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2009年10月30日 (金)

カール・R・ポパー『果てしなき探求 知的自伝(上)』

 ポパーは科学の探究の論理としての帰納法を認めていません。自由な仮説の設定とその反証可能性を担保することこそが科学の論理であるという立場は強い説得力を持っています。
 ただ、実際の科学者たちはそこまで七面倒臭く考えてもいないのが実情でしょうから、ポパーがいくら理論的に正しくても、ポパーに従って科学的発見をしましたという学者は実際には現れてこないような気がします。
 言っていることは正論でも誰もついてこないとしたら、やはりどこかに問題があるのだろうと思います。実際、科学者にとっては、帰納法で十分とされているならラクなほうがいいやというの気持ちもあることでしょう。面倒くさいのは専門分野の話だけにとどめて、方法論などにうつつを抜かすのは無駄だと考えられても仕方ありません。
 この点でポパーは生前科学者たちから実は疎んじられていたのではないかという気がしてきました。他方で、ファイアアーベントなんかは、同業の科学哲学者たちからは蛇蝎のように嫌われていながら、現場の科学者たちからは結構面白がられていたのではないかとも思います。
 それはともかく、私自身は帰納法について考えているところなので、得るところはたくさんあります。ポパーの言うところは確かにもっともですが、帰納法の隙だらけのゆるい論理が結果的にうまくはたらいているのだとしたら、やはりそこには何らかの見所はあるのではないかというのが、私が今持っている考えです。
 まだ上巻までしか読んでいないので、下巻を読んでから作戦を練りたいと思いますが、まだ同時に注文したはずの下巻のほうは届いていません。実はつい間違って手に取ってしまったのがきっかけで読み始めたのでした。そうしたら、自伝的記述がいろいろと面白くてやめられなくなってしまいました。
 他方で、理屈の部分はあっさりしすぎている嫌いがありますが、いずれにしても著者は読者に自説に対する反証を自由に積み重ねながら読んでもらいたいと願っていることでしょう。とにかくユニークで愛すべき思想家であることは確かです。
 それにしても、著者の『探求の論理』は翻訳はないのでしたっけ。そっちを読まなきゃ話にならないような気がしてきました。

(岩波現代文庫2004年1000円+税)

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2009年10月29日 (木)

三苫民雄『法と道徳―正義のありか』

 という本を出しました。有志は買ってやってください。版元には迷惑をかけているもので・・・。近いうちに都内大手書店には並ぶ予定です。ネットでも大丈夫だと思います。
 本書では、正義は人びとの心の中にあるから厄介でもあり、また同時に希望もあるというようなことを書いたつもりです。弱者やネットワークの話にも触れています。ここ4~5年の法をめぐる考察をまとめたものですが、191頁中60頁くらいは書き下ろしです。
 自分で読み返してみると、要するに自分が読みたい本を書いていたのだということがわかります。本当はこれが読者が読みたい本かどうかということが問題なのですが、まだ修行が足りません。これではベストセラー作家にはなれませんね。要するに、今自分で考えている精一杯のところが書かれています。読者の皆さんには多少なりとも考えることの面白さが伝わればと願っています。
 実は本書はもう少し早く出したかったのですが、なかなか一冊ができるまでには時間がかかるものです。昨年末お亡くなりになった恩師のT先生には読んでいただきたかったのですが、残念です。
 もっとも、のんびりまとめた分だけ少しでも読みやすくなり、誤字脱字が減っているとしたら、それはすべて優秀な編集スタッフに恵まれたおかげです。その点では前作『人と人びとー規範の社会学』よりもずっと出来が良くなったと思っています。
 現在、私自身すでに次の問題に取り組んでいます。帰納法と科学的発見・発明の問題です。ポパーなんかにも言及せざるをえないようです。それはともかく、また徐々に書きためて、もっともっと面白いところに到達したいと思っています。

(日本出版制作センター2009年1,500円+税)

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2009年10月28日 (水)

橋本治『小林秀雄の恵み』

 小林秀雄の『本居宣長』が出た頃、私は大学の3年か4年だったと思いますが、今に至っても読んでいません。あの頃はとんでもないベストセラーでしたが、当時はベストセラーは読まないことにしていたので、手をつけませんでした。でも何だかとっても難解だということも聞いていたので、敬して遠ざけるという感じでした。
 当時は吉本隆明の『共同幻想論』や埴谷雄高の『死霊』も難しくて高級な感じがしていましたし、フランス現代思想もぼちぼち翻訳され始めていたので、何だかインテリと大衆との間にめちゃくちゃな開きがあるものだという幻想があったように思います。
 この点で橋本治はわからないものはどこの何がわからないのか、わかる点はとことんわかるということを徹底して考えて、きっちりと書いてくれる人なので、本当にありがたい人だと思います。
 本書でまず驚かされたのは次の比喩です。

 たとえて言えば、小林秀雄は私の親しい「じいちゃん」である。「また学校で、先生に怒られた! 友達に笑われた!」と言って帰ってくる孫の私に、「なんだ、そんなこと気にするでねェ。昔の人はな、こういうことしてたんだぞ」と言って、とんでもなく難解な例を持ち出して慰めてくれるー(183頁)

 そして、「じいちゃんの言うこと」を「じいちゃんの言うこと」として直視した著者は、「なに言ってんだよ、じいちゃん。じいちゃんの言うこと違ってんじゃねェかよ」と思うようになってしまったと言います。そして、「そんな考え方をせざるをえなかったじいちゃんの孤独を見てしまったのである」(184頁)ということで、著者は『本居宣長』の再点検をするわけです。
 小林秀雄の難解さにこうした文章でとことんつきあうのが著者のすごいところで、小林秀雄は明らかに美のポイントがわかっていた人ですが、じいちゃんから見たら孫に当たる橋本治もここを外していません。美がわかるということにおいて二人はあらゆるガクモンを敵に回し、共犯者のように連帯しているように見えます。
 本書は難解な『本居宣長』の注釈だけで終わってもいい本ですが、最後に小林秀雄の思想家としてのすごさが次のように書かれています。

 なにかを説くから「思想」なのではない。思索にとって必要なあり方を体現しているから「思想」なのである。小林秀雄は、彼を必要とした日本人に対して、そのようなあり方をしていた。小林秀雄は、彼を必要とした日本人にとって、仏だったのである(403頁)

 ここまで言葉を到達させるのが著者の畏るべきところです。いつも著者の本は丁寧にすべてを言い切ってくれますが、これは半端なくすごいと思いました。
 普段訳のわかりにくいものを書きがちな私にとっても、いろいろな意味で励ましてくれる本でした。私も彼らと連帯して、ガクモンやインテリを敵に回してがんばろうという気にさせられます。

(新潮社2007年1800円税別)

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2009年10月27日 (火)

『叢書 現代のメディアとジャーナリズム第8巻 メディア研究とジャーナリズム 21世紀の課題』

 お仕事用の本です。この巻は今年出たばかりで話題もずれていないので読んでいて退屈はしませんでした。全体に第1巻と比べて論文の執筆陣と翻訳者の日本語がしっかりしている印象です。
 内容としては、まずイギリスのメディア研究の歴史では、大学の研究者がその研究と言論を通じて実際の報道にも大きな影響を与えていることがわかり、感心させられました。
 他方、アメリカではメディア・リテラシーやオーディエンス研究など一見派手な流れがありそうですが、教育機関でメディア教育を修めた者に学位を与えているところが意外と少ないことに驚かされます。社会学や心理学の中で勝手にやればという感じなのかもしれませんが、そうしたアナーキーなところがまたアメリカ的なのかもしれません。
 古典的なコミュニケーション理論も、ポストモダンの思想家たちの言説も取り上げられていて目配りがいいと思いますが、それでも今日の情報化社会の、たとえばネットワーク理論などについては十分消化し切れていないように感じました。『ウィキノミクス』に登場するような、たとえばオープンソースの可能性などは取り上げてしかるべき話題だと思いますが、まだ出てきていません。
 後半のカルチュラル・スタディーズや言語コミュニケーション研究の歴史は個人的には割とおなじみの分野ですが、学説史的記述はアメリカのニューレフトとの関わりに光が当てられていて、面白かったです。
 それにしても、テレビも新聞もこれからどんどん飽きられて衰退していくのではないかという予感がします。少なくとも報道に関してはあまりにもバイアスがかかりすぎています。本当にいい情報はこれからはますます会員制の雑誌やメールマガジン、そして一部のウェブサイトを通じてしか得られなくなってくるのではないでしょうか。
 学問的に取り上げる前に対象が弱体化してしまうというようなことも考えておいた方がいいのかもしれません。

津金澤聡廣・武市英雄・渡部武達責任編集(ミネルヴァ書房2009年4,500円+税)

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2009年10月25日 (日)

ダーウィン『種の起源(下)』八杉龍一訳

 下巻まで読んでみても感想は変わりませんでした。新種が生まれるまでの諸変種の中間形態が見られないことについての弁明は繰り返して出てきます。地質学的記録が不完全だからだという言いぐさは無理がありますが、自説の弱点を隠さずに反論とともに検証しようとする姿勢は立派です。
 それにしても、自然の中で獲得された形質が次代に受け継がれるという論理にすれば簡単なのにと思いますが、それだとラマルクの理論と同じことになってまずかったのでしょう。気の遠くなるような長い年月の間に徐々に変種が現れて、それが他との競争に勝っていき残っていくという考えは、生まれるたびにちょっとずつ変わってくはずなので、結局獲得形質の遺伝を認めていることにならないかという疑問はぬぐえません。
 同じようなことを唱える人が本書の出版以前も以後もたくさんいた時代なので、ダーウィン自身他の人との差別化を図るのには相当苦労した感じがあります。生存競争という言葉も時代の雰囲気をとらえる標語を作るのに長けた哲学者のH・スペンサーがすでに述べていましたし。
 しかし、ダーウィンのこの書物が今でも魅力を持っているのは、少々難点のある立論でも、ともかく進化という現象を包括的体系的に捉えようとした最初の試みであり、ダーウィンの立論の背景にある直感と情熱に何か心動かされるものがあるからでしょう。実際、今も進化という謎の現象は解明されていませんし、ダーウィンの理論をリニューアルすれば使えそうな気がする、と感じている人は少なくないように思います。
 翻訳についてですが、翻訳者に独特の考えがあるらしく、動詞の多くがあえてひらがなで書かれているのです。これがしばしば弁慶が長刀式に読みにくなって往生しました。たとえば、あつまるとかのぼるとか、ちがうとかはこぶとか、もちつづけるとかほろぼすとか、みとめるとかうたがうとかです。こうやってわざと続けると本当に訳がわからなくなりますが、まだまだたくさんあります。数頁をめくってみるだけでも、すすむ、こころみる、うたがう、とらえる、ぞくするなど漢字で書いた方がわかりやすい言葉が頻出です。著者に速読を妨害しようとする意図があるとは思えませんが、結果として読むスピードが鈍るのは確かです。あー辛かった。

(岩波文庫1990年改版670円)

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2009年10月22日 (木)

ダーウィン『種の起源(上)』八杉龍一訳

 あまりにも有名な本ですが、ちゃんと読んだのはこれが初めてです。自然観察から自身の思想をじっくりと育て上げたという点では哲学者みたいな趣がある人です。アリの観察の細かい描写などを読むと、この人は本当に観察が好きな人だったのだなということがわかります。
 ダーウィンの理論は個々の生物がそれぞれ常に環境に対応しながら微妙な変化を続けていて、それが自然の中で淘汰されることで、新たな種となるというもので、種はそれぞれ個別に神によって作られたという当時の通念をひっくり返す大胆な発想でした。
 それ自体いろんな意味で画期的だったのですが、理論としては弱点もあります。本人自らが認めているように、微細な変化を重ねながら新たな種ができたとすると、自然選択によって滅びてしまった中間種というのがほとんど発見されていないのはどうしてなのかという批判です。
 そうした変種は数が少なくて発掘が難しいことをその理由にしていますが、これは実際今ではとんでもない変種が見つかって、これではとうてい生き延びられないだろうというようなばかでかい角を持つトナカイとか、どう見ても中間形態とはいえない化石が発見されていたりします。
 そんな話を聞くと、生物はどうやら徐々にどころか、あるときいきなり変な方向に変わって絶滅してしまうこともあるのかもと思えてきます。
 それはともかく、ダーウィンが微細な変化と新種の誕生を関係づけたのは、理論としては面白いところがありますが、実際には自然選択というのはあくまで結果であって、どうがんばっても原因にはなり得ないだろうと思います。今、理論としての面白さと言ったのは、この理論が微積分のような構造をしているからでしょう。
 また、自然選択というのは神の代わりに自然によって選ばれる決定論のようにも思えてきます。強者が弱者を滅ぼすというイメージは当時の植民地の状況でもあります。いずれにしても、自然とうものが科学の鎧を身に纏った神になったのが19世紀から20世紀にかけての世相ですから、D・H・ロレンスのような文学者はさぞかし苦々しく思っていたことでしょう。
 下巻を読んだらまた書きます。でもあまり書くことはないかもしれません。

(岩波文庫1990年改版720円)

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2009年10月21日 (水)

ヘルムート・プレスナー『ドイツロマン主義とファシズム 遅れてきた国民』松本道介訳

 最近松本道介の本を読んでいないなあと思いながら自宅の本棚を眺めていると、以前買っておいた本書が目に入ってきたので、この際あらためて読んでみることにしました。
 名著です。特に前半はドイツ人の著者によるドイツ文化論、ドイツ精神論として見事です。そこには自己省察と自己批判の苦しみを伴った勇気ある批評精神が息づいています。
 随所にへぇーっと思わされる指摘に満ちていますが、カトリック対啓蒙主義という緊張関係を経験していないドイツは、近代の道具立てがしっくりこず、常に「遅れてきた」感情を抱いてきたというところは、ハンガリーの思想家I・ビボーの主張とも重なっていて興味をひかれました。プロテスタンティズムからロマン主義という流れも、この啓蒙主義ショックから来ているというのは新鮮な指摘です。ビボーがプレスナーを読んでいたかどうかは調べておくつもりです。
 また、ドイツ人の立場からみると、第一次世界大戦後の民族自決運動の中で彼らだけがオーストリーと分断されたと感じていたことがわかりました。この視点は今までまったく気がつきませんでした。
 ところで、著者によればドイツになかったとされる啓蒙主義ですが、この思想というのは人間性に対する無条件の信頼(というより信仰)に支えられているので、宗教の代用品にもなりうる(もちろんあくまで代用品でしかない)のですが、何より人びとにそこはかとなく自信を与えるというはたらきがあるようです。
 よって、フランス人はもちろん、啓蒙主義を曲がりなりにも経験した国民は、全体にあまり根拠のない自信を持っているように見えます。ハンガリーやポーランドなんかはその部類に属するのではないでしょうか。
 というようなことはもちろん本書には書かれていませんが、そうした想像をもたらしてくれるような記述なのです。繰り返しも多く、整理された語り口ではありませんが、魅力的なところがあります。
 というわけで、本書で歴史と宗教の関わりから述べられることについてはかなり面白いと思いますが、どういうわけか、著者の本来の専門である哲学については、今ひとつ盛り上がりに欠けました。マルクスとキルケゴールのところはまだしも、カントとヘーゲルを論じたところは何について論じているのかがピンと来ずじまいでした。
 私自身カントもヘーゲルもそれなりに読んできたつもりですが、なんだか論じられている事柄が歴史や宗教のようにはしっくり来ないのでした。どうしてでしょうね。ドイツ人の思想家にとってカントとヘーゲルは重石のようなもので、何を考えていても常に思考の足かせになっていると聞いたことがありますが、著者にとってもそうなのかもしれません。
 翻訳者が言うように、著者のプレスナーは「自らの哲学(哲学的人間学)よりも、哲学史家あるいは精神史の批判的考察者としてその力量を発揮した人なのではないか」(365頁)との指摘が当たっているように思います。
 とはいえ本書が名著であることは間違いありません。前半部だけでも十分にショッキングな面白さが味わえます。読んでおいて損のない本であることは確かです。また、訳文と解説には松本道介らしい息づかいが感じられて、彼のエッセーのファンとしては嬉しい限りです。

(講談社学術文庫1995年1000円)

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2009年10月19日 (月)

『叢書 現代のメディアとジャーナリズム第1巻 グローバル社会とメディア』

 仕事上の必要から読みました。そんなことでもなかったら決して読まなかった本です。学者やジャーナリズム関係者たちの共著ですが、普通に楽しんで読めるような本ではありませんので、この手の問題に関心のある人以外にはおすすめできません。
 様々な分担執筆者による編集本ですが、おとなしい著者ばかりで、全体に権威と社会通念に寄りかかっているぬるーい本です。本書に限らずジャーナリズムやアカデミズムをめぐる一般的な社会通念というのは、
1 ジャーナリストはあらゆる権威を恐れず悪に立ち向かっていく正義漢である
2 学者は個々の事実認識が正確で、決していい加減なことを言わず、コメントを求めると、常に何か人びとのためになることを言ってくれる
 というもので、少しでもこの世界を知る人にとっては笑止千万なのですが、本書を読むとこういう通念が大間違いだということがわかってもらえるかもしれません。少しは面白い記事もないではないのですが、それぞれ名のある大学の先生や実務経験者たちが、個々の事件の確認をおろそかにしてつまらないことを述べてみたり、ろくでもない屑のようなジャーナリストを認めてみたりしています。
 ジャーナリズムをネタに食っている人たちなので、ぬるくなるのはしょうがないかもしれませんが、ガセネタばかり書いていて有名なクリストフ夫妻なんて、屑以下だと言ってやるべきでしょう。服部君射殺事件についても「『フリーズ』という言葉が理解できなかったのか、戸口まで近づきすぎて射殺されてしまう」(15頁)なんて書かれていて、もうちょっと調べればわざわざ呼びつけられて打たれたことがわかると思うのですが、遺族が気の毒です。
 なお、上野千鶴子の構築主義に関する発言が引いてあって、やくざの言いがかりみたいな虚仮威しの議論がポストモダン的に述べられているのに妙に感心させられました。さすがに本書の著者もそれには与していませんでした。この点はまともでした。
 全体に本書には異文化との共存共生というようないわば柱になるべき思想が明確に述べられていないことと、ジャーナリズムの現場の生々しさが抜け落ちていることが問題だと思います。そもそもジャーナリズムは正義を売り物にするという威張れないことをやっている業界です。そこをしっかりと見据えていないと、ついにきれいごとに終始することになるでしょう。お金と正義のバランスが難しい業界です。
 もっともこの本を読んだ目的は別のところにあるので、その意味では収穫というか、考えるヒントは得られました。まずはめでたしですが、このシリーズ全部で8巻をすべて読まなければならないのは、あまりうれしい仕事ではありません。

(武市英雄・原寿雄責任編集2003年3,500円+税)

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2009年10月17日 (土)

オストヴァルト『エネルギー』

 20世紀初頭のヨーロッパでエルンスト・マッハとともによく読まれていたのがこのオストヴァルトです。マッハが要素一元論であるのに対して、オストヴァルトはとりわけ晩年にエネルギー一元論とでもいうべき立場から様々な著作を発表していました。マッハは物理学で音速やマッハ帯にその名をとどめていますが、オストヴァルトもノーベル化学賞を1909年に受賞している当代随一の科学者でした。
 本書は1938年に出た岩波文庫の復刻版ですが、我が国では本当に昔からいろんな翻訳が出されていて感心します。オストヴァルトもほかにもう一冊くらい文庫があったと記憶しています。まあ、当時流行っていたということはあるのでしょうけれど、知的関心が高い読者層が存在しなければ翻訳が出されることもありえません。それでまた、その当時すでに哲学者の田辺元などが根本的な批判もしていたことが解題からは窺われます。
 オストヴァルトの一元論は物質も精神もすべてエネルギーに解消してしまうので、当時としても相当極端な立場だっただろうと思いますが、物質と精神を甚だしく区別しないという点ではマッハの立場に通じるところがあります。マッハもオストヴァルトも当時は実証主義でもあったので、当時の実証主義者は科学主義とは異なる神秘性に裏付けられていた感じがします。少なくとも科学的な手続きとしては実証的ですが、理屈はそんなに強くなくて、曖昧な神秘性を帯びています。彼らの科学的成果もまたそうした神秘的直感と無関係ではなかったのでしょうし、読者もそのあたりに惹かれるところがあったのだと思います。
 オストヴァルトが物質もエネルギーに解消してしまう根拠の一つが、当時登場したばかりのエントロピー増大理論にあることがわかったのは面白かったです。最近はあまりエントロピーで浮かれるインテリはいなくなりましたが、1980年代頃には結構流行っていましたし、エントロピーとネゲントロピーを取り違えて論じてK大の工学部の学生から指摘を受けていた山口昌男のような人も、今となっては懐かしい思い出の人になってしまいました。
 もっとも、さすがにオストヴァルトは科学者なのでエントロピーを放出エネルギーとして普通に理解しています。流行り物はすたり物といいますが、同じすたり物でもスケールはかなり違うようです。
 当時同じように流行っていたと言われているアヴェナリウスは翻訳はあるのでしょうか。今度探してみます。

(山県春次訳岩波文庫1938年1991年第10刷460円)

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2009年10月16日 (金)

橋爪大三郎『裁判員の教科書』

 今年同僚の経済学の先生が裁判員に指名されたそうなので、本当に他人事ではなくなってきました。本書は素人向けに懇切丁寧に書かれているので、裁判員が回ってきたとしてもうろたえずにすむことでしょう。一家に一冊常備薬のように置いておくといい本です。
 本書が一貫して主張しているのは、裁判員は「検察官が被告人の有罪を立証できたかどうか、検察官をチェックする」(227頁)ことが仕事だということです。要するに刑事裁判で裁かれるのは検察官であって、被告人ではないということなのです。
 これは裁判に無縁な人にとっては目からウロコではないかと思います。法律が誰に向かって書かれていて、裁判員は何を判断するのかという動きをつかんでいる社会学者ならではの視点です。法律には宛先があって、憲法は日本国民から国にあてたもの、刑法は裁判官にあてた命令、民法は民事裁判を行う裁判官にあてたもの、ということをはっきりと書いた法学の本はほとんどないように思います。
 ウィトゲンシュタイン~ハートの法のルール説を応用するとこういう見方になるんですね。この立場では法と道徳の分け方が簡単になります。伝統的な法哲学の議論ではどうなるかということものちほどゆっくり考えてみたいと思います。
 いずれにしても、裁判員になった人にとっても少し肩の荷が軽くなることでしょう。感情的にならずに検察官の主張を慎重に検討するということに集中すればいいからです。
 ただ、罪刑法定主義や法律の不遡及の原則についてはしっかり書かれていますが、どういうわけだか被告人の反対尋問権の保障については触れられていないので、そのあたりはどこかで補う必要があるように思います。もちろん著者自身に補ってもらうのが一番いいので、増補版が出るのを待ちたいと思います。

(ミネルヴァ書房2009年1,800円+税)

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2009年10月15日 (木)

八杉龍一編訳『ダーウィニズム論集』

 ダーウィンの『種の起源』登場後の様々な議論が手際よく編集された本です。当時の学問、思想状況を知るのに便利です。まあ、読んで面白いものばかりではありませんが、ジョン・デューイの「ダーウィニズムの哲学への影響」という論考は、さすがに哲学者らしくこういう議論の料理の仕方に一日の長があります。まず、文章の流れがいいという点で際立っています。今までデューイのものを面白いと思ったことはなかったのですが、今回ちょっと見直しました。
 また、ダーウィンよりも早く別個の脈絡でハーバート・スペンサーが進化論を提起していたことも知ってはいましたが、論考を本書で読むことができたのは収穫でした。ここに書いてあったのか。スペンサーの退屈で膨大な量の諸著作の中から探し出す手間が省けました。
 なお、ヘッケルの論考の中で「比較言語学の分野での新しい発見」として「言語は、近くにある物体の指示やまた欲求をあらわすのに役立ったわずかの単純な獣類的の音声から徐々に発達してきたものです。若干の未開民族ではこんにちでもなお、言語はあまり完全でない形態のままにとどまっています」(110-111頁)とあります。当時の比較言語学はかなりレベルが低かったのでしょうけれど、こんなところに西洋人の先験的優越意識が現れているのは面白いと思います。
 実際のところ、当時の植民地政策の中で、諸民族の言語はこんな風にランク付けされていたのでしょうけれど、そうしてみると、進化論というのも西洋人が自分たちの優越性を確認する議論として待望していたとみることができそうです。だんだんとそうした見方が裏切られていくのが20世紀の歴史ですが、実際のところ、まだ頭の中が19世紀以前の西洋人はうようよしています。くわばらくわばら。
 本書ではカトリック教会が進化論に反対したことは一度もないということがちらっと書いてあって、興味を惹かれました。そういえば渡部昇一がダーウィンを高く評価していたことを思い出しました。渡部氏は以前優生学的処置も認めていましたが、それも思想的脈絡があってことなのでしょう。
 一方で実際、モンキートライアルはアメリカのプロテスタント教会の話でしたから、いずれにしても進化論は神様の領域に踏み込むところがあるのでしょうね。自然選択説は殺伐とした思想に導かれかねませんがダーウィン本人はそのあたり曖昧に見えます。またいずれ『種の起源』をじっくり読み直してみるつもりです。
 ショックを受けた周囲の人たちにとってはただ事ではなかったのですが、機械論的自然観か目的的自然観かという問題の立て方よりも、ベルグソンみたいにエラン・ヴィタルとか言う方が感覚的にはしっくりきますが、これも結局は神様ですね。答えはそもそも明確な形では出せないものなのでしょう。オカルト的になりそうな人びとを眺めるくらいのスタンスで行くのが賢い気がします。

(岩波文庫1994年670円))

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2009年10月13日 (火)

日垣隆『怒りは正しく晴らすと疲れるけれど』

 著者が雑誌「WILL」に連載した日記を1年と7ヶ月分まとめたものです。2008年2月から著者は1年半ほど休筆していたので、しばらく期間が空いているわけですが、この間の著者は鬱病から抜け出すべく格闘していました。かなり大変だったみたいです。
 私は著者のメールマガジンも購読していますので、応援団の一人として著者の健康の回復具合がいつも気がかりでし。ついつい新聞の訃報欄に目をやってしまうことがあり、時々送られてくるメルマガに、やはり同じようなことをしている読者の話が載っていて笑ってしまったことがあります(著者も笑っていましたが)。
 しかし、本書の後書きには「私はこれにて甦ります」とあるので、もう安心かなと安堵しています。実際このところ立て続けに著者の本が出ていますし、こりゃまた全部読まなきゃです。
 とにかく著者の読書量と執筆量は大変なものです。疲労が重なっているのも忘れるくらい働いていたのだろうと思いますが、本書によると、著者はいつも2時間寝ると起きてしまって、その間に仕事をしているという感じなのだそうです。仕事の間に細切れに眠って、ときには眠らずに、それでいて眠さを感じずに日々暮らしているのですから、やはりどこかで無理がきているのでしょう。医者からは睡眠障害だろけれど、本人が不都合を感じないのなら問題ないとも言われているそうです。うらやましいような気もしますが、まず私には真似はできません。
 こういう人から見ると、読者を舐めたような三流の言論人の仕事は本当に腹立たしいものだろうと思います。その辺の応酬もしっかり記されていますが、敵の慌てぶりが窺われて、どうかすると語るに落ちるような次第になっています。佐高信なんか読んでいるこちらが気の毒になるくらいです。
 本書で紹介されていた本で是非とも読みたいと思ったのが、色川武大の『うらおもて人生録』(新潮文庫)です。引き合いに出されている言葉をいくつか読むだけでも名著であることがわかります。人生の裏表をよーく見てきた人だけのことはあります。近いうちに入手して読んでみます。
 それから、名誉毀損の賠償額が平成13年春から急にそれまでの五倍となったのは、国会議事録を読んでいくと、公明党の議員だけがしきりに質問をして、それに対して最高裁事務局が値上げをする旨を約束しているという事実がわかるるそうです。ははーん、なるほどこれは新聞は書きにくい事実でしょうね。勉強になります。

(ワック株式会社2009年1333円+税)

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2009年10月12日 (月)

ベーコン『ノヴム・オルガヌム(新機関)』桂寿一訳

 大阪で通信教育部の学生さん相手に集中講義をしてきました。大阪は初めての経験ですが、さすがにしゃべくりの本場で、ジョークに対する感度が実にいい土地柄なので、気分よく3日間を過ごすことができました。
 私も小中学生自分はと大阪の学校にお世話になったこともあって波長が合うのかもしれませんが、明らかに東京とは笑いのポイントが違います。違うだけではなくて、ポイントがたくさんあるようです。次は名古屋で、その次は東京です。教える科目が比較文化論というのがちょっとできすぎた話みたいですが、本当です。フィールドワークを兼ねてやっています。

 さて、本書を読んだのはこれで3度目です。最初は今ひとつピンときませんでした。二度目はかなりわかってきました。三度目の今回はまた新たな発見がありました。さすがに古典というのは奥が深いもので、論じ甲斐があります。
 今、自分の研究としては帰納法についてちょっと考えてみようとしているところですので、こうして何度も本書を読み直しているわけですが、帰納法というのは考えれば考えるほど変な論理です。論理ではあっても理論ではなくて、手続きにすぎないように見えながら、実はそのことがかえって正確な直感や奇抜なアイデアを呼び込むという効果があるようなのです。
 実は、19世紀末から20世紀初頭にかけて、ハンガリーのブダペストからやたらと科学的発見や新技術の発明が出てきたという科学史上の事実があるのですが、そのとき流行っていた思想は論理的には帰納法に基づく実証主義で、理論的としてあまり面白とは言えないものでした。簡単に言って、そんな詰まらない思想から驚くべき発明や発見が出てきたのは何故なのかが気になっていたのでした。
 でも、考えてみれば、自然界のすべてを貫き、人間を含む森羅万象を完全に説明できる大思想・大理論があれば、後はその法則に従って自然を解明していくだけで、自動的に新たな発見や発明も可能になる、というようなことはありません。ヘーゲルの理論を下に物理学上の発見をした人がいるというような話はないわけです。
 そういえば、J・S・ミルは演繹法では原理から出発するので論理の枠内のものしか出てこないが、帰納法は事実から出発するので、新たな発見を伴うことにならざるを得ないと言っていたそうですが、それはそうです。発明や発見というのは理論でやるものではないようです。
 なお、本書でよく知られているのは人間の抱きがちな幻想・妄想(イドラ)が学問の妨げになるという議論ですが、ベーコンの帰納法についての断片的ながら鋭い考察にはもっと驚かされます。
 「推論によって立てられた一般命題が、新たな成果の発見に役立つことは決してあり得ない。なぜならば自然のもつ繊細さは、推論のそれを何倍も越えるものだから。しかし個々的なものから正当に順序立てて抽出された一般命題は、逆に新たな個々的なものを用意に指示し・提示し、したがって諸学を働きあるものにする」(77頁)
 というような表現はすでにミルを先取りしているようです。
 今度は別の翻訳と原書を対照させながら検討してみます。

(岩波文庫1978年、2005年第13刷660円+税)

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2009年10月 9日 (金)

日垣隆『秘密とウソと報道』

 ジャーナリストがしばしばフェアとは言えないやり方で取材したり、当事者の秘密をバラしたり、ウソを書いたりするのはよくあることで、かつて栗本愼一郎先生は、インタビュー記事は受けないようにと浅田彰に助言しておいたと仰っていました。言わなかったこともそれらしく捏造されてしまうからですが、平気でそれくらいのことをする輩がたくさんいる業界であることは確かです。
 結局のところそれは取材者の人間性の問題でしょうが、本書ではえげつない実例が実名で出てくるので、へぇーっと思わされます。たとえば、
・山崎朋子『サンダカン八番娼館』では、著者は「からゆきさん」の写真とパスポートを盗んだ。
・佐木隆三『復讐するはわれにあり』では、著者は警察の内部資料を勝手にコピーして、それをもとに書き上げた。
 この二件については誰もよくない行ないだとして問題にしてはいないというのも不思議なことです。
・鎌田慧『自動車絶望工場』では、著者は身分経歴を偽り期間工として働いて取材しているが、フェアとは言えない。
・草薙厚子『ボクはパパを殺すことに決めた』は、鑑定調書を無断でコピーして、8割から9割方そのままの内容で出しています。法廷では誰からも聞かれていないのに取材源として鑑定医師の名を出して、医師には第一審で実刑判決が出されています。
 なお、日垣隆は「彼女の不用意かつ売名的かつ軽率な行動により、鑑定書や調書という重要な取材ルートがさらに閉ざされてしまった。恐るべきバカ女としか言いようがない」(86頁)と断じています。
・西山事件では毎日新聞社の特ダネ記者が逆ハニートラップにより外務省の女性職員から機密を聞き出した事件ですが、その取材方法の卑劣さはもちろんですが、その西山記者を擁護する知識人の代表格が作家の澤地久枝とは知りませんでした。西山記者は呼ばれて講演したりしていますが、そこでは彼が情を通じた蓮見さんの話は、質問することも許されないような雰囲気なのだそうです(168頁)。反権力のポーズをとっているといろんな悪事を見逃してくれるという時代はそろそろ終わりにしてほしいものです。
 しかし、こんなにひどい現状にあっても、著者はまだまだ有料ジャーナリズムは死んでいないと言います。実際、部数が少ないなりに固定した読者層に向けたサービスを充実させていけば、生き残る可能性はある気がします。
 何より著者の日垣氏自身が会員制メールマガジンをはじめ、有料セミナーなど次々といろんな試みをされています。その中にもヒントはたくさん隠されているように思います。

(幻冬舎新書2009年740円+税)

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2009年10月 8日 (木)

野口悠紀雄『アメリカ型成功者の物語 ゴールドラッシュとシリコンバレー』

 カリフォルニアのゴールドラッシュでとんでもなく儲けた人たちは、金そのものを掘って儲けたのではくて、金を求めてやってくる人びとや物に関わる流通、輸送、金融等に関して新たな事業を始めた人だったそうです。
 この話自体はもちろん経営者にとっては教訓に満ちていますが、この一連の状況がIT革命と酷似していると指摘されると、さらに深みを増します。この二つの状況は地理的にも関連していて、ゴールドラッシュで富を得たお金持ちがつくったのがスタンフォード大学で、その大学からのちに巨大企業に成長するグーグルやヤフーが生まれてきたわけです。
 いわゆるシリコンバレーはまさにそのゴールドラッシュの地にあるわけですから、対比するには実に面白い現象です。この目の付け所がすでに本書の成功を保証しています。語り口もフラッシュバックしたりフラッシュフォワードしたりと、時系列にとらわれず読者へのサービス精神に基づいて、実にわかりやすく書かれています。さすがにこの点、売れる本を書ける人は違います。
 本書の中で、大陸横断鉄道が巨万の富をもたらした仕組みが解説されていますが、これには感心させられました。何せ鉄道を造るまでの間はふつうならお金が儲かるはずがなく、完成して利用者が運賃を支払うまで待ってくれなければと考えそうですが、そうじゃなかったんですね。
 つまり、最初は建設会社の株を一般株主に売るための窮余の一策として証券を取り扱うための会社CMAを興し、鉄道会社の株式を額面で引き受けて、その株を自社株として市場に額面以下で売り出していたのですが、ここで、建設会社が建設費を実際よりも高く水増しして証券会社に支払うことで、赤字を補うという仕組みです。
 この建設費の水増しがいくらでも通用することを悟ってからは、その会社はいくらでも利益を上げるようになったのです。さらに、建設が進んで建設会社の株価が額面を超えるようになれば、さらにCMAの株主は元手なしで膨大な額の利益を得られるし、建設会社の大株主になることもでき、経営に口出しもできるようになるわけです。
 何と頭がいいのだろうか、あるいは汚いんだろうかと考えるのは読み手の勝手ですが、いずれにしても驚かされずにはいられません。この手法は土建国家複合体を作り上げた田中角栄の手法よりももっと巧みでばれにくいに金融・証券版錬金術とでも言ったらいいのでしょうか。もちろん、グーグルやヤフーそしてシスコシステムズのようなベンチャー企業の儲け方はまた違いますが、やはり「直接金を掘らない」という点では明らかに共通しています。
 本書ではシリコンバレーの母体となったといえるスタンフォード大学の経営方針も、他と同じことはやらないという点で、ゴールドラッシュの教訓を生かしているのでしょう。アメリカでも後発の大学がランクを上げることなど一般にほとんど無理と思われているところに、スタンフォード大学はほとんど唯一の例外と言っていいほどの成功例を示しているとのことです。
 それならば地方の不便なところにある弱小私立大学であっても工夫次第で何とかなるのかもしれないという気にさせられます。でも、文科省の言いなりで他の大学と同じようなことばかりやろうとしていては未来はないことも、本書ははっきりと教えてくれています。
 日本経済のビジネスモデルの転換も説かれていますが、大学なんてところはそのビジネス界よりも格段に遅れているうえに、きわめて日本的な共同体的な業界なので、大学経営については、うーん、やっぱり出口はないかもしれません。

(新潮文庫平成21年629円+税)

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2009年10月 6日 (火)

内田樹『昭和のエートス』

 1960年代の初めまで、私たちの周りに「真ん中でぽっきり折れた」人生を抱え込んだまま戦後社会を生き抜かねばならない人びとが多く存在した、と著者は言います。戦後の風潮に軽々と乗っていけた人ではなくて、戦前と戦後の自分に折り合いを付けることが難しかった人びとというのは確かに存在しました。先輩のお父さんがそういう人でした。私の先生の一人にもそういう人がありました。著者によれば吉本隆明や江藤淳などは紛れもなくそういう人だそうです。
 だから、昭和的なものを回想するとき著者はいたたまれない気持ちになると言いますが、それと同時に、「1950年代から60年代初めまでに日本社会に奇跡的に存在したあの暖かい、緩やかな気分を『昭和的なもの』として私は懐かしく回想する」(31頁)とも言います。それは私も多少分かります。あれは高度成長時代にどんどん失われていって、第一次石油ショックあたりでその息の根が止められたのでしょう。あの時代の雰囲気はアニメの「となりのトトロ」や「クレヨンしんちゃん:オトナ帝国の逆襲」なんかにもよく出ています。「三丁目の夕日」なんかもそうですね。
 昭和人の「いたたまれなさ」というのは私には想像の範囲でしかありませんが、先生を通じて多少は想像できるだけましかもしれません。暖かくて緩やかな昭和的なものは自分の子ども時代に多少経験があります。著者は1950年生まれなのでちょっと見方が違いますが、それでもある意味では同世代なのかなという気がします。元々世代は10年ではなくて30年が単位ですから、、そう思えば著者と私などは当然同世代です。
 本書はエッセー集なので他のほんとな言いようが重なるところも多々ありますが、冒頭のこの昭和論は読み応えがありました。本書のタイトルにもなっているだけのことはあります。それと、最終章の「アルジェリアの影」というカミュ論はよかったですね。こういう角度から論じたものは初めて読みました。言論以前に行動が正しかった思想家なんていないだろうと思っていたら、カミュがそうだったんですね。
 ただ、267頁で「弱冠二九歳」という表現があるのはいただけません。著者の文章には時々あまり一般的でない外来語が説明なく使われますが、これらも「弱冠」と同じような使い方だったとしたら、一種のこけおどしと解釈せざるを得なくなります。これからもファンをやめることはないと思いますが、ちょっと残念です。編集者もしっかりしておくれなもし。

(バジリコ株式会社2008年1600円+税)

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2009年10月 5日 (月)

日垣隆『北朝鮮はなぜ嫌われるのか』

 イランやミャンマーからは好かれているような気もしますが、かつては朝日
新聞や社会党もこの世の楽園として賞賛を惜しまなかった時代がありました。
1990年の日朝国交正常化交渉のころ、金丸信、土井たか子、田辺誠あたりが恥
ずかしげもなく金日成万歳と電車の中吊り広告を出していたのを覚えています。
あの広告はもらっておけばよかったなあ。
 著者は1987年に228人の旅行団に入って北朝鮮を訪れています。チュチェ思想
研究会のメンバーがそのうち100人ほどいたそうです。今そういう人はどうして
いるのでしょう。ちなみに旅行団の代表は総評委員長で日教組委員長もつとめ
た槙枝元文だったそうです。槙枝氏は「良識ある日本人はすべて、偉大なる金
日成同志と敬愛なる金日成指導者に、心からの尊敬を胸にいだいております」
(27頁)なんてスピーチをしていたそうです。
 また、これより前から小田実や大江健三郎が北朝鮮を礼賛していた当時の記
述もしっかり引用されています。
 本書は当時の状況と現在の情報とを行ったり来たりしながら、著者らしく冷
静な分析をしています。そういえば著者には『松代大本営の真実』という名著
があるのでした。それを書くに至った経緯にも触れられていますが、戦後北朝
鮮に帰国せずに日本に残った在日二世の山根昌子さんという女性のことがきっ
かけだったのですね。この最初の北朝鮮旅行も一緒に出かけています。
 著者の立場は北朝鮮を感情だけで語ってはいけないというもので、当然今で
はならず者国家ですが、拉致問題解決のためにわが国が経済制裁をすることに
は反対しています。それは底辺の民衆がダメージを受けるだけだからです。イ
ラクなんかの経済制裁の状況も見てきた著者の主張には説得力があります。
 また、北の状況はベルリンの壁崩壊以前の社会主義諸国に通じるものがあり、
きついと言ってもそれなりの抜け道があったりするところはルーマニアあた
りとも似ている気がしました。ルーマニアの方が厳しかったかもしれません。
 当時ハンガリーに留学していた北朝鮮の留学生は日本人をあからさまに敵意
のこもった目つきで見つめていましたが、1989年にハンガリーが韓国と国交を
結んだとたん、大使館以下全員が引き上げてしまいました。私は直接彼らから
バカと言われたりすることはなかったですが、友人の中には不愉快な思いをし
た人もいました。当時北朝鮮から外国に出してもらえる人は相当のエリートで
したから、思想教育もさぞかし徹底していたのでしょう。あの緊張を一生維持
しているわけはないだろうと思いますが、反日感情は根本的には変わっていな
いような気がします。変わる理由がありませんし。
 それにしてもいつまでこの体制が続くのでしょう。 

(大和書房2009年800円+税)

 

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2009年10月 4日 (日)

日垣隆『勝間和代現象を読み解く』

 並外れた勤勉さと行動力でベストセラーを量産し続ける勝間和代と彼女を取り巻く人々のブームを論じた本です。あれだけ売れっ子だと周囲からの反感や金棒引きも相当なものだと思いますが、本書はまずは素直に勝間和代を尊敬していて、好感が持てます。
 著者は「自分より優れている人を、素直に尊敬するだけで、世の中はもっとずっとやわらかくなると私は思います」(92頁)と述べています。このスタンスが著者らしくてすばらしいと思います。
 著者は、仮に勝間バッシングが始まったとしてもそれに乗るような人ではありませんし、香山リカのような反カツマーにおもねる言論で儲けようともしていません。
 勝間和代を自信家だとか傲慢だと評する意見には、著者はまったく与しません。「そもそも自信がある人とは、現状に満足しているものです。現状に満足している人は、1ヶ月に100冊もの本を読んだりはしませんし、他人のノウハウを次々に取り入れることもない。まだまだ満足できないからこそ、貪欲にあれこれ試してみるのでしょう」(81頁)と書いています。
 そうですね。確かに自信家は見るに堪えないものです。他方、勝間和代は本当に謙虚に他の優れた人に学んで努力しています。そのことは彼女の本を読めば認めないわけにはいかないでしょう。いい加減な批評家はほとんど本など読まずに風評だけで人を批判したりしますので、そういう人こそ彼女の謙虚な姿勢を見習うべきでしょう。
 著者はもちろん、勝間和代のちょっとヘンなところ(大都会をマウンテンバイクにヘルメットという出で立ちで走り回るところ)も、本人の意図とは別に教祖のような口ぶりになってしまうところ(お金を銀行に預けないからと言って投資信託に預けてもねえ)も、別れた夫のことをボロクソに言うところも(娘たちがかわいそうですから)見逃してはいません。でも、基本が尊敬だからOKです。
 私もカツマーというほどではありませんが、常に素直に自己研鑽を続けている勝間和代の姿勢を常に見習いたいと思っています。それから、著者の日垣隆も彼女に負けず劣らず努力の人なので、以前から見習いたいと思ってきました。だからこそこんな本が出たら読まないわけにはいかなくなるわけです。
 読書に関しては、両者とも付きに百冊以上の本を読む人なので、その点少しでも近づきたいものです。一日一冊くらいでは全然ダメですね。今日は3冊読みましたが、それでも月に100冊には届きません。専門書も含めたフォトリーディングならもっと行けますけど、書くのが追っつかないので、やっぱりサラリーマンをしているうちは1日1冊で行きます。

(大和書房2009年800円+税)

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屋山太郎『天下りシステム崩壊―「官僚内閣制」の崩壊』

 2006年4月時点で中央省庁が所管する4,576の公益法人、特殊法人、独立行政法人に国家公務員OB27,882名が在籍し、そのうち4割超が民間企業の取締役に相当する役職員でした。そして、それらの法人に対して06年度は補助金交付や業務契約の形で、中央省庁から12兆6,047億円が支出されていたそうです(66頁)。
 このとんでもない数字を維持するためにだけ行なわれてきたのが官僚主導の政治ですが、今回の政権交代で、この「官僚内閣制」が本当に終わりを迎え、議院内閣制に移行するかどうかはまだまだ未知数ですが、今のところ可能性としてはかなりのことができそうに思います。現段階で道路特定財源の一般財源化と天下りの廃止、特殊法人の整理縮小を進めるだけでも相当のお金を捻出できそうだからです。
 本書は昨年の福田政権の頃に書かれた本ですが、時代の空気が実に正確にとらえられています。たとえば「自民党が内政上の失策を重ね、国民は自民党に愛想を尽かしている。この辺で政権交代をさせたほうがよいと大半の国民が思っているようにみえる」(238頁)また、地方分権を断行できるのは、官僚とのしがらみが少ない民主党に資格があり、実行力もあると判断できる」(231頁)とも述べています。
 それはそれとして、安倍政権から福田政権に変わったところでの官僚の巻き返しと、人心を読めない自民党政治のじたばたする様子が活写されています。その後から今年の衆院選までの流れを見ても、自民党はどうやら参院の過半数を失った意味を最後の最後まで分からなかったようです。
 なお、著者の安倍元首相への評価が高かったのはちょっと意外な気がしましたが、言われてみると確かに重要な法案をうまく通した側面は否定できません。その点ではちょっと納得です。それ以上に驚いたのは官僚の様々な抵抗ぶりです。これじゃあ安部さんも病気にもなろうというものです。
 他方小沢一郎の大連立を巡る右往左往ぶりも容赦なく批判しています。その行動パターンは田中角栄直伝のものですが「大連立構想を党執行部全員に拒否されて、己れの限界を知ったようだ。党内を圧迫すれば押し込められた圧力で自分が吹き飛ぶこともあると初めて悟ったのではないか」(229-230頁)と述べています。たぶんそうなのでしょう。だから、その後小沢一郎が選挙に専念したのはよい選択だったと思いますが、その後の組閣で院政を敷いているという一部マスコミの見方は決して当たっていないとも思います。
 また、これとは別に、道路公団の民営化委員会委員だった猪瀬直樹と道路族の談合や、中教審の山崎正和の頓珍漢ぶりもしっかり書かれていて、官僚だけでなく政権におもねるインテリのいやらしさもはっきりわかるようになっています。
                    *
 それにしても、天下りの実例については長いこと観察してきましたが、彼らは本当に驚くほど仕事をしません。ただ、前例のないことにだけは断固として反対します。やっていることはそれだけです。最初は毎日近所を散歩したり昼寝をしたりて定時に帰って行くという仕事ぶりを続けて苦痛ではないのだろうかと思いましたが、実はお役所時代から変わらぬ働きぶりなので、こちらが心配をするまでもなく健康体そのものなのです。
 周囲の人びとはそんな人びとを当然冷ややかに見ていますが、やっと定年かと思ったら定年延長になったり、補充人事が発令してがっかりさせられたりします。しかし、天下り機関が民間の業務にどんどん食い込むようになり、また、民間企業にも役員待遇で迎えられる人を観察できる機会が増えることで、こうした事情はおそらく全国民の共通了解事項となってきたのでしょう。
 こうして、それはあんまりだろうと思っている人びとが、かつては小泉純一郎を支持し、今は民主党を支持しているという流れを、記者クラブ発表の各紙すりあわせ記事を書いている新聞記者たちはまったくつかみそこなってきたように感じます。

(海竜社2008年1600円+税)

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2009年10月 2日 (金)

髙山正之『変見自在 オバマ大統領は黒人か』

 オバマ大統領はお母さんがスウェーデン人だからクリオールで、欧米社会では白人とみなされます。純粋に黒人だったらきっと暗殺されていたことでしょう。実際、白人の血が一滴でも入った黒人は、植民地では白人に準じる支配階級として扱われ、その後白人が去っていったりすると内戦で殺し合いになるわけです。殺し合いになったら白人はすぐさま戻ってきて双方に武器を売りつけますが、いうまでもなく準白人グループを支持します。二重支配の極意です。東チモールやハイチがそうです。アフリカなんかはもう訳が分からなくなっています。
 本書は最新刊ですので、昨年までの連載記事が収録されています。相変わらずマスコミが口をぬぐっている情報が満載です。その中からいくつか箇条書きしてみます。

  • 土井たか子は身内が北朝鮮で働き、本人も向こうの血筋で向こうの名前もあるという報道に対して訴訟を起こしたが、それはともかく、有本恵子さんの直筆の手紙を持った両親が土井たか子に事情を話したら、一月もしないうちに「ガス中毒で死亡」したとの北朝鮮当局からの発表があった。そういえば引退も早かったし。
  • GHQで働いていたソ連のスパイ、エドガー・ノーマンは同志だった都留重人が証言したのを知ってカイロで自殺した。
  • キリシタン大名の高山右近は明石城下の神社仏閣を片っ端から壊して教会にした。
  • 同じくキリシタン大名の有馬晴信は火薬の素の硝石を得るために、とらえた敵軍の将兵や領地の女を海外に売っていた。この女性たちを天正遣欧少年使節の一行が現地で目撃している。
  • モンテスキューが『法の精神』で「黒人は人間ではない」とのたまった時代に日本人は「出島のオランダ人が奴隷を使っていることに酷く腹を立て、蔑んでいた」(157頁)
  • アメリカ連邦食品医薬局(FDA)が、血液凝固を促すフィブリノーゲンの製剤が肝炎ウィルスを感染させるとして承認の取り消しを行なった当時の米国には、当時の厚生省職員が17人も駐在していたが、「だれもそれを知らなかった。英語が分からない上に毎日遊んでいたからだ」(101頁)
  • ロシアのタンカー「ナホトカ」が二つに割れて重油が流れ出たとき、福井県などの各地の海岸で黙々と重油をすくう作業をしたのは、全国から駆けつけたボランティアと報道されたが、実際にはボランティアは全体の数の1割、残り9割は自衛隊員だった。
  • 海上自衛隊のイージス艦「あたご」にぶつかった漁船の親子は実は居眠りをしていた。
  • アフガンで井戸掘りをするボランティアが殺されたとき、リーダーの中村医師は犯人からの事前の数回の警告を無視していた。そのうち二度は銃撃を伴う威嚇だった。

 と、こうやって書いておけば自分でも忘れないのがいいところですが、中には強烈すぎて忘れようのないものもあります。一章丸ごと印象に残ったのは「裁判官の『相場』」という章で、一般に一人殺すと懲役10年前後で、およそ求刑の7掛けの判決になるというのがわが国の刑事裁判の相場ですが、これが女性には適用されていないということが丹念に調べて書かれています。勉強になりました。このことってフェミニストは気がついていないようですが、どうなんでしょう。
 裁判員制度で改善されることがあるとしたら、この点がそうかもしれません。
 ともかく、教科書や大手マスコミを通じては決して知ることのできない情報に満ちている大変な本です。

(新潮社2009年1400円+税)

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2009年10月 1日 (木)

内田樹『街場の教育論』

 『下流志向』と論点はかなり重なっていますが、こちらの方がより詳しく書かれていて、前著が講義ならこれは演習という感じです。特に最近の生徒・学生の生態とそれを取り巻く大人の側の反応がよく観察されていて、さすがタイトルに「街場」と付けただけのことはあります。
 たとえば、学習塾で学校で習うより早く教科を進んだ子どもたちが授業妨害する(106頁)とか、センター試験会場で同じ高校の受験生たちが「群れをなして、けたたましい笑い声をあげて、最後の瞬間まで参考書に赤線を引いて勉強している他校の受験生を妨害している」(107頁)といった実例が紹介されています。これらは、著者によれば「どうやって競争相手の学力を下げるか」という戦略的行動として解釈されます。
 そういえば小学校の頃そんな同級生がいて、地元の一流高校から一流国立大学、そして一流企業へと就職していったなあ、と思い当たるところがあります。本人は研究者として大学に残りたかったようですが、それはかなわなかったようです。まあ、受験秀才が研究者になれることも少なくないのですが、その点では運がなかったのでしょう。
 もちろん彼にしても、小学生の当時ですから自身ほとんど意識せずにそうした行動をとっていたのでしょう。そういう意味では可哀想かも。でもだからといって今また会ってみたいとは思いません。学校秀才というのは無意識のうちに私だけでなくいろんな人から恨みを買っているということかもしれません。
 さて、本書では大学の教養教育と専門教育の定義が見事になされています。教養教育とは「コミュニケーションの訓練」で、専門教育は専門知識だけでなくて「他の専門家とコラボレートできること」(92頁)と言います。つまり、専門家同士がコラボレートしてはじめて専門知識が形をなすわけです。そして、そうして協働していくためには教養が要るのです。
 わが国の大学が90年代に教養課程を次々に廃止し、1年生から専門教育をカリキュラムに埋め込むことによって「大学生の学力が著しく低下してしまった。新入社員が使いものにならない」(97頁)という事態が生じてしまったそうです。これには教養教育の廃止を要請した財界・産業界も、それを推進してきた文科省もびっくりしたそうです。
 でもまあそんなもんでしょう。決してゆとり教育のせいだけではなかったのです。使えない人材というのは複合汚染みたいなものです。産官学みんなでよってたかって若者をダメにしてきたわけです。でも、学問の基本形である師弟関係さえ成立していれば、教育の崩壊は今からでも食い止めることができる気がします。
 もちろん現在の初・中・高等教育の先生たちが「師」たるにふさわしいかと言えば不安は残りますが、実は師たるものの条件とは「私もかつては師の弟子であった」と告げることだというのが本書の主張です。
 著者はこれを「私は教壇をはさんで行われる知の運動を信じる」という信仰告白とも言っています。この知の運動は師のまたその師のずっとずっと昔の師から連綿と続いてきたわけで、これに参加していると言うことだけで師弟関係は成立するのです。
 著者によれば「教師は教壇のこちら側にいる限りは、つねに何かを教えることができます。それは、教師たちは長い、いつ始まったともしれない、おそらく人類と同じぐらい古い起源を持つ『学校という制度』の最後の継承者として、いま教壇に立っているという物語になっているからです」(148頁)
 これは私を含めた凡庸な教員を勇気づけてくれる言葉です。確かにこうした師弟関係のある種の不条理さは不測の事態に対処する力を養ってくれます。先生同士の言うことが異なって、先生本人の言うこと自体が矛盾しても問題がないどころか、むしろそれでいいんです。あの二十四の瞳の高峯秀子演じる先生は生徒と一緒に泣いてばかりいますが、それで十分先生なのです。
 そういえば先日高校の同窓会で集まってきた、現在先生をしている連中は、みんな心の師に感化されて教員の道を選んでいるようでした。きっとそういう連中はいい先生なのでしょうね。

 あ、ちなみに私にも理不尽で師匠らしい師匠が何人かいます。いうまでもなく私は師匠にとって不肖の弟子ですが、弟子なんてみんな不詳なものだと諦めてもらうようにしてきました。ただ、思えば私自身には通信教育で教えていることもあって、弟子らしい弟子がいません。不詳な師匠として理不尽なことを山ほど要求してあげようと待ち構えているのですが、ちょっと残念です。
 それはともかくとして、本書の帯に「全国の先生方必読です!!」とありますが、本当にそういう本です。ヘボ教員ばかりでも大学の再生が可能だということも併せて教えてくれて感謝しています。ただ、原理的には可能ですが、条件としては文部科学省がなくなることが必要なようです。これも同感だなあ。文部科学省がお手本としているアメリカにはそもそもそんな役所が存在しないのにねえ。

(ミシマ社2008年1600円+税)

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