« 内田樹『下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち』 | トップページ | 髙山正之『変見自在 オバマ大統領は黒人か』 »

2009年10月 1日 (木)

内田樹『街場の教育論』

 『下流志向』と論点はかなり重なっていますが、こちらの方がより詳しく書かれていて、前著が講義ならこれは演習という感じです。特に最近の生徒・学生の生態とそれを取り巻く大人の側の反応がよく観察されていて、さすがタイトルに「街場」と付けただけのことはあります。
 たとえば、学習塾で学校で習うより早く教科を進んだ子どもたちが授業妨害する(106頁)とか、センター試験会場で同じ高校の受験生たちが「群れをなして、けたたましい笑い声をあげて、最後の瞬間まで参考書に赤線を引いて勉強している他校の受験生を妨害している」(107頁)といった実例が紹介されています。これらは、著者によれば「どうやって競争相手の学力を下げるか」という戦略的行動として解釈されます。
 そういえば小学校の頃そんな同級生がいて、地元の一流高校から一流国立大学、そして一流企業へと就職していったなあ、と思い当たるところがあります。本人は研究者として大学に残りたかったようですが、それはかなわなかったようです。まあ、受験秀才が研究者になれることも少なくないのですが、その点では運がなかったのでしょう。
 もちろん彼にしても、小学生の当時ですから自身ほとんど意識せずにそうした行動をとっていたのでしょう。そういう意味では可哀想かも。でもだからといって今また会ってみたいとは思いません。学校秀才というのは無意識のうちに私だけでなくいろんな人から恨みを買っているということかもしれません。
 さて、本書では大学の教養教育と専門教育の定義が見事になされています。教養教育とは「コミュニケーションの訓練」で、専門教育は専門知識だけでなくて「他の専門家とコラボレートできること」(92頁)と言います。つまり、専門家同士がコラボレートしてはじめて専門知識が形をなすわけです。そして、そうして協働していくためには教養が要るのです。
 わが国の大学が90年代に教養課程を次々に廃止し、1年生から専門教育をカリキュラムに埋め込むことによって「大学生の学力が著しく低下してしまった。新入社員が使いものにならない」(97頁)という事態が生じてしまったそうです。これには教養教育の廃止を要請した財界・産業界も、それを推進してきた文科省もびっくりしたそうです。
 でもまあそんなもんでしょう。決してゆとり教育のせいだけではなかったのです。使えない人材というのは複合汚染みたいなものです。産官学みんなでよってたかって若者をダメにしてきたわけです。でも、学問の基本形である師弟関係さえ成立していれば、教育の崩壊は今からでも食い止めることができる気がします。
 もちろん現在の初・中・高等教育の先生たちが「師」たるにふさわしいかと言えば不安は残りますが、実は師たるものの条件とは「私もかつては師の弟子であった」と告げることだというのが本書の主張です。
 著者はこれを「私は教壇をはさんで行われる知の運動を信じる」という信仰告白とも言っています。この知の運動は師のまたその師のずっとずっと昔の師から連綿と続いてきたわけで、これに参加していると言うことだけで師弟関係は成立するのです。
 著者によれば「教師は教壇のこちら側にいる限りは、つねに何かを教えることができます。それは、教師たちは長い、いつ始まったともしれない、おそらく人類と同じぐらい古い起源を持つ『学校という制度』の最後の継承者として、いま教壇に立っているという物語になっているからです」(148頁)
 これは私を含めた凡庸な教員を勇気づけてくれる言葉です。確かにこうした師弟関係のある種の不条理さは不測の事態に対処する力を養ってくれます。先生同士の言うことが異なって、先生本人の言うこと自体が矛盾しても問題がないどころか、むしろそれでいいんです。あの二十四の瞳の高峯秀子演じる先生は生徒と一緒に泣いてばかりいますが、それで十分先生なのです。
 そういえば先日高校の同窓会で集まってきた、現在先生をしている連中は、みんな心の師に感化されて教員の道を選んでいるようでした。きっとそういう連中はいい先生なのでしょうね。

 あ、ちなみに私にも理不尽で師匠らしい師匠が何人かいます。いうまでもなく私は師匠にとって不肖の弟子ですが、弟子なんてみんな不詳なものだと諦めてもらうようにしてきました。ただ、思えば私自身には通信教育で教えていることもあって、弟子らしい弟子がいません。不詳な師匠として理不尽なことを山ほど要求してあげようと待ち構えているのですが、ちょっと残念です。
 それはともかくとして、本書の帯に「全国の先生方必読です!!」とありますが、本当にそういう本です。ヘボ教員ばかりでも大学の再生が可能だということも併せて教えてくれて感謝しています。ただ、原理的には可能ですが、条件としては文部科学省がなくなることが必要なようです。これも同感だなあ。文部科学省がお手本としているアメリカにはそもそもそんな役所が存在しないのにねえ。

(ミシマ社2008年1600円+税)

|

« 内田樹『下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち』 | トップページ | 髙山正之『変見自在 オバマ大統領は黒人か』 »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。