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2007年7月20日 (金)

ベルグソン『道徳と宗教の二源泉』

 本書を読むのはこれで三度目です。最初に、この岩波文庫版で読んで、二度目は白水社版、それからまた岩波文庫版を読みました。翻訳としては、師匠の肩を持つわけではありませんが、やはり白水社の中村雄二郎訳の方が読みやすいと思います。ベルグソンにこだわっているのは、微妙な事柄をエッセー風に思索を張り巡らせながら、これまた微妙な世界を暗示するという独特のスタイルに惹かれるからです。今回は神秘主義について触れられた後半のところが特に印象に残りました。哲学の範囲をほとんど越えようとしている感じです。
 ベルグソンの著作は全体に、これといって印象的な「決めぜりふ」のようなものはないのですが、それにもかかわらず、文脈の中で象徴的に浮かび上がってくるものがあるのが特徴で、病みつきになります。次回は中央公論社の森口訳か、あるいはいっそ原書で読んでみようかと思います。また、そう遠くない将来、一般市民のための読書会を開こうかとも考えています。
 ところで、敬愛する哲学者の坂田徳男が、本書のどこかに「身体は宗教的にできている」と書かれていると言っていたので、そりゃあ面白いと思って、今回もかなり意識して探してみたのですが、さっぱり見つかりませんでした。坂田オリジナルかもしれません。やはり、ベルグソンはそこまでのことは言っていないように思います。
 このことについては、昔、中村先生にも聞いてみたことがあるのですが、「いや、それはないだろう」とのお答えでした。翻訳者が言っているのだからやはりそうでしょうが、不肖の弟子たる私は、本書を読むたびに、該当の箇所を探してしまいます。
 ところで、中村先生のスタイルも、ベルグソンの影響をかなり受けているように感じますが、『悪の哲学』のような視点はベルグソンにはないようです。神様の方ばかり向きすぎていたのでしょうか、本書の最後のところで触れられているベルグソンの世相診断のようなところは、ちょっと清らかすぎるというかナイーブな感じがします。この点で、中村先生は—もちろん悪人ではありませんが—むしろ、ある種の反面教師的な影響をベルグソンから受けられたのかな、という気もしました。

(岩波文庫1977年改訳版平山高次訳500円)

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