« 中川久定編『林達夫評論集』 | トップページ | 立川談春『赤めだか』 »

2009年1月22日 (木)

里見弴『文章の話』

 「文は人なり」ということを実にたくみにわかりやすく述べた名著です。子ども向けに書かれた本ですが、内容は年齢を問いません。高度です。子どもを見くびっていません。
 「文章は誰にでも書けるが、えらくならないかぎり、いい文章は書けない」(217頁)と言って、その主眼は善い生き方をする点に置いています。「えらい」というのはもちろん立身出世ではありません。文章読本は人生読本でもあるというところが、そのとおりですが、その間にある事情はと思想が見事に表現されています。
 面白いのは「自分で自分につくうそ」(77頁)によって始末の悪い馬鹿になるというところで、そうした馬鹿はずいぶん立身出世をしている者も多いのですが、「ただ。情けないことには、永もちがしません。その身一代、死ぬまで、どうやら持ちこたえさせた者はあるでしょうけれど、棺に蓋をしたあと、年々歳々、だんだん箔がはげ、生地を現して来る、―そんな例は、歴史の時間に、少し注意して聞いていれば、いくらでもみつかるでしょう」(同頁)。
 軍人が威張っていた当時も、官僚がひそかに大衆を見下している今も同じですね。棺に入る前にばれ始める人も少なくありません。見る人が見れば、わかっているんですが、大学の先生になったりすると、笑えるくらい威張る人も出てきます。ま、そもそも威張る人はその時点ですでにダメです。こうなると周囲の人に自分の馬鹿さを堂々とお披露目していることになりますが、気がつかないのは本人だけのようです。そういえば、この種の人は、ときには夫婦そろって馬鹿と言うこともありますね。
 この点で著者の文章は威張る感じも厭味な感じもなくて、しかし、言いたいことを言いえて妙です。文は人なりを地で行っているところがあります。このような文章こそ実は哲学に向いているのではないかと思います。

 ところで、その昔、里見弴は友人の志賀直哉と二人で島根県の松江にしばらく逗留し自炊生活をしていたことがあります。そのときの様子を書いた随筆が国語の教科書に載っていたのが思い出されます。金盥を鍋代わりにしてすき焼きを作ったが、翌朝顔を洗おうとしたとき初めて汚いなあと思ったとか、印象に残る描写がありました。あれはどちらの作家の文章だったんでしょうか。
 当時私は松江の高校に通っていたのですが、担任の国語の先生から、当時宍道湖に浮かぶ小島で相撲を取って遊んだりしていたこの二人の作家が、怪しい二人組につき用心するようにと地方紙に紹介されたという地元ならではの話を聞かされました。
 懐かしい思い出です。先生もお元気のようです。いずれ同窓会にも顔を出すつもりです。

(岩波文庫1993年520円)

|

« 中川久定編『林達夫評論集』 | トップページ | 立川談春『赤めだか』 »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。