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2009年6月30日 (火)

岩田靖夫『いま哲学とは何か』

 ソクラテスに始まり、ハイデッガーやロールズまできっちりとフォローされていて、これ一冊で西洋哲学小史のような趣がありますが、それぞれの解釈がしっかり考えられていてユニークで、教えられるところが多々ありました。
 なかでもとりわけ、ソクラテスの「無知の知」というのは人間が自己絶対化に踏み込むことを許さない知恵だという見方は新鮮でした。「人間が自己絶対化に踏み込むとき、自己神化が起こり、他者の抹殺が起こるのである」(11頁)とあります。それはまあ、ちょっと論理が飛んでいる気もしますが、そうかもしれません。それで、対話の精神は「自己絶対化の放棄であり、異なるものに対して開かれた心を持ち続けることである」(12頁)となるわけです。
 実に若々しい思想です。そもそもソクラテスがそうだったのでしょうが、終章も再びソクラテスへの共感が語られます。死んでも不正を犯さなかったソクラテスを「加害行為を根絶するために、一切の復讐を放棄した」(202頁)と見るわけです。ここまでくるとそれはいうまでもなく宗教的な境地ですが、そうした「宗教的な境地への畏敬の念を失えば、人類に未来はないであろう」(同頁)とくるわけです。
 ちょっとナイーブすぎるので、私のようなすれたおっさんにはつらいところもありますが、著者の人となりが上品な感じがするのでOKです。岩波新書を読むまじめな若者たちには(きょうびそんな若者なんて絶滅危惧種のように珍しい存在なのかもしれませんが)ぴったりだと思います。そういうのもまた大事だよねと最近は若さということにも寛大になりつつあります。これもまた加齢のなせる技でしょうね。若者といっしょにいるだけで感動することがあります。

 なーんて思いながらいっしょにバスケットボールをやっていたら、先週ひどい捻挫をしてしまい、ギプスと松葉杖を余儀なくされました。歩けるようにはなりましたが、まだ完治していません。年甲斐もなくがんばって、久々に二桁得点したと思った矢先でした。ま、そんなもんですね。でもまた懲りもせずにやるんだろうね。われながら阿呆です。

 それはそれとして、今書いている本の最後に少し加筆することになったので、この機会に『ソクラテスの弁明』にはもう一度目を通しておく必要がありそうです。

(岩波新書2008年700円+税)

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2009年6月24日 (水)

池田晶子『私とは何か―さて死んだのは誰なのか』

 著者が亡くなってかれこれ2年になりますが、これまで単行本に収録されていなかった原稿や未発表草稿からなる3部作が新刊として日の目を見ました。これはその一つです。それにしてもたくさん書いていたんですね。文筆業という肩書きに偽りなしですが、あらためて感心させられます。
 著者の思考はいつもながら明晰、明快で論理の力で宇宙の果てまでも連れて行ってくれます。「私とは何か」と問うものは、それ自体すでに「私」を超えているわけで、それは私でもありあなたでもあり、人びとでもあるような、でも、それは決して邪悪な存在ではないような意識です。
 このあたりでわが国の講壇哲学者は心配になってきて、何かよすがとなるべき外国人タレントはいないかとあたりをきょろきょろし始めるのですが、著者はためらうことなくどんどん進んでいきます。このあたり私などには実に爽快ですが、これを嫉妬も手伝って、学問的でないとか批判する人もいることでしょう。
 学者の世界だったら、弟子にあいつを批判しろと命じたりすることも珍しくありませんが、哲学の学閥ではどうなんでしょうね。私は師匠がメインストリームから外れているというか、うまく距離を置いていた人だったので、そんなヤクザの舎弟のような真似はしなくてすみました。わが国の業界のしきたりからすると、この点だけでも幸せなことだったかもしれません。
 女性の哲学者というのはあまり例がありませんが、著者は希有な例外です。ほかにはシモーヌ・ヴェーユくらいでしょうか。もっとも、著者はそもそも世界精神の人なのであって、女性とか男性とかいうことに意味を認めていないので、そんなことを言うと失礼に当たることでしょう。そう、著者は日本人ということも超えて、世界的にもあまり例を見ない独特の哲学者なのだと思います。

(講談社2009年1500円税別)

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2009年6月23日 (火)

曾野綾子『中年以後』

 以前文庫で読んだ気もするのですが、古書店で買った単行本を読んでみました。読後感が新鮮だったので、前に読んだことをまったく忘れていたのかもしれませんが、教えられることが多々ありました。というか、的確な表現と、随所に見せる決めぜりふの見事さに改めて驚かされました。以下印象に残るフレーズをいくつか列挙してみます。

・当然のことだが、若い時には何と言っても、まだ多くの人に会っていないのだ。そして人は、会った人間の数だけ賢くなる(11頁)
・正義は、最終的には人間には評価できないものなのである。正義もまた、人間の評価に委ねると、多分に利己的になる(41頁)
・年を取ると、正義という名の情熱の筋を通すより、気にくわない他人にも優しさを示す、などということの方がはるかに難しい姿勢であり、偉大な徳だ、ということがわかってきた(122頁)
・突然病気に襲われて、自分の前に時には死につながるような壁が現れた時、多くの人は初めて肉体の消滅への道と引換えに魂の完成に向かうのである(151頁)
・自分がいい人だということを信じていられるのは、精神の形態としては、よく言えば若いのだが、悪くいえば幼稚なのである(174頁)

 自己完成なんて自分としては普段意識しないのですが、思えばクリスチャンは生きているうちにこれを目指さなければいけないのでした。そしてその可能性が開けてくるのが中年以降というわけです。
 というのも「体力は確実に落ちているけれど、人生を見る目は確実に深くなっている」(215頁)のが人生の半ばも過ぎた頃だからです。「だから四十歳から六十五歳までの四分の一世紀間、もし大きな病気もせずふつうの生活ができたなら、それはすばらしい贈り物を受けたことになる」(同頁)わけです。
 そして、このときに「ふしぎな輝きを増すのが、徳だけなのである」(234頁)と著者は言います。この徳を大切にする意味でも「中年以降は、自分を充分に律しなくてはならない。自分にしっかりとした轡をかけて、自分の好きな足どりで、しっかり自分自身を馭さなくてはならない」(238頁)のです。
 なぜなら「徳こそは人間を完全に生かす力になる」(241頁)からです。

 昔朝日新聞系の雑誌の記者座談会で「曾野綾子牧師の説教なんか聞きたくない」という発言を読んだことがありますが、著者はカトリックですので「牧師」はありえません。著者の言葉は、わが国の似非インテリに特徴的な宗教音痴には通じないでしょうけれど、虚心坦懐に耳を傾けると、多くのことが得られます。本書には勇気づけられるとともに、襟を正さなければ、というか、もっと積極的に徳を意識して人生を送るべきだといううことを教えられました。さすがカトリックです。ここまで具体的に言ってもらうと信徒でなくても腑に落ちます。

 余談ですが、先週、息子さんの勤める関西の私大が募集停止になったとの報道を耳にしました。有能な人なので次の職には困らないと思いますが、ご心配なことでしょう。もちろん、私も他人事ではありませんが。

(光文社1999年1,500円+税)

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2009年6月21日 (日)

美輪明宏『人生ノート』

 著者は何しろ天草四郎の生まれ変わりと言われる人ですから、400年くらいの間さまざまな霊と交信しながら世の中を見てきたようなところがあります。社会に対する独特な見方が光っていますが、その裏打ちになるくらいの勉強もされているように思います。
 そういえば著者がまだ丸山明宏の芸名だった頃、連続テレビドラマ「雪乃丞変化」を見て感銘を受けたことを覚えています。かなり密度の濃い復讐劇でしたが、テレビでもああいうことがやれた時代があったのです。著者は当然主人公ですが、壮絶な美しさをたたえいました。
 著者はアールヌーボーからアールデコまでの特にフランスの美意識を評価していますが、なるほどそんな感じがします。だから、アメリカの物まねばかりして、独自の美意識をはぐくまなくなったフランスをほとんど見限っています。そうでしょうね。
 ただ、ここでフランスがかつてのように独自のおしゃれを開発するようであれば、たいしたものです。世界はもっと明るくなるような気がします。フランス文化のエスプリが殺伐とした拝金主義の世の中に心の余裕をもたらしてくれるなら大歓迎なのですけどね。
 でも結局日本人の行き方としては、アメリカやフランスとも別口でがんばらなければいけないでしょう。そう思えば、著者の生き方もファッションも、実はそれを地で行っていることに気づかされます。アメリカにもフランスにもこういうタイプの芸能人はいないでしょう。正直立派だと思います。見習うべきはその心意気ですね。

(PARCO出版1998年1600円税別)

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2009年6月18日 (木)

木村藤子『「気づき」の幸せ』

 霊能者がどのように透視するかがよくわかります。どうやら相談者の情景が手に取るように目に浮かぶようです。そんな能力を授かってしまったら、もう運の尽きです。霊能者の看板を上げるしかないでしょう。
 でも、相談者のためを思うほど、その人が言われたくないようなことも言わなければならないし、因果な商売です。かつてテレビ番組の中で飯島愛が芸能界の仕事を引退するのを涙を流しながら引き留めていた著者には、その時点ですでにかなりはっきりしたことが見えていたのかもしれません。
 こうした霊能者の存在が日本の土着の文化の中でどのように根付いてきたかということはあまり研究されていないような気がしますが、秋元松代の戯曲の世界にその怪しい部分とともに見事に描き出されていたのが思い出されます。もっとも、著者は戯曲の中野人物のように教祖になるタイプではなくて宮司さんの奥さんによくあるような優しくてふくよかな感じの人です。
 現実の相談者の例では、祖先の霊がたたっているというより、どうやら本人の所業に原因がある場合の方がはるかに多いようです。霊のせいにして自分の責任を逃れるなら、こんなに楽なことはないからです。これでは言いたくないことも言わなければならなくなるはずです。
 一般に、怪しい人は気配や雰囲気でわかるという人は少なくないと思いますが、それにしても、ここまではっきりと見えると本当に大変だと思います。かつての教え子のおばあさんで四国の地元では除霊の仕事をしているという人が、孫が金縛りに遭うのが心配で、ときどき名古屋の下宿まで面倒を見に来られていました。そのおばあさんによれば、毎晩かつての戦場を走り回っている武士たちを見るとのことでした。これでは夜もおちおち寝ていられません。
 いやー、見えなくてよかった。

(小学館2007年1,200円+税)

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2009年6月17日 (水)

土屋賢二『汝みずからを笑え』

 著者の哲学書をいつかは読もうと思いながら、結局のまんまにしていますが、ユーモアエッセーの方は古本屋で見つけるとすぐに買って読んでしまいます。それで、相変わらず著者が本業の哲学者としてどんな人なのかということは不明のままで、この毒にも薬にもならないけれども優れた笑いの本を楽しんでいます。
 この書いている著者自身もヘンだということを気づかせて笑いをとるという高度なギャグは、ひょっとしたらイギリスの文学に出てくるようなセンスなのかなという気もします。たとえばジェローム・K・ジェローム『ボートの三人男』(中公文庫)なんかに出てくるあれです。著者にもエッセーでなくて想像力をとんでもなく飛躍させた冒険譚を書いてもらうと、これまた面白いかもしれません。
 もちろん、いつもながらの味わいは健在です。電車の中で読んで思わず笑い出すと、周囲から怪しまれるので、読むには時と場所を選ぶ必要があります。著者のエッセーは無性に読みたくなるときがあります。内容については特に書くことはないので、この欄にも何を書こうかと迷ってしまいますが、また読んでしまったと公開するわけではありません。ともかく、こんなに冗談ばかり書けるというのも、やはりすごい才能だと思います。

(文春文庫2003年476円+税)

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2009年6月15日 (月)

小林信彦『人生は五十一から』

 題名に惹かれて古本屋で入手。私も今年で51歳になります。先日届いた高校の同窓会案内が「全員五十歳記念同窓会」ということでぎょっとしましたが、みんな紛れもなく半世紀を生きてしまったわけです。何せこれまでに私は一度も同窓会に出ていないので、いまだに自分の記憶の中では同級生はみんな18歳なのですが、いずれにしても当時の記憶がなければ、お互いに「太郎はすっかりおじいさん」なのでしょう。実際、孫を可愛がっているような人もあることでしょうし。
 著者は「はじめに」で「五十を過ぎて、ようやく、世の中や人間関係のからくりが見えてきたときに、肉体の老化があらわになりました」と書いています。逆に、肉体が老化して体力勝負がきかなくなったために、世の中の見え方が変わってきたという面もあるかもしれません。
 いずれにしても、ものの見方が落ち着いてくるのは確かですので、経済学者の間ではこの10年は「黄金の五十代」とかいって、良い仕事ができる時期だとされています。もっとも、理科系の才能は開花するのが早いので十代ですでに天才のような人もありますし、作曲家の多くは五十代ではすでにピークを過ぎているようです。
 ただ、落語家と作家は五十歳以降に、野球で言うなら「タマが止まって見える」ため「体力があればヒットやホームランが打てる」と著者は言います。古今亭志ん生なんかはものすごく体力があったと言われてみると、確かに説得力があります。
 自分の頭の方は置いといても、とりあえず体力をつけておかなければということは言えそうなので、トレーニングは続けています。この数年でナンバ走りを身につけたせいか、ずいぶん体力が付いた(というより楽な走り方を身につけた)ため、今でも学生たちとバスケットボールを楽しむことができます。
 しかし、さすがにそろそろトレーニングの仕方を考えなければ心臓に悪そうなので、先週から「ためしてガッテン」でやっていたスロージョギングを取り入れ始めました。やってみると、こちらの方がはるかに楽で身体に合っています。何だか楽しいし、精神的にも良さそうです。効果についてはいずれ報告します。

 もっとも、この年代はいいことばかりではありません。五十から六十にかけて鬱病にかかる人も多く、著者もかなりひどい鬱の状態からどうにか帰還したという経験があるそうです。本書にもその状態が出てきますが、「こうした心理状態だと、女性とのごたごた、借金、ギャンブルの落とし穴、病気―ちょっとしたことが引き金になって、あの世にジャンプするのは容易である」(26頁)とあります。
 そういえば、尊敬する著作家の日垣隆氏も最近ようやく精神的危機状態から脱出されたようで何よりですが、いつ自分がそうなるかなんてわかったものではありません。私が研究しているハンガリーの法哲学者ショムローは四十六歳で自殺しています。私もいつの間にか彼の年齢を超えてしまいましたが、最近はショムローに限らず、中年期に自殺した学者や作家の気持ちも少しわかるようになってきました。年をとってみないとわからないことがあるのは確かですね。
 本書は「現代恥語ノート」のような批評精神も読ませますが、故人を偲ぶ文章が光っています。著者と同時代人だった芸人たちは、今日の伝説化された存在ではなく、その当時のそれぞれに生きることに格闘している姿をとらえられているので、今もなお草葉の陰で喜んでいるのではないでしょうか。
 江戸っ子で、芝居や映画あるいは落語に通じた著者は、週に一度くらいは会って話を聞きたくなるような横丁のご隠居さんという感じでしょうか。大人のエッセーです。

(文春文庫2002年448円+税)

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2009年6月14日 (日)

長谷川慶太郎『日本は「環境力」で勝つ』

 シュワルツネッガー知事がカリフォルニアでハイブリッドカーに対して優遇措置を行なっていることは少しは耳にしていましたが、本書で初めてそのとてつもない実態がわかりました。高速道路の優先車線(リザーブ・レーン)を無条件で走れるだけではなく、パーキングメータの超過料金も払わなくていいというもので、実態はホンダやトヨタのハイブリッドカーの優遇です。当然ながら激しい抗議をしてくるアメリカの自動車会社に対しては「悔しかったらハイブリッド車を作って来い」と言って一蹴しているとのこと(59頁)。
 ところがアメリカの自動車産業界では「機械工」と「電気工」は同じ会社で働いていても、それぞれ別の職種組合に属していて、現場ではお互いに対立しているため、協力なんかできっこないそうです。わが国の大学の教員と職員以上に対立しているわけです。ということは、ガソリンと電気を組み合わせて走るハイブリッドカーは開発しようにもできない状態なのでしょう。
 それにしてもいつもながらよく小まめに取材されていて感心させられます。著者は80歳を過ぎても年に何度も現場に足を運ぶそうですから、体力気力とも衰えていません。本書では著者お得意の鉄鋼業界の最新テクノロジー事情もわかります。溶けた鉄鋼を何千分の1秒かの文字通り瞬時に成分分析し、その情報をただちにフィードバックしては鋼材の質をコントロールするというようなことは世界一の技術水準のなせる業です。
 この技術は本書には書かれていませんが、おそらくゴミの焼却処理における温度設定にも役立てられているはずです。有害物質を出さない温度というのがありますから。実際、今日の製鉄所はもはや煙突からは水蒸気しか出していません。それまでに出てくる成分はすべて再利用しているからです。
 というわけで、環境保全にわが国の技術が有益であることは論を待たないのですが、一般的な新聞報道では、日本が環境保全技術の先進国だという話はあまり聞こえてきません。たとえば環境保護先進国とされるドイツなんかより劣っていると思っている人が多いのではないでしょうか。
 確かにドイツは表面的には容器リサイクルなど市民総出で潔癖症のように取り組んでいると伝えられますが、現地調査に行った知人の話では、最終的に処理に困った廃棄物はすべて森に穴を掘って埋めているそうです。そこから地下水の汚染がそろそろ始まるはずですけど、どうするんでしょう。
 ナチの協力者を告発してきた風潮と似ていて、ドイツ人の政治行動は表面的には派手ですが、その目的は別のところ(自分たちが他から民族差別を受けないためとか)にあるのではないかと疑われてきます。ワルなのかバカなのか判断に困りますが、政治家について言えば明らかに前者です。
 かの有名な京都議定書での二酸化炭素削減目標でも、わが国のナイーブな政治家はドイツの巧みな数字のトリックにまんまとしてやられたのですが、そのことに気がついてすらいないようです。バスに乗り遅れまいとしてドイツについて行っては、とんでもない痛い目にあったのはそんなに昔のことではありません。
 少なくともドイツ人に関して言えば、戦前も戦後もその行動パターンや思想は変わっていません。戦後に人格も思想もリセットされて自国民のみならず諸国民はすべて平和主義者になったと信じているのは日本人だけです。もちろん、それはまたそれで自覚症状のない病人の類には違いないのですが。

(東洋経済新報社2008年1500円+税)

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2009年6月10日 (水)

村上和雄『生命の暗号―あなたの遺伝子が目覚めるとき』

 著者の名前は産経新聞の正論欄でしばしば見かけるので、古書店で買ってみました。
 われわれの身体に指令を与える遺伝子は、無駄ともいえるようなとてつもなく多くの可能性をもっていて、その中から環境に応じてスイッチ・オンになったものが作動しているそうです。それがわれわれの身体の恒常性から進化までを支配しているのですが、ときと場合によってというか、何かのきっかけによって、今までオフだったスイッチが急にオンになると、突然見違えるような動きをし始めると言います。
 思えば、地球上に存在するあらゆる生物は同じ遺伝子暗号を使って生きているわけで、こうした遺伝子の精妙な動きを研究していると、神秘的なものに敬意を払わないではいられなくなるようです。著者は遺伝子の背後にある偉大な力のことを「サムシング・グレート」と呼んでいます。
 このサムシング・グレートに敬意を表しながら、「志を高く」「感謝して生き」「プラス発想をする」ということを著者は提案します。これがサムシング・グレートに喜んでもらい、遺伝子をオンにすることにつながると著者は考えていますが、なるほどそうかもしれません。実証的ではないのですが、世界的発見をいくつもしている著者の経験に裏打ちされた感覚は信頼に足るものだと思われます。著者はオカルトに陥るぎりぎりのところで踏みとどまっています。江原啓之のファンなら違和感なく入っていけると思いますが、そうでなくても、科学と宗教の本質は同じという考えは納得がいくものです。
 著者の思想はともかくとして、本書の中に出てくる世界レベルの科学者たちの熾烈な競争にはあらためてすごいなと思わされます。よくもまあこれに打ち勝って遺伝子解読についての世界的業績を打ち立てられたものです。すばらしい。
 最近の著者の本もこれをきっかけにフォローしてみます。

(サンマーク出版1997年1600円+税)

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2009年6月 9日 (火)

岡本吏郎『お金の現実』

 お金に対して著者はまず何よりも理性的なアプローチをすることを勧めます。それは貯金をするということです。株で一発大儲けなんてことは情念的アプローチであり、凡人には向いていません。そして、しっかり努力して実力を蓄え、10年たったらその貯金と実力という原資から著者いうところの「生け贄」を捧げるんだそうです。
 10年スパンで自分に投資しながら蓄えを作り、勝負するというわけです。これは経営者でなくても同じでしょうね。おそらく10年ごとに時給計算してみて、どーんと高くなっている人がいるとしたら、そういう人だろうと思います。
 著者はお金の怖さをよくわかっていて、成功する経営者には一種の狂気のごときものが宿っていることも知っています。だてに経営コンサルタントをやっているわけではないようです。きっとこれまでにもいろんな経営者を見てきたのでしょう。
 著者は経験上断言できることとして、多くの場合、お金が入ってくるときには私たちの実力よりも過剰に入ってくるということを挙げています(212頁)。要するにもらいすぎなわけです。このあたり、お金の神秘的な側面もよくとらえられていると思いますが、そこで「自分の実力を手元のお金に合うように努力をする」ことがポイントになってくると言います。この実力が伴わなかったとき、お金は出て行ってしまいます。しかし、また努力すれば、敗者復活戦もあるそうです。そんなものなのかもしれません。何度も起業しては成功と失敗を繰り返すようなするような経営者もいますもんね。私には未知の世界ですが勉強になります。
 個人的な結論としては貯金と努力ということになります。もっとも、自分の時給が高くなるかどうかは不明です。今の勤め先で、いつまで給料が出るかという問題もありますし。でも、そのときには貯金がものを言うでしょうから、やはり著者のアドバイスに従っておく必要はあります。

(ダイヤモンド社2005年1600円+税)

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2009年6月 7日 (日)

木村剛『日本資本主義の哲学』

 外国資本100パーセントのベンチャー企業を立ち上げ、その後日本の資本100パーセントの会社としてコンサルタント会社を経営してきた著者ならではの「現場の経験」が生きています。外資も内資もどちらも経営経験がある人というのはそうはいないと思います。著者がしばしば東大系の経済学の教科書だけ読んでいるような学者を厳しく批判するのも、この現場を知っているからでしょう。
 実際本書を読むと、資本主義というものの理解についてなるほどと思わされるところが多くて、本当に勉強になります。著者が山本七平の『日本資本主義の精神』を高く評価しているのも印象的でした。思えば山本七平も小さな出版社の経営者でした。会社経営で苦労している点で、共感するところも少なくないのでしょうが、何より両者に共通するのは、現場から世の中をよく見ているという点です。
 特に近年の大企業の不祥事は、経営者が責任をとらなくなってきているところにその特徴があるのですが、かつては機能集団を共同体的、つまりムラ的な集団として統治してきた日本の会社組織ですが、著者のいう「ムラヲサ」が裏切ることでモラルハザードが起きているという指摘は説得力があります。
 もともと弱肉強食で露骨な資本の論理を日本流に「ムラヲサ」の共同体的統治でアレンジして乗り切ってきたところが、トップから裏切りを始めるなら、共同体は崩壊するしかなくなります。そして、そういわれてみると世の中の至る所で官僚化が進んでいて、今や日本中の組織が無責任体制になってしまっています。
 著者は今こそ「ニッポン・スタンダード」の確立を呼びかけています。「親米でも嫌米でもなく、『アメリカ万歳論』でも『外資ハイエナ論』でもない、日本独自の日本スタンダードを確立しよう」(301頁)と。
 狂ったモラルを糾しさえすれば、この道は意外にすんなり確立できるような気がしてきます。ただ、狂い方が組織によってはかなりのものなので、そこが一番の問題でしょうね。

(PHP研究所2002年1,700円税別)

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2009年6月 3日 (水)

野村雅一『身振りとしぐさの人類学 身体がしめす社会の記憶』

 昔英語科の先生が飲み会の席で、一つ二つと例に挙げながら何かを話されていたとき、何気なく手の甲を相手に向けてVサインをする形になったとき、同僚のオーストラリア人の先生の表情が引きつっていたことを覚えていますが、本書を読んで、それがどんな意味かわかりました。なるほどそれはまずいよね、ということは文化摩擦の中でしばしば起こってきますが、一般的には人を指さすことも危険のようです。
 本書はジェスチャーの人類学であり、比較文化論です。話の小ネタにするにも新書としてはかなりの量のトリビアな知識が詰まっている本です。印象的な話がたくさんありすぎて覚えきれません。比較文化論の講義の前にぱらぱらと読み返すといいかもしれません。
 ただ、本書はそれだけにとどまらず、最後の方の「しぐさの逸脱」という章で、物忘れや運動障害についても考察していて、ひと味違います。著者が言うところの「身振りの思想史」というものが意図されていて、問題提起としてもかなり意欲的なところが感じられます。フロイトによって無意識のしぐさの意味づけがまったく新たなものとなったことや、映画の語法がクローズアップや単なる補講というものにも演技の余地を与えるに至ったという指摘などは新鮮です。
 言語や意味だけにとらわれすぎて窮屈になっている思想を身体による表現の側から解きほぐすという可能性も感じさせてくれ。る本でした。

(中公新書1996年680円+税)

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