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2008年12月 5日 (金)

エステルハージ『ハーン=ハーン伯爵夫人のまなざし―ドナウを下って―』

 私が1987年から3年間ハンガリーに留学していたときのことですが、毎週水曜日の晩にブダペストのとある映画館で一回だけ上映されるハンガリーの前衛映画シリーズを観ることにしていました。
 映画のほとんどは、バラージュ・ベーラ・フィルムスタジオで制作された前衛的な実験映画で、難解な作品がほとんどだったため、観客も毎回10人前後でしたが、中には結構面白く、印象に残るものもありました。
 ハンガリー映画の難解さは、深い哲学・思想があるために、難解になったというようなものではなく、また、映画評論家による哲学的・思想的説明を期待しているようなインテリ臭さもありません。ただ、何となくこれしか言い様がなかったという体質的な表現のようで、ポイントを外してしまうことも多いので、あまり論理的に詰めないほうが、観ている人の精神の健康には良いというようなしろものです。しかし、それでも面白いものはありました。
 そういえば、昔知り合ったフランス人が、「ゴダールの映画は精神分析的で、時代を先取りしていて思想的に深い」と言っていましたが、当時の私は「バッカじゃなかろか」と思ったものです(今は、まあ、そうバカでもないかと思っていますが)。ただ、フランス人のこの種の映画好き、思想好きのような感覚は、ハンガリー人にはないようです。
 それで実情は、ハンガリーから出てくるものの中に、難解でも面白い映画があり、フランス映画にも「お、やっぱやるじゃん」というものがあるわけですから、世界中のどこかで難解な映画は健在なのでしょう。ただ、おそらく映画の制作者たちは評論する人種とはまったく違う論理で、楽しみながら作っているはずです。

 難解な芸術はもちろん映画だけではありません。近代に入るとそれまでの人間が分裂分解し始めたため、頭がおかしくなる少し手前のところの表現が一部の人の支持を受けるようになってきます。
 それが個人の問題であり、その背景にある宗教的信念の問題である限りは、神を失った個人の精神の問題として、純粋な西洋知識人の自我をめぐる物語が展開されることになります。この語り口は近代以降の思想、芸術におなじみのもので、用いられる符牒は違いますが、自我の問題を語るためか、結局自画自賛で自我を神の位置に置くことでしか解決できないような方向に進みがちです。
 この落とし穴から逃れるのは容易ではなく、かつてのサルトルのようなスターになったりすると、「でも傲慢はまずいでしょ」とは誰も言ってくれなくなります。そのサルトルを翻訳し、評論し学問の対象にするわが国の知的物品輸入業者の中には、本家よりもさらにえらくなったようなことを言い出す人も出てきます。これは猿回しのサルが威張りだすような滑稽さがありますが、これもまた、「あんた変だよ」とは誰も言ってくれなくなるのです。
 もちろん、別にここではサルトルは記号にすぎず、そこはフーコーでもデリダでも代入できますので、念のため。

 さて、前ぶりがえらく長くなりましたが、新刊のエステルハージの小説です。ポストモダンの作家と呼ばれたりもしていますが、翻訳者の早稲田先生の話では、本人はそれを否定しているとのことです。実際、ポストモダンという言葉は主人公に対するある種非難の言葉として本小説中にも登場しますもんね。
 確かに著者がそう言いたくなる気持ちは分かります。ポストモダンと呼ぶには内容が豊穣すぎるからです。映画で言うならフェリーニの『アマルコルド』や『そして船は行く』などの語り口が近いかもしれません。ハンガリー映画なら伝説的名優ラティノヴィチ・ゾルターンの演じたクルーディ・ジュラ原作の『シンドバッド』が(監督は誰でしたっけ?)近い感じです。
 ものすごく饒舌ながらあまり意味のないおしゃべり、唐突な場面転換、美しい風景、残虐な歴史的場面の数々、冗談や諧謔が続くかと思えば、突然気の利いた言い回しが現れたりと、言葉の深い森をかき分けながら、この小説のドナウ川はゆっくりと西から東へと流れていくのでした。
 主人公は旅人です。実在する都市と膨大な先人の文学・思想の森を読者と一緒に旅してくれます。旅の時間に独特の何か酔っぱらったようなふわっとした感覚とともに、どこまでが引用でどこからが作者の言葉か分からないような言葉が、不意の出来事のように読者を襲ってきます。
 こう言うとものすごく前衛的で筋書きのない感覚の羅列のように思われるかもしれませんが、決してそうではなく、この小説にはしっかり物語も組み込まれています。現代人のやるせない日常を描いて終わるといったわけではありません。そう言えばフェリーニに「甘い生活」という映画がありました。あれはあれで甘美な退屈さが印象的でしたが、そのタイプではありません。中欧的な苦い物語もしっかり存在しています。
 この感覚は確かに現代人のものです。この小説も現代芸術であることは間違いありません。それもかなり上質のものです。ただ、世の中にあるあまたの現代芸術とはひと味違います。
 現代の文学なら当然「壊れた」分裂症的人間が出てきます。そして、この小説の登場人物もまたどこか壊れているのですが、生まれがいいためか実に趣味がよくて、ヒロイズムとは無縁です。
 また、これだけ現代思想と文学に通じ、考え抜かれた作品を作る著者であるにもかかわらず、インテリ臭とも無縁です。これは著者が先に述べた意味でハンガリー人であり、同時に真の知識人だからではないかと思われます。
 著者は小説という自由な芸術形式の利点をフルに活かして、いろんな人の生霊、精霊、死霊、悪霊と共鳴しあってもいます。何たって大貴族エステルハージ家の末裔ですから、そんな霊をいっぱい抱えているわけです。日本だったら藤原氏のような感じでしょうか。
 かなり訳しにくい作品のはずですし、一歩間違うと東大の教養の偉い先生の難解な翻訳みたいになるところですが、翻訳文は見事に読みやすく美しい日本語に仕上がっています。私にはできません。さすがです。
 いずれにしても、やせ細った現代芸術的小説の対極にある不思議な魅力をたたえた現代小説です。ご一読を。

(早稲田みか訳、松籟社2008年2,200円+税)

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