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2009年4月19日 (日)

上田閑照『私とは何か』

 著者は人並みはずれて勤勉で、他人の思想の解説は実に見事ですが、ご自分の言葉でものを考えることになると、妙に力が入りすぎるのか、いろいろと面白いことを考えているようなのに、それがうまく読者に伝わらないという、なんだか損な役回りというか、星の下に生まれた感があります。
 著者は昔はあまり一般的な著作を発表されていませんでしたが、その実力は周囲から高く評価されていて、大学院のころに同じゼミの先輩が著者の講演を聴くのを楽しみにしていたのが思い出されます。当時は、とにかくすごい人だから話を聞いておいたほうがいいという感じの噂が広がっていました。
 私のほうは「ふーん」と思いながら、著者の『十牛図』を立ち読みしてみても、いまひとつピンと来なかったので、講演会には行きませんでした。その後、鈴木大拙の解説などで多少は著者の文章に触れる機会はありましたが、書店で単著も出ているのを目にしながら、いつかはまとまったものを読まなきゃと思っているうちに、気がついたらほぼ30年が過ぎていました。
 本書はそんなわけでようやく読んでみた著者の単著ですが、うーん、なんとも不器用な人だと思います。残念ながら30年ほど前の印象は当たっていたところがあります。読んでいて、これはと思ったのは山川登美子、西田幾多郎、夏目漱石の引用の部分で、肝心の著者の文章が凡庸なのです。いいことも書かれているのですが、書くことと考えることとがうまくつながっていない気がします。
 京都学派周辺の人にとっては学識人格とも優れた哲学者であっても、そうした空気と無縁の一般読者にとっては、いわゆる「考える文体」を持った人でないと、どう転んでも学者でしかありえないのです。
 こういう人をどうとらえたらいいのでしょうね。ご本人が真面目すぎるのでしょうか。なんとも言えませんが、さしあたりここでは性急に判断せずに、別の本ももう少し読んでみようと思います。

(岩波新書2000年660円+税)

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