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2006年9月22日 (金)

友野典男『行動経済学』(再読)

 社会学や歴史学の講義で本書の心理実験の例を紹介しようと思い、もう一度読んで、問題を7題抜き出して編集したハンドアウトまで作りました。学生は結構興味を持って考えてくれました。造形学部のデザイン学科と建築学科の合同クラスですが、センスのいい子が多いので今後も講義に行くのが楽しみです。
 ところで、本書を二度も読んでいると先回わからなかった記述が、あ、なーんだ。5円と105円で合計110円か、とわかったりしたので、1週間近くかかって、ギネスものの愚かさを露呈している次第です。回数に堪える本です。そう遠くないうちにもう一度読むかもしれません。

(光文社新書2006年950円+税)

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2006年9月20日 (水)

多田洋介『行動経済学入門』

 昨日に続いて行動経済学の入門書を読んでみましたが、これはちょっと生真面目すぎる本で、はっきり言って退屈でした。学習参考書のようにきれいによくできた解説書で、各章の最後にはポイントが囲んで整理してあったりもしてサービス満点です。しかし、著者が聡明すぎるのかこちらが阿呆すぎるのか、あるいはその両方でしょうか、人間の愚かさというものに対する著者の共感がところどころ足りないような気がします。文章も外来のカタカナ語が無用に多くて、読者への「愛が足りない」という感じがさらにつのります。
 人間行動の不合理にはおそらく不合理なりの理由があり、それが行動経済学のテーマでもあるのですが、それを合理的に分析するというのは確かに学者の仕事ではあります。ただ、この分野は、そんなお莫迦なことをする人間の不思議さを楽しむ感覚が必要なのではないかと思います。「俺はこんな莫迦ではないもんね」といった感じで語るのではなく、「そうだよね〜。こんなこと俺なんかしょっちゅうあるよね〜」というノリで書いてほしい分野です。
 もちろんもっとうわての頭脳明晰な習俗観察者なら、研究したり本を書いたりするより前に、こうした人間の不合理さを逆に利用して、株取引や会社経営によってとっくに大富豪になっていることでしょう。ジョージ・ソロスなんてそういうタイプの人間かもしれません。

(日本経済新聞社2003年1900円+税)

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2006年9月19日 (火)

友野典男『行動経済学 経済は「感情」で動いている』

 山岸俊男の社会心理学やR・H・フランクの経済学と同じ流れの中にあってユニークな思考実験を続けているのが、この「行動経済学」という学問分野です。同僚の経済学の先生に勧められて読みましたが、実に面白かったです。とにかく人間が合理的に行動するというのは、経済学の理想的モデルの世界での出来事にすぎないようです(そうした行動が実際にはしばしばある種の精神病者に特有のものだったりすることも報告されています)。現実の人間の行動は本書の副題通り「感情」で動いているというのは自分自身の行動を振り返っても十分納得が行きます。有名な囚人のジレンマをはじめとする心理実験は今日ではさらに進化を遂げ、より面白くなっています。来週から始まる社会学の講義でも本書の内容を紹介するつもりです。また、本書での「ヒューリスティックス」(解釈の手助けとなる仕掛けや枠組)という概念は、法解釈の論理を分析する際に様々なヒントを与えてくれそうです。
 なお、時々何度か読み返さないとわからない記述がありますが、おそらく読み手側である私の責任です。全体には複雑かつ煩瑣な問題をよくこれだけの本にまとめたものだと感心します。ただ、次に引用する箇所はいまだにわかりません。「ノートと鉛筆を買ったところ合計110円で、ノートが鉛筆より100円高かった。鉛筆はいくらであるか5秒以内に答えよ、という問題を出すと、たいていの人は鉛筆10円であると間違えてしまう」(100頁)と当然のように書かれているのですが、5秒どころか何日たっても私は間違えっぱなしです。誰か教えてくれませんか。

(光文社新書2006年950円+税)

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2006年9月12日 (火)

D.ヒューム『人性論(四)』

 ようやく全巻読了しました。この巻は法哲学が含まれていて、なかなか興味深かったです。ヒュームの法哲学として専門に研究している人はあまり多くないようですが、いわば宝の山です。所有の安定に関する規則を正義として確立することで、利己的な情緒が抑制される(67頁)とか、正義は仁愛や理知に基づくものではなく、人為的なもので、具体的には人間の黙契からなっている(71−72頁)といった指摘は、人間の現実の姿がよく観察されていると思います。
 また、第二巻での原理的考察でもそうでしたが、〈共感〉というもののはたらきについて様々な考察が繰り広げられています。さらには、憤怒や自己満足といった心のはたらきも必ずしも悪いばかりではないと説いたりして、20歳代の若者が書いたとは思えないほど老成した人間観察が披露されています。不思議な哲学者です。

(大槻春彦訳岩波文庫1952年[リクエスト復刊1995年]670円)

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2006年9月11日 (月)

日垣隆『刺さる言葉−目からウロコの人生論』

 タイトルから漠然と他の人の言葉を編集した本かと思っていましたが、とんでもない。全部著者が自分で考え抜いて書いたアフォリズム集でした。「其の七、仕事力の章」には特に感心しました。無能な経営陣と社員に囲繞されている人は特に納得させられることでしょう。
 また、アフォリズムだけでなく、いつもながら「へぇーっ」という事実がいくつも指摘されています。松本サリン事件の被害者だった河野義行氏が「警察に超迎合的な」公安委員に成り果てていたとは驚きです(38−39頁)。ちなみに人選は田中元知事によるものだった、といえば、何となくわかるような気もしてきます。
 なお本書にはこの著者にしては珍しく、独擅場(どくせんじょう)が「独壇場」になっている誤植があります(86頁)。まさか「どくだんじょう」と入力して変換させたなんてことはないでしょうから、たぶん誤植ですよね。

(角川書店2006年686円税別)

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2006年9月 6日 (水)

辻清明『行政学概論 上巻』

 薄手の本ですが、実によくまとまった基本書です。後期から久しぶりに行政学を教えることになったので、あらためて読み返しましたが、著者の主張もうまく織り込まれていて、決して無味乾燥な概説書ではないところにつくづく感心させられています。しかしながら、版元ではほぼ品切れのようで、来年からの教科書にはどうやら採用できないような感じです。
 ところで、本書には下巻というのが存在しないようです。上巻では学説史と官僚制などの幾つかの基本概念が解説されていて、それはそれでいいのですが、下巻で取り扱われるべきテーマについては、結局他のもっと凝った作りの難解な概説書を参照しなければなりません。
 というわけで、公務員志望者にとっては項目的に不十分な内容になっているのが惜しまれます。本来なら公務員志望者にこそこうした本をじっくり読んでもらいたいのですが、このままでは本書は版元品切れから絶版という運命をたどりそうです。もったいない話です。
 余談ですが、著者は官僚の「天下り」に「天降り」という字をあてていて、間違いではないのですが、これだと天孫降臨みたいでよけい雰囲気が出て味わいがあります。キャリア組は自分たちがほとんど神々のような意識で実際に降ってくるのかもしれません。

(東京大学出版会1966年刊、1992年第29刷1300円+税)

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2006年9月 5日 (火)

D.ヒューム『人性論(三)』

 ヒュームの三巻目は第二篇「情緒について」ということで、ここからこれまでの総論の原理的考察から一転して各論に入ります。各論に入るとやや文章の感じが違ってきて『市民の国について』の記述スタイルを思い出しました。二巻目までで言うことがなくなったというわけではなく、しぶとく具体的な各論を展開しているのはさすがです。こういう形で気長に人間の情緒を観察する方法は、後の時代の現象学的方法の先駆けのような感じもします。いずれにしても、問題が具体的になると、習俗観察者の面目躍如たるところが感じられます。
 全体にはやや散漫な印象もあるのですが、ちょっと我慢して読んでいるとやはり収穫がありました。何より情緒を理知に先立つものとして位置づける(203−207頁)のは、いかにもヒュームらしいところです。そのほかにも、共感というものを観念が印象に転換する働きとしてとらえているところ(73頁以降)や、「斉一性こそ必然性の本質そのものを造る」(188頁)という鋭い指摘が印象に残りました。このあたりは何度か読み返して考えています。やっぱ、面白い哲学者です。最後の四巻も楽しみです。

(大槻春彦訳岩波文庫1949年、リクエスト復刊1995年460円)

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2006年9月 3日 (日)

栗本愼一郎『ブダペスト物語』

 再読しました。25年ぶりくらいです。ポランニー家の事情については著者自らが世界中に足を運びインタビューして回っただけあって、正確な情報が得られます。現在新たにわかって歴史家によって公表されていることというのもそんなにありません。さらには、著者をあまりよく知らない人には意外かもしれませんが、ハンガリーの研究者よりも正確な情報すら含まれています(ジョーフィアの生年など)。
 本書はマイクル・ポランニーの思想の源流をハンガリー精神史に遡って解き明かそうとする好著です。しかし、本書刊行後、そのマイクル・ポランニーの著作の主要なものが翻訳され、そして、見事に無視され、忘れ去られつつあるというのが今日のわが国の何とも残念な事実です。栗本先生こそ何よりもこの事態を苦々しく思っておられることでしょう。
 本書で残念なことは人名がハンガリー語の発音表記だったり英語だったり、その混在だったりで、一瞬誰のことかわからなくなるところがあることです。英語でインタビューすると、英語圏に共通する名前がある人はその発音で、名前のない人はハンガリー語の原音でという形になるのかもしれません。章が変わると別の表記だったりする場合もあります。また、章が変わると事実も変わることがあり、いったいラウラはサボー・エルヴィンの葬儀に参列したのかしなかったのかどっちなのかわからないということもあります(130頁と177頁)。
 細かい事実の間違いはポランニー家のインタビューに基づく事実を除くとそれなりにありますが、本書全体の思想からすると些末なことです(ただ、コーシュ・カーロイについての記述は違和感が残りました。むりやりアール・ヌーボーには入れない方がいいかもしれません)。むしろ、かえってそのアバウトさが、ハンガリーのアバウトさと共鳴しあっていて、その深層での共鳴がこの本の美点となっていると思います。これは皮肉ではありません。ハンガリーからユニークな才能がたくさん出てきたのは、このアバウトさに関係があると私は本気で考えているからです。そのあたりがウィーンから出たユダヤ人の才能と、ブダペストから出たハンガリー同化ユダヤ人の才能の質を分けるものだからです。
 ハンガリーの独特の「ゆるさ」は潜在的な可能性の広がりを意味しています。マイクル・ポランニーの「ゆるさ」とウィトゲンシュタインの厳密な窮屈さは(後期にはほとんど自壊しかけていて親しみがもてますが)、好対照ではないでしょうか。例えば量子力学はもとより、複雑系やカオスといった先端科学の理論にはポランニーの方が相性がいいでしょう。実際に化学の分野で量子力学を分析の道具として活用したのはポランニーが世界で最初でした。
 要するに、細かいことにはあまりこだわらないし、議論も弱点だらけに見えますが、結論としては驚くべき達成や意外な発見を可能にする、というのが(1918年までの一時期の)ブダペストらしさだったと思います。(ちなみに法学には後期ウィトゲンシュタインが相性がいいようです。)
 最後に何とももったいないという気がしたのは、ゼイセル・エーヴァにせっかくインタビューをしながら、この本人自身の波乱の生涯の紹介がなされていないことです。彼女はケストラーの一時期の恋人でもあり、『真昼の暗黒』の主人公のモデルでもありました。マジャール性を活かした天才陶器デザイナーとしての一面にも触れてもらえればよかったのにと悔やまれます。

(晶文社1982年、1992年11刷2600円)

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