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2008年10月19日 (日)

柳宗悦『南無阿弥陀仏』

 一遍上人を浄土思想の到達点に位置づける本です。法然~親鸞の流れが強調されることが多い中、著者が一遍というほとんど何も残さなかったすごい人に至る道を見出すことができたのは、大変なことではないでしょうか。実際、鈴木大拙の『日本的霊性』の中にも一遍は出てきませんでした。
 これは、名だたる名工ではなく無名の凡夫の手になる民芸の中に固有の美と宗教的救いを発見してきた著者ならではの視点だと思われます。
 著者は言います。
「一般の人びとの不断の暮らしの中に、美しさが浸み込んでゆかねばならぬ。特殊な品だけが優れていても、美の王国は現れぬ。それ故、数ある平凡な民器にこそ救いがゆき渡らねばならぬ。いわば品物における衆生済度が果たされねばならぬ」(41頁)。 法然上人は、人が仏を念ずれば、仏もまた人を念じ給うとしました。
 親鸞上人は、人が仏を念じなくても仏が人を念じ給うとしました。
 一遍上人は、仏が仏を念じているのだとします。
 だから、念仏も、人が唱えるのではなく、「念仏が念仏する」という境地になるのだと言います(172頁)。
 なるほどここまで来れば、自力も他力も関係なくなるわけです。
 それで、人にまったくこだわらなくなるからこそ、妙好人や名もなき凡夫のつくる品へと通じていくのでしょう。
 こういう人びとこそ偉いのだということは、インテリは頭でしかわかりませんが、ふつうの人びとは日々の生活の中で本気で尊敬してきたのだと思います。それが日本文化の底流にある美意識なのでしょう。この点でわが国はつくづくすごい国だと思います。

 「教育の普及は軽薄の普及なり」とは、かの斎藤緑雨の有名な言葉ですが、明治以来残念なことに、この種の軽薄な手合いが増えるとともに、この美意識は廃れる一方です。しかしこの美意識は、まだ決して滅びきってもいないので、いずれ再生する希望はあると思います。
 付録の「心偈」も味わい深いものです。「打テヤ モロ手ヲ」って、いいですね。

(岩波文庫1986年760円+税)

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