内田樹『下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち』
大学の教壇に立つと、もうずいぶん昔から「おまえの話なんか聴いてやるもんか」という態度の学生が少なからずいます。今年はさすがに事務職との兼任が不可能な勤務状況になってきて、通学部の学生の講義は遠慮させてもらったので、久しぶりにこの点でいやな思いをせずにすんでいます。
まあ、この手の学生は以前からいましたが、最近は本当に学力が下がってしまって、分数計算ができず、中学1年程度の英語がわからなくてもどこかの大学生になれてしまいます。それでいて俺様的なプライドが異様に高くなっているので大変なのです。
著者はこの原因を物心ついたときにすでに一消費者として全能感を備えた自己を完成させてしまっているところに求めています。つまり、私が出すお金に見合ったサービスなんて期待してないからね、という態度で「さあ、これから値切るぞ」(61頁)という意志の表明なのです。教師に対して「せいぜい十パーセント程度の集中はしてやらないでもないけれど、それ以上は期待するなよ」(同頁)というメッセージを不快さという形で全身で表明しているわけです。
これは本当にそうですね。本当にうまく説明してくれています。彼らは努力して不快を表明し、意図的に授業に集中しないことで努力して学力を下げてきたわけです。授業は彼らにとって不快さとの等価交換だったのです。だから休まずに出てきては不快感を義務のように表明し続けるわけです。
思えば家庭で父親は疲労感と不快感を全開にし、妻もその不快に耐えることを代償としてとらえ、不快感を表出する競争をすることで利益を得るという行動パターンが支配的になります。自分は被害者だというスタンスを先取りすると対価を得られるというゲームのルールを覚えた子どもたちは、学校に上がる前からクレーマー的な態度を身につけているわけですから、これは手の施しようがありません。
もうかれこれ20年以上前になりますが、当時幼稚園の先生をしていた友人が「これからの学校の先生は大変よ」と予言していたのもこの事実を裏付けていたのだと思います。以前勤めていた学習塾で数学の苦手な子に授業の様子を聞いたら「数学の時間はいつも教室の後ろでリフティングをしている」と言っていました。
リフティングってあのサッカーボールを地面に落とさないように蹴り続けるあれです。その子がちょうどその先生が予言した世代の子どもたちの一人でしたが、その世代以降の学生を大学で面倒を見るようになると、これ、偏差値の高低にかかわらず授業に集中しないことを義務でも果たすかのように熱心に行なう学生というのが少なからずいることがわかりました。
市場原理に基づく自分探しとか自己責任という文科相の教育方針が浸透すると、あまりにも早くから消費者として自己を確立させたモンスターたちが生まれてしまうわけです。問題は学力が低下するだけでなく、仕事にも適応できず、自分の選択だけにこだわってニートになったりしていくという自己決定フェティシズムに陥ってしまうことです。
こうしてみると、この問題はマルクス主義とフロイトの思考の枠組みを用いてうまく説明ができることが少なくないようで、中でもマルクスの等価交換は時間を勘定に入れられないという指摘は重要で、著者の「学びは市場原理によっては基礎づけることができない」(70頁)という言葉はよく噛みしめる必要があります。
著者によれば、「自分が何を学んでいるのか知らず、その価値や意味や有用性を言えないという当の事実こそが学びを動機づけている」(74頁)のです。学ぶ主体は等価交換の主体と違って学ぶ過程で今までとはまったく違う何ものかに変化ないしは成長するからです。結局教育において等価交換にこだわると、学び手は外界の変化に対応する能力が身につかないという状況に陥るわけです。なるほどこれではお互いに不愉快なだけではなく、不幸になるわけです。
著者は「何のために勉強するのか、何の役に立つのか」という功利的な問いを支えているのは幼い時分に消費主体として自己を確立してしまった人間の自己決定・自己責任論だということをお見通しです。自己決定することがよいことだとする結果として、弱者は実際には「捨て値で未来を売り払っている」(91頁)と言います。慧眼です。
(講談社文庫2009年524円税別)
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