーベキューをし、首都高を夜間サーキットとして多くの人々がサービスエリアに集まる。私は今でも休日に自由ヶ丘に「視察」に出かけ、自動車で一周するが、コロナウィルスなどどこ吹く風といったように多くの人々が歩いている。
あと4点目を付け加えるとすれば、外出をしないという事の金銭的なコストの問題がある。これらもクリアしなければ人々に外出をさせないという事は難しいことになってくるが、これについては、政府や地方自治体の協力金、助成金などが給付され、それが十分であれば人々は外出せず、営業自粛する。
現時点で、既に自粛生活も長くなり、更にあと1ヶ月ほど自粛が続くという。人々の自粛疲れも問題になり始めた。DVや児童虐待も憎加しているという。経済のV字回復も容易ではないという議論も出始めた。保健所に100回電話してもつながらない人や、陽性のまま自宅待機させられ死亡する人もでてきた。できるだけ早い時期にこの新型コロナウイルスの問題を収束させる必要がある。
「人々の接触を8割減らす」ために大事になってくるのが、後述する「映像の使用」である。映像を使用すればこの3つをかなり高い確率でクリアすることができる。
多くの専門家や都道府県知事が、言葉やグラフを使用して「外出自粛せよ、営業自粛せよ、3密を避けよ」などを訴えており、その効果は出始めているものの、期待される効果が出るには予測したより長い時間がかかるかもしれない。このウィルスがどのようなものでありいかに危険なものか、科学的知識や臨床の現場を交えて一般の人々を教育することが必要である。
その際、特に必要なのは「映像」である。この病気にかかると、どれほど苦しく、痛く、辛いかということを、公衆衛生学や感染症の専門家が映像を使って、テレビやネットで訴えかける。患者の苦しむ様子も、ぼかしを入れながらも、映し出す。患者の苦しさ、痛さなどを患者自身に語らせるのも良い。「息をするたびにガラスが突き刺さるような大きな痛みがある」と言う患者の言葉と表情は、私に大きな恐怖を与えた。長く咳き込む映像では、患者の苦しむ様子が私にじかに伝わってくる。患者の承諾が得られれば容態の急激な変化の前後の様子も映像にし、乱雑に置かれた死者の様子も映し出す。このようにして人々に恐怖を植え付ける。言葉にはない「臨場感」が映像にはあり、恐怖が人々の感情と認知に伝わり記憶され行動につながる。
外出を繰り返すならば、あなたもあなたの家族も、みんなもこのようになるということを映像を使って伝える。このような映像を流すことには賛否両論あるかもしれないが、説得学の観点からは効果絶大であると言える。アウシュビッツで何が行われていたかを言葉で語るより、映像を見た方がその悲惨さがひと目で分かることに誰も異論はないだろう。
「恐怖説得」では、次に、人々に希望を与えねばならない。「あなたが、みんなが、外出をやめれば、あなたたちはこのような悲惨な状態になることを防ぐことができ、家族全員が安泰で、以前のような生活が出来るようになる」ということをテレビやネットなどで伝えることが重要である。すなわち、大きな恐怖を与え、「専門家の提言に従わなければ悲惨な目に合うが、専門家の提言に従えば悲惨な目に合わない」ということを、繰り返し繰り返し伝えることが重要である。これは「百聞は一見に如かずテクニック」でもあり、「あなたのためのテクニック」、「家族のためのテクニック」も併用している。テクニックの併用は単独使用よりも効果ははるかに大きくなる。これらは単なる脅しなどではなく、人々の命を救い、ひいては社会経済も救う一種の教育宣伝である。
さて、説得テクニックとして、次に「信憑性」という要因も考慮しなければならない。このような説得を試みる専門家には、「信憑性」が必要である。「信憑性」は3つの要素から成り立っており、1つは専門性、2つ目は信頼性、3つ目は力動性である。最初の2つは専門家たちは備えているので大丈夫であるが、3つ目に関しては少々工夫が必要である。
デパートの実演販売の売り手は、この力動性だけで見事に商品を売りさばく。
落ち着いて、しかし力強く、エネルギッシュに、上手に間もおきながら、メリハリもつけて、聞き手をぐいぐいと引き込んでいく。
感染爆発を避けるために、一般の人々に態度変容をさせ、行動変容をさせるには、映像を多用しながらこのような力動性に満ちたしゃべり方をし、テレビやネットで何度も何度も放送することが必要である。感染症の専門家は喋ることを専門としていないので、喋るのはテレビ局のアナウンサーでもよく俳優でもよい。忘れてはいけないのは、「専門家によれば」という、「専門性」を強調することである。大事なことはこのような映像を交えた放送が多くの人々の目にとまり、記憶されることである。かくして、より多くの人々の態度を変え、行動を変えることができるのである。
個人的には、このような映像を使わないでも収束に向かうのが最も望ましいが、場合によっては収束に長い時間を要したり、第2波第3波が襲ってきて、映像を使わざるを得ない時が来るかもしれない。ただその時が来るのを待って映像を使うか、あるいは今から使うか、それは政治家の判断に委ねられている。
(今回のCOVID-19は、中国の武漢にあるウィルス研究所から漏れたものであるとの見方があるが、2020年5月5日時点では真相は不明である。仮にそれが事実であったとしても私の見解に変わりはない)
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