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2009年7月 2日 (木)

池田晶子『死とは何か さて死んだのは誰なのか』

 最後の「新刊」ということで、遺稿三部作の三冊目です。著者はソクラテスと同様に、「死とは何でもないものだ」と、また「ただ生きるよりよく生きる」ことが大事だと本気で思っていたようです。亡くなる直前まで、酸素吸入器をつけながら書いていたそうで、それは「よく生きる」ことにつながっていたのでしょう。
 著者は1990年の時点ですでに「禅の達人は、一切がただ可笑しくて、月を見ても呵々大笑するというではないですか」(45頁)と書いていますが、実際、こういう境地に達していたのでしょう。何事にも執着しないことで、かえって何事も楽しんでしまうというわけです。えらいものです。
 そして、この点がしばしばつまらぬことに執着しがちな大学の教授先生と大きく異なるところなのでしょう。これほどまでに自由闊達な、それでいて考える文体を獲得した哲学者は、わが国では坂田徳男くらいではないかと思います。
 思うに「哲学」というのは学と付いていますが、知を愛するという意味だけで、学(-logy)は不要です。おそらく舶来品の輸入にあたって体裁を整えるためにとってつけただけの話でしょう。最初、西周が希哲学と名付けたはずですが、いつの間にか「希」(こいねがう)の字もとれてしまいました。
 本当はフィロソフィーが「愛知」でもよかったのかもしれませんが、地名も人名もありますし、手垢が付いた感じがしたのかもしれません。そういえばフィロソフィーという地名や人名は外国ではあんまりないんじゃないですか。わが国では「哲学の道」とか「哲学堂」なんてのはありますが。
 いずれにしても、考えることが哲学からなくなってしまえば、ブランド品の輸入と変わりませんが、実際大勢はそうでしたからね。H大学の哲学科に行った先輩は、研究会で顔を合わせる東大の哲学の学生がみんな二言目には「東大です」と言うのを聞いて辟易していましたが、それは彼らに取ってみれば輸入業者なら大手一部上場の会社の方が有利だからでしょう。本当にできる哲学者はそうではないと思いますが、そういう人は大学の先生にはならずに市井でがんばっているのかもしれません。
 この点、著者は文筆業で一家をなしたわけですが、これもまたすごいことです。もちろん、これはこれでいろいろと大変だったようです。本書には大手新聞社系のビジネス誌で連載が見送られた没原稿なども収録されています。そこで著者は「哲学は役に立たない」と明言してはばからないため、編集部が気分を害したのだろうなと想像されますが、これも今だったらOKかもしれません。「哲学と人生とは、じつは真っ向相反する関係にあるのですよ。世の人ずっとそのこと勘違いしてきている」(51頁)という表現は味わい深いものです。哲学は実人生の立場からすると魅力的という以上に怖いものでもあるのですが、役に立つ哲学は怖くないどころか、そもそも哲学ではないのです。
 さて、著者はこう問いかけます。
「『正義』とは何か、『善』とは何か、それらを生き死ぬ我々とは、誰か」(214頁)
 この遺稿三部作がすべて同じ副題「さて死んだのは誰なのか」ですが、著者はいい問いかけを遺してくれました。多少なりともこの問いかけにこたえるべく、少しは発言もしてみたいとは思いますが、何より著者の魂に共鳴するべく善く生きなきゃいけませんね。

(毎日新聞社2009年1500円+税)

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