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2009年1月27日 (火)

小田垣雅也『友あり 二重性の神学をめぐって』

 知り合いのとある編集者からいただいた本です。ありがたいことです。だからというわけではありませんが、著者の人柄のよさががにじみ出てくるような本です。読んでいくと著者がもう50年も難聴と鬱に苦しみ、癌の手術も受けたりと、かなり不自由な老年を暮らしていることがわかります。本書は日曜ごとの自宅での集会における説教を基に書かれたものですが、著者の日々の思索と気づきがきっちりと積み重なって、静かな落ち着きをたたえた味わいとなっています。
 著者の言う二重性とは人間が生と死をはじめとする数々の矛盾の中に生きる存在だということと、それを迷いながらもそのまま受け入れて生きていく心構えのことのようです。弁証法的な思索ですが、ヘーゲルではなくパウロのそれに近いと思います。パウロの「私は弱いときにこそ強い」という言葉は「弱さの強さ」につながる思想のおおもとでもあったことを本書によって教えられました。
 この二重性は次の様にも説明されます。
「人間は個であって全体ではないし、生きているのは永遠にくらべれば一瞬であろう。個には全体は見えないし、瞬間も永遠を測ることはできない。だから私たちは個や瞬間を大事に生きるほかはない。しかしこのことは、逆に言えば、人間が全体や永遠という、自分にとってもっとも基盤となるものを垣間見るのは、個や一瞬のなか以外にはないということだ。個や瞬間があるから全体や永遠もある。逆も真である。個や一瞬と二重性的に全体や永遠を理解するのである」(251-252頁)
 こういう考え方は日本人的には自然に理解できるところがあると思います。外国人のほうがこれを学んでくれると、ストレートに戦闘的な今日の世界は多少なりとも平和になる気がします。それにしても、比較文化論の授業でキリスト教のことを解説していても感じるのですが、キリスト教が文明史的に引き起こしてきた問題は、その解決のヒントもまたキリスト教の中にあるので、キリスト者こそキリストを常に虚心坦懐に学ぶべきなんでしょうね。
 著者も自分を徹底的に見つめて、その矛盾を克服するというよりは、それと共存しようとしているようです。これはいい考えです。重荷をたくさんしょっていたとしても、生きていくのが楽になる思想です。

(日本出版政策センター2007年1429円+税)

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