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2008年10月10日 (金)

西田幾多郎『思索と体験』

 最近もう一冊出す予定の『法と道徳のあいだ』の最終章にかかりきりで、電車の中では立っているときしか本を読んでいません。おまけに読んでいるのがこの西田幾多郎の本なのでゆっくりゆっくり考えながらということになり、一週間に一冊のペースになっています。これではブログのタイトルを「1週1冊」に変えなければいけなくなってきました。
 さて、本書は西田幾多郎が同時代の哲学者たちを縦横無尽に論じている原稿が多数収録されています。随所に著者の鋭い洞察力が示されています。また、今ではほとんど読まれていないロッツェなどが高く評価されているので、邦訳があるかどうか探してみようと思います。
 西田幾多郎は1870年生まれなので、私が研究しているハンガリーの法学者ショムロー(1873-1920)と同時代人です。両者が読んでいる哲学者も新カント派のものが多く、かなり重なっているので参考になります。マッハやアヴェナリウスなどはショムローの弟子のK・ポランニーも感銘を受けていた哲学者ですが、本書にも名前は登場してきます。アヴェナリウスも今や忘れられた思想家ですので、いずれ調べてみます。
 もともと本書は論文やエッセーを集めたものなので、全体は体系的ではありませんが、逆にどこを読んでも西田幾多郎その人が穏やかにかつ熱く語っています。例えば純粋経験の直接性についてこう述べています。
 「いわゆる経験論者の直接も、ヘーゲルの直接も余のいう直接ではない。此の如き直接は思惟に因って作為せられた抽象的状態であって、かえって間接であるといわねばならぬ。余の直接というものは独立自動なる具体的全体である、ヘーゲルの概念の如きものである。何となれば真に純粋にして直接なる経験は此の如く生きた経験である故である」(115頁)
 さまざまな誤解を恐れずに思い切ってこういうことを言えるのは、初出が枚数に制約のある短い文章だったからではないかと思います。それで、言い切ってしまったことをまた反芻しながら、著者自身が思想を鍛え上げるという過程を繰り返しているのではないかと想像されます。やっぱり沈思黙考するだけではなく、発表しないとこういう機会はないわけですから、とにかく書かなきゃいけません。
 とにかくどんな媒体でもチャンスがあれば逃さず書くようにとは、中村雄二郎先生の日頃の教えでしたが、先生も身をもってそうした経験をされていたのでしょう。

(岩波文庫1980年400円)

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