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2008年3月31日 (月)

金子郁容『新版 コミュニティ・ソリューション』

 このところ更新するのが追いつかなくて、読んだ本をリュックに入れて持ち歩いています。忙しくてなかなか書けません。リュックだけがだんだん重くなっていきます。春休みなのに、毎日出勤しているからです。気がついたら明日から通常出勤で、何のことはありません。春休みはついにゼロ日でした。
 この状況を自分では「名ばかり管理職」かと思っていたのですが、教務主任なので管理職ではありませんでした(部下もいませんしね)。しかし、よく考えてみたら、教員でもあったので、さしづめ「名ばかり大学教員」です。しかし、実態に合わせて事務職員になるというのもかなわないので、このままの状態が続くことになるでしょう(大学が倒れなければですが)。
 実は今日でその教務主任の任期が切れるのですが、今後のことについて今の今まで学長からも人事部からも何の打診もありません。このまま任期切れならどんなに嬉しいことでしょう。ま、どうせ「すみません、忘れてました。あと2年お願いします」って感じで人事部長あたりから電話があるのでしょう。せめてもう少し大学でも研究できる環境になるといいんですが。研究室に行く時間がほとんどないので、昨年から本はほとんど自宅に持って帰っています。
 というわけで本が読めるのは往復2時間の電車の中だけですが、目が覚めている限りは1〜2冊読めてしまいます。問題は先に言ったように、このブログを更新する時間がないことで、翻訳や原稿を抱えていると本だけがたまっていきます。今数えてみたら5冊ほどたまってしまってどうしようかと思っています。ま、とにかく暇を見て1冊ずつ更新するしかなさそうです。
 前振りが長くなりました。本書は人間集団の自発的な底力をどうやって社会問題の解決に用いるかということが、実に具体的に書かれています。リナックスやケアセンター、あるいは有機野菜の認証制度(偽物が多いんですね)やコミュニティ・スクールがそれぞれに効果を上げていることが示されていて、明るい気持ちにさせられます。みんなそれぞれに「なかなかやるな」という感じです。
 なお、冒頭に挙げられていたオルフェウス室内管弦楽団は、このボランタリーな組織の強みを活かした独特の音楽を演奏するようです。指揮者が統率するシンフォニーではなく、団員の自発性の上に成り立つアンサンブル=ポリフォニーらしいのです。近々CDを探してきて聴いてみるつもりです。

(岩波書店2006年2300円+税)
 

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2008年3月28日 (金)

イアン・エアーズ『その数学が戦略を決める』

 コンピュータによって兆単位の計算が瞬時に可能になると、今まで気がつかれることがなかったような規則性が見つかって、へー、こんなことまでというような出来事の予測が可能になります。本書は、複雑系~カオス、ネットワーク科学、行動経済学あるいはヤバい経済学といった近年の諸科学の流れの中にある「絶対計算」という分野の解説書です。
 年代物ワインの値段や野球選手の活躍度、映画が当たるかどうか、院内感染の予防など本当に様々な分野でほんとはすでに実用化されています。そして、経験や長年培われたその道の専門家のカンは、絶対計算による予測と比べると、お話にならないくらい低い格率でしか的中しません。むしろ問題は、なぜ人は予測が苦手なのかという形になります。思いこみすぎてしまうんですね。職業人としてのプライドなんかも思いっきりじゃましますし。
 しかし、その絶対計算においてどういった変数を入れるか、入れないかという判断、つまり、仮説を立てることだけはやはり人間にしかできないとも著者は言います。人間の出番がなくなったわけではないので、心配は無用ですが、それにしてもここまでいろいろなことが予測できるかと感心させられることしきりです。
 ただ、個人的には統計学に無縁なうえに数学もよく知らないので、本書の最初に出てくる回帰分析がどういうものかということはわかっても、具体的にどうするのかについては、ついに最後までイメージがつかめませんでした。
 しかし、本書の最後に出てくる「2標準偏差」ルールと「ベイズ式」は例題もあってよくわかり、ためになりました。この二つを知っておくだけでも、ものの見方がクリアにひろがること請け合いです。

(文藝春秋2007年1714円+税)

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2008年3月26日 (水)

養老孟司『ぼちぼち結論』

 中央公論に連載されていた時評の完結編。書き下ろしもあってお得です。人の気がつかないことによく気がつく人で、本書もしばしば感心させられました。
 たとえば著者は、世界に秩序を持ち込めば、その分無秩序が発生することの例として、野良犬を野犬として処理し、飼い主のある犬はすべて紐でつなぐことにした結果、過疎地の田畑にサルやシカやイノシシが出るということを挙げていて(97-98頁)、あ、そういえばそうだよね、と納得がいきます。
 また、小泉元首相のローカル性については、ほかでも読んだことがありましたが、横須賀の当時変則的な選挙区の出身で、国税還付率の低い地域であったことが、構造改革等の政策に結びついているという指摘にもあらためて感心させられます。グローバルとかじゃなかったんです。
 日本の国際交流施設としてラオスに行った子どもたちが、貧しい現地の状況をバカにするなんて話(186頁)は、著者とともにいたたまれない気持ちにさせられます。親たちもバカなんでしょうけど、わが国には、ずいぶん傲慢でぬるい感覚が行き渡っていることの証左でしょう。
 著者は虫取りにしばしばラオスを訪れたりすることもあって、現代文明の理不尽さが身にしみているのでしょう。アメリカが石油を湯水のように安くしては、エネルギー消費をつねに右肩上がりにしつつ経済を引っ張る政策をとっていることをしっかり見抜いています。そりゃあイラクの原油が欲しいはずです。
 著者が言うように、わが国の子どもたちをラオスやブータンに留学させるというのは、いいアイデアというレベルをこえ、もはや緊急の課題になってきているのかもしれません。

(中公新書2007年700円+税)

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2008年3月20日 (木)

養老孟司『まともな人』

 著者の鋭さが現れているのが、人間の個性は身体にあって、心にはないというところで、むしろ心は共通していて、「心が通う」ことが重要なのだ、という指摘です(20頁)。ここだけで私にとっては十分刺激的で、本書を買った甲斐がありました。それにしても、こんなことが1ページのうちにあっさりといわれてしまうのですから、職業的哲学者なんかはいなくてもいいくらいです。

 著者は学問とは結局、身も蓋もない真理を言ってしまうことだとしています。そういうことをあっさりとエッセンスだけエッセーに書いているのですから、もうこれは学問を超えて、お経みたいなものかもしれません。

 お経といえば、仏教は考えても仕方のない問題は「愚問」といって相手にしませんが、そのあたりも著者の姿勢に通じているように思います。著者の原理主義に対する嫌悪と警戒心は、仏教と一番波長が合うように思います。原理主義的で人を殺しまくる仏教というのは、もはや仏教ではありませんから。

 といっても、著者は難しい話を書いているわけではありません。著者の論理展開の独特の面白さを味わうには「日本州にも大統領選挙を」(213頁)を読んでみてください。論理は飛躍しているようでつながっていて、冗談かと思えば真剣だったりで、最後に読者に考えさせるフレーズがあったりして、その展開と呼吸が絶妙です。

 本書では南伸坊のイラストが実にかわいらしくて、いい感じです。南さん、きっと著者のこと好きなんでしょうね。

(中公文庫2007年590円+税)

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2008年3月16日 (日)

養老孟司『運のつき』

 本書は東大紛争についてなど著者の自伝的な話を多く含んでいて、なるほど、そんなことがきっかけでああいったことを考えるようになったのか、と納得できるところがあります。しかし、それでも同じような経験をしながら、著者のように考えない人の方が一般的でしょうから、やっぱり不思議な気がします。
 どんな経験をしようとも、著者はどうやら一貫して「世間」とどう付き合うかを考えてきたようです。その世間はしばしば原理主義的になるので、虫取りをしていれば幸せな孟司少年は、どうやったらみんなの圧力から逃れて虫取りの時間を確保できるか考え、行動してきたのでしょう。
 はたしてその結果が東大の解剖学教授というのも不思議な気がします。しかし、死んでしまった後の人間の身体を分解しながら、生きている面妖な人間たちからできている「世間」を適当にやりすごし、虫あるいは自然の驚くべき生命力に触れるというのは、やはり単純な科学主義者なんかにおさまってはいられない経験なのでしょうね。
 ときどき著者の論理というより話題がぽーんと飛躍するのも、この三つの極端な世界を行ったり来たりしているからかと思われますが、あ、そういうことね、とわかると、この飛躍も読者にとって快感になります。著者の本はこれからもっといろいろ読んでみるつもりです。

(新潮文庫平成19年438円税別)

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2008年3月14日 (金)

金子郁容『ボランティア―もうひとつの情報社会』

 先日県のリカレント教育の会合で大学生ボランティア活動についての話を聴く機会がありました。学生たちが生き生きと積極的に地域社会にとけ込んでいる様子がうかがえ、印象的でした。それでたまたま本棚にあった本書を読んでみたのですが、想像以上に名著でした。ボランティアの理論的補強にもうってつけの本です。
 要するに「ボランティアとは、ネットワークを作る人、ネットワーカーなのである」(124頁)ということで、ネットワーク論の専門家である著者がこの問題に取り組むのは必然だったわけです。ネットワーク論はカオスや複雑系の問題を受け継ぐ興味深い分野ですが、現実に人を助け、助けられるという関係の中において、それが見事な実例を示してくれることがわかります。
 そのとき鍵になるのは自分をバルネラブルな、つまり弱く傷つきやすい立場におくことで、そうして他人の助けを求める状況にいることで、他者に対して自己を開くことが大切なのです。さらに、その関係の中では、助けられる人と助ける人とはそこであくまで対等な立場にいるという指摘は、現場の感覚としても本当に説得力があります。助けられることが助けることにもつながるというのは、わたしも少しばかり経験がありますが、本当に不思議で愉快な経験なのです。
 これは人類学的には長らく人々の常識であったことで、市場経済移行のお金中心の世の中でその重要性が確認されにくくなってきたということでしょう。著者がこの点でカール・ポランニーの理論に注目している(182頁以降)のもユニークですが、そう言われてみると十分納得できることです。
 1992年の本なので、最近の「ウィキノミクス」などの動きを含めた情報科学の進展を著者がどう見ているかにも興味があります。本書はその進展を予見しているところもあります。最近の著者の本も探してみます。

(岩波新書1992年780円+税)

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2008年3月13日 (木)

養老孟司『脳のシワ』

 科学ではっきり言えることははっきりと言い、言えないことは言えないとはっきり言える人は、頭がよくて勇気がある人です。著者のなんだかさっぱりしたあきらめのよさは、ちょっととぼけた感じでもあり、読者を妙になごませてくれるところがあります。
 もちろん人生の大事はふつう、言えないことの方にかかっているので、わからないことはわからないにしても、どこがわからないかはっきりするまではしっかり考えましょうという姿勢は大切ですね。そうすると、そうするとわからないことの大切さがいっそう身にしみてくるので、たとえば著者が小学生頃のわが国の川の美しさが書かれているところなんかは、その昔の輝きが目に浮かぶようです。半透明なスナヤツメの幼生なんて見てみたいものです。
 本書では特に「先生から教わることは、じつはことばになることではない」(61頁)というくだりは納得でした。そして著者は「学問とはなにかを説明できないが、知った」から一生が決まったとあります。そうなんですよ。わたしも今までに何人かのすごい先生に幸運にも出会うことができましたが、今でもそうした先生方の言葉や身振りを頭の中で反芻しては自身の鏡にしています。それにしてもいまだに不肖の弟子ですみません。
 ところで、著者は解剖学が専門なので、臓器についての話は勉強になります。もっとも何を勉強するというわけでもないのですが、ネズミの肝臓はいくつかに分かれているので切り取りやすいが、人間のそれは動物では例外的にひとかたまりなので難しいといった話は、やはり面白いです。あまり役立っていないように見える脾臓の話も面白かったです。
 著者は解剖学者なので切りっぱなしで治療の話題には触れることがあまりないようですが、そのへんもちょっとふつうの医者とは違うようです。

(新潮文庫平成18年400円税別)

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2008年3月11日 (火)

高島俊男『漢字と日本人』

 漢字と日本語をめぐる正確な知識が得られる本です。独特の文体で、文章がにこにこ笑っているような気がしてきます。ファンが多いのも納得です。いろは歌は、その中にyeを表す文字がないので、その文字があった時代のたとえば空海の作ではない、といったくだりは勉強になります。ヤぎょうのエというのはかつてはあったのですね。いろは歌に時代には早くもア行に吸収されてしまったとのこと。今だったらイェイ!とか言っている音に近いのでしょうか。
 和語にどんな漢字を当てたら正しいかという疑問はそれ自体がナンセンスだ、かな文字で書け、という主張も説得力があります。日本語のことも中国語のこともしっかりわかっている人だからこその公平でまっとうな主張だと思います。
 本書によれば、戦後の国語改革は、漢字を将来なくして表音文字だけにしてしまおうという方針に基づいていたそうです。当用漢字なんて、本当にその場しのぎのものだったわけです。かつて読んだ福田恆存の『私の國語教室』にもそのあたりのいきさつは書かれていましたが、今にして思えば敗戦ショックが様々な形で現れていたのかもしれません。そういえば福田恆存に「當用憲法論」というエッセーがありました。あれは当時かなりきつい皮肉だったのかと今頃気がつかされました。しかし、歴史はもっと皮肉で、憲法はもはや当用漢字以上に定着してしまっています。
 しかし、いずれにしても、わが国は今も昔もアメリカに過剰適応しようとして分裂病的です。「敗戦の一週間後には、廃墟となった銀座で、ガリ版ずりの粗末な英会話テキストが飛ぶように売れていた」(196-197頁)そうですから、やはりわれわれは「いたって尻の軽い国民」(197頁)なんですね。
 この著者の本もこれからぼちぼち読んでいこうと思います。

(文春新書平成13年720円+税)

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2008年3月 7日 (金)

C・E・ショースキー『世紀末ウィーン』

 これはひどい本でした。以前読みかけていて実はほとんど読んでいなかったことに気がつきました。たぶん刊行当時単純に途中で投げ出していたのでしょう。このたびじっくり読んでみたところで、ジョンストンの出鱈目な『ウィーン精神』と同じくらいか、あるいはそれ以上にひどい本でした。
 この本をきっかけにして世紀末ウィーンの研究が進んだ面はあるようですが、名著トゥールミン&ジャニクの『ウィトゲンシュタインのウィーン』で本書が褒められていたのは、仲間褒めというか八百長の部類ですね。経歴的に偉い先生なので、けなすわけにはいかなかったのでしょう。
 本書は歴史書というには余りにも主観的な記述に終始し、文章も修辞的技法を駆使して書かれているのでしょうが、翻訳文になってますます意味不明です。しかし、大した思想が背後にあるわけではないことはわかります。内容がないのをごまかす部類のレトリックです。
 たとえば次のような文章がいい例です。
 「三人はすべてそれぞれの形で、知性を満足させたが合理主義以前の社会秩序の思い出をいつくしむ人々の魂を飢えさせたオーストリアの自由主義文化の、反逆児だったのである」(221頁)確かにわかりにくいですが、わかったとしてもたいしたことを言っていないことはわかるでしょう。この手の文章が頻繁に出てきます。
 原書は以前ある友人に貸したままで、まだ戻ってきませんが、あらためて読む気にはなりません。まあ、貸したままでいいでしょう。ただ、「ホーフマンスタールの家柄も、優秀さの点ではアンドリアンのそれよりも僅かに劣るだけだった」(378頁)なんて訳文を見ると、ひょっとして受験英語的に何か間違った訳なのではないかという気もしてきます。
 こんな本が評価され、有名な版元から出たりするのですから、歴史家の中にははらわたが煮えくりかえっている人も少なくないのではないでしょうか。

(安井琢磨訳岩波書店1983年6600円)

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2008年3月 4日 (火)

養老孟司『死の壁』

 第8章「安楽死とエリート」と最終章の話が印象的でした。エリートの持つ責任が忘れられて、特権ばかりにしか目がいかなくなっているのは確かに由々しきことです。深沢七郎『みちのくの人形たち』の産婆さんと屏風の話も、あ、そういうことだったのかとわかります、って何のことかわかんないですね。要は、人の生死に関わる責任を負った人をエリートとして尊重して来たのがわが国の伝統だったわけです。
 最終章の著者の父上の死についての話は他のところでも読みましたが、こんなことがあるんですね。お父さんが亡くなるときにさようならと言えなかったことから、挨拶が苦手になり、そのことに30代の頃に気がついて初めて「父が死んだ」と実感した(176頁)というものです。さらにこのことをきちんと人に語れるようになったのは50歳を過ぎてからというのです。
 著者は言います。「身近な死というのは忌むべきことではなく、人生の中で経験せざるをえないことなのです。それがあるほうが、人間、さまざまなことについて、もちろん自分についての理解も深まるのです」(181頁)そうですね。同感です。
 「死は不幸だけれども、その死を不幸にしないことが大事なのです」(182頁)とも言います。そうなんですよね。私も今から17年前に弟を亡くしましたが、そのことからずいぶん多くのことを学ばせてもらった気がしています。

(新潮新書2004年680円税別)
 

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2008年3月 3日 (月)

内田樹『疲れすぎて眠れぬ夜のために』

 ヒルティの『眠れぬ夜のために』の題名をもじっていますが、その通りの内容の本でもあります。肩の力を抜いて、身体の発する信号を受けとめ、しなやかに楽しく人生を送りましょうということです。ヒルティの名著も私は好きですが、それよりももっと身体論的で、力の抜け具合が良い感じです。
 本書では、アメリカ映画のほとんどが「女性嫌悪」の映画だという指摘にはなるほどと思わされました。開拓当時のアメリカの男女比率がこうした物語の構造に影響を及ぼしているというのは面白い見方です。
 ハリウッド流の強い自立した女性というサクセスモデルは、誰が観てもいやな気分になるように、底意地悪く作られているというのが内田流の解釈です。一方で日本社会は、少なくとも幻想の水準では「男だけで集団を作る」ことを礼賛しなければならないような人類学的理由を持っていなかった(57頁)ということになります。
 したがって、こんなサクセスモデルをグローバルスタンダードとして採用するとストレスでやられてしまうというのは確かに道理かもしれません。
 戦後の日本の復興を担ったのは明治生まれの人たちだという指摘にも虚を突かれました。敗戦直後において政治経済や文化的な活動を実質的に引っ張っていったのは、明治20年代、30年代に生まれた人たちだったという指摘です(90頁)。そして、そうした波乱万能の時代を生き延びてきた人たちが悪夢を振り払うために紡ぎ出したもう一つの「夢」が「戦後民主主義」だというのです。
 それにひきかえ「戦後日本のぼくたちはまるっきり『甘く』育てられているいるのです」(93頁)。そう思えば、いろいろな企業や役人の不祥事は想像力を欠いた甘ちゃんたちの仕業だと言えないこともないわけです。あらためて自分の情けなさを見つめる必要がありそうです。
 また、ドメスティック・バイオレンスの加害者の心理に「本当の自分」がピュアでありさえすれば「外側では何をしても構わない」というイデオロギーを見て取っているのはさすがです。だから、見出しは「愛していたら、人を殴れない」(230頁)です。
 文章がもともと語りおろしのせいか、他の本より読みやすい気がしました。いい本でした。

(角川文庫平成19年514円+税)

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2008年3月 1日 (土)

内田樹『街場の中国論』

 ふだん中国人留学生を相手にしているため、これまでも中国関連の書籍はできるだけ目を通すようにしてきましたが、本書は思想的に最も優れた本だと思います。
 中国をレヴィ=ストロースの構造人類学のような目で見ると、こういう感じになるかもしれません。つまり、彼らの事情と論理を可能な限り内在的に思考した本なのです。いろいろと勉強になりました。付箋を貼った箇所が20枚ほどになりました。
 著者によれば、本来なら首相の靖国参拝に抗議すべきは中国・韓国ではなくアメリカで、そのことをちょっと変だと思わない日本人は、「歴史解釈についてすでに出来合いの『物語』の中に絡め取られている」(60頁)ことになります。
 つまり、殺し合ったことをお互いになかったことにしようと「共忘却」している日米関係の方が病膏肓に入っているという見立てです。フロイト~ラカン的な論理ですが、そうかもしれないという気がしてきます。中国は少なくとも日本との戦争を語るときに何ら心理的な抑圧が働いていないとうのは確かですし、これはある意味ではわかりやすい関係だから、むしろいいのかもしれません。
 また、中国の王道思想とH・スペンサーの社会進化論との比較考察は新鮮でした。王道思想は異民族が恭順の意を表す限り、「化外の民」として周辺で暮らすことを認めようとするものですから、国境を設定して独立するような真似は許さないにしても、いい加減な主従関係の中で関係を安定させようとするシステムです。そして、ここから台湾への武力制圧は(脅すことは日常茶飯事のように繰り返すにしても)起こらないだろうという予測が立ってくるわけです。
 ただし、台湾はともかく、チベット問題はどうなんだろうという気もしますが、本書では触れられていません。またどこかで著者は説明してくれることでしょう。
 いずれにしても、いろいろと啓発されました。いい本でした。

(ミシマ社2007年1600円+税)

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