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2008年10月31日 (金)

若林アキ『ホージンノススメ 特殊法人職員の優雅で怠惰な生活日誌』

 いやー、すごい本です。特殊法人の実態がよーくわかります。公務員より縛りが少ないだけに想像以上の税金の無駄遣いが常態となっているようです。この手の法人に勤めたものの、あまりにもやることがないために辞めた人を二人知っていますが、どちらも実にまともな人です。しかし、やることがないだけでなく、内部で湯水のように公金を使いまくっていたとは知りませんでした。しかも、独立行政法人になって、看板を掛け替えただけでなく、かえってこれまで以上にひどくなっているようです。想像はしていましたが、これほど常軌を逸していたとは言葉を失います。
 ただ、常日頃民間企業に天下ってきた元役人の仕事ぶり(サボりぶり)を見ていると、彼らは突然会社に来てサボり始めたのでないことがよく分かります。彼らにとってみれば、もう長年身体に染みついた立ち居振る舞いなのです。この連中はどことなく薄汚くゆるんだ顔になっているのを、本人だけが気がつかずに年をとっていくわけです。いい人生ではありませんね。
 著者は文章力に恵まれている人なので、この実態を実に読みやすく、ユーモアを交えて(怒りも忘れずに)書いてくれています。この平安の宮廷文学に出てくる貴族たちのような生活は、何とこんなところに受け継がれていたのです。ただ、ここから高尚な文学が生まれるほどの優雅さや高貴さはおそらくないでしょう。
 しかし、ひょっとして、この階級が世襲的に固定されて、もっともっと堕落し醜悪を窮めると、その中から蓮の花のように美しい文学が生まれてくるのかもしれません。平安時代ってそんなだったのかも。
 とまあ、そんなことを考えてみても、やっぱり腹立たしいことに変わりはありません。平安時代のあとに武士の世の中がやってきたのも道理です。ま、武士もすぐ堕落するんですけどね。

(朝日新聞社2003年1300円+税)

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2008年10月30日 (木)

堀口博行『週二日だけ働いて 農業で1000万円稼ぐ法』

 これからは個人の仕事としては農業、法人の仕事としては林業をうまく再生させる必要があるとかねがね思っていましたが、本書は農業についての具体的な指南書です。
 実際今日全国各地で高齢化により離農する人が増えていますので、新規参入の余地はかなりたくさんあります。農地も農具も余っていて融通してくれます。タイトルの「週二日だけ働いて」というのも決して誇張ではなく、農業にまったく不案内だった著者の実体験に基づいた話です。
 要は起業家の精神でうまく経営すれば、この分野には十分可能性があるということを著者は実証してくれているわけです。印象深かったのは、あたりまえのことですが、著者があらためて「農業とは頭を使う仕事なのです。農業をやり始めてから何事もまず頭の中でシミュレーションと試行錯誤ができるようになりました」(173頁)と述べていることです。農作業の体力以上に経営者としての能力が必要なのです。
 もっとも、実際こういう頭の使い方ができれば、何をしても成功できそうです。裏を返せば、こういうことができない人が世の中には実に多いということにもなりそうです。
 ちなみに、1000万円のおよその内訳は、7ヘクタールの畑で長ネギで800万円、ピーマンで200万円とのことです。農具やトラクターなどの具体的な話は、本気で就農を考える人にはすぐに役立ちます。
 ここからさらに頭を使って、地域のネットワークの再生と里山の復興につなげてくれる人びとが全国各地に出てくると、何だか明るい未来が開けてきそうな気がします。

(ダイヤモンド社2008年1500円+税)

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2008年10月29日 (水)

鈴木大拙『無心ということ』

 本書では、無心という場所で禅と真宗が出合うことが丁寧に追求されています。著者は「木や石などを木たらしめ石たらしめるところの、何か無意識的なものに突き当たるのです。そこに絶対的受動性というようなところがある。それを体得しなければならない」(20頁)と言います。
 こういう言い方で分かる人はすっと分かるのでしょうが、今どきの銭ゲバの世の中ではひょっとしたら西田哲学よりも難解と受け取られるかもしれません。この点、インテリもまったくだめですし。しかし、絶対的受動性という言葉にはなるほどと思わされるところがあります。
 これは「自分のはからいをもたずに神の前に自分を絶対的に没入させること」(49頁)で、このとき「心の底の心というか、あるいはその底からぬけて出た心の外の心」(153頁)を見届けることができるとあります。
 こうなってくると、無分別の分別の境地であろうと、西方浄土であろうと、いわゆる禅浄一致の世界がたちまちにして今ここに出現することになるのでしょう。
 平易な言葉で語られていますが、あちらの世界とこちらの世界との境にうまく言葉があてられていて、内容は極めて高度な本です。人びとの霊性的自覚を促してくれます。こうして霊性に目覚める人が増えると、少しは良い世の中になると期待されますが、最近何かにつけて阿弥陀仏のお陰様と手を合わせるような老婆の姿を見ることもなくなってきました。私の祖母なんかはそういう人でしたけどね。
 残念ながら、今日もはや妙好人と呼べるような人はいなくなってしまったのかもしれません。

(角川ソフィア文庫平成19年705円税別)

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2008年10月28日 (火)

林成之『〈勝負脳〉の鍛え方』

 スポーツのコーチの書いた本かと思っていたら、脳神経外科のお医者さんの書かれた本でした。それもかなり優秀で独自の治療法を開発されている名医です。そのうちノーベル賞をもらってもおかしくないんじゃないかと思います。
 著者によると、人間が行動を起こして目的を達成するためには、著者によると次の三つの作業が必要だとされます。
 1.目的と目標を明確にする。(目的と目標はしっかり区別し、達成をイメージする)
 2.目標達成の具体的な方法を明らかにして実行する。
 3.目的を達成するまで、その実行を中止しない。
 それで、この三つを本当に実行していると、非常に困難と思われたことでも、時間はかかるかもしれませんが、必ず達成できると言います。これが著者の言うサイコサイバネティクスですが、あまり実証的でなくても、このように「必ず達成できます」(83頁)と断言されるだけでも力になります。たぶん脳は身体を造りかえる働きを持っているからでしょうね。
 実際、スポーツでは粘り強くあきらめずに練習していると、あるとき突然壁を破って身体がスムースな動きになります。これは著者の言う「イメージ記憶」が成功体験とともに定着したということなのでしょう。中高生にバスケットボールを教えていてもしばしば同じ現象を目にすることがあります。
 スポーツが題材になっていて、親しみやすいのですが、時折困難な手術を乗り越えた話も入ってきます。これはさすがに本職だけあって、実はかなりスリリングで感動的です。もっとこういう話も別に読んでみたい気がします。

(講談社現代新書2006年700円税別)

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2008年10月27日 (月)

小幡績『すべての経済はバブルに通じる』

 題名通りの本です。しかし、実にタイムリーな本でもあります。最近の株価の乱高下も本書の言うとおりに動いています。
 バブルこそは資本主義経済の本質だと言われてみると、腑に落ちる点がたくさんあります。さらにそのバブルを見つけ出しては高値で売り抜けようとする金融資本が今日の世界経済の中心にいるわけですが、これを著者は「ネズミ講」と見ています。これはさらに元も子もない話ですが、「なーんだ、そうだったのか」と、私のような素人にはさらに腑に落ちるところがあります。
 相当危険で回収不能な債権でも、証券化して金融商品として売り出せば、一見危険が薄められたように見えます。そこで大手のヘッジファンドなんかがどーんと買い占めたりすると、他の投資家も値上がりするに違いないと見込んで買うという流れができ、本当に値上がりし始めます。
 元からバブルだということは誰もが意識しているのですが(この辺の説明もユニークです)、この流れは値下がりするまで止めようがありませんし、値下がりするのがいつかもわかりません。このときヘッジファンドも市場を支配することはできなくて、結局ババをつかまされたりすることが少なくないのは、バブルがはじけるのを予想できないのと、危険な証券だと思っても巨額の利益が出るので、お客から資金運用を任されている会社としては、載らないわけにはいかないからです。LTCMの破綻もなるほどそういうことだったのかと分かりました。これは確かにネズミ講です。
 このあたりのメカニズムを著者は「リスクテイクバブル」と名付け、これを癌細胞のように自己増殖する「キャンサーキャピタリズム」の発現としてとらえています。また投資家の心理の動きについては著者自身も投資家でもあるため、実に説得力があります。
 このキャンサーキャピタリズムが決定的に崩壊し、実体経済と禁輸資本との力関係が逆転すると、本来の姿に戻るはずです。それまでにどれくらいの混乱がもたらされるかはちょっと想像できませんが、結局モノづくりにこだわって、この波に乗り切れなかった日本経済は、今後も意外に痛手は少なくてすむのではないかという気にもさせられます。
 もっとも著者はそんなことは言っていません。単なる私の希望的観測です。

(光文社新書2008年760円+税)

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2008年10月24日 (金)

堀内都喜子『フィンランド 豊かさのメソッド』

 新刊です。最近フィンランドが注目されているので読んでみました。
 とりわけ「子どもの学力調査」で世界一というのには興味津々です。一体どういうことをやっているのかと思っていたら、そんなに特別のことをやっているわけではありませんでした。どちらかというと、いわゆる落ちこぼれをなくす教育の成果のようです。非常にきめ細かく少人数で面倒を見ています。(私の職場も同じ方針ではありますが、残念ながら教員には浸透していません。ま、なんてったって大学の先生様ですからね。能力は低くてもプライドは高いですもの。)
 著者はフィンランドでの留学経験も長く、現在もフィンランド本社の企業に勤めているため、生活の隅々までよーく観察していて、本当に貴重なリポートになっています。のんびりとみんなが無理せず幸せに生活している様子が伝わってくる本です。私も行ってみたくなりました。ちなみにフィンランド語はハンガリー語の親戚なので、ちょっと勉強してみようかなという気になりました。
 フィンランド人の旅行者とは一度ブダペストで知り合って、家内と三人で話をしたことがあります。陽気でおっちょこちょいのところのある面白い女性でしたが、えらく無理な旅程で電車を待っていたので、なんだか3時間くらい時間つぶしのために話し相手になっていました。ジャンプのニッカネンは女癖が悪いとかいろいろ教えてくれました。今頃どうしているでしょう。

(集英社新書2008年700円+税)

 

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2008年10月23日 (木)

日下公人『グローバルスタンダードと日本の「ものさし」―責任の取り方に見る文化の異相』

 これは少し古い本ですが、内容は古くなっていません。相変わらず感心させられます。わが国に不足しているのは「独立自尊と自己責任の精神である」(231頁)というのはもっともな指摘で、そういえば明治時代の指導者たちはさすがに元武士だっただけあって、しっかりしていたようですが、今や一億総木っ端役人化社会なので、このていたらくなのでしょう。
 著者のすごいところは、その原因の一つを1945年の敗戦の責任をとって当時の天皇が退位しなかったことに求めているところです。このことによって日本人の判断の「ものさし」が狂ってしまったと著者はみています。確かに私の両親から聞いたところでは、当時の人びとの間には「なぜ退位されないのか」という声も少なからず聞かれたそうです。
 命令を下す地位にある人が責任をとらずに、下に責任だけを押しつけるようなら、官僚制度から社会全体にまで、そのモラル崩壊の影響は波及することになります。相対的に下の人たちに権限が移行するという点では民主的になったところもあるのですが「日本社会のあらゆる分野の中枢管理機能がモラルを失い、善悪を判断する『ものさし』も失ってしまったことは大きなマイナスである」(36頁)と著者は言います。 最近の官僚や会社組織の不始末に見られる「ばれなきゃいい」という考えの根っこはこのあたりにあるわけですね。
 この点では阪神の岡田監督はいい辞め方をしました。頭のいい人なのでしょう。

(光文社2001年848円+税)

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2008年10月21日 (火)

日下公人『あと3年で、世界は江戸になる!』

 日下さんの本はいつ読んでも面白いです。何しろ見方がユニークで、あっさりとすごいことを言ってくれるので、驚かされ通しです。
 江戸時代というのは「内戦に無駄なコストを払う必要がなかったので、文化・風俗・経済が栄え、国民は豊かだった。政治も良かった。政治が悪かったように言うのは明治政府の宣伝である」(25頁)。といきなり言ってくれます。
 一般に日本史の人は日本国内のことしか頭にないので、内戦がなかったことには注目しませんし、「明治政府の宣伝」だということも、こんなにあっさりと指摘してくれる人はそうはいません。これにまんまと乗せられた上に、マルクス主義的史観で凝り固まった人が学者をやっていたのも、それほど遠い昔のことではありません。
 本書はそうした固定観念をやすやすと打ち払ってくれる爽快さに満ちています。
 たとえば、著者がマンガに惹かれる理由はマンガに次のような精神性があるからだと言います。

 「勤勉と創意工夫で何でも最高品質をつくる」
 「自分が努力する」
 「他人と協力する」
 「異文化を認めて共存する」
 「はかないものを愛する」
 「自由奔放に表現する」
 「宗教的規制はない」
 「イデオロギーには縛られない」

という具合で、もうこれだけで日本文化の粋だということがわかりますが、ここでも最後の二つの特徴を挙げるところが著者らしいところです。
 シャーロック・ホームズやブラウン神父ではありませんが、このように「ない」ところに気がつくのが大切で、日本も世界もよーく観察していないと、これはわからないところです。比較文化論の教材にもうってつけです。

(ビジネス社2007年1400円+税)

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2008年10月20日 (月)

アラン『小さな哲学史』

 アランは大変鋭い人ですが、書き方がおしゃれというか乱暴というか、鋭い指摘だなと思っていると、話題がぽーんと飛んでしまい、ついて行くのが大変です。断章を続けて書いているようなところがあり、論理を一つずつ詰めていく体質ではないようです。あんまり顧客サービスというか、読者サービスを考えないところは、いかにもフランス人らしい気がします。
 フランスの哲学者は詩人並みの市民権があるらしく、このスタイルでも十分やっていけます。訳のわからないことを言う詩人や変わり者の詩人がいるのと同じように、哲学者も存在することができるようです。この文化的風土の中で難解で微妙な真理を追究できるのは、哲学的には恵まれていると言えるかもしれません。
 例えば次のような表現が可能になります。
 「神の思惟はけっして真理に従属してはならず、むしろ神の自由な判断によってこそいっさいの真理は真理となるのだと考えねばならない。ここで、デカルトは心の探求へと向かう広大な道を切り拓き、『哲学』を『神学』からときはなった。デカルトの神は対象としての神ではなく、主体なのである」(65-66頁)
 このエッセーの語り口による見事な断定はパスカル以来の伝統かもしれませんが、読者は結構大変です。いろいろと考えさせられるのは確かですが、著者の信奉者にならないと本当には理解できないのではないかというプレッシャーを与えられるスタイルだからです。いちいちこれはどうなっていると聞くと怒られそうな気がします。
 思うに、フランスのインテリは精神的には貴族なんでしょうね。ちょっと憂鬱で本当は自身がないタイプなのではないでしょうか。スタイルで自分を守ろうとしているように見えます。ポストモダンの思想家たちもこの伝統は受け継いでいるのかもしれません。
 この点では英米の著作家のスタイルの方が民主的で図太くて、楽天家が多いような気がします。もっとも、知的な支配関係というか、師弟関係の中にいる方が、より深い哲学的認識に到達しうるという事実も否定できないので、ま、結局は好みの問題でしょうね。
 なお、この哲学史は古代ギリシャから始まりながら、最後にA・コントを取り上げています。意外な気がしますが、マルクス批判を潜ませていると思って読むと腑に落ちる部分もあります。
 コントの箇所ではさらに、複雑系やカオスに連なる問題意識も窺われて、やっぱりアランはただ者ではなかったと気づかされる次第です。読み込み過ぎかもしれませんが、著者は深読みされることを期待して書いているので、素直に付き合うと、そうなってしまいます。
 というわけで、私も結局アランの術中にはめられてしまったようです。
 それにしても、みすず書房の本はいつも割高ですね。もっとも、部数を考えると仕方ないのかもしれません。

(橋本由美子訳、みすず書房、2008年2800円+税)

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2008年10月19日 (日)

柳宗悦『南無阿弥陀仏』

 一遍上人を浄土思想の到達点に位置づける本です。法然~親鸞の流れが強調されることが多い中、著者が一遍というほとんど何も残さなかったすごい人に至る道を見出すことができたのは、大変なことではないでしょうか。実際、鈴木大拙の『日本的霊性』の中にも一遍は出てきませんでした。
 これは、名だたる名工ではなく無名の凡夫の手になる民芸の中に固有の美と宗教的救いを発見してきた著者ならではの視点だと思われます。
 著者は言います。
「一般の人びとの不断の暮らしの中に、美しさが浸み込んでゆかねばならぬ。特殊な品だけが優れていても、美の王国は現れぬ。それ故、数ある平凡な民器にこそ救いがゆき渡らねばならぬ。いわば品物における衆生済度が果たされねばならぬ」(41頁)。 法然上人は、人が仏を念ずれば、仏もまた人を念じ給うとしました。
 親鸞上人は、人が仏を念じなくても仏が人を念じ給うとしました。
 一遍上人は、仏が仏を念じているのだとします。
 だから、念仏も、人が唱えるのではなく、「念仏が念仏する」という境地になるのだと言います(172頁)。
 なるほどここまで来れば、自力も他力も関係なくなるわけです。
 それで、人にまったくこだわらなくなるからこそ、妙好人や名もなき凡夫のつくる品へと通じていくのでしょう。
 こういう人びとこそ偉いのだということは、インテリは頭でしかわかりませんが、ふつうの人びとは日々の生活の中で本気で尊敬してきたのだと思います。それが日本文化の底流にある美意識なのでしょう。この点でわが国はつくづくすごい国だと思います。

 「教育の普及は軽薄の普及なり」とは、かの斎藤緑雨の有名な言葉ですが、明治以来残念なことに、この種の軽薄な手合いが増えるとともに、この美意識は廃れる一方です。しかしこの美意識は、まだ決して滅びきってもいないので、いずれ再生する希望はあると思います。
 付録の「心偈」も味わい深いものです。「打テヤ モロ手ヲ」って、いいですね。

(岩波文庫1986年760円+税)

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2008年10月14日 (火)

ひろさちや『やまと教 日本人の民族宗教』

 日本人には縄文時代以来の民衆宗教としての神道があり、これを著者は「やまと教」と名付けています。この「やまと教」を著者は為政者のための国家神道とは明確に区別しています。そうすることで日本人古来の民族宗教の姿が浮かび上がってきます。
 私は以前このことについては「無宗教」という一種の宗教だろうと考えていましたが、なるほどもっとはっきりと民族宗教としてとらえることができるのですね。村の鎮守様の意味が本書ではじめて明確にわかりました。人は死んですぐはホトケ(荒御霊)になり、2年くらいしたらカミになって産土神(うぶすながみ)として鎮守の社に祭られます。村の鎮守の神様というのはその村で生まれて死んだ人の集合霊なのだそうです(130頁)。なるほど。
 それにしても今まで著者は仏教の専門家だと思っていましたが、「仏教そのものはやまと教化されてしまった」とみています。著者自身も「このように結論するのはとても残念なことです。残念ではありますが、やはりそう言わざるを得ません。あきらめることにします」(138頁)とあります。著者がここまで言うだけのことはあり、議論はかえって深い説得力を持っています。
 やまと教の教義は「やさしさ」と「まこと」と「ともに生きる」ことで、その頭文字の語呂はうまく合っています。ここには昔ながらの人びとの知性と生き方がうまく表現されていて、かといって反権力的にクサくもならず、なかなか素敵です。本書がきっかけとなって多くの人びとが古来の宗教意識に目覚めてくれたら、ずいぶん呼吸のしやすい世の中になるように思います。自殺率なんかずっと減るんじゃないでしょうか。

(新潮選書2008年1100円+税)

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2008年10月10日 (金)

西田幾多郎『思索と体験』

 最近もう一冊出す予定の『法と道徳のあいだ』の最終章にかかりきりで、電車の中では立っているときしか本を読んでいません。おまけに読んでいるのがこの西田幾多郎の本なのでゆっくりゆっくり考えながらということになり、一週間に一冊のペースになっています。これではブログのタイトルを「1週1冊」に変えなければいけなくなってきました。
 さて、本書は西田幾多郎が同時代の哲学者たちを縦横無尽に論じている原稿が多数収録されています。随所に著者の鋭い洞察力が示されています。また、今ではほとんど読まれていないロッツェなどが高く評価されているので、邦訳があるかどうか探してみようと思います。
 西田幾多郎は1870年生まれなので、私が研究しているハンガリーの法学者ショムロー(1873-1920)と同時代人です。両者が読んでいる哲学者も新カント派のものが多く、かなり重なっているので参考になります。マッハやアヴェナリウスなどはショムローの弟子のK・ポランニーも感銘を受けていた哲学者ですが、本書にも名前は登場してきます。アヴェナリウスも今や忘れられた思想家ですので、いずれ調べてみます。
 もともと本書は論文やエッセーを集めたものなので、全体は体系的ではありませんが、逆にどこを読んでも西田幾多郎その人が穏やかにかつ熱く語っています。例えば純粋経験の直接性についてこう述べています。
 「いわゆる経験論者の直接も、ヘーゲルの直接も余のいう直接ではない。此の如き直接は思惟に因って作為せられた抽象的状態であって、かえって間接であるといわねばならぬ。余の直接というものは独立自動なる具体的全体である、ヘーゲルの概念の如きものである。何となれば真に純粋にして直接なる経験は此の如く生きた経験である故である」(115頁)
 さまざまな誤解を恐れずに思い切ってこういうことを言えるのは、初出が枚数に制約のある短い文章だったからではないかと思います。それで、言い切ってしまったことをまた反芻しながら、著者自身が思想を鍛え上げるという過程を繰り返しているのではないかと想像されます。やっぱり沈思黙考するだけではなく、発表しないとこういう機会はないわけですから、とにかく書かなきゃいけません。
 とにかくどんな媒体でもチャンスがあれば逃さず書くようにとは、中村雄二郎先生の日頃の教えでしたが、先生も身をもってそうした経験をされていたのでしょう。

(岩波文庫1980年400円)

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2008年10月 5日 (日)

鐸木能光『パソコンは買ったまま使うな! フリーソフトで作る快適環境』

 いまだにメインのパソコンのOSがWindows2000なので、古本屋で見つけた本書ですが、丁度いいあんばいでした。Xpまでは本書でOKです。内容はタイトル通りの本ですが、有益なオンラインソフトが多数紹介されていて、良さそうなものは早速インストールしてみました。確かに厳選されたいいソフトばかりです。
 著者の朝日新聞土曜版のかつての連載も有益だったので、切り抜いてはスクラップブックに貼り付けていましたが、本書は単なるオンラインソフトの紹介本ではありません。拡張子とファイルの整理についてのエクスプローラーの設定から話が始まり、マイクロソフト出来合いのものではないソフト文化の構築を願う著者の気持ちがよく伝わってきます。要するに思想がしっかりした本です。一家に一冊あるといい本です。

(岩波アクティブ新書2003年740円+税)
 
 

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2008年10月 3日 (金)

西田幾多郎『善の研究』

 西田哲学は難解だといわれますが、本書はそうやって脅されているほどではありません。哲学としてとことん考えようとしている姿勢は好感が持てます。いろいろと参考になるアイデアがたくさん詰まっています。
 この哲学者は結局直感でスパッとわかってしまって、論理はあとからということが出発点のようです。禅宗と似ているという指摘があるのも道理です。本人は実は論理が嫌いで面倒くさがりだったのかもしれません。
 しかし、「純粋経験」を核にしたさまざまな考察は、私が言うのも何ですが、真の才能を感じさせるセンスのいい思想家だと思います。哲学は「お勉強」だけではどうにもならない分野なので、こうしたセンスがある人が取り組んでくれなければ始まらない気がします。
 それにしても著者の感受性と論理展開の特徴ないしは癖が、西洋の哲学者と違って、そこはかとなく身近な感じがするのが不思議です。日本人が哲学をするのなら、必ず西田を通らなければならないというようなことが言われるのもわかります。私の師匠の本にもそう書いてあったので、いつも頭の片隅にはありましたが、やはりこうして読んでみるとまったくその通りだと実感しました。
 特に、宗教の重要性が後半で強調されるところは面白いと思います。具体的には次のようなくだりです。
 「実地上真の善とはただ一つあるのみである、即ち真の自己を知るというに尽きて居る。我々の真の自己は宇宙の本体である、真の自己を知れば啻(ただ)に人類一般の善と号するばかりでなく、宇宙の本体と融合し心霊と冥合するのである。宗教も道徳も実にここに尽きて居る。而して真の自己を知り神と合する法は、ただ主客合一の力を自得するにあるのみである」(206頁)
 ところが、後の西田哲学の信奉者たちは宗教のことには触れたがらない人が多いような気がします。そのくせそういう人たちこそが中心となって西田哲学を宗教的にまつりあげて来たのですから、これはまた実に日本的な現象だと思います。ひょっとしたら今でもどこかに西田神社が建っているのかもしれません。
 そのあたりの神道的なもやもやをはらうためにも、これから徐々に著者の全集を読んでみるつもりです。

(岩波文庫1979年改版450円)

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