E・シャルガフ『ヘラクレイトスの火ー自然科学者の回想的文明批判』
DNAの塩基対合の規則を発見し、現代分子生物学の父とまで称されながら、DNAの二重らせん構造の解明はワトソンとクリックに先を越され、生前あまりマスコミ受けしなかった生物学者の回想録。ウィーン生まれの古典的教養人でもあった著者は現代科学の無目的で度を越した発見競争には当然懐疑的であり、その批判者たらざるをえなかったようです。
本書では今世紀初頭から対戦間期のオーストリア、ベルリン、パリ、そしてもちろんウィーンといったヨーロッパ諸都市の古き良き時代状況も描かれていて興味は尽きませんが、あんまりすらすらと読める本でもありません。ヨーロッパ知識人がアメリカに抱く不満が凝縮されたようなところがあり、共感できる点は多々ありますが、ここまでペシミスティックだと、アメリカの科学の良い面は気が付かれないままでしょうし、本質的に楽観的な私としても、やっぱりちょっと違うかなという気もしてきます。
翻訳はあまり読みやすいわけではありません。語学というより日本語の問題だと思います。そして、私とは相性が悪いようです。10年以上前に読書家の友人が本書を読んで面白かったと聞いたので早速買ってはみたのですが、その当時はこの翻訳文体が妙に気になって読み通せず、今週難儀しながらようやく読み終えました。この間上山安敏の本を読んだ勢いが手伝ってくれたようです。ハンガリーのことをやっていると、やはり周囲の諸国や諸都市の状況も押さえていなければならず、ま、私にとっては因果なお仕事のための読書といった感じです。
それにしても、翻訳者がオーストリアの作家ムジールをムシルと書いたりするのは、確かにオーストリアのドイツ語ではそう発音すると思いますが、一般的でわが国でも通りのよい人名を採用してもらった方が、誤解が少なくなるのではないかと思います。ドストイェフスキーというのもそうです。きっと、ドストエフスキーでは原音に忠実ではなくてだめなのでしょうね。しかし、翻訳者が教養ある先生だということは認めますから、そんなにこだわって見せなくてもいいのにねえ、と思います。
(村上陽一郎訳岩波同時代ライブラリー1990年1050円)
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