« 美輪明宏『人生ノート』 | トップページ | 池田晶子『私とは何か―さて死んだのは誰なのか』 »

2009年6月23日 (火)

曾野綾子『中年以後』

 以前文庫で読んだ気もするのですが、古書店で買った単行本を読んでみました。読後感が新鮮だったので、前に読んだことをまったく忘れていたのかもしれませんが、教えられることが多々ありました。というか、的確な表現と、随所に見せる決めぜりふの見事さに改めて驚かされました。以下印象に残るフレーズをいくつか列挙してみます。

・当然のことだが、若い時には何と言っても、まだ多くの人に会っていないのだ。そして人は、会った人間の数だけ賢くなる(11頁)
・正義は、最終的には人間には評価できないものなのである。正義もまた、人間の評価に委ねると、多分に利己的になる(41頁)
・年を取ると、正義という名の情熱の筋を通すより、気にくわない他人にも優しさを示す、などということの方がはるかに難しい姿勢であり、偉大な徳だ、ということがわかってきた(122頁)
・突然病気に襲われて、自分の前に時には死につながるような壁が現れた時、多くの人は初めて肉体の消滅への道と引換えに魂の完成に向かうのである(151頁)
・自分がいい人だということを信じていられるのは、精神の形態としては、よく言えば若いのだが、悪くいえば幼稚なのである(174頁)

 自己完成なんて自分としては普段意識しないのですが、思えばクリスチャンは生きているうちにこれを目指さなければいけないのでした。そしてその可能性が開けてくるのが中年以降というわけです。
 というのも「体力は確実に落ちているけれど、人生を見る目は確実に深くなっている」(215頁)のが人生の半ばも過ぎた頃だからです。「だから四十歳から六十五歳までの四分の一世紀間、もし大きな病気もせずふつうの生活ができたなら、それはすばらしい贈り物を受けたことになる」(同頁)わけです。
 そして、このときに「ふしぎな輝きを増すのが、徳だけなのである」(234頁)と著者は言います。この徳を大切にする意味でも「中年以降は、自分を充分に律しなくてはならない。自分にしっかりとした轡をかけて、自分の好きな足どりで、しっかり自分自身を馭さなくてはならない」(238頁)のです。
 なぜなら「徳こそは人間を完全に生かす力になる」(241頁)からです。

 昔朝日新聞系の雑誌の記者座談会で「曾野綾子牧師の説教なんか聞きたくない」という発言を読んだことがありますが、著者はカトリックですので「牧師」はありえません。著者の言葉は、わが国の似非インテリに特徴的な宗教音痴には通じないでしょうけれど、虚心坦懐に耳を傾けると、多くのことが得られます。本書には勇気づけられるとともに、襟を正さなければ、というか、もっと積極的に徳を意識して人生を送るべきだといううことを教えられました。さすがカトリックです。ここまで具体的に言ってもらうと信徒でなくても腑に落ちます。

 余談ですが、先週、息子さんの勤める関西の私大が募集停止になったとの報道を耳にしました。有能な人なので次の職には困らないと思いますが、ご心配なことでしょう。もちろん、私も他人事ではありませんが。

(光文社1999年1,500円+税)

|

« 美輪明宏『人生ノート』 | トップページ | 池田晶子『私とは何か―さて死んだのは誰なのか』 »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。