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2009年9月30日 (水)

内田樹『下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち』

 大学の教壇に立つと、もうずいぶん昔から「おまえの話なんか聴いてやるもんか」という態度の学生が少なからずいます。今年はさすがに事務職との兼任が不可能な勤務状況になってきて、通学部の学生の講義は遠慮させてもらったので、久しぶりにこの点でいやな思いをせずにすんでいます。
 まあ、この手の学生は以前からいましたが、最近は本当に学力が下がってしまって、分数計算ができず、中学1年程度の英語がわからなくてもどこかの大学生になれてしまいます。それでいて俺様的なプライドが異様に高くなっているので大変なのです。
 著者はこの原因を物心ついたときにすでに一消費者として全能感を備えた自己を完成させてしまっているところに求めています。つまり、私が出すお金に見合ったサービスなんて期待してないからね、という態度で「さあ、これから値切るぞ」(61頁)という意志の表明なのです。教師に対して「せいぜい十パーセント程度の集中はしてやらないでもないけれど、それ以上は期待するなよ」(同頁)というメッセージを不快さという形で全身で表明しているわけです。
 これは本当にそうですね。本当にうまく説明してくれています。彼らは努力して不快を表明し、意図的に授業に集中しないことで努力して学力を下げてきたわけです。授業は彼らにとって不快さとの等価交換だったのです。だから休まずに出てきては不快感を義務のように表明し続けるわけです。
 思えば家庭で父親は疲労感と不快感を全開にし、妻もその不快に耐えることを代償としてとらえ、不快感を表出する競争をすることで利益を得るという行動パターンが支配的になります。自分は被害者だというスタンスを先取りすると対価を得られるというゲームのルールを覚えた子どもたちは、学校に上がる前からクレーマー的な態度を身につけているわけですから、これは手の施しようがありません。
 もうかれこれ20年以上前になりますが、当時幼稚園の先生をしていた友人が「これからの学校の先生は大変よ」と予言していたのもこの事実を裏付けていたのだと思います。以前勤めていた学習塾で数学の苦手な子に授業の様子を聞いたら「数学の時間はいつも教室の後ろでリフティングをしている」と言っていました。
 リフティングってあのサッカーボールを地面に落とさないように蹴り続けるあれです。その子がちょうどその先生が予言した世代の子どもたちの一人でしたが、その世代以降の学生を大学で面倒を見るようになると、これ、偏差値の高低にかかわらず授業に集中しないことを義務でも果たすかのように熱心に行なう学生というのが少なからずいることがわかりました。
 市場原理に基づく自分探しとか自己責任という文科相の教育方針が浸透すると、あまりにも早くから消費者として自己を確立させたモンスターたちが生まれてしまうわけです。問題は学力が低下するだけでなく、仕事にも適応できず、自分の選択だけにこだわってニートになったりしていくという自己決定フェティシズムに陥ってしまうことです。
 こうしてみると、この問題はマルクス主義とフロイトの思考の枠組みを用いてうまく説明ができることが少なくないようで、中でもマルクスの等価交換は時間を勘定に入れられないという指摘は重要で、著者の「学びは市場原理によっては基礎づけることができない」(70頁)という言葉はよく噛みしめる必要があります。
 著者によれば、「自分が何を学んでいるのか知らず、その価値や意味や有用性を言えないという当の事実こそが学びを動機づけている」(74頁)のです。学ぶ主体は等価交換の主体と違って学ぶ過程で今までとはまったく違う何ものかに変化ないしは成長するからです。結局教育において等価交換にこだわると、学び手は外界の変化に対応する能力が身につかないという状況に陥るわけです。なるほどこれではお互いに不愉快なだけではなく、不幸になるわけです。
 著者は「何のために勉強するのか、何の役に立つのか」という功利的な問いを支えているのは幼い時分に消費主体として自己を確立してしまった人間の自己決定・自己責任論だということをお見通しです。自己決定することがよいことだとする結果として、弱者は実際には「捨て値で未来を売り払っている」(91頁)と言います。慧眼です。

(講談社文庫2009年524円税別)

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2009年9月29日 (火)

太宰治『津軽』

 太宰治の自分探しの旅です。いい話です。最後に自分が3歳の頃に面倒を見てくれた使用人たけに会いに行くところなんかは、こちらもどきどきはらはらさせられます。いろんなところでいろんな人に歓待を受け、へろへろに酔っぱらいながら、人びとを観察し、同時に昔の自分を少しずつ確認していきます。フロイト的無意識への旅という風にも読めるかもしれません。まあ、そんなことはどうでもいいのですが、人間は記憶でできているので、やはり過去はおろそかにはできません。
 ところで大学のときに青森出身の友人がいましたが、ジャズファンで温厚なロマンチストでした。スイングジャーナルに投稿して採用されたりしていましたが、作家になろうというのでもなく、卒業を延期してまでも武田泰淳についての卒論に取り組んでいました。大学を卒業したら可愛らしい恋人を連れて青森に帰ってしまいましたが、今頃どうしているのでしょう。
 当時は文学部の友人は彼に限らず、いい論文を書くために留年するなんて珍しくなかったもので、文学や歴史を好きだからやっているという一途な猛者たちが少なくありませんでしたが、今どきの実学志向の学生たちからすると、さしずめ宇宙人みたいに見えるかもしれません。
 この作品の登場人物たちも、そこはかとなくその友人と、よく彼の部屋に遊びに来ていた同郷の友人たちの面影を感じさせるような気がします。みんな一様におとなしくのんびりしていて酒好きで、実にいい感じの人たちでした。東京で何かにつけて人をすぐに見下そうと待ち構えている視線の中で暮らしていると、その青森県人会さながらのアパートの部屋は別世界でした。
 太宰も元々その津軽で育ったのにもかかわらず、東京に出てきて小説なんか書くものだからずいぶんくたびれ果てていたのでしょう。でも、津軽に帰ってくるとやはり気持ちが穏やかになって、素直に安らぎを見つけている感じがします。
 文章は太宰の軽妙なときのそれでいて、しかし調子に乗りすぎず、抑制がきいています。最後の台詞は「さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。」(232頁)です。いいでしょう。
 でも、この文章は本当は本人が絶望の淵に近いところに立っていて、自分を励ましていたのかなあという気もします。絶望の淵とは実は私たちの日々の生活の延長線上にあるのですが、その向こう側に落っこちてしまった人だけに、「命あらば」という表現がちょっと哀しい気分にさせられます。このあたりもまたファンにはこたえられないのでしょうけれど。

(岩波文庫2004年500円+税)

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2009年9月26日 (土)

八木谷涼子『キリスト教歳時記 知っておきたい教会の文化』

 キリスト教の祝祭や聖人にちなんだ祝日の歳時記です。祭式儀礼の解説と代表的な聖人の人物伝にもなっていて、通読しやすい本です。また、聖人といってもカトリックだけでなく聖公会や東方正教会の見解もフォローしてあり、祭式儀礼もプロテスタント諸宗派のそれにも触れていて、バランスのとれた記述になっています。
 西洋の文学を読んでいて「無宗教」の日本人の躓きの石になるのが、聖書の知識とこうした祭式儀礼や聖人伝説の基礎知識です。中でも翻訳に携わっている研究者はいろいろと大変だろうと思います。著者もその業界の人ですが、あとがきにもあるように、実際にいろんな宗派の礼拝を見て歩くことがお好きなようで、単に書物から得られただけの知識でないところが記述にも反映されています。
 聖書の知識もこうして別の角度から光を当てるとあらためていろいろなつながりを発見できます。マリアとエリサベツの邂逅のシーンで、エリサベツのお腹にいたのが洗礼者ヨハネだったということを今回初めて知りました。洗礼者ヨハネには昔から強く惹かれるところがあって、まあ、簡単に言ってファンなのですが、聖人伝というのはそうした人びとの気持ちに答える役割もあるのかもしれません。
 同様に私はイエスの復活を最初に目撃したマグダラのマリアも長年のファンなのですが、これはマグドルナというハンガリー人の女優と同名の才色兼備の歴史家、そしてエル・グレコの絵画のイメージが手伝っています。こんなの姓名判断みたいですが、それでも聖書の記述を知らずにその人となりや作品ができあがるわけではないので、ちょっとは意味があるような気がしています。
 本書の記述を読むとマリア・マグダレーナに限らず、聖書の登場人物たちが世界中の文学者たちの想像力をかき立ててきたこともわかります。何はともあれ、座右のレファ本としてこれからも重宝しそうな本です。

(平凡社2003年680円+税)

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2009年9月24日 (木)

ラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』

 よくもまあこれほど残虐な民族虐殺を行なったものです。読んでいて気分が悪くなること請け合いです。中南米のインディオは1800万人以上が殺されています。それも思いつく限りの残虐さで娯楽の一環であるかのように殺されています。なお、スペイン人だけでなく、著者のラス・カサスも驚くほど冷酷無比だったのがドイツ人入植者で、400万人を超える大虐殺を行なっています。
 人間がここまで残虐になれるのは驚きですが、自分の中に眠っている残虐性を呼び起こすと案外こんなものが出てくるのでしょう。いったん相手を人間でないと思い込めば、屠殺をするように殺すのは簡単なのかもしれません。とにかく住民を一軒の家に閉じ込めて焼き殺したり、生きながら火あぶりにしたり、顔をナイフで削いだり、赤ん坊の手足を切り取って犬に食わせたりと、もうむちゃくちゃです。悪魔の所業とはこのことかもしれません。同情のひとかけらさえも見事に存在しないからです。
 スピリチュアル系の人があのあたりに行くと、無念の思いの中で殺された魂がたくさんあって悪酔いするのではないでしょうか。ホッブズが、人間が人間に対して狼になる状態のことを理論として述べていますが、これがまさにそれでしょう。イギリス人もかつてインドの綿織物職人の手を切り落としましたし、のオーストラリアでは200万人以上いたアボリジニを30万人にまで減らしたわけですから同類です。
 キューバで火あぶりにされた族長の一人は、火あぶりの直前にフランシスコ会の聖職者からキリスト教についての説明を受け、これを信じるなら栄光と永遠の安らぎのある天国へと召されるが、そうでないなら地獄に堕ちて果てしない責め苦に遭うと聞かされました。
 族長はしばらく考えてから聖職者にこう尋ねました。「キリスト教徒たちも天国へと行くのか」と。聖職者はうなずいて「正しい人はすべて天国に召される」と答えました。すると族長は「キリスト教徒には二度と会いたくはない。そのような残酷な人たちの顔も見たくない。いっそ天国より地獄へいった方がましだ」と答えたといいます(42頁)。いまわのきわにこういう台詞を残せるなんて大した心意気です。

 民族虐殺は最近ではボオスニア・ヘルツェゴヴィナが有名ですが、チベットやウイグルのリアルな状況もネットを通じてよく聞こえてきます。この点マスコミは腑抜けですね。そのうち天誅が下るでしょう。
一方、人類の記録に残っている虐殺中で一番古いのは旧約聖書のヨシュア記のそれでしょうか。これも徹底しています。異教徒は人ではないというのは実感としてはわかりません。
 この点では私は自分が日本人的な宗教意識の中にいることを実感させられますが、いずれにしても、こういうことが起こる条件をこまめに解体し続けておかないと、いつかはわが身に降りかかってくるでしょう。特に虐殺する立場にだけはなりたくないものです。
 こういいうときには、日本人なら民族虐殺の加害者になるくらいなら腹を切って死を選ぶという風になってほしいと半ば本気で思います。政治というのは何よりもそういう人にやってほしい仕事です。閣僚が文字通り全員切腹なんてことになると、きっと世界でも異彩を放つことでしょう。自民党でごたごたしている世代交代なども一挙に進みます。
 切腹はかつての武士の身の処し方でしたが、武士から武をとった官僚たちは腹だけは切らない決意を示してかれこれ100年以上になるのではないでしょうか。明治維新の頃の政治家は本当に武士だったりしましたから「坂の上の雲」が成り立ったのでしょう。今では政治家も官僚に感化されて、坂道を転げ落ち、考えることはわが身可愛さだけになっちゃいました。民間会社も天下りを受け容れているうちに経営陣が同じ空気に染まってきました。一億総小役人になる日もそう遠くはありません。いやもうなっているのかも。
 この点で政権交代が起こったのは天の声でしょう。民主党は少しは腹を切る心づもりでいるでしょうか。

(岩波文庫1976年560円+税)

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2009年9月22日 (火)

永井荷風『濹東綺譚』

 出張先で入手しました。再版が出たばかりだったのですね。表紙に玉の井が舞台とあったので、これが岡野雅行さんが若いころ世間を勉強したというあの玉の井かと手に取ってみたところ、目に飛び込んできた文章の美しさにあらためて驚かされて買ってしまったわけです。
 これまで荷風散人のものはエッセーしか読んだことがなかったのですが、小説を初めて読んでみてびっくりです。これを読まないのは人生の損失でしたね。今頃になってからでも気がついて本当によかったと思います。これから少しずつ読んでいくことにします。
 荷風散人は世之介や光源氏の系譜に連なる人なのでしょう。女性の美しさを追求する求道者なのかもしれません。今にもこわれそうなそのはかない美しさをこんな風に描くことができるのですね。さすがです。
 木村荘八の挿絵も効果的で、今はほとんど名残がなくなっている玉の井の雰囲気がそこはかとなく伝わってきます。旧仮名遣いだったらもっとよかったですけれど、これは岩波文庫の方針だから仕方ないでしょう。復刻版でも探してみましょう。

(岩波文庫1991年改版、2009年第72刷460円+税)

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2009年9月21日 (月)

橋爪大三郎『永遠の吉本隆明』

 著者と勢古浩爾の吉本隆明論はいつか読もうと思っていましたが、出張先でたまたま本書を入手したので読みました。いわゆる団塊の世代より上の人たちはみんなかなり影響を受けていたようですが、どのように影響を受けていたのかよくわからないところがありました。本書を読むと、なるほどと思われるところがありました。
 以前恩師の一人の栗本慎一郎が深夜番組に出ていて「選挙になんか行かない」と言っては司会の愛川欽也から「大学の先生がそんなことを言っていてはダメでしょ」とたしなめられていたのを覚えています。思えば栗本先生はその当時のスタンスは吉本隆明のそれと同じだったということがわかりました。著者はそのあたりのことを次のようにまとめています。
 「吉本さんは、権力を無化するための社会思想を、いわば幻のようなものとして構想し、生涯にわたって追求しなくてはならない、という大きな代償を払ったと思うのです。とても良心的で、潔癖で、野心的な試みだけれども、よしんばこの試みがうまくいったとしても、けっして制度をつくるものにはなりません。政党もできませんし、地域社会もできないし、NGOやNPOもできないし、要するに何もできないのです。ということは、この世の中でそれをつくるのは、吉本さんのようにはちっとも考えない別な人たちだということになるので、結局、自民党が政治を握り、官僚が日本を動かし、株式会社が勝手に儲け、そして若者は商業的な文化に溺れているという、そういう現象と並行的な思想になるのです。そういう現象を、指をくわえて見ているしかない。これが、団塊の世代の無力感です」(35頁)
 これなら投票に行くこともあり得ないですし、しかし高貴な社会思想に取り組んではいるので、吉本隆明の影響を受けた知識人は確信犯的に投票に行かないということがあったのだと思います。(その点では栗本先生は数年後に衆議院議員に立候補して当選することになったわけですから、思想的には劇的な変化があったのでしょう。そのあたりからフォローしていないのでわかりませんが。)
 さて、今回の政権交代については吉本隆明も栗本先生も一体どのようにこれをとらえているのでしょうか。ちょっと興味があります。結局官僚支配をどのように脱することができるかということが今後のポイントでしょうけれど、著者の本書での官僚理解はちょっとユニークなので、以下に引用しておきます。
 「官僚というのは、人民、市民のニーズに基づき、彼らから税金をもらって、彼らの役に立つことをエージェント(代理人)として行なう。最小の税金で、最大の効果を上げようという、パブリックサーバント(公僕)です。ところが日本の官僚は、人民、市民から距離を取れば取るほどよいと考え、自分が手にしている行政上の権力に、限りなく魅惑されている。そして人事の面でも、予算の面でも、政党や議会の制約なしに活動できたら、どんなにいいかと思っている。そこで特殊法人をつくったり、
既得権益を手放すまいとしたりして、自己運動していくわけです。そして何が大事で、何が大事でないかということが理解できない。その方向感覚を失っていますから、基本的にはオタクなのです」(98-99頁)
 そう、官僚オタク論です。しかし、思えば、私企業も役人化していて、わが国の隅々までこのニヒリズム的傾向が広がってしまっているのですから、官僚だけを嗤ってすませるわけにはいきません。その意味では、今回の政権交代がニヒリズムを克服するための第一歩となることを願いたいところです。著者もそう思っているのではないでしょうか。

(洋泉社2003年720円+税)

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2009年9月18日 (金)

司馬遼太郎『尻啖え孫市』上/下(新装版)

 今まで著者のエッセーはたくさん読みましたが、小説はまったく読んでいませんでした。これが私にとって最初の小説ですが、やはりさすがですね。実は著者のエッセーの文章はどちらかというとあまり好きではなかったのですが、これが小説の中でナレーションの役割をはたすと、偉そうな感じの語り口が鼻につかなくなるのは不思議です。まあ、実際に偉い人なんですけどね。きっと慣れの問題なのでしょう。
 本書は戦国時代に和歌山の雑賀で鉄砲軍団を率いた雑賀孫市の型破りな人生を見事に描き出しています。といっても伝記や歴史書ではなく、あくまで小説で、合戦のシーンもはらはらどきどきさせられ、一流のエンターテイナーですね。緊張が高まるところでちょっと一息という感じであのナレーションが入ってくるので、ほっとさせられるという効果もあります。
 しかし、これだけ当時の世界をリアリティーをもって描き出せるのですから、おそらく著者は本職の歴史家も舌を巻くほど文献を渉猟し、読みこなしています。著者の作品を原作にしてたくさんのドラマが作られてきたのも当然ですね。
 もう一つの著者の特徴は自身独自の思想家だということでしょう。著者の思想は決して安手の近代的ヒューマニズム的ではないけれどもはっきりとした人間賛歌であり、それが小説の愛すべき魅力的な人物造形にも反映しています。主人公の孫市の益荒男ぶりはまことに痛快です。秀吉に対する見方も暖かいものがあります。
 それから、本書では浄土真宗の日本的な特徴とその歴史の一断面が見事に描き出されていて感心させられました。というか、もともと本書を手に取った動機がそうだったのですが、孫市が惚れた美しい小みちに、如来は、「十万世界にあまねく満ち満ちていらっしゃいます。満ち満ちて、私どもが救われたくないと申しても、だまって救ってしまわれます・・・念仏をとなえようと、唱えまいと、[永遠の時間の中に]繰り入れてくださいます。それが極楽へ参れる、という境地でございます」(下巻86頁)
と語らせています。
 一向一揆はこのような宗教的高揚感の中で戦われたのかもしれないと思わせてくれるところがこの小説のえらいところです。私が昔から関心のある妙好人の存在もしっかり書き込まれていて、戦国時代ではこんな感じだったのかとわかりました。私自身のご先祖様に妙好人がいらっしゃるような気がしてきました。
 これをきっかけに、著者の作品をいろいろと読んでいくつもりです。となると次は『坂の上の雲』でしょうか。

(角川文庫改版初版平成二十年各629円税別)

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2009年9月16日 (水)

西加奈子『うつくしい人』

 著者の作品では、小説でしか表現できないような微妙なことがらが、いつも見事な物語にまとめられていて感心させられます。そして、なるほどこういう展開だったのか、と唸らされることしばしです。いつものように物語は途中から加速がついてきて、何だかとてもいい世界に連れて行ってくれます。
 「うつくしい人」とは主人公の姉のことであり、脇役の外国人のことですが、同時に主人公はこう言います。「私は誰かの美しい人だ。私が誰かを、美しいと思っている限り」(224頁)。この台詞はいいですね。この境地に達するまで世の中の人はどれだけ苦しんでいることでしょう。主人公の女性も他人の目を病的なほどに意識しすぎて自分を見失っている苦しみを抱えています。そのあたりの描写はよくもまあここまでというほど細かいものです。
 こういう世界を描くための道具立てや登場人物たちの設定も何とも意外で面白いです。ネタバレのようになっても困るのであまり紹介できませんが、舞台は四国の離島の高級リゾートホテルで、先の外国人を含めて、ちょっと奇妙で可愛げのある人たちが出てきます。そして、直接には登場しないひきこもりの姉の存在が物語の一つの大きな柱になっています。
 こういう小説を書けるのはやはり才能でしょう。著者の小説からは、書かずにいられなくて書いて、あるいは書くのが楽しくて仕方ないという感じで書いているのが伝わってきます。そのことが自己満足にとどまらず、これだけ名品の数々を生み出してきたというのは、本当にとんでもないことです。
 一般的なわが国の純文学の作家は作品数も少なくて、いつもうんうんと苦しみながらやっとの思いで書き上げている感じがしますが、著者はそういう世界とは無縁の作家のようです。

(幻冬舎2009年1300円+税)

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2009年9月15日 (火)

吉本隆明『ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ』

 本書のタイトルはいいですね。著者が幼いころから基本的にひきこもり系の人だったことも語られていますが、ひきこもって得意なことに集中し、10年くらいがんばれば、誰でも何かになれるし、そこから群れずに自立して生きていきなさい、というメッセージは素敵です。
 著者はいつもゆっくりゆっくりと力を込めて思索している人ですが、直感ですべてをつないでしまう傾向があるので、ときどきどうして?というところがあります。『言語にとって美とは何か』では、原始人がはじめて海を見たとき「う」と言ったとかいうのは気合いでしか語ることができないことがらです(私の後輩の一人は「み」はどこから出てきたんだと突っ込みを入れていました)。言語の起源が気合いだとでもいのなプロレスラーみたいでいいですけどね。
 いずれにしても、著者のインタビューに基づいた本は話し言葉のリズムが感じられて、独特の味わいが出てきます。たとえば内臓の働きに関係のある第二の言語なんてのは、論じられると皆目わからなくなるところですが、肉声で語られると、そんなものかなという気がしてきます。
 論理的でなくても説得力があるのは「人間の性格は胎内で人間として身体の器官がそろって働くようになった胎児のころから一歳未満の乳児のころまでのあいだに、主に母親との関係で大部分が決まってしまう」(42頁)という主張で、言われてみるとそんな気がしてきます。親の影響もこの頃にこそ決定的なものなので、たとえば親から子へと自殺願望が転移するということになるようです。
 もっとも、これを克服するのが子のつとめだとも思います。シモーヌ・ヴェイユの言うように、仮に人が無意識で人を殺したいと思っているならそれを明るみに出して、なおかつ「そんなことをしてはいけない」と禁止すればいいのです。これがまた新たな抑圧を生むというのは、フロイトが科学コンプレックスから当時の先端理論だった「エネルギー保存の法則」を自身の分析理論に適用しようとしたからです。
 ただ、著者はそうした場合でも無意識に気がつくことから始めなさいと言うことでしょうね。というか気がつかないと何も始まらないからです。まあ、こういうのはどちらが正しいというものではないのでしょう。解釈の物語として何を選択するかということだと思います。著者も魅力的な思想家ですが、わたしはヴェイユを選びます。

(大和書房2002年1,400円+税)

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2009年9月14日 (月)

谷沢永一『実践人間学』

 著者お得意の人間学ですが、実践編があったとは知りませんでした。確かに新潮選書の『人間学』より具体的で読みやすい感じです。
 本書では人間誰しもが持っているえげつない情念をいいものに昇華する心得から話が始まります。たとえば、 松下幸之助が「嫉妬はキツネ色にほどよく焼くのがコツなのである」(38頁)と言っていることはほかでも読みましたが、その前のせりふも含めてきっちり紹介されているので、本書で初めて身にしみてわかった気がしました。
 本書ではほかにもいろいろな人のエピソードをうまく料理してくれていて勉強になります。
 山片蟠桃の『夢の代』は54歳の時に一念発起して、毎晩夢の代わりに20年近く書き続けてできたものだそうで、その継続する情熱は是非とも見習いたいものです。
 また、三宅雪嶺は「人は善くもいわれ、悪くもいわれるのがよい」という印象深い言葉を残しています。そうするうちに人間が練れて物事を深く考えるようになるからだ、とのことで、他人については「適度に多めに褒め、少な目に貶すのが他人から愛されるコツである」とは著者の読みです(100頁)。なるほど、心したいと思います。
 著者の考察もロシュフーコーなどに負けていません。人から嘘をつかれるとしたら、それは「一種の洗礼と思うべきだ。二度と騙されないように自分の弱点を克服することが、嘘をついた者に対する返礼である」(161頁)というのも味わい深い台詞です。若いときはただうそつきを憎んでいただけでしたし、今でも嘘つきは嫌いですが、こういう風に自己の成長のバネとすることができればたいしたものです。
 ほかに印象に残った台詞には、
「我慢しなければならないときは、とにかく根太が腐るほど耐えることだ」(174頁)という一方で、「自らの人格を不当に傷つけるような重大な非難には、断固として反撃する必要がある」(175頁)とも言っているところです。別に矛盾ではありません。これこそ喧嘩の達人の言葉です。実際、大学や官庁などによくいるあの人をナメて図に乗るバカたちには一撃をお見舞いしてやらないとわかりませんから。もちろん、一撃といってもそういう気合いの問題ですけどね、念のため。

(講談社2000年1,300円税別)

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2009年9月13日 (日)

三井秀樹『かたちの日本美 和のデザイン学』

 日本の浮世絵がフランスの印象派に与えた影響は有名ですが、著者によれば、アールヌーボーからアールデコへの流れにも強い影響を与えているそうです。そう言われてみれば、ロートレックのポスターはもとより、クリムトの装飾的な絵画の大胆な余白は、確かに浮世絵の影響のようにも見えてきます(その点ではパリ万博の影響も論じるべきでしょうけれど、これは触れられていませんでした)。
 また、日本文化のバウハウスへの影響も論じられていますが、これはあまり記述が具体的ではなくてちょっと残念です。全体に理屈よりも事実を重ねていく書き方なので、実証的な資料が手薄なところは雰囲気に流れてしまいます。でも、そうだとしたらやはり面白いと思います。近代デザインは浮世絵をはじめとした日本文化の影響の下に出発したということになるからです。あんまり極端に愛国的な学説は昔のルイセンコ学説みたいになりますが、実証できればこれはすごいことです。
 著者は単なるエキゾチックな魅力だけで日本文化が世界に影響を与えるに至ったとは考えていません。そこには「自然を真摯に見つめ、そこから美の造形原理を見出した私たち日本人の先見の明」(93頁)があったからだとしています。自然を抽象化し、何かを自然に見立てたりするといった独特のアプローチの中には黄金比も含まれているそうですので、西洋とは違いはしても、これも普遍的な美だったわけです。
 そうでしょうね。そうでなければ世界に広がりませんから。
 そういう著者ですから最近のアニメ文化の「クールジャパン」にも肯定的です。そうしてみると、あれは現代の浮世絵なのかもしれません。浮世絵は春画で広がったというようなことは上品な本書では触れられていませんが、その点でも、エロアニメというのが対応しているようです。「萌え~」なんて嫌いなことばですが、これもすでに世界に広がっているのかもしれません。

*179頁に「なんとも体たらくな有様だったのである」という表現がありますが、これはどうにかならないでしょうか。デザインの先生だから仕方ないですが、編集を通ること自体が不思議です。

(日本放送協会2008年920円+税)

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2009年9月12日 (土)

松永勝彦『森が消えれば海も死ぬ 陸と海を結ぶ生態学』

 昨日読んだ本と同じ動機で手にしましたが、本書は生態学的な視点に加えて化学的なアプローチを試みているところに特徴があります。特に鉄(フルボ酸鉄)が海洋光合成生物の生成に大きな影響を与えていることが強調されています。これは森林から川を経て海へと流れてくるわけですから、漁場が近海にできることを科学的に裏付けています。
 また、二酸化炭素をプランクトンや昆布の中に固定するというアイデアも面白いと思います。ただ、全体にしばしば推測に頼って断定できていない事実も多いので、今ひとつ押しの弱い印象のある本です。
 1993年初版の本なので、データや技術の発展具合もちょっと今とはずれているところがあるようです。二酸化炭素の固定についても今日ではさらにいろいろな技術が開発されているかもしれません。地球温暖化についても当時の議論を鵜呑みにしているところがあって今ではちょっと書き直した方がいいような感じです。
 しかし、自然石を利用した護岸工事や、河川の水質に変化を起こさせないダムについては、写真付で解説されていて有益です。すでにわずかながら実現していたのですね。1993年にこういう状況だったとしたら、今はどうなのか知りたいところです。本書で触れられていた宮城県の「牡蠣の森を慕う会」による植林等の林保全活動は、先日にも新聞で取り挙げられていました。他の事がらについてもデータが揃ってきているのではないでしょうか。
 というわけで近年の状況を踏まえた改訂版を出してもらえたら嬉しいですね。

(講談社1993年820円税別)

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2009年9月11日 (金)

長崎福三『システムとしての〈森-川-海〉 魚付林の視点から』

 大学主催の市民向け連続講座「木を活かし森と生きる」が先週から始まりましたが、その中で森林組合見学バスツアーのガイドをやる羽目になってしまいました。そこで、あらためて森林や環境の問題を考えるための資料を揃えているところです。
 本書の副題にある魚付林(うおつきりん)というのはその中のテーマの一つです。漁師が植樹をしたり、森林管理をすることは江戸時代までは伝統的に意識されてきたことだったのですが、明治時代以降の急速な近代化の中でないがしろにされてきました。本書はそのあたりの歴史的沿革も含めて森と川と海を一体となったシステムとしてとらえる視点を提供してくれます。明治時代以降の森林政策の愚かさもよくわかります。
 やっぱり官僚はその始まりからわが国をダメにしてきたようです。戦後すぐの官僚は優秀だったとかいうのは全部神話ですね。明治時代以降官僚として登場してからは、今までずっと同じ調子で仕事をしてきたはずです。かつての日本人は科挙を取り入れないという優れた見識を示していたのに、やはりこれはパンドラの箱だったんですね。戦後の森林行政なんかでたらめの極致です。森も海も川も荒れるはずです。これが侍だったら腹を切るところですが、官僚は人(民間)のせいにして天下りします。
 ところで、現在は農林水産省ですが、このお役所がばらばらだった頃は森と川と海が一体だという発想すら消えかけていて、本格的研究が進んでいなかったようですが、その理由はわかる気がします。お役所が研究費や予算を出してくれないテーマには学者という魚は群がってこないのです。
 それはともかく、本書では森から流れ出てくる栄養豊かな水が魚を育てているということがはっきりわかります。乱伐をすると漁場が消えてしまうのです。魚付林というのもそのことで、岩場のぎりぎりのところまで鬱そうと木が生い茂っていると、日陰ができて魚が集まるということも言われますが、何よりそこから流れ出るミネラルや有機物をふんだんに含む水がプランクトンのえさになるとともに魚の栄養になっているのです。そして、その意味ではすべての森が魚付林だといういうことにもなります。
 本書は実証データがたくさん載っているので、バスの中で配付する資料を作るのにも役立ちそうです。いい本を見つけたものです。

(農山漁村文化協会1998年1,857円+税)

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2009年9月10日 (木)

中村紘子『ピアニストという蛮族がいる』

 文章がうまいですね。優れた演奏家には文章にもいいリズム感があるように思いますが、著者も例外ではありません。読み物としての構成もそのツボを心得たもので、挿話や余談が実にうまく配置されています。話題によっては歴史家的な語りもあって、笑いあり涙ありと見事なものです。これは音楽を聴かせるのと同じ要領なのかもしれません。
 それにしても「蛮族」とはよく言ったもので、歴史に残る名ピアニストたちの奇人変人ぶりが、これでもかというくらい描かれています。また、ピアニストだけでなく、人脈が歴史上の著名な人物につながっているのも面白いところです。
 わが国で最初の女性ピアニスト幸田延が露伴の妹だったとか、ロンドンの音楽アカデミーの校長で音楽霊媒の研究もしていたロイドウェッバーはあのミュージカルの作曲家アンドリューの父君だったとか、へぇーという話がてんこ盛りです。ほかにも、森茉莉やキューリー夫人も登場します。音楽家だけしか出てこないと思っていた世界がさっと広がります。
 中でもウィーンで自らの命を絶った久野久という女性ピアニストの生涯は、あまりにも悲惨で忘れられません。明治時代における日本人の、それも女性ピアニストの西洋音楽との格闘が並大抵のことではなかったことがよくわかります。なにしろ音楽は聴いたらわかってしまいます。誰よりもヘボい演奏をしている本人が一番身にこたえます。
 そういうのがわからなくてすむのが哲学・思想の翻訳で、紹介しているうちに本家よりも自分のほうが偉いような錯覚に陥るわが国の(特に文科系)インテリも少なくないのですが、音楽のようにはっきりと自覚できる人が少ないのが残念です。本当は聡明な読者にはわかっているのですが(これは音楽と同じ)、バカがますます増長するという例をたくさん見てきました。
 思えば、翻訳というのは音楽家のように名演奏家に対して自分の演奏で応じているのとは違います。相手が考えていることに対してこちらも考えることで応じるなら哲学ですが、その辺の違いをわきまえないのがまさにバカのバカたるゆえんです。洋行帰りの輸入業者が大きな顔をするのは、わが国のおそらく始まりの頃から綿々と続いてきた舶来品崇拝の風潮のおかげでしょう。
 新しくて良いものはつねに外国にあるという一種の信仰ですね。ただ、これをさらに改良してがんばろうとするのは、日本人の元気の源ともなってきたので、もちろん一概には否定できません。無数のバカの中にわずかでも本物の天才が混じっていれば、結局イチローみたいに世界レベルになるわけですから、まあ、これはこれでいいことにしておきましょう。
 ただ、大学みたいな狭い世界で威張るのはやめてほしいものです。人間としての出来がお粗末すぎます。メジャーリーガー対草野球のエースみたいなことになってんですけど、わかってないのは本人様だけです。
 やはりその点でも音楽家は立派です。世界で勝負している人がたくさんいますもんね。

*246頁に「弱冠十九歳」という表現がありますが、文藝春秋社でもこれを編集が通してしまうんですね。ちょっと驚きです。文庫版では直っているでしょうか。

(文藝春秋1992年1400円)

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2009年9月 9日 (水)

三浦朱門『たそがれ男と冬枯れ女』

 著者のエッセーはいつも楽しませてくれますが、単純なエッセーではなく、描写に妙にリアリティーがあるのが特徴だということに、本書を読んではじめて気づかされました。もともと小説家ですから当然かもしれませんが、半端な筆力ではありません。説教臭くなく本当のことをさらっと書けるのはさすがです。
 そんな著者が老夫婦の生き方を指南をしてくれるわけですから、何だかわが身の来し方行く末にも思いを馳せずにはいられません。知らない男女が結婚して家庭を持ち、子どもも家を出てしまってからどうするのかということですが、いずれにしても最後に老夫婦がお互いに元気でいられるのは幸せなことです。
 私の母が癌で亡くなったあと、父が「戦友みたいな存在だった」と言っていましたが、長年連れ添うとそんな感じになってくるのでしょう。著者も男が一人で残されたときに備えて家事を少しずつできるようにしておくといいと書いていますが、父はこれを実践しています。
 本書には三浦家の事情もときおり述べられています。息子さんを名古屋の大学に送り出したとき、奥さんが涙ぐんでいたとか、その息子さんのお子さん、つまりお孫さんももう大学生になったとか、時の流れを感じます。奥さんの曾野綾子さんは最近はペットボトルのふたが開けられなくなったとも書かれています。奥さんも相変わらずの健筆ぶりですが、やはりそれなりに筋力は衰えてきているのですね。
 そういえば息子さんの勤める兵庫県の大学が募集停止になったという報道がありましたが、著者もさぞかしご心配でしょう。1926年生まれの著者ですから、今年で83歳ですか。肝っ玉の据わった人ですから大丈夫でしょうけれど、なかなか静かで穏やかな老後とはいかないようです。

(株式会社サンガ2005年1500円+税)

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橋爪大三郎『はじめての言語ゲーム』

 ヴィトゲンシュタインの本は大学院時代に『論理哲学論考』を原書で読んで、割と最近『哲学探究』を読んだところです。解説書はまったく読んだことがなかったので、本書がはじめての解説書です。
 ヴィトゲンシュタインの生涯と業績を丸ごととらえて適切な解説がほどこされています。単なる解説書ではなく、著者の思想形成にも大きな影響があったことがあらためてわかり、橋爪大三郎のこれまでの仕事の位置づけもわかるようになっています。なるほどこういう具合につながっていたのか、と読者としては二重の楽しみがえられます。
 そもそも私はヴィトゲンシュタインに関しては長い間『論理哲学論考』の印象だけでやり過ごしていたので、「言語ゲーム」の重要性を教えられたのは著者のいくつかの著作を通じてのことでした。
 だから、著者が以前からポストモダニズムに批判的だったのは知っていましたが、著者による言語ゲームの理解がポストモダニズム思想のような価値相対主義に陥らずに、意味と価値の生まれる土台を記述し研究する方向に行くというのは深く納得がいきます。
 ちなみにこの著者の立場が山本七平の比較文化論的考察のそれと結果的に近くなるのは面白いと思いました。それは世の中の人びとが疑問を抱かずに行なっている行動=事実を把握し、その根拠をことばにすることで、文化の軛から少し自由になるとともに、その行動に新たな試みを加えていくことが可能になるというものです。
 思えば著者の師匠の小室直樹は山本七平の影響を強く受けていますから、ぐるっと一周した感じがしますが、そうした考え方が「言語ゲーム」と相性がいいとは気がつきませんでした。しかし、そもそも人びとがそれと気づかずに当たり前のこととして行為しているというのが言語ゲームなのですから、当然といえば当然ですね。
 法哲学者のハートのことや、イスラム教や大乗仏教のことも著者の他の著作ではおなじみですが、ここであらためて整理されてみると、全部見事につながってきます。もちろん思想家といっても一人の人の考えですからどこかでつながっているのが当然でしょうけれど、大家ほど前期中期後期と分けられるのが世の習いのようになっています。
 こういうのは研究の便宜上そうなっているだけでも、大学院生なんかが「後期ヴィトゲンシュタインをやっています」とか言うと、周囲の人だけでなく本人も安心したりするわけです。ひょっとしてわが国の哲学プロパーの人たちには「みんな自分で考えることだけはやめておきましょうね」という暗黙の了解があるのかもしれません。
 その点さすがに著者は只者ではありません。本書では前期も後期も一貫して考え続けたヴィトゲンシュタインの姿を浮き彫りにしていて見事です。著者はヴィトゲンシュタインが、『論考』に不完全なところがあって、「語りえぬことについては、沈黙しなければならない」という命題が無効になったので、「じゃあ哲学を続けられる」(99頁)という具合に解しています。ヴィトゲンシュタインがこうして言語ゲームへと近づき始めると説明されると、確かに前期後期もすんなりとつながります。なるほど。
 ヴィトゲンシュタインに影響を与えた書物としてトルストイの『要約福音書』が挙げられていたので、最後の著作である『確実性について』と併せて読んでみるつもりです。

(講談社現代新書2009年760円税別) 

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2009年9月 7日 (月)

長谷川慶太郎『超「格差拡大」の時代』

 少し前の本ですが、貴重な情報が含まれていました。2005年のニューヨーク大停電を受けて成立した「エネルギー産業再建基本法」は発議されてから上下両院を通過するのに一週間しかかかっていないということです。わが国では考えられないことですが、このスピードは行政よりも政治が圧倒的優位に立つアメリカ社会だからこそ可能なことなのでしょう。こういうのっていかにも狩猟民族だなあって感じがします。
 2005年当時は小泉政権の最後の時期で本書の題名にあるような「格差拡大」の時代であったことも確かで、アメリカ経済の好調ぶりも目立っていましたが、この当時のアメリカ金融市場では、金融商品の供給不足が目立ち、だぶついた資金の行き場がなく、住宅債権に向かわざるをえなくなっているということにも触れられています(126頁)。
 後から思えばこれがバブルの前兆だったというか、その直接の原因を作ったものでしたが、さすがにそこまでは著者も見通してはいません。むしろ、1987年の著書『投機の時代』でバブルを煽ったとして批判を受けたことに対する弁解が述べられています(155-156頁)。本当にそうかどうかを確かめるためには『投機の時代』を読めばいいのかということがわかりました。探して読んでみます。
 それで、結局のところ、価格破壊の時代から抜け出すことができるのはわが国の誇る技術力のみだという主張は十分納得がいきます。それしかないですからね。技術の話は著者が現場に行って確かめてきたことなので浮わついていません。日本周辺の海域に大量に眠っているメタン・ハイドレードや、世界中にある天然ガスを利用可能にする技術力があれば、世界をリードできることは間違いありません。トヨタ1社で韓国一国と同じくらいのお金を技術開発につぎ込んでいるくらいですから、近いうちに何かが出てくることでしょう。
 本書には出てきませんが、町工場の職人岡野雅行氏は水で走る車を開発中ですし、新技術は世界を明るくしてくれます。石油を巡って国家間が権謀術数の限りを尽くすなんてえのがばからしくなるといいですね。

(東洋経済新報社2006年1500円+税)

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2009年9月 6日 (日)

高山正之『世界は腹黒い 異見自在』

 これはすごい本です。現在は「週刊新潮」に「変見自在」を連載中の著者ですが、それ以前の1998年から2003年まで産経新聞の夕刊一面に載せていたコラムを集めたのが本書です。こちらのほうが字数に余裕があるようで、東チモールやミャンマー、あるいはイランの歴史的政治的情勢がよくわかります。分量も上下二段組み384ページと最近の新潮社から出ているほんの3倍くらいあります。普段から辞書的に使いたいので、これからいつも机上に置いておくつもりです。
 それにしてもよくもまあここまで現地に足を運び、取材を重ね、当事者に直接話を聞き、ときにはランパブのお姉ちゃんにも話を聞いたりもして、すごいですね。また、アメリカの上院議会報告書などまで丹念に目を通して、学者顔負けの文献処理能力があります。こういう人こそ本当に真のジャーナリストだと思います。
 今は産経新聞もほとんど面白い記事が載らなくなりました。こんなプロ中のプロのような記者がいなくなってしまったのかもしれません。みんな記者クラブで談合しては同じ話を載せています。朝日とは方向は違いますが、記事がつまらなくなってきた時期は朝日と同じころからだったかもしれません。
 産経新聞はここ何年も反民主党あるいは反小沢キャンペーンを張っていて、その情報の操作手法だけでなく、口調までもが実は朝日とそっくりになってきました。特に選挙後は新政権に対してやたらとあてこすったような口調が目立ち、右翼版朝日新聞です。
 しかし、朝日も産経も、また政治家よりも政治力のあるあのナベツネのいる読売も本当はみんな利権談合体質なので、役人や政治家を笑えません。何よりわが国をだめにしてきた官僚制に自ら絡めとられているからです。実際、組織に自浄能力がなさそうなところは官僚組織と共通しています。
 著者に続いて今後若くて気骨のあるジャーナリストが新聞社から育ってこないようであれば、この業界はおしまいでしょう。朝日なんか本社の記者だけで1500人を抱えているそうですから、人件費がバカにならないでしょう。下手をすると大学よりも崩壊が早いかもしれません。

(高木書房2005年1800円+税)

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2009年9月 3日 (木)

小坂貴志『異文化コミュニケーションのA to Z』

 「異文化コミュニケーション」のテキストとしてはうまくできています。とりわけ、ふんだんに収録されたコミュニケーションにまつわる小事件(インシデント)が有益です。学生に読ませて意見を言ってもらうのに便利です。
 また、理論面もわかりやすい例を出してコンパクトに解説されていて、無味乾燥な読み物とならないような工夫がされています。このあたりのサービス精神の見事さには著者のアメリカ留学での経験なども生かされているのでしょう。滞米生活13年ということですし。
 ただ、この分野というのはアメリカの研究者がやはり一番多いと思いますが、とにかく目立とうとして、どうでもいいような些細なことを個人の名前を冠しただれそれ理論という風に打ち出すのが好きみたいです。読みながらついつい笑ってしまいます。
 著者は素直でいい人らしく、そうしたことに対して批判めいたことは一切書いていませんが、門外漢の普通の読者なら、著者のことはさておき、この分野に支配的な俗物性にさぞかし驚かされるのではないでしょうか。まあ、大学や学会では普通のことですけど。みんな裸の王様なのです。その王様もしばしば暴君だったりして臣下は苦労していますが、いずれは自分も王様になるのだから我慢できない苦労ではないのでしょう。
 著者はその俗物凡人たちの掃き溜めの中でまじめに学究生活を送られているようで、頭が下がります。私には耐えられない世界です。耐えられるようなら違った人生が開けていたかもしれませんが、若いころはつい批判してしまって煙たがられたり、恨まれたりしてきました。
 最近はさすがに多少は学習したのか、正面からぶつかるなんて無謀なことをするよりは、危うきに近寄らずということにしていますが、決して君子になったわけではありません。むしろ加齢に由来する行動パターンでしょう。

 そんなことより、ともかく著者にはいい教科書を出していただいて助かりました。地獄に仏とはこのことかも。これで少しは楽しい授業ができそうな気がします。

(研究社2007年2,200円+税)

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2009年9月 2日 (水)

内村鑑三著・鈴木範久訳『代表的日本人』

 先日ブダペストでハンガリー人の恩師の一人と話をしていて、英語の著書があると便利だろうなと痛感しました。そこで、帰国後直ちに英語による著書出版プロジェクトをスタートさせました。というのは冗談ですが、このところ毎日英作文を勉強しなおしているところです。
 実際に英語の本を自費出版しても日本の十分の一以下の経費ですむとは、アメリカに住む日本人女性研究者の話です。現に彼女のアメリカ人のご主人は哲学の本を何冊か出版されています。原稿さえ揃えば(そこが問題ですが)本を作ること自体は夢物語ではないようです。

 本書は内村鑑三が外国人向けに書いたわが国の偉人伝の翻訳です。外国人向けの書き方がところどころうかがえますが、平易な語り口でありながら、情熱的で濃い内容の本です。確か、クリントン元大統領が本書で上杉鷹山を知り、感銘を受けたと聞いたことがあります。まあ、リップサービスでしょうが、鷹山は実際、クリントンよりもはるかに立派な人物です。鷹山だったらあのいかにも汚い対日企業訴訟の音頭をとったりはしなかったでしょう。
 鷹山以外にも、西郷隆盛、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人と世界の偉人にひけをとらない人たちが紹介されています。個人的には二宮尊徳の言動に強く惹かれました。紹介されている尊徳の言葉にこうあります。
 「国が飢饉をむかえ、倉庫は空になり、民の食べるものがない。この責任は、知者以外にないではありませんか。その者は天民を託されているのです。民を善に導き、悪から遠ざけ、安心して生活できるようにすることが、与えられた使命ではありませんか。その職務の報酬として高禄を食み、自分の家族を養い、一家の安全な暮らしがあるのであります。ところが今や、民が飢饉におちいっているのに、自分には責任はないなどと考えています。諸氏よ、これほど嘆かわしいことを天下に知りません。この時にあたり、よく救済策を講じることができればよし、もしできないばあいには、知者は天に対して自己の罪を認め、自ら進んで食を断ち、死すべきであります!ついで配下の大夫、郡奉行、大寒も同じく食を断って死すべきであります。その人々もまた職務を怠り、民に死と苦しみをもたらしたからであります。」(103-104頁)
 こうして進んで犠牲になることで人々に道徳的影響を残すことの効果がこの先論じられますが、このあたりの記述は誰よりもまず役人連中に読んでもらいたいところです。二宮尊徳像が今日全国の小学校からなくなってしまったのは、校長以下先生たちがこぞって役人化してしまったからかもしれません。
 いい本です。原書を探して外国人の友達にプレゼントするといいかもしれません。ただ、翻訳について一点、原書の雰囲気を大事にするつもりかもしれませんが、単位をマイルとかエーカーのままにしておくのは困ります。尺貫法にする必要はありませんが、岩波書店は昔からメートル法を推進する立場ではなかったんですかね。

(岩波文庫1995年500円+税)

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2009年9月 1日 (火)

日下公人・高山正之『アメリカはどれほどひどい国か』

 タイトル通りの本ですが、他では読めない話がたくさん書かれています。
 高山氏の情報は教科書では絶対にお目にかかれないもので、いつ読んでも驚かされます。よくもまあこれだけ調べ上げたなと感心させられます。昔の日本人は欧米の奴隷制を心から侮蔑していたのに、今では「昔の日本人が持っていた素朴で迷いない批評眼」(高山氏)を失ったようです。特に親米保守のインテリはそうで、つねに両者の言論を苦々しく思っていることでしょう。へーっと思わされたことをいくつか列挙してみます。
・独立宣言の起草者ジェファーソンはサリー・ヘミングという黒人奴隷を所有し、子を孕ませている。その口で「人は等しく創られた」とはよく言ったものだ。
・10年ほど前のダボス会議でアメリカ通商代表のミッキー・カンターは酔っぱらって二階から落ちて翌日の会議を休んだことがある。サミットではサルコジ大統領も酔っぱらった前科があり、エリツィンなんかは泥酔の常習犯だったが、日本の報道陣は報道しない。他方で、中川昭一は会議にはちゃんと出ていましたが、泥酔記者会見のために袋だたきに遭い、今回は落選までしちゃいました。
・リンカーンは奴隷廃止宣言と同じ頃にダコタ族の討伐命令を出し、処刑まで命じている。
・田母神空幕長が解任されたのは守屋次官の後任の増田好平次官に楯突いて報復されたため。わが国の官僚の陰湿さはその道の伝統のある中国にも決して負けていない。
 といった感じです。
 また、日下氏の「日本は孤立しても困らない」という議論は説得力があります。しかし、この栄光ある孤立の道を選ぶことのできるような甲斐性のある政治家は、何度政権交代しても、なかなか出てきそうにありません。

(PHP研究所2009年952円税別)

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豊田有恒『蘇る古代史 歴史は嘘をつく』

 著者の縄文人に対する思い入れがたくさん詰まった本です。三内丸山古墳の規模などを見ると、縄文文化がいかに発展していたかが偲ばれます。何年か前に仙台市の歴史博物館の展示を見たとき、そこにあったユニークな縄文式土器の美しさに思わず息を呑んだ記憶があります。東北地方の文化の基底にはとんでもなくユニークで美しいものが潜んでいるのではないでしょうか。
 それにもかかわらず、今日の歴史教科書の記述にも縄文文化のすばらしさがあまり反映されていなくてがっかりさせられます。まあ、教科書を執筆する学者は斯界の権威ですから、安全第一で行くのでしょうが、ときには不勉強な人もいて、テキトーなことを書いて批判されることもあります。権威と言っても学閥の継承者というだけのことだったりしますから、そんなことがあっても不思議ではありません。
 しかし、さすがに著者はそんな学者とは違って、SF作家らしく、様々な想像を巡らせながらも説得的に当時の状況を論じています。話があっちこっち飛ぶのもまた面白くて、その脱線にも貴重な情報が含まれていたりします。これは口述筆記なのかという気がするくらいの脱線ぶりなのですが、だからといってそれで価値を下げるというわけではありません。
 学校で話の上手な先生の脱線を期待しながら聴いていたころを思い出します。昔は猫が7歳を過ぎると一酸化炭素の感知能力が弱るせか、決まって掘り炬燵の中で死んでいたというような話が本書に出てきますが、結構こんなことをいつまでも覚えていたりするものです。
 本書で触れられている丹後国風土記の浦の嶋子伝説は浦島太郎の原型とされる話ですが、これは本当に驚くべき話で、浦島太郎を相対性理論で解説するなんてのはありますが、もっととんでもない想像力です。著者絶賛ですが、そうでしょうね。筋書きだけでもびっくりです。これはいつか現物を読んでみましょう。
 著者は江上波夫の騎馬民族説を縄文文化の展開として支持したいようです。狩猟採集民族が騎馬民族になるのは自然の成り行きなので、わかる気がしますが、渡来してきたのは弥生人のようなので、あれ、と思わされます。ま、いろんな想像ができますし、そこが面白いところです。
 いずれにしても、縄文文化のことがわかってくると、日本文化の古層が明らかになるだけでなく、日本人の潜在的な可能性も開かれるような気がします。稲作農耕民族の単一文化という教科書的あるいはイデオロギー的な思い込みが事実とはまったく異なるということが、もっとはっきりしてくるといいと思います。

(青春出版社1997年840円+税)

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