« 2006年6月 | トップページ | 2006年8月 »

2006年7月27日 (木)

ジョン・ロールズ『ロールズ哲学史講義(上)』

 このところスクーリング出張や教務関係の仕事が重なって読書のペースが落ちています。通勤電車の中ではほとんどいつも昏睡状態です。夏休みもへったくれもありません。土日なしで働いています。8月に入ったら多少は時間がとれそうですが、それまであと一息です。
 さて、そんな中でようやく読み終えたのがこの本ですが、やっぱ、ロールズはただ者ではありません。ヒューム、ライプニッツ、カントをじっくりと読解していきます。ロールズ本人としてはカントに一番シンパシーを感じているような気がしますが、私個人的には彼のヒューム読解に啓発されました。ヒュームにの理性不信の態度を「自然信仰主義」と表現しているところなど、なるほどさすがにうまいこと言うなと思いました(41頁)。こんなに綿密な読解講義をアメリカの大学でやっていたというのはちょっとした驚きですが(私の偏見にすぎませんが)、これをまた丹念にノートにとっていた学生も偉いものだと思います。こうした読解を通じて個性的な発想が出てくるというのは、実は読解の時点ですでに個性的であったということがわかります。
 翻訳は全体にわかりやすく練られていますが、あちこちで頻出する「傾向性」という言葉がよくわかりません。原語は不明ですが(原書まで紐解く気はしませんし)、あまり日本語としてこなれた言葉とは思えないので、何か他の訳語を考えた方がいいように感じました。「傾向」ならわかりますが、そんな簡単なことではなさそうです。文脈からすると「志向性」といったようなドイツ哲学に出てくるもっとヘンな言葉を避けようとして作ったのかな、という気もします。

(坂部恵監訳久保田顕二・下野正俊・山根雄一郎訳みすず書房2005年4600円+税)

| | コメント (0)

2006年7月16日 (日)

ヘーゲル『歴史哲学講義(下)』

 ようやく下巻を読みました。ギリシャ、ローマからゲルマン世界へと展開する歴史はヘーゲル哲学の思う通りに描かれています。哲学に合わせてか、旧約世界の残虐なところはしっかりと書いているのですけど、とりわけギリシャの野蛮で残酷なところが排除されています。18世紀から19世紀にかけてのドイツではギリシャが理想化されていたとはフリーデルの本で知りましたが、ヘーゲルも時代の空気にぴったりのものを書いていたことがわかります。
 興味深かったのはヘーゲルがキリスト教の三位一体を「精神は自分と対立するものを他者として設定し、この区別を踏まえて自分自身にかえっていく・・・他者を純粋な精神としてとらえれば、神の子イエスがそれにあたる」(170頁)と理解しているところで、要は、キリスト教において神と人間の弁証法をみてとろうとしているわけです。
 このあたりは仮にキルケゴールなら涜神の極みだとして猛反発するところでしょうが、ヘーゲル本人としては真剣に信心深いのだから話が厄介です。そしてこれが「国家の共同規範は宗教の根本原理を実現したものにほかならない」(189頁)という形で国家思想につながっていくのだから、西洋近代史において人間の理性的で自由な精神の成立と国家への信仰が同時進行していることもうかがわれます。
 ヘーゲルのこのそれなりに面白い与太話には鼻持ちならない西洋中心思想が露骨に示されています。今でも彼らの本音はこんなところでしょう。サッカーのワールドカップなんか見ていると、やっぱりねーと思います。敵に回すとえげつないことをこれでもかとやってきますから、本当に心してかからねばなりません。日本はたかだか貴族の蹴鞠文化なので、みんなで仲良く優雅な技を求めてしまうのかもしれませんが、戦場で敵の生首を蹴って遊んだのが始まりだとも言われているサッカーとは、そもそも競技の心構えが違いすぎます。ナンバ走りで相手の3倍走るとか、とんでもないスピードでボレーの連続プレーを(バスケットのスカイプレーのように)仕掛けるとか、ともかく型破りの発想をして戦略を練り直さなければ、今後は全く太刀打ちできなくなるでしょう。

(長谷川宏訳岩波文庫1994年670円)

| | コメント (0)

2006年7月15日 (土)

小堀桂一郎『靖国神社と日本人』

 職場の同僚に貸りて読みました。靖国神社に関する歴史的経緯から条約や判例までにわたる必要な情報のすべてが書き込まれているような感じの本です。新書版ですが内容的には事典に近いところがあります。上坂冬子のような作家と違って、学者の文章ですから通読するのに少しばかり骨が折れるのが欠点ですが、そのうち入手して手元に置いておこうと思います。立場としては本書の著者よりも、たとえば硫黄島に新たな国立の慰霊施設の設置を提案したりする上坂さんのほうが柔軟で現実的かもしれません。
 いずれにしてもこの問題は、他国からの内政干渉を認めないという共通理解が形成されなければ、おそらく一歩も前進しないだろうと思います。

(PHP新書1998年657円+税)

| | コメント (0)

2006年7月14日 (金)

藤田宙靖『第四版行政法Ⅰ(総論)【改訂版】』

 読み応えがありました。法改正のところを中心にざっと目を通しておこうと思いながら、結局通読してしまいました。文章が明快で、実にいいリズムがあります。法律家には珍しく、著者の声が伝わってくるような名文です。民事訴訟法の三ヶ月章の文章と同じくらい気に入っています(案の定というべきか、10頁の「はしがき」には著者の氏に対する讃辞も記されています)。行政法ではピカイチではないでしょうか。
 内容的にはかなり論争的な本で、行政法の様々な問題がしっかり考え抜かれて、最良の言葉が選択されているという印象です。さすがに専門書なので、趣味の読書というわけにはいきませんが、名著だと思います。第五版が出たら私としてはまた読むことになるでしょう。

(青林書院2005年5,500円+税)

| | コメント (0)

2006年7月 7日 (金)

長谷川晃・角田猛之編著『ブリッジブック法哲学』

 わが国の若手の法哲学者8名の共著。学会のレベルがわかります。何とか大学1年生にわかるようにと工夫を凝らして書かれていますが、それでも私の勤務先の学生たちには難しすぎるように思います。
 実際、法哲学という学問には法学の話にしても哲学の話にしても中途半端で、いずれも一般人の興味を惹く形では出てこないという致命的な欠陥または学会の状況があります。それは残念ながら本書でも踏襲されていて、ちょっと面白そうな話かと思ったらロールズなんかの外タレの引用だったりで、肝心の著者自らが「考える」ということがおろそかになっています。
 それぞれに力量のある期待の若手なのでしょうから、がんばってほしいものですが、肝心の元気がありません。学会なんかを意識して書いているようだったら今後も期待できませんが、少なくともお馬鹿な学生に対して溢れんばかりの愛情を持って書いてほしいと思います。

(信山社2004年2,000円税別)

| | コメント (0)

2006年7月 5日 (水)

ヘーゲル『歴史哲学講義(上)』

  ヨーロッパ中心の歴史観が凝縮されたような本です。元々が講義録だったせいもあってか、具体的な歴史記述に入ると、ほとんど与太話のような感じになります。かなり不正確な知識に基づいているのは時代的な制約もあり、いたしかたのないところでしょうが、そもそも理論的前提からして未発達の段階にあることになっている中国やインドについてはむちゃくちゃ評価が低くて、あ、これが連中の本音だな、ということがわかります。たぶん今もヨーロッパのアジア理解はそう変わってはいませんので、異文化理解の限界が示されているという点と、西洋中心史観の露骨な態度がわかるという点では、面白いといえば面白いものです。
 ただ、これをヘーゲル大先生の著作だからといって、日本人がやたらとありがたがって読む必要は毛頭ありません(そんな手合いも哲学徒あるいは哲学者の中にはかなりいるのかもしれませんが)。幸いと言っていいのかどうか、本書ではわが国については一行も出てきませんが、その後のわが国の歴史的展開にはさすがのヘーゲル先生も草葉の陰でさぞかし驚かれていることでしょう。(いろんな意味で。)
 なお、理論的な総論だけでなく、各論の方にも、「国家とは精神的な現実であって、精神が自己を意識するところになりたつ意思の自由を、法律として実現するものです」(264頁)という重要な記述があったりして、国家の哲学の完成者として自信満々だったヘーゲルの思想が具体的な歴史記述の中でも窺われます。簡単に言ってヘーゲルは国家を神の代わりに信仰していたに過ぎないのですが、その信仰の形態には興味を惹かれます。このことについては全体を読んでからまたコメントします。

(長谷川宏訳岩波文庫1994年670円)

| | コメント (0)

ヘーゲル『歴史哲学講義(上)』

  ヨーロッパ中心の歴史観が凝縮されたような本です。元々が講義録だったせいもあってか、具体的な歴史記述に入ると、ほとんど与太話のような感じになります。かなり不正確な知識に基づいているのは時代的な制約もあり、いたしかたのないところでしょうが、そもそも理論的前提からして未発達の段階にあることになっている中国やインドについてはむちゃくちゃ評価が低くて、あ、これが連中の本音だな、ということがわかります。たぶん今もヨーロッパのアジア理解はそう変わってはいませんので、異文化理解の限界が示されているという点と、西洋中心史観の露骨な態度がわかるという点では、面白いといえば面白いものです。
 ただ、これをヘーゲル大先生の著作だからといって、日本人がやたらとありがたがって読む必要は毛頭ありません(そんな手合いも哲学徒あるいは哲学者の中にはかなりいるのかもしれませんが)。幸いと言っていいかどうなのか、わが国については一行も出てきませんが、その後の日本の歴史的展開にはさすがのヘーゲル先生も草葉の陰でさぞかし驚かれていることでしょう。(いろんな意味で。)
 なお、理論的な総論だけでなく、各論の方にも、「国家とは精神的な現実であって、精神が自己を意識するところになりたつ意思の自由を、法律として実現するものです」(264頁)という重要な記述があったりして、国家の哲学の完成者として自信満々だったヘーゲルの思想が具体的な歴史記述の中でも窺われます。簡単に言ってヘーゲルは国家を神の代わりに信仰していたに過ぎないのですが、その信仰の形態には興味を惹かれます。このことについては全体を読んでからまたコメントします。

(長谷川宏訳岩波文庫1994年670円)

| | コメント (0)

« 2006年6月 | トップページ | 2006年8月 »