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2008年12月26日 (金)

長谷川慶太郎『2009年 長谷川慶太郎の大局を読む』

 年末はいつもこのシリーズの最新刊を読むことにしています。世界経済の大局を読めば、アメリカのサブプライム問題もすでに終わっていて、金融機関は回復しつつあり、何のかんのと言ってもドルは強く、世界経済を牽引し続けるだろうとのことです。何という明るい見通しでしょう。
 また、中国はインフレとそれに伴う政治危機が迫っているが、わが国は鉄鋼業や土木建設業などの「重厚長大産業」が、国内のみならず、国外でのインフラ整備の必要から好調を維持するだろうとのことです。
 なお、トヨタの不調はすでにお見通しで、さすがです。自動車は常にモデルチェンジを強いられる「軽薄短小」を代表する商品だからだそうです。消費者の購買意欲を満たす製品を常に提供し続けなければならず、為替や原材料高などの経営環境の変化をもろにかぶってしまう宿命にあるからです。
 本書では世界経済を支える銀行引受手形(BA)の仕組みがわかりやすく解説されていて(57-58頁)勉強になりました。BA市場でドル建てで決済できない国は、リビアや北朝鮮のように、国際貿易の市場から閉め出されるというのもうなずけます。
 また、2006年にアメリカの公定歩合が引き上げられてもドル高になるという妙な出来事の要因が、日本がドルを積極的に買い続けたことにあるという指摘も納得できます。日本のドル買いの理由については触れられていませんが、著者は書いていないだけその事情はわかっていることでしょう。トヨタ車がアメリカで売れたはずです。
 今は逆の目が出てしまったわけでしょうけど、結構えげつなく政治と経済が結びついていることもわかります。でもまあ、いずれにしても車は不安定な産業だということがよくわかりました。

(フォレスト出版2008年1500円+税)

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2008年12月24日 (水)

養老孟司『超バカの壁』

 どこまでも論理的になれるのも人間の脳の働きの特徴ですが、著者は実際にはこれまでの著書で一貫して、割り切れないものこそが重要だということを繰り返し述べています。著者の他の本の題名に『唯脳論』というのがあるため、世間は彼を論理主義者だととらえる向きがあるようですが、誤解です。読めばわかるのですが、読まないのが世間ですから仕方ないのかもしれません。
 脳が暴走すると論理主義や原理主義になってしまうわけで、その危険をこれでもかというほど論じているのが著者です。ただそのことを言うためには論理で行けるところまでは行かなくてはなりません。論理で攻めても割り切れずに残っているところは、実は大変厄介でかつ面白いことなのですが、そのことが浮かび上がるように書くのは、半端にものを考えていてはできない技です。
 しかし、それにもかかわらず著者のメッセージが伝わりにくいのは、世間のいたるところに論理主義や原理主義の種が蒔かれてはちょくちょく発芽しているからでしょう。幸いなことに戦後60年の間は、そうして発芽したものもあまり大きく成長することはありませんでした。今後はわかりませんけどね。
 それで、著者の本を作っているスタッフの人たちは、そのことも含めて著者の本と世間との関係がよーくわかっているので、ちょっと共犯者っぽく、楽しそうに編集しているのではないかと想像します。今回は意外に売れたねとか、もうちょっといけるはずだけど、なんて言いながら、競馬の予想でもするような感じで仕事ができるとしたら、楽しいでしょう。もちろん、それもこれも基本的に売れる本でなければ始まりませんが。
 というのはまあ単なる妄想ですが、本書は著者が本音で語っている分だけ、『バカの壁』ほどには売れなかったかもしれません。古本屋にもあまり出ていませんから。でも、読んで損はありません。面白かったです。

(新潮新書2006年680円+税)

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2008年12月23日 (火)

井筒俊彦『イスラーム生誕』

 著者が若いころに出版した『マホメット』と、そのほぼ30年後に出された『イスラームとは何か』が、それぞれ第一部、二部として合本になったものが本書です。ネット書店で注文した講談社学術文庫の『マホメット』は本書に含まれていました。一瞬損したかと思いましたが、解説の詳細さという点からすると学術文庫版も決して無駄ではありませんでした。
 それはそれとして、本書の第一部の情熱的な語り口は人を動かすところがあります。若さがこのように出てくるのだったら歓迎です。第二部も確かに若くはないにしても、情熱的な点では変わらないものを感じさせてくれます。著者はおそらくこういう芸術家的な「熱さ」を持っている人だからこそ、あれだけの仕事ができたのでしょうね。
 本書ではイスラム教成立以前のかの地の文化(ジャーヒリーヤ)との闘いの中からイスラム教が形成されてきたことが特によく分かるように書かれています。その後のユダヤ教、次いでキリスト教との闘いと同じかそれ以上の比重を、このジャージリーヤとの闘いに置いているのが印象的でした。
 特に第二部では原典の文献をきっちりと読み込むことを通じてこのことが論証されているので、説得力があります。こういう風に文献に当たって歴史を再構築する手法は見事です。脱構築とかいう前に具体的研究としてあっさりやってしまえるところが、デリダなんかが著者を深く尊敬していた理由でしょう。
 宗教の比較文献学的アプローチは、良くも悪くも「無宗教的な」日本人の得意技でもあります。宗教的空間の中にいると簡単にはできません。下手なことを言うと殺されかねないからです。しかし、わが国ではこれを江戸時代の富永仲基がすでにやってくれています。彼の感覚はすでに現代日本人と変わらないように見えます。ある意味でこれは日本文化の伝統と言えるのかもしれません。

(中公文庫1990年762円+税)

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2008年12月20日 (土)

吉本隆明『僕ならこう考える―こころを癒す5つのヒント』

 吉本隆明流人生相談みたいな本です。全編良い感じの空気が流れています。副題に「こころを癒す」とあるのもうなずけます。こういう普通のおじさん的なところは親しみがわきます。読んでいくうちに本書を読むのが二度目だったことに気がつきましたが、えい、ままよと読んでしまいました。
 本書では著者が編集者から投げかけられる質問に、かなり苦心して答えていることが分かりますが、そこがなかなか面白いところです。しばしばほとんど根拠の無いようなアイデアが開陳されていて、それが新鮮です。ファンにとってはこたえられない魅力的な本に仕上がっています。
 人間の性格は1才までの親子関係によって決まってくるなんてのは、著者本人には確信があっても、一般的な説得力はないかもしれません。でも、それでいいような気がしてくるのが吉本流です。もともと直感の人ですから、論理を素っ飛ばすところがありますが、ここまで飛ばすといっそ快感です。
 下部構造が上部構造を規定するというマルクスの考え方は、マルクスが晩年になって体がいうことをきかなくなったことから思いついたことなのではないかという推測(182頁)などは、面白いと思います。
 いずれにしても、こういう人生相談的なことに答えることで、著者の思想がマルクスとフロイトをもとに組み立てられていることがよく分かります。なお、フロイトについては三浦つとむによる唯物論的なフロイト読みの影響が感じられます。その三浦つとむについても言及されていますが、昔結構読んだ記憶がよみがえってきて懐かしかったです。今読み返す気はしませんが、ユニークな唯物論者でした。
 本書で紹介されている太宰の『津軽』は読んでみたくなりました。きょうび文庫で手に入りますかね。

(青春出版社1997年1400円+税)

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2008年12月19日 (金)

倉橋透・小林正宏『サブプライム問題の正しい考え方』

 信用のない債権を証券化して販売することで、世界中にインチキをばらまいた手法が正確に描き出されています。昨年からの一連の事態を事実に即してしっかり理解したい人にとっては必読書だろうと思います。
 ただ、書き方があっさりしているので、ちょっと記憶に残りにくい部分もあります。真面目な良い本の宿命かもしれません。
 わが国の住宅ローンのことについても述べてあり、やはり、この種の長期ローンは固定金利でなくては危険だという指摘がなされていて、なるほどと思わされます。あのアメリカですら固定金利が一般的だとのことですから、心配になってきます。自分のうちのローンは何だったかなあ。ちょっと気になるところですが、怖くて家内にはまだ事実を確認していません。固定金利のはずなんですが、違ったらいろいろと対策を考えた方が良さそうです。
 わが国民はまだまだ人が良すぎて政府を信じすぎるきらいがありそうです。お上が好きですもんね、結局。舶来品も昔から好きですから、明治時代に国家主導で西洋文明が入ってきたときにはさぞかしウケたことでしょう。この傾向は表面的な文物に限られたものだと思っているうちに、日本的なものというのも見えにくくなってしまいましたが、外圧に右往左往するところだけは一貫しているようです。

(中公新書2008年740円+税)

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2008年12月18日 (木)

木村剛『投資戦略の発想法2008』

 投資なんて自分には縁がないと思っていましたが、今日のわが国の政治・経済状況を見ていると、だんだんとそんなことは言っていられない世の中になってきているような気がしてきます。かつて邱永漢氏が言っていたように、自分が働くばかりではなく、お金に働いてもらう=投資するというのも考えるべきことかもしれません。
 この点で、本書は実にまっとうな投資の指南書です。なにせ、本書の初めの半分近くが節約と生活防衛費としての貯蓄のすすめだからです。これができないと投資はできないと言われるてみと、なるほどその通りです。
 投資はギャンブルではいけないというのも著者の一貫した主張で、資本主義経済の本質をつかんでいれば確かにそう言えると思います。著者によると、資本主義とは社会全体が拡大再生産を予定し、それに向けて努力を続けるというあり方をしていて、その動因となっているのが飽くなき人間の欲望というわけです。そのため、資本主義経済においては、供給と需要が拡大しながら均衡していくことになるとのことです(157頁)。
 したがって、資本主義社会は資本を最も効率的に使う人を賞賛し、賞賛の裏打ちとして、対価として資本の価値を上げることを社会全体が要請していると言います。「資本家が常にハッピーな状態であり続け、経済全体がつねにプラスになり続けていかないと、資本主義経済はうまく回っていきません」(同頁)。
 資本家がニコニコしているなんて許し難いと嫉妬する向きもあるかもしれませんが、社会全体が豊かになると言うことは投資がトータルにみて必ず儲かるということでもあります。だったらみんな資本家になってニコニコしましょうというのが本書の主張です。
 著者は株式投資についても、推奨銘柄なんかを一切述べたりせずに、これはと思う20銘柄くらいの株を分散して30年保有すると、年平均株価収益率は12%近い高利回りになると言います。なるほど。
 私もさしあたり投資はしなくても、節約と貯金くらいはして生活防衛費を2年分くらいは作っておこうかという気になりました。このご時世ですから、社会保険が破綻し、職場がなくなる前にやはりこうした財テクを真剣に考えておくべきなのでしょうね。
 大変だなあ。家内と相談しなきゃ。

(ナレッジフォア2007年1,800円+税)

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2008年12月13日 (土)

リチャード・フロリダ『クリエイティブ資本論』

 クリエイティブな都市は多種多様な人びとと文化を受け入れる場所であり、最近ではオタクが集まるようなところがやっぱり元気がいい街になっています。著者は、人間の創造性を支え、これを育むような環境をいろいろと分析していますが、センセーショナルに受け取られたのは、都市のイノベーション指数やハイテク指数とゲイ指数が密接に関係しており「ゲイ指数からハイテク産業の集中度だけでなく、その成長も予測できる」と述べている点です。
 もちろんこれは、「ゲイのコミュニティを歓迎する場所は他のどんな種類の人間も受け入れる」という意味の指標なのですが、アメリカでは一部で相当反感を買ったようです。しかし、これは日本だったら、クリエイティブでゲイの多い職場なんて珍しくないので、「あ、そう。うん確かに」って感じで当然のように受け入れてもらえる議論だと思います。
 面白いのは、親ゲイ的な街には安心だからという理由でクリエイティブな女性労働者も集まって来やすいという点で、いろんな効果があるんだなと感心させられました。 本書では大学もクリエイティブな人材を集める拠点となりうると書いてありましたが、うちの大学なんかも造形学部があるし、その可能性はありそうな気もします。ただ、クリエイティブな人材に優しい環境かどうかという点ではどうなのか。。。今度造形学部の先生に聞いてみましょう。
 なお、アメリカの都市のことは私はよく知りませんが、シアトルがクリエイティブ指数が高いというのを見て、イチローがあの弱小チームを離れない理由の一つがここにあるのかなという気がしました。もちろん勝手な推測ですが。
 それにしても最近のアメリカの不況を受けて、これらのクリエイティブな人たちはどうしているのかなという疑問がわきます。以前と変わらずクリエイティブで居続けられるようでしたら本物でしょうね。
 本書でも著者はこう言っています。
 「私は自分が育ったワーキング・クラスの地域で、これまでに出会った人々の中で最も賢く、最も熱心に働いている普通の労働者が、驚くべき才能とクリエイティビティの持ち主であるのを間近に見てきた。しかしまた、彼らの才能が既存の経済組織や社会構造によっていかに阻まれてきたかをも見てきた」(405頁)
 結局のところ、この手の才能をどう育てることができるかということが、鍵なのだと思います。大学も少しはがんばってくれませんかね。
 なお、翻訳は日本語として実に読みやすいものでしたが、一点、ファンとしてはアンドリュー・ロイド・ウェーバーではなくウェッバーと書いてほしかったと思います。
 それはともかく、最近のアメリカの経済学はいろいろと面白い本が出てきています。本書のような都市経済学をはじめ、行動経済学やヤバイ経済学などを踏まえた社会学のテキストを作ってみたいですね。

(井口典夫訳、ダイヤモンド社2008年2800円+税)  

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2008年12月10日 (水)

鈴木大拙『禅学入門』

 元々外国人のために英語で書かれた禅の入門書です。禅の公案の紹介など興味深いものがありますし、本来のインド産の禅那と禅との違いについても触れられていて、禅は幻想に浸っているのではなく、もっと日常に即した、ある意味で冷めた普通の境地だということが説かれていて、なるほどと思わされます。これは学者にとってはどうやら納得のいかないことのようですが、この辺のところがいかにも大拙らしいところです。
 ただ、いくら禅が説明できない境地だからといっても、後年の著者の『日本的霊性』のようにもう少し具体的に説明してくれたらありがたいのにとも感じました。おそらくこれを英語で読んだ外国人は、結局分からずじまいではなかったかと思われます。だからといって気軽に日本に来て修行するわけにもいかないでしょうから、ある意味で罪作りな本だったかもしれません。
 でもまあ、異文化に対する憧れというものは、多少なりともそんなものでしょう。そういえば、昔読んだ小田実の『何でも見てやろう』の中に、アメリカに渡った若き日の小田実が、ダンスをしないのかとか、執筆しないのかと聞かれていちいち答えるのが面倒くさい状況を切り抜けるのに「これは禅だ」と言って周囲を納得させてしまうくだりあって面白かったのを覚えています。そんなことができたのも、思えば鈴木大拙が書いたこの英語の入門書おかげだったかもしれません。
 最近は日本文化で海外に発信しているものといえば漫画やアニメですが、永平寺に参禅に来るよりは秋葉原に来てコスプレに興じる外国人のほうが圧倒的多数です。はたしてこれが世界を席巻すると、禅以上の思想的影響を与えることになるかもしれません。それは決してみんなでアホになるようなものではないと思います。

(講談社学術文庫2004年840円+税)

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2008年12月 9日 (火)

クルスナホルカイ・ラースロー『北は山、南は湖、西は道、東は川』

 ハンガリー人の書いた不思議な小説。著者は京都に滞在経験があり、その時よほど京都を歩き回り、伝統文化の細かいところまで勉強したようです。京都の町が主人公のような書き方ですが、時々「光源氏の孫」というのも出てきます。でも、彼(または彼女かも)をめぐって何か事件が起きるというわけでもありません。源氏の孫もまた読者とともに京都の時間と空間の中を迷子になるという具合です。
 著者の文章は一文が半ページから1ページくらいにもなる長いものが多く、独特の世界を作っているようで、訳者もその雰囲気を伝えるのに苦心されているようです。ま、長いということだけは伝わりますが、ちょっと原文もどんなものか見てみたい気がします(読む気はしませんが)。
 また、登場人物でもなければ語り手でもないような、主体がはっきりしない文章を書くというのも著者が意図していることのようです。現代的な文学としては先鋭的な手法に属するのかもしれません。
 こうしたことを著者が計算の上で小説を書いているとしたら、手法のところから腐り始めると思いますが、おそらくそれほど考えているわけではなく、半ば体質的な要請から書いているのだろうと思います。不思議な味わいの小説になっていて、わざとらしい気はしません。外国人が書いたとか考えずに読むと(実際そのように読めるのですが)、独特の文学的観光案内のようでもあります。実際、私の娘が早速読んでは、京都に行ってみたいと言っていました。
 ただ、折口信夫の『死者の書』のような畏るべき小説なんかが頭にあると、日本人作家なら怖くて書けないでしょうね。また、長い文章といえば蓮實重彦が変わった小説を書いていたと記憶していますし、人間が主体ではない丸山健二の小説なんかも、良し悪しは別にしてしっかり存在していますので、その点ではやはり外国人ならではの小説なのかもしれません。

(早稲田みか訳、松籟社2006年1800円+税)

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2008年12月 7日 (日)

フランク・ティボル『ハンガリー西洋幻想の罠―戦間期の親英米派と領土問題』

 外国人というものをわれわれは妙な思い込みからしばしば誤解し、同国人の評価とはかなり異なって、異様なほどに高く評価してみたり、反対に低く評価してみたりすることがあります。
 日本の業界では誰が見ても目立ちたがり屋で大きな態度が鼻につく嫌われ者が、異国ではいっぱしの人格者のように思われたりするなんて、外人に対しては突然品のいい英語を話し出すO橋G泉みたいですが、いろいろな劣等または優等複合意識なんかがあるのでしょう。結構そんな人はいるものです。
 そういえば、外国人ではなくて体育会系部活動なんかでも、やたらと先輩に気に入られるだけで、同輩からは冷ややかに見られている奴とか、いたでしょ? 将来体育の教員になった指導者になることを目指していたので、ある意味大人だったのかもしれませんが、自分の出世だけしか頭にないサラリーマンみたいではありました。やだね。今思い出しても虫酸が走ります。
 それはともかく、一般に外国人を理想的な人物だと買いかぶることで、自分も何だかえらくなった気がするのでしょうし、買いかぶられたほうも気を悪くはしないでしょう。そうした相互作用がまた新たな喜劇的状況を生み出すことが、人間くさい外交の場で起こってくることは当然予想がつきます。また、逆に相手国に対していかに自国の良いイメージを植え付けるかということが外交戦略の重要テーマにもなってくるわけです。

 本書はハンガリー史の個別研究ですが、そうした異文化に対するイメージが形成され、変容していく歴史が(それもかなりグロテスクに)描かれています。
 第1次世界大戦後ルーマニアのイメージ戦略に後れをとったハンガリーは領土がそれまでの3分の1になってしまいますが、失地回復のためにハンガリー史についての英語版雑誌を作って英米に対して働きかけようとします。Hungarian Quatery がそんな雑誌だったとははじめて知りました。勉強になります。
 本書の扱う時代と対象は専門的ですが、テーマは普遍的です。著者は在ハンガリーアメリカ公使モンゴメリーの「対話集」や書簡、日記などの資料をうまく使って、同時代の人びとの姿を見事に描き出しています。ちなみに、本書の翻訳文は読みやすいので、ハンガリー史に詳しくない読者でも取っつきやすいと思います。

(寺尾信昭編訳、彩流社2008年2500円+税)

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2008年12月 5日 (金)

エステルハージ『ハーン=ハーン伯爵夫人のまなざし―ドナウを下って―』

 私が1987年から3年間ハンガリーに留学していたときのことですが、毎週水曜日の晩にブダペストのとある映画館で一回だけ上映されるハンガリーの前衛映画シリーズを観ることにしていました。
 映画のほとんどは、バラージュ・ベーラ・フィルムスタジオで制作された前衛的な実験映画で、難解な作品がほとんどだったため、観客も毎回10人前後でしたが、中には結構面白く、印象に残るものもありました。
 ハンガリー映画の難解さは、深い哲学・思想があるために、難解になったというようなものではなく、また、映画評論家による哲学的・思想的説明を期待しているようなインテリ臭さもありません。ただ、何となくこれしか言い様がなかったという体質的な表現のようで、ポイントを外してしまうことも多いので、あまり論理的に詰めないほうが、観ている人の精神の健康には良いというようなしろものです。しかし、それでも面白いものはありました。
 そういえば、昔知り合ったフランス人が、「ゴダールの映画は精神分析的で、時代を先取りしていて思想的に深い」と言っていましたが、当時の私は「バッカじゃなかろか」と思ったものです(今は、まあ、そうバカでもないかと思っていますが)。ただ、フランス人のこの種の映画好き、思想好きのような感覚は、ハンガリー人にはないようです。
 それで実情は、ハンガリーから出てくるものの中に、難解でも面白い映画があり、フランス映画にも「お、やっぱやるじゃん」というものがあるわけですから、世界中のどこかで難解な映画は健在なのでしょう。ただ、おそらく映画の制作者たちは評論する人種とはまったく違う論理で、楽しみながら作っているはずです。

 難解な芸術はもちろん映画だけではありません。近代に入るとそれまでの人間が分裂分解し始めたため、頭がおかしくなる少し手前のところの表現が一部の人の支持を受けるようになってきます。
 それが個人の問題であり、その背景にある宗教的信念の問題である限りは、神を失った個人の精神の問題として、純粋な西洋知識人の自我をめぐる物語が展開されることになります。この語り口は近代以降の思想、芸術におなじみのもので、用いられる符牒は違いますが、自我の問題を語るためか、結局自画自賛で自我を神の位置に置くことでしか解決できないような方向に進みがちです。
 この落とし穴から逃れるのは容易ではなく、かつてのサルトルのようなスターになったりすると、「でも傲慢はまずいでしょ」とは誰も言ってくれなくなります。そのサルトルを翻訳し、評論し学問の対象にするわが国の知的物品輸入業者の中には、本家よりもさらにえらくなったようなことを言い出す人も出てきます。これは猿回しのサルが威張りだすような滑稽さがありますが、これもまた、「あんた変だよ」とは誰も言ってくれなくなるのです。
 もちろん、別にここではサルトルは記号にすぎず、そこはフーコーでもデリダでも代入できますので、念のため。

 さて、前ぶりがえらく長くなりましたが、新刊のエステルハージの小説です。ポストモダンの作家と呼ばれたりもしていますが、翻訳者の早稲田先生の話では、本人はそれを否定しているとのことです。実際、ポストモダンという言葉は主人公に対するある種非難の言葉として本小説中にも登場しますもんね。
 確かに著者がそう言いたくなる気持ちは分かります。ポストモダンと呼ぶには内容が豊穣すぎるからです。映画で言うならフェリーニの『アマルコルド』や『そして船は行く』などの語り口が近いかもしれません。ハンガリー映画なら伝説的名優ラティノヴィチ・ゾルターンの演じたクルーディ・ジュラ原作の『シンドバッド』が(監督は誰でしたっけ?)近い感じです。
 ものすごく饒舌ながらあまり意味のないおしゃべり、唐突な場面転換、美しい風景、残虐な歴史的場面の数々、冗談や諧謔が続くかと思えば、突然気の利いた言い回しが現れたりと、言葉の深い森をかき分けながら、この小説のドナウ川はゆっくりと西から東へと流れていくのでした。
 主人公は旅人です。実在する都市と膨大な先人の文学・思想の森を読者と一緒に旅してくれます。旅の時間に独特の何か酔っぱらったようなふわっとした感覚とともに、どこまでが引用でどこからが作者の言葉か分からないような言葉が、不意の出来事のように読者を襲ってきます。
 こう言うとものすごく前衛的で筋書きのない感覚の羅列のように思われるかもしれませんが、決してそうではなく、この小説にはしっかり物語も組み込まれています。現代人のやるせない日常を描いて終わるといったわけではありません。そう言えばフェリーニに「甘い生活」という映画がありました。あれはあれで甘美な退屈さが印象的でしたが、そのタイプではありません。中欧的な苦い物語もしっかり存在しています。
 この感覚は確かに現代人のものです。この小説も現代芸術であることは間違いありません。それもかなり上質のものです。ただ、世の中にあるあまたの現代芸術とはひと味違います。
 現代の文学なら当然「壊れた」分裂症的人間が出てきます。そして、この小説の登場人物もまたどこか壊れているのですが、生まれがいいためか実に趣味がよくて、ヒロイズムとは無縁です。
 また、これだけ現代思想と文学に通じ、考え抜かれた作品を作る著者であるにもかかわらず、インテリ臭とも無縁です。これは著者が先に述べた意味でハンガリー人であり、同時に真の知識人だからではないかと思われます。
 著者は小説という自由な芸術形式の利点をフルに活かして、いろんな人の生霊、精霊、死霊、悪霊と共鳴しあってもいます。何たって大貴族エステルハージ家の末裔ですから、そんな霊をいっぱい抱えているわけです。日本だったら藤原氏のような感じでしょうか。
 かなり訳しにくい作品のはずですし、一歩間違うと東大の教養の偉い先生の難解な翻訳みたいになるところですが、翻訳文は見事に読みやすく美しい日本語に仕上がっています。私にはできません。さすがです。
 いずれにしても、やせ細った現代芸術的小説の対極にある不思議な魅力をたたえた現代小説です。ご一読を。

(早稲田みか訳、松籟社2008年2,200円+税)

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2008年12月 4日 (木)

日下公人『教育の正体―国家戦略としての教育改革とは?』

 本書も傑作でした。著者独特の、柄のないところに柄を付けながらも正論としか言いようのない議論が繰り広げられています。以前から教育権はまず親にあって、国にはなかったとは主張されていましたが、ここでもその路線で歴史的な事実を押さえつつ、根本的な考察がなされています。
 印象的だったのは、著者の年代の男性は「美人を追いかけるな」と言われて育ってきたというくだりで、「美人を追いかけるような男は三流だと、子供のときから言われてきた」(65頁)とあります。きょうび世の中は美人礼賛ですので、こんなことがあったのかと新鮮に感じました。著者によれば、
 「美人不美人や賢愚より、女は愛嬌、男は度胸という価値観を、日本列島の上につくり上げたのは成功だった。万民が幸福に暮らせる。ところがそういうものはみな封建的だと否定してしまったあとに来たのは何か。学校差別や容姿差別である」(同頁)
 とあります。なるほどそうかも。「男は度胸」のほうは意識しないでもなかったですが、「女は愛嬌」については、私が男だからか、あまり考えたことがありませんでした。しかし、これにも深い意味があったわけですね。
 本書所収の米長邦雄との対談も読みごたえがありました。その中で米長さんは、いわゆる振り込め詐欺の総額が200億円くらいになるなら、その背後に、裏で親などがこっそりもみ消した「もみ消し詐欺」の額はもっと途方もない額になるだろうと述べています(98頁)。
 「息子や娘が何を言っても『自分で責任をとれ』と言い切る度胸を持とうではないか。それから、金を借りるならとにかく顔を見せなさい、ときちんと言おうではないか。この運動さえ行き渡れば、詐欺はなくなりますよ」と言います(同頁)。鋭い指摘だと思います。

(KKベストセラーズ2008年1560円+税)

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2008年12月 3日 (水)

細野真宏『細野真宏の数学嫌いでも「数学的思考力」が飛躍的に身につく本!』

 著者の言う数学的思考には、論理的思考に加えて論理の罠に落ち込まない自己反省能力が含まれています。物事を様々な方向から多角的に理解することができるというのは、確かにこうしたことなのでしょう。その点で、学校時代に数学が得意だったという思い出だけにすがりつつひたすら独善的な理屈をこねくりまわして譲らないというタイプがときどきいますが、著者はその対極にいる人です。
 本書で特に印象的だったのは、「分かる」とは「伝えられる」ことと同じだという指摘です。相手が「分かる」ためには、相手がそれを「伝えられる」という状態にする必要があるという指摘(66頁)は多くのことを示唆してくれます。別の言い方では、「情報を正確に伝える」というのは、究極的には「同じ絵」が描けるようにすること(172頁)ともあります。
 教壇に立つ身としては実に参考になります。複雑なことをかろうじて分かってもらってもその場限りである一方で、「今日先生がこんなこと言ってたよ」と子どもが親に話すことがあれば、授業は成功でしょう。
 畑中洋太郎さんの本もそうですが、著者のように、こうして頭の中の出来事をきれいに整理してくれると、理解や意思伝達という問題については、ウィトゲンシュタインなんかを読まなくても十分哲学的だという気がします。
 ところで著者の本でいつもおなじみのかわいらしいイラストは著者自身が描いたものだったんですね。本書で初めて気がつきました。器用な人ですね。

(小学館2008年1200円+税)

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2008年12月 2日 (火)

日下公人『独走する日本 精神から見た現在と未来』

 日下氏のオリジナリティ全開の本です。日本文化と日本精神がユニークだとはしばしば言われることですが、日本の思想こそが世界の先端を行っているという風に言うのは著者だけかもしれません。
 著者によれば、日本は外国よりも百年進んでいて、世界最高の住み心地の信頼社会を築き上げてきたということになります。こういう見方は極論かもしれませんが、欧米崇拝型知識人には完全に欠けている重要な論点を含んでいます。
 根本的な事実の指摘を積み重ねて、なおかつ実にわかりやすい議論を組み立てる著者の手腕にはいつもながら感心させられます。
 金を貸す国は孤立し、軍事大国化するという指摘も印象的でした。金の貸し手がつぶれてくれると債務国は喜びますからね。
 それにしても国際金融論の背景となっている事実をこれだけはっきりと指摘してくれる人も少ないと思います。
 本当にいろいろと教えられると同時に、勇気を与えてくれる本です。

(PHP研究所2007年1,500円+税)

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2008年12月 1日 (月)

西田幾多郎『続思索と体験「続思索と体験」以後』

 西田幾多郎のエッセー集です。最晩年のものまで含まれているため、彼の思索の歩みがよくわかる構成になっています。短い文章の中ですが、結構言いたいことを言っています。アウグスチヌスとデカルトの関係や、伊藤仁斎に対する評価などはたまたま私が感じていたことと同じだったこともあり、親近感がわきました。
 ただ、述語的世界観への問題提起は、気持ちはわかりますが、絶対無の弁証法的展開にまで行くと、著者は論理的には理解できない境地に入っているように思います。思うに論理はあまり好きなタイプではなかったのかも知れません。
 しかし、理屈はわからなくても気持ちがわかるというのもまた事実ではあり、それは次の言葉にうまく表現されています。
 「私は現実に我々がその中に生きて働いていると考えられる日常性の世界というものが、最も直截な具体的な世界であると思うのです」(288頁)
 この点に注目するところはさすがです。仁斎ともここでつながってくるのでしょう。思うに、この視点からこそわが国の独自の哲学・思想が出てくるのだろうと思います。
 今度は全集を繙いてみるつもりです。

(岩波文庫1980年450円)

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