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2006年11月22日 (水)

佐藤俊樹・友枝敏雄編『言説分析の可能性-社会学的方法の迷宮から』

 社会学という学問は、その対象と方法を確立するのに苦労し続けている分野で、研究者自身もある社会の一員でありながら、その「社会」をとらえる視点は可能なのかという問題が常につきまといます。
 このところ流行している(いた?)「言説分析」という方法もまたその例外ではありません。「言説」を分析する言語はいったい何なのか、という問題が常に背後霊のようにつきまとっています。

 そもそも言説というのはひょっとしたら私の師匠の中村雄二郎がフーコーの discours にあてた訳語かもしれないのでとやかく言いにくいのですが、何だかわかったようでわからない日本語ではあります。もちろん、だからといってこの「言説」をディスクールやディスコースなどと言い換えても事情は変わりません。
 それにしても、蓮實重彦の語り口にモロ影響を受けた文体の論考も3篇ばかりありあって、かつてのポストモダンのブームの中で自己形成を遂げた研究者が今日の主流となっていることがわかります。この手の文章は但し書きが多くて読みにくいところはありますが、意味がとれないわけではないところは救いです。決して面白くないわけではないという一種の芸風ですが、ここではかっこよすぎじゃないですか。
 また、この新しい言葉に飛びついてくだらない研究を乱造している社会学者も少なくないということが本書の論考中の指摘からわかります。私はこの業界に関わりはありませんが、どうやら莫迦も多くてあまり面白くなさそうな状況のようです。
 論者の中では橋爪大三郎が言説分析を自身の言語ゲーム理論の中にうまく組み入れて解説しているのが印象的でした。なるほどこう考えればいいのですね。この人の社会学関連の論考はいつもわかりやすくてためになります。

(東信堂2006年2000円税別)

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