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2009年2月10日 (火)

内田魯庵『新編 思い出す人々』

 以前途中まで読んでいて、長い間そのままにしていたら、どこまで読んだかわからなくなったので、結局最初から読んでしまいました。魯庵の文章はリズムのある名文なので、読むのは苦痛ではありませんが、山田美妙のところまでの200ページ弱は読んでいたことがわかると、ちょっと脱力感も伴ってきました。いったい何やってんだろう。
 魯庵は人間観察に長け、人物の評価や芸術の鑑識眼にも優れていたので、明治の文豪や芸術家たちの生き方が実に手に取るようにわかります。尾崎紅葉の面白さや淡島椿岳の奇才振りなどは魯庵の筆以外ではこれほどうまく描き出されなかったと思います。鷗外や漱石の人となりも、さもありなんという感じです。
 そして何と言っても一番多くのページが割かれているのが二葉亭のことで、その友情の深さには心を打たれます。この思想と才能がちぐはぐな愛すべき文人を著者がいかに暖かい目で見守っていたかということが偲ばれて感動的です。
 
 それにしても、作家というのはやはり面白い人種です。昔、高校時代の国語の教師が、どんなにくだらないものを書いているような作家でも実はとんでもなく頭がいいんだと言っていましたが、そこが言の葉に憑かれた人たちの面白いところです。
 先日もハンガリーの作家のエステルハージの講演を聴いて、その思いを深くしました。学者は分析したり批評したりするほど創作の現場にある言の葉から遠ざかってしまいがちですが、やはり作家はその点で基本をはずしていませんし、作家同士でも共通の完成というものがあるようです。エステルハージの言葉の中に「ハンガリーの作家たちはカフカを高く評価している。ただしルカーチを除いて」というのがあって、笑ってしまいました。ま、ルカーチなら仕方ありません。作家じゃないですしね。
 そのエステルハージは「私が言葉を選ぶのではなく、言葉が私を選ぶのだ」と言います。私が言葉を選び、支配し尽くしていると思っている人は、権力的だったり紋切り型だったりする言葉に支配されているとも言えるでしょう。作家はある意味でシャーマンなので、その意識せざる言葉の力こそが人を動かすのだろうと思います。その言葉の引力圏に文学が(あるいは演劇も劇的なるものとして)存在しているのです。
 そして、ほかならぬこの点でこそ学者という人種は、わかったような口をききながら、実は限りなく感性が鈍かったりするので(しばしば知性も鈍いですが)、くれぐれも用心しなければならないと思います。

(紅野敏郎編岩波文庫1994年720円)

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