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2008年11月19日 (水)

伊藤仁斎「童子問 巻の上」

 伊藤仁斎のものは初めて読みました。儒教をこれほど自在に解釈したのはすごいことだと思います。その端々に炯眼が光っています。日本のふつうの人の視点というのがどんなものかがわかります。たとえば、
 「おおむね言葉が素直で、その筋道がはっきりしていて、理解しやすく、記憶しやすいものは、必ず正しい心理である。言葉が難解で、筋道が迂遠で、理解しがたく、記憶しにくいものは、必ず邪説である」(452頁)
とあります。
 また、道は卑近なところにあって、遠大なところにあるのではないというくだりでも、「人に教えても、理解されにくいのは、よい教えではない。人を指導しても、従うのがむつかしいときは、よい指導とはいえない」(472頁)と言います。
 学問を通じて人間の善なる性質がはじめて社会にも行き渡り、よい世の中が実現すると考えているのですから、やはりわかりやすく受け入れられやすいものでなければいけない道理です。
 それで、仁が徳のうちで最も偉大で、最も認識しがたいと言うのですが、それは「そもそも仁は愛を基本としており、そのうえ、人を愛することより大きな徳はない」(482頁)。学問は仁から離れてしまうと実体から離れてしまうと述べています。「程子や朱熹が天道について論じたとき、ひたすら理によって説明しようとしたのは天道を殺してしまったものといえよう」(483頁)。そして、仁とは「究極のところは愛につきる。愛は、実体のある徳である。愛がなければ、仁という徳を見ることができない」(496頁)とまで言います。
 ここまで来るのには、実は朱子学に入れ込みながら、後これを否定するという曲折もあったようです。しかしその結果、かなり独特の読みに到達したのだと思います。
 先哲の学問を解釈する行為を、師匠が弟子に語るというスタイルで論じるというのは一見制約が多いようでいて、実はかなり自由な発想が可能になるようです。
 いずれにしても、まったくインテリ臭くないこの哲学はすごいものだと感じました。

(中央公論社日本の名著13)

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