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2009年2月27日 (金)

佐藤弘夫『偽書の精神史―神仏・異界と交流する中世』

 本書によれば、仏教がわが国に入ってきてほどなく本地垂迹説が生まれ、日本の神様の多くが仏陀やそれに近い存在の生まれ変わりになるのですが、そのあたりから人びとは異界の存在と直接に交信できると信じられるようになっていき、天台本覚論に初めてその旨が記されることになるようです。
そこから浄土真宗や日蓮宗が登場し、寺社を経由せずして直接悟りの世界への道が開けることになると、当時絶大な勢力を誇っていた仏教勢力は心中穏やかではありません。そうした鎌倉新仏教が迫害を受けた理由もよくわかります。迫害は信長の時代まで続きます。
 本書はこの時代の宗教意識の特徴を見事に説き明かしています。中世では人びとは異界と直接交信できると信じられており、いわばスピリチュアルだったわけです。美輪・江原のテレビ番組「オーラの泉」の世界は中世ではふつうのことだったようです。
 こうした異界との交信はしばしば夢の中で行なわれ、それが予言的な夢として語られたり、また、高貴な存在との交信がたとえば聖徳太子の著した「未来記」という偽書の形をとることになるわけです。現代人の目から見ると剽窃のような響きのある「偽書」とは、こうした精神史的背景の下に量産されたすぐれて中世的な現象なのだそうです。
 ふつう「精神史」というとあまりテーマが絞られない思想・文化史という感じしかしなかったのですが、本書は言葉が本来意味するとおりの精神史として成功しています。みんなが当たり前と思って疑わない信念もまた時代とともに変化し、廃れたりもしているわけですが、これを描き出すことができるのは並大抵の力量ではありません。お見事です。
 ところで、日本人は個人的にそれぞれが真理に到達できると信じているところがあるとは以前から感じていましたが、その大本の感覚はこの時代に形成されたのでしょうね。その意味でも天台本覚論にはいずれ取り組まなければならないと思います。

(講談社2002年1600円税別)

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2009年2月25日 (水)

小田垣雅也『キリスト教の歴史』

 見事な通史です。思想史中心ですが、歴史的なポイントももれなく書いてあり、コンパクトな本ながら事典としても使えます。だからといって、単なる網羅的な歴史年表ではなく、著者のキリスト教間がしっかり反映された個性的な本でもあります。
 特に、啓蒙主義以降の神学的思考はすべて無神論的だという指摘は大胆ですが、うまく的を射ていると思います。神と人という二元論的思考は、どうしても人間本意的となり無神論的とならざるをえない(183頁)という考え方はシェーファーなどとも共通していて、個人的にはしっくりくるところがあります。
 また、ギリシャ正教がこうした「ヨーロッパ的構図とは別の枠組みでヨーロッパ近代主義を批判し、それによってキリスト教に対して一つの示唆を与え、さらに東洋思想との対話の可能性すら暗示している」(237頁)という指摘にも共感させられました。東方教会の「一にしてすべて」すなわち「神は唯一であるからこそ多なのである」という神秘主義的理解には惹かれるものを感じます。こちらの方が神との直接的交信が可能になるのかもしれません。東洋的というのもわかる気がします。
 それから、カトリック教会が地動説の見直しをしたのが1980年のことで、それにともなうガリレオの名誉回復は1992年だったとは驚きでした。
 凝縮された記述のため、必ずしも読みやすくはありませんが、折に触れて読み返したくなる本です。

(講談社学術文庫1995年780円)

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2009年2月17日 (火)

佐藤弘夫『神国日本』

 日本の宗教史を考える上での必読書です。天皇制は本来決してナショナリズム的な自民族中心イデオロギーではなかったのですが、日本人の伝統的宗教意識の中心に位置してきたのも事実です。どうやら専門家ほどこの問題に取り組むのは難しいようで、このことを安易に語ってしまうと、森元首相の「日本は神の国」発言のようなものとして物議を醸すことにもなってしまいます。
 従来の通説では鎌倉時代の元寇をきっかけとして伊勢神道などの天皇中心的支配イデオロギーが生まれてきたとされてきたようですが、著者はそれ以前の平安時代に生まれた本地垂迹説思想のもつ普遍性に光を当て、実に興味深い議論を展開しています。
 私自身は本地垂迹説というのはいかにもとってつけたような理屈なので、単なるご都合主義の一種なのかと思っていましたが、著者によれば「現実社会の背後には時代や国境を越えて共通の真理が実在するという認識」(198頁)とみることができるということで、なるほど言われてみればそうでしょうね。普遍的な真理が意識されているからこそ、その「生まれ変わり」というものも存在するわけです。
 この思想が面白いのは、それによって、日本の伝統的思想をナショナリズムの中に閉じ込めずに、開かれたものとして検討しなおすことが可能になってくるところにあります。今日の「無宗教」的なわが国の宗教意識にも新たな光が射してくるような気がします。
 というわけで、著者によれば「神国思想は、一種の選民思想でありながら一見正反対な普遍主義への指向をも内包しつつ、さまざまに形を変えながら古代から現代までの歴史を生き延びてきた、世界的にもきわめて貴重な事例である」(217頁)ということになるわけです。そして、何よりその普遍主義的なところをうまく摘出してくれたのが本書なのでした。
 本書は文章の調子がちょっと重たくて、かなり苦心して書き上げられた様子がうかがわれます。「あとがき」によれば本書の内容が論文として発表された当初はまったく黙殺されていたそうですから、やはり学会というところはきっとかなりヘビーな空気が支配的なのでしょう。しかし、時代は少しずつ動いているようです。学会の重鎮のような人たちも徐々に鬼籍に入りますしね。いずれにしても、こうした本が新書として刊行されるのは、一般読者にとってはありがたい限りです。

(ちくま新書2006年720円+税)

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2009年2月14日 (土)

若林亜紀『サラダボウル化した日本』

 わが国がいかに外国人労働者に依存しているかがよーくわかる本です。
 著者はお役所世界の内部告発でデビューした人ですが、この手のルポルタージュにも見事な腕前を披露してます。いろんな人びとに突撃取材をしているところはかなりの行動力だと思います。東京の外国人セレブの奥様方の読書会なんて世界もあるんですね。
 不法滞在の労働者の生活がどんなものかも少しはうかがい知ることができるので、中国などから来て失踪した留学生たちはこんな生活をしているのかと偲ばれます。山形県の某短期大学なんか、えらい目にあっていましたね。失踪者を出すほうも責任を問われるので、大変です。
 本書で紹介されているように、全国でフィリピン人看護婦や介護士が重宝されているというのもわかる気がします。本当に明るい人たちですからね。何年か前に、まだ奉職先の大学にバスケットボール部があったとき(今は同好会です)、近くにある在日フィリピン人バスケットボールチームとよく練習試合をしましたが、チームが家族連れでやってきて、みんな本当に明るいお祭りのような雰囲気でゲームに興じていたのが印象的でした。愛知県で二位になったというだけあって、巧いし強かったです。ただ、約束の時間をいつも平気で2時間近く遅れてくるのには閉口しましたが。フィリピン時間ってあるんでしょうね。大学もまたメンバーが揃ってきたら、交流を再開したいものです。
 それはそうと、本書で何より驚いたのは、結局わが国の厚生労働省の役人または天下り先の機関が、いわゆる就学生や研修生を低賃金労働者として企業に紹介しては、手数料その他を搾取しているということで、この仕組みを恥ずかしげもなく残しているのは先進国ではわが国だけだということです。
 結局、これもお役所告発の本だったのですが、それにしてもえげつないことこの上ないですね。文部科学省と大学と留学生の関係も似たような構図ではありますが、ここまで非道ではありません。社会保険庁も相当でたらめですが、これには負けます。やくざ顔負けのやり口です。正直ぎょっとしました。
 こんなところでエリートコースに乗って「渡り」を繰り返すと「ミスター渡り」のようないやらしさ全開の顔になるんでしょうかね。それとも、もっともっと醜い顔になるんでしょうか。いずれにしても、そんな連中に囲繞されているのでしょうから、それほど悪人には見えない舛添大臣が気の毒になってきます。

(光文社2007年952円+税)

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2009年2月10日 (火)

内田魯庵『新編 思い出す人々』

 以前途中まで読んでいて、長い間そのままにしていたら、どこまで読んだかわからなくなったので、結局最初から読んでしまいました。魯庵の文章はリズムのある名文なので、読むのは苦痛ではありませんが、山田美妙のところまでの200ページ弱は読んでいたことがわかると、ちょっと脱力感も伴ってきました。いったい何やってんだろう。
 魯庵は人間観察に長け、人物の評価や芸術の鑑識眼にも優れていたので、明治の文豪や芸術家たちの生き方が実に手に取るようにわかります。尾崎紅葉の面白さや淡島椿岳の奇才振りなどは魯庵の筆以外ではこれほどうまく描き出されなかったと思います。鷗外や漱石の人となりも、さもありなんという感じです。
 そして何と言っても一番多くのページが割かれているのが二葉亭のことで、その友情の深さには心を打たれます。この思想と才能がちぐはぐな愛すべき文人を著者がいかに暖かい目で見守っていたかということが偲ばれて感動的です。
 
 それにしても、作家というのはやはり面白い人種です。昔、高校時代の国語の教師が、どんなにくだらないものを書いているような作家でも実はとんでもなく頭がいいんだと言っていましたが、そこが言の葉に憑かれた人たちの面白いところです。
 先日もハンガリーの作家のエステルハージの講演を聴いて、その思いを深くしました。学者は分析したり批評したりするほど創作の現場にある言の葉から遠ざかってしまいがちですが、やはり作家はその点で基本をはずしていませんし、作家同士でも共通の完成というものがあるようです。エステルハージの言葉の中に「ハンガリーの作家たちはカフカを高く評価している。ただしルカーチを除いて」というのがあって、笑ってしまいました。ま、ルカーチなら仕方ありません。作家じゃないですしね。
 そのエステルハージは「私が言葉を選ぶのではなく、言葉が私を選ぶのだ」と言います。私が言葉を選び、支配し尽くしていると思っている人は、権力的だったり紋切り型だったりする言葉に支配されているとも言えるでしょう。作家はある意味でシャーマンなので、その意識せざる言葉の力こそが人を動かすのだろうと思います。その言葉の引力圏に文学が(あるいは演劇も劇的なるものとして)存在しているのです。
 そして、ほかならぬこの点でこそ学者という人種は、わかったような口をききながら、実は限りなく感性が鈍かったりするので(しばしば知性も鈍いですが)、くれぐれも用心しなければならないと思います。

(紅野敏郎編岩波文庫1994年720円)

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2009年2月 8日 (日)

武田邦彦『環境問題はなぜウソがまかり通るのか3』

 著者のこのシリーズの本も3冊目です。前2冊ではIPCCのデータをさし当たり尊重して書かれていましたが、本書はそこも徹底して追求しています。さらに、いい加減な報道を繰り返すNHKも槍玉にあがっています。
 確かに最近のNHKはますます環境問題に熱心ですが、その姿勢は私もちょっとひどいなとは思っていました。ま、いろいろな圧力もあるんでしょうが、カルト的環境保護団体みたいになるのはさすがにいただけません。
 著者の議論はしっかり実証的データに基づいているので説得力があります。科学者として当たり前のことですが、その当たり前のことをしないか、あるいはできない人たちがたくさんいることもわかります。これに世におもねるマスコミが加わって、世間の「空気」を作っていくのは、わが国の悪しき風習です。
 ふつうはこの空気に逆らうことは社会的には死を意味しますが、この思いっきり空気に逆らった本シリーズが、これで3冊目を数えるということは、わが国の良識が死んでいないことを意味しています。慶賀すべきことです。
 本書でとりわけ新たに感心させられたのは、森林利用率についてのデータです。ちゃんと利用しない限り旱魃財などが無駄に捨てられているというのが、この森林利用率ですが、日本は40パーセントです。フィンランドなんかはかつて90パーセントでしたが、今は自然環境保護ということで70パーセントに下がっているそうです。バカな話ですが、わが国はもっと情けないというより、お話にならない状況です。以前から林業をうまく立て直す必要があると思っていましたが、いいデータを教えてくれました。
 また、家電リサイクルのインチキについても開いた口がふさがりません。高い金取っておいて、国と企業がらみの絵に描いたようなインチキです。本書はこのシリーズの決定版ですが、前二著を読んでい人でも、本書をまず読んでみたらいいと思います。

(洋泉社2008年952円+税)

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2009年2月 7日 (土)

保坂弘司『大鏡 全現代語訳』

 今週はこの本にかかりきりでした。付録の家系図を見ながら読み進めるのは時間がかかりましたが、実に面白い本です。権力をめぐるさまざまな人びとの立ち居振る舞いは、当時も今もおそらく何も変わっていないようです。各官庁における事務次官ポストをめぐる争いなんか、これと同じではないでしょうか。ただ、当時は和歌を詠んだりするところが風流で、美意識の点で独特だったことがわかります。美意識が道徳と権力の裏づけになっているところがあるのが面白いと思います。
 今の官僚は醜いばかりで、それが麻生首相の言う「下々の皆様」にもいきわたってしまって、民間の会社であっても権力的になればなるほど官僚的で醜くなってしまいます。ひとたび特権階級に上ったと思うと、人はその傲慢さが顔つきにはっきりと表れるのを、気がついていないのは本人ばかりというありさまです。これって、周囲にはバレてるんですけどね。
 そういえば、私の入学した小学校の同級生で、東大法学部を卒業し某省のエリートコースを邁進中のT君は、実に綺麗な顔立ちの少年でしたが、ひょっとして事務次官になってテレビでお顔を拝見するようなことがあるかもしれません。当時の美少年はどんな感じになっているのでしょう。見たくないような見たいような気分です。
 こうした事務次官レースで敗れた人は、当時の貴族のように悔しさのあまり、指が手のひらを突き破って甲に出てしまうほどの思いをしているのでしょうか。それともその精神的代償を求めるかのように「渡り」を繰り返しているのでしょうか。
 藤原氏では特に道長の兄弟たちは美形揃いだったようで、本人も光源氏のモデルとされるだけのことはあったのでしょう。終始礼賛されています。ただ、美しく賢く人望があって強運の持ち主ということで絶賛すればするほど、作者は本当は褒め殺ししているのではないかとも感じられてきます。兄弟たちがバタバタと亡くなって棚ボタのように道長が権力を手中に収めるというのは、毒殺でもしたのではないかとつい勘繰ってしまいます。そして、読者にそう思わせることが作者の真の狙いだったりすることはないでしょうか。
 源氏物語に出てくる権力闘争も、史実に題材をとったものが少なくなかったことが、この大鏡を読んでよくわかりました。今度は権力闘争という視点から、源氏物語全巻通読にチャレンジしたいものです。

(講談社学術文庫1981年1500円税別)

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