鈴木正三著・鈴木大拙校訂『驢鞍橋』
このところ電車の中ではノートパソコンで翻訳ばかりやっていて、なかなか本が読めません。電車で座れないときだけの読書という感じですが、こんな時に限って読んでいるのがこの本です。現代語訳ではないため、じっくり読まなければ意味がとれません。感じにもすべてふりがなが振ってあるわけではなく、方言も含まれているので、時々漢和辞典を引いています。「扠も」(さても)、「仍て」(よりて)なんてのが当たり前のように出てくると、やはり気になります。せめて日本古典文学大系くらいに校注が付されてあれば助かるのですが。
というわけで、得意の速読ができない本なので、まだ半分ほどしか読んでいません。しかし、あんまり更新を滞らせるのもなんなので、途中経過を書きとめておきますが、これがなんとも実に面白い本なのです。山本七平が正三の「勤勉の哲学」を持ち上げて、小室直樹もこのことを強調しているのは知っていましたが、こうして読んでみると、禅宗の日本的展開として、武士道と融合したような独特の気合いの入った思想に感銘を受けます。もっと、正三の宗教性の方も強調されるべきだと思います。
勤勉の哲学に関しても、正三のもとに「近里の百姓等数十人が訪れて法要を問う」という場面があり、そこで正三が「農業すなわち仏行なり」(52頁)と答えています。「大願力を起こし、一鍬一鍬に南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と耕作せば、必ず仏果に至るべし」(53頁)と述べます。
確かに、この思想が日本人の勤勉性の確立に貢献したというのは、正三の『萬民徳用』が江戸時代のベストセラーとなり、寺子屋の読本にもなったことを考えると、決して間違いではないと思います。しかし、正三のもとに訪れて法要を問うた「数十人」の百姓というその人数の多さに驚かされました。一人か二人の相談に答えたのではなかったのです。このことで当時から農業は朝から野良に出て重労働だったことと、信仰に篤く勤勉な人が少なくなかったことがわかります。とすれば、正三以前に勤勉な層はかなり広がりを見せていたのではないかとも想像できます。
いずれにしてもしばらくこの本にかかりきりなので、更新が滞りがちになると思います。翻訳にも追われていますので1週間に1冊くらいになるかもしれません。仕事はこのところ2週間以上休みなく働きづめで、勤勉の哲学を地で行っています。研究室にも行けない状況で何をしゃかりきに働いているのでしょうね。実際、雑事しかしていませんが、事務職兼務なので、この新学期当初の時期は山のように仕事があります。今日もこれから仕事です。南無阿弥陀仏。
(岩波文庫1948年復刻版1990年460円)

