太宰治『津軽』
太宰治の自分探しの旅です。いい話です。最後に自分が3歳の頃に面倒を見てくれた使用人たけに会いに行くところなんかは、こちらもどきどきはらはらさせられます。いろんなところでいろんな人に歓待を受け、へろへろに酔っぱらいながら、人びとを観察し、同時に昔の自分を少しずつ確認していきます。フロイト的無意識への旅という風にも読めるかもしれません。まあ、そんなことはどうでもいいのですが、人間は記憶でできているので、やはり過去はおろそかにはできません。
ところで大学のときに青森出身の友人がいましたが、ジャズファンで温厚なロマンチストでした。スイングジャーナルに投稿して採用されたりしていましたが、作家になろうというのでもなく、卒業を延期してまでも武田泰淳についての卒論に取り組んでいました。大学を卒業したら可愛らしい恋人を連れて青森に帰ってしまいましたが、今頃どうしているのでしょう。
当時は文学部の友人は彼に限らず、いい論文を書くために留年するなんて珍しくなかったもので、文学や歴史を好きだからやっているという一途な猛者たちが少なくありませんでしたが、今どきの実学志向の学生たちからすると、さしずめ宇宙人みたいに見えるかもしれません。
この作品の登場人物たちも、そこはかとなくその友人と、よく彼の部屋に遊びに来ていた同郷の友人たちの面影を感じさせるような気がします。みんな一様におとなしくのんびりしていて酒好きで、実にいい感じの人たちでした。東京で何かにつけて人をすぐに見下そうと待ち構えている視線の中で暮らしていると、その青森県人会さながらのアパートの部屋は別世界でした。
太宰も元々その津軽で育ったのにもかかわらず、東京に出てきて小説なんか書くものだからずいぶんくたびれ果てていたのでしょう。でも、津軽に帰ってくるとやはり気持ちが穏やかになって、素直に安らぎを見つけている感じがします。
文章は太宰の軽妙なときのそれでいて、しかし調子に乗りすぎず、抑制がきいています。最後の台詞は「さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。」(232頁)です。いいでしょう。
でも、この文章は本当は本人が絶望の淵に近いところに立っていて、自分を励ましていたのかなあという気もします。絶望の淵とは実は私たちの日々の生活の延長線上にあるのですが、その向こう側に落っこちてしまった人だけに、「命あらば」という表現がちょっと哀しい気分にさせられます。このあたりもまたファンにはこたえられないのでしょうけれど。
(岩波文庫2004年500円+税)
| 固定リンク
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- ドイツ語で読む珠玉の短編(2026.06.23)
- 山本七平『小林秀雄の流儀』(2019.07.28)
- 田中圭一『うつヌケ うつトンネルを抜けた人たち』(2017.02.20)
- 天外伺朗『宇宙の根っこにつながる生き方 そのしくみを知れば人生が変わる』(2017.02.19)
- 柴田昌治『「できる人」が会社を滅ぼす』(2016.12.30)
この記事へのコメントは終了しました。


コメント