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2009年11月30日 (月)

武田一顕『ドキュメント政権交代 自民党崩壊への400日』

 やっぱりそうだったんだ、と思えるところがたくさんある本です。さすがに政治記者ですから、普通の人が見られないところをよく見てきていますが、これも見る意志がなければ単なる記者クラブに出入りする羽織ゴロと変わりません。著者はその意志の点で明らかに他の記者たちよりも優れています。
 著者は「政権交代をすること自体に意味があるのだ」(84頁)と言います。案山子が総理大臣になったとしても、今の自公政権でなければ、それでいい」とまで言い切っています。
 また、東京地検特捜部についても、それは「戦後一貫して権力に追随し、その敵対者を妥当してきた組織だ」(122頁)と言います。このいい切り方は見事です。検察・警察を監視することができるのはジャーナリズムだけだったのですが、今までは当然ながらその役割を果たしてきませんでした。しかし、著者のような人がいれば話は別です。
 もっとも、最近は裁判員制度ができたので、これがある意味では実は検察批判の意味を持っているということに気がついている人はあまり多くないようです。検察の立証の妥当性を検証するのが裁判員の役割ですから、そこははっきりさせておいた方がいいと思うのですが。
 かくいう私にも裁判員の名簿に載る予定だとの連絡が来ましたが、問い合わせてみたら、大学で法律を教えていることに該当するそうなので、どうやら名簿から外れることになりそうです。
 それはともかく、話を戻しますが、本書では取材を通じてでしか知ることのできない情報も印象的でした。たとえば、新潟での麻生総理の演説のとき、演説の最中に聴衆がどんどん帰って行ってしまったこととか、その演説の際に総理お得意の漢字の読み間違えや暴言をしたら「即座に訂正できるよう街宣車の陰に秘書官が控え、聴衆からは見えないようにしゃがんでいた」(204頁)といったところです。これでは選挙に勝てるはずがありません。
 巻末に小沢一郎へのインタビューも載っています。このインタビューはもとより、本書全体が小沢嫌いの人にも極めて有益な内容です。次の政権交代を考えるためにも、読んでおいてしかるべき本です。

(河出書房新社2009年1600円税別)

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2009年11月27日 (金)

カール・R・ポパー『科学的発見の論理(上)/(下)』

 いやー、ポパーはやはりたいしたものです。読み応えがありました。言っていることは至極最もです。科学を支えているのは形而上学的観念であり、自由な想像力ないしは創造力だということを基本にした上で、方法としては、それが批判に対して開かれているか、つまり、反証を受け容れる用意があるかということだけに集約します。
 このシンプルさと論理的明晰性が魅力です。もっとも、言わんとすることがあまりにもシンプルなので、結局のところ、どの本を読んでもメッセージはそこに帰ってきてしまうところがあります。
 というのも『果てしなき探求』を読んで、おお、これはなかなかいいぞと思い、代表作の本書にそこがもっと詳しく展開されているかと期待していたのですが、その点では期待はずれでした。
 本書はドイツ語版の刊行当時からウィーンの論理実証主義学派との対決を余儀なくされてきたので、敵を論駁するのにかなりのエネルギーが費やされています。自然科学とりわけハイゼンベルクの量子力学の理論的補強に資するところがあって、本書の後半は特にそうした記述が数式とともに展開されます。これは私の場合当然読み飛ばしますので上下巻二冊と言っても一冊分くらいの活字しか読んではいません。その点で今日については「一日二冊」ということになります。どーでもいいですが。
 さて、本書の中で私が最も関心をひかれるのは、ポパーが帰納法を認めていないという点です。そもそも自然界の斉一性と因果性を認めない限り、帰納は成り立たないのですが、ポパーはもっと極端に「帰納というようなものは存在しない」(48頁)と言います。この気持ちはよくわかります。
 自然界の斉一性も因果性の原理も、どちらも形而上学的前提だからというくらいの理由なら、現行のどの論理学の教科書を見ても書いてあります。ただ、それなら演繹法はもっといかんことになるでしょうから、その方向でポパーは帰納法に駄目出しをしているのではなくて、帰納法はそもそも無茶な推論だといっているのです。よく読んでみると結構ロマンチックな思想家です。
 ただ、本書は科学的発見自体については、それが何なのかということをちゃんと語っているわけでもありません。英語圏の版元が勝手につけた題名かもしれません。ドイツ語版原著は『探求の論理』ですし。しかし、いずれにしてもこのままでは、ポパーの哲学に基づいて科学的発見をしました、というわけにはいかないようです。

 この問題はもっと自分なりに展開できることがいくつかありますので、この冬休みに一本論文に仕立てたいと思っています。ただ、いつも論考を載せてもらっている学内紀要が、来年あたりから経費削減ということで廃刊になる可能性が濃厚で、そんなとこまで手をつけるほど経営が圧迫されているのかとあらためて不安になっているこの頃です。
 本学では連載された論考が単行本にまとめられるような学内紀要はその一誌だけなのですが(って自分の本ですが)、事務方のトップは一律に削るだけで事業仕分けができません。
 こんなことは本当は学問ではなくて経営のセンスの問題ですが、実際事務のトップにそんなことができるようならそもそも経営自体が苦しくならなかったはずです。困ったなあ。でもおそらく全国のどこの大学も似たり寄ったりの問題を抱えているのでしょうね。
 私にとっては原稿を書きためておくだけの話ですけど、紀要が廃刊になると、マイナスの宣伝効果は抜群です。特に同業者間での噂はたちまちのうちに全国に広がります。本当にいいのかなあ。

(恒星社厚生閣、上巻1971年3200円+税、下巻1972年3800円+税)

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2009年11月25日 (水)

白川静『孔子伝』

 これはすごい本でした。読んでよかったです。本書では歴史を語る理想的な方法がとられています。しかし、方法といっても誰でもできるものではありません。死ぬほど勉強して、テクストを何度も読み込み、考えて考え抜いてこの語り口が得られるのだろうと思います。
 歴史について著者は次のように言います。

「歴史的研究は、いわば追体験の方法である。追体験することによって、過去ははじめて過去となり、歴史となる。すなわち歴史としての意味をもちうるのである。しかしそのような追体験はあくまでも個人的な、また主体的な営みを通じて、行なわなければならない。その追体験の場をもつために、われわれは歴史学の方法をとるのである」(150-151頁)

 このことにより本書では、これまで私が論語を通じて断片的にイメージしていた孔子その人の像が、実に鮮明に浮かび上がってきました。墨子や老荘思想との関係もよくわかります。これからも繰り返して論語を読むことはあると思いますが、そのときにはより身近な人物像が生き生きとイメージできることになりそうで、今から楽しみです。
 本書では荘子の評価も高く、孔子の晩年の思想と荘子のそれが意外に近いということも納得のいく解釈です。直感的には昔からそんな気がしていたので、ちょっと嬉しい気分です。著者によれば「儒家に対するきびしい批判者とされる荘子は、その精神的系譜からいえば、むしろ孔子晩年の思想の直系者であり、孟子は正当外の人である」(208頁)とのことです。
 こうした解釈を支えているのが、著者の文章に対する鋭い審美眼です。論語の文章が簡潔で美しいということをはじめ、様々な文章の味わいがわかるのは二流の学者にはあり得ないことですが、だからこそ当然、著者のような超一流の学者はこれを武器として使うことができるわけです。

 ところで、この点では森銑三も文章がわかる人でしたが、それが皆目わからない二流学者相手にずいぶん消耗戦を強いられたようです。西鶴の文章から本人の手によるものは『一代男』だけだという説はいまだに通説にはなっていないようです。ちなみに世間では世阿弥と禅竹の文章の美しさ(と舞台)の違いがわからない人が一流と目されていたりするようですが、そんなことは結構どこにでもあるものです。能を本当によく見て、楽しんでいる人からは莫迦にしか見えないだろうと思いますが、本人はその冷ややかな目には気づくことなく学問的権威の安楽椅子の上にふんぞり返っています。
 私の師匠の一人故T先生は生前そのあたりのことはあっさりと「あの男[世阿弥]は天才ですから」とおっしゃっていて、若年の私はすごいと思いました。それも法律哲学の授業でですよ。
 今はそんな教養人はほとんどいなくなってしまいましたが、私にとっては師匠の言葉と存在が当時から自分の学問の道しるべでしたし、今もそう思っています。先生の一言一言が今でも何かにつけて脳裏をよぎります。
 実際、学問や技芸ではそういうスタンスの方が本当は精神的にも自由なのです。本書にはこのことも「述べて作らず」というところで学問的伝統に触れつつ書かれています。これは昔から学問の要諦だったのですもんね。
 一方、世の中の専門家たちの二流三流どころはお勉強はできても美を解さないために、研究も人生も明らかに自縄自縛に陥っていますが、本当のところ学問自体が好きでも何でもなくて、嫌々ながらの作業としてやっているので、そのことにすら気がつかないようです。気が回るのは大学や学会という世俗の場所での権勢争いだけです。
 これでは孔子の思想など、わかったふりはできても、本当には理解できるはずがありません。しかし、どんな職業の人でも気骨のある人にはたちまちにしてわかるとともに、その後の人生の亀鑑として光り輝くものだと思います。
 本書はそんな畏るべき普通の人にお薦めの本です。

(中公文庫2003年改版895円+税)

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2009年11月21日 (土)

内田樹『日本辺境論』

 新刊です。出たばかりです。本屋で見かけて思わず買ってしまいました。
 本書は今まで読んだ日本人論の中でも最も優れたものの一つです。著者は本書の「はじめに」で「本書のコンテンツにはあまり(というかほとんど)新味がありません」と断っています。確かに、著者が言うように日本の周縁性や辺境性から日本文化を語った人は珍しくないのですが、だからといって、この著者の言葉をそのまま信じてはいけません。
 先人の議論を「述べて作らず」とするとき、実はもっともオリジナリティを発揮するのが古今東西普遍の真理です。もともと、そのことはほかならぬ著者の他の本に書いてあったことでもあります。確かに、本書はこれまでの日本論のエッセンスが凝縮されています。しかしほかならぬ著者が書くことですから、決して通り一遍のことで終わるはずがないのでした。
 日本は歴史上、中華文明や西洋文明に「遅れて」スタートしてきたわけですが、だからこそ先進文明に追いつけと思っているうちはやみくもに追いつこうとして追いついてしまいます。このときの学習能力は世界に冠たるものですが、追いついた後に追い越そうとすると途端に支離滅裂となってしまうという「癖」を持っています。つまり、いつもお手本を探して「きょろきょろ」しているのですが、お手本に追いついて、スタンダードを自分で作ることになると途方に暮れるというわけです。
 虎の威を借る狐は虎が環境に適応して縞模様をやめてしまっても、それにこだわっていつまでも同じ行動様式をやめられないとは本書に出てくる例ですが、その狐の融通のきかなさが悲しいところです。
 この点で水戸黄門のドラマツルギーを分析するところが面白かったです。悪役が印籠を見せられると例外なく平身低頭するというパターンは、この狐の心性を確認しているというものです。著者は言います。

「狐」が「時流に迎合して威張っているだけのバカ」だということが私たちには実はちゃんとわかっているのです。わかっていながらどうしてもそれに対抗することができない。そういう心理的な「ロック」がかかっている。でも、その同じ呪縛は「狐」をも呪縛しています。だから、次に彼と同じタイプの「時流に迎合して威張っているだけのバカ」が出現したときに、「狐」はそれに対抗することができずにむざむざとその座を明け渡すことしかできない。もしかすると、そのようにして、私たちの社会では権力者の交代を制度的に担保してきたのかもしれません。(156頁)

 こういうところが、フロイド的な分析道具も見事に活用していて、本当に見事だと思います。武道の「機」と学ぶ力についての議論も読ませます。日本人は辺境民族の常として、学ぶ力に秀でているわけですが、その本質は「先駆的に知る力」つまり「自分にとってそれが死活的に重要であることをいかなる論拠によっても証明できないにもかかわらず確信できる力」(197頁)だと言います。
 最後のアニメと日本語論も面白かったです。本人は養老孟司説の受け売りだと言っていますが、それでも事情は単純ではありません。まあ、読んでみてください。
 日本人の弱点と利点とをともに知ることができる最良の書です。大学でも、良書の少ない比較文化論の分野での必須図書に指定しておきたいと思います。

(新潮選書2009年740円税別)

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2009年11月18日 (水)

橋本治『人はなぜ「美しい」がわかるのか』

 これはすごい本です。「美しい」ということがわかる橋本少年は、昔から「美しい」がわからない人たちを敵に回して生きてきたようです。つまらない大人はみんな「美しい」なんて、何の役にも立たないと思って、軽んじているのです。軽んじている以前に感じていないようなのです。そして、それが不思議でここまで考えてきた成果というか哲学が本書です。
 著者は「美しい」には重大な役割があると言います。それは、「自分と直接関わりのない他者」を発見することです。この表現には感心させられました。欲得ずくの大人の正反対にあるのがこれです。地位や金や人種や文化で差別する人の対極にあるのがこの思想です。ここを見ることで、何の役にも立たない「美しい」は重要な意義を獲得するのだと思います。
 また、その「美しい」を実感させるのが、美しさに惹かれる幼いころの著者を遠巻きに見守ってくれていた祖母の「愛情」だというところも納得が行きます。決して特別に濃厚な愛情ではなくて「介入しない」くらいの愛情というところがミソです。濃すぎると手取り足取りになってかえってよくないのかもしれません。
 じっくり考えながら書いている著者独特のスタイルは、結構ついて行くのが大変のところもありますが、そこがまた魅力的です。日本の古典の読解についても至る所に炯眼が光っています。枕草子や徒然草についての著者一流の見方には唸らされます。
 しかし、何よりも本書では「美しい」を知る人は世界で最も優れた知恵と果てしない勇気を持っているのだとうことを、著者自身が身をもって実証しているように思います。大変勇気づけられる本でもあります。

(ちくま新書2002年760円+税)

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2009年11月17日 (火)

津金澤聡廣・佐藤卓己『叢書 現代のメディアとジャーナリズム 第6巻 広報・広告・プロパガンダ』

 これもお仕事の本ですが、書いている人もお仕事で書いているので、体裁が先行して内容は薄くなっています。通り一遍のことは書かれていますが、材料をあえて広く薄く料理している感じです。2003年の本なので、政権交代が起こった今、明らかに古くなっています。
 政権交代が起こったことでメディアの狡さとばかばかしさが浮き彫りになっている今日の状況を、著者たちが真剣に考えているのでしたら、さっさとこのシリーズは絶版にして、もう少し違った編集の論集を考えても良さそうです。
 もっとも、シリーズ全体が完結したばかりですからそうもいかないのでしょう。大学の先生たちは業績に「著書」と書けますしね。
 それはともかく、実際、今まで利権談合体質にどっぷりとつかっていたのは自民党政権だけではなくて、それを支えるメディアも同様でした。記者発表をすりあわせて作った記事は政権与党の背後にいる官僚に見事にコントロールされてきたのですから、今一番慌てている業界がこの業界なのかもしれません。あるいは体質改善が出来ずに沈みつつあることすら気がつかない連中が、相変わらず同様の記事を垂れ流していることもままあります。
 このあたりの鈍感さは大学人も同じで、そのどんくさいメディアを研究材料にして論文らしきものをでっち上げながら、重要な社会の動きには全く気づかず、何より人の心がわかっていません。つぶれるときはどちらもあるとき一気に来ると思いますが、どうでしょう。
 普通の常識人はよくわかっているんですけど、王様は裸だという状況は、やっぱり王様本人は気がつかないのでしょう。

(ミネルヴァ書房2003年3,500円+税)

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2009年11月16日 (月)

山本武利責任編集『叢書 現代のメディアとジャーナリズム 第5巻 新聞・雑誌・出版』

 新聞も雑誌も出版もみんな曲がり角に来ていますが、それを研究材料にしている大学の先生たちには、まだあまり危機意識がないようです。とりわけ本書の著者である大手の大学の先生方は安泰なご身分ですから、その点ではだめかもしれません。
 それはともかく、問題は新聞も雑誌も面白くないというところにあります。不況になってでもあえて買おうという人は当然ながら少なくなるわけです。
 本の出版も同じですが、出版業の不振については今に始まったことではないので、驚くまでもありません。私が出す予定のハンガリー法思想史の本も、9月頃に出版社から、なじみの印刷会社が不況で倒産したとの連絡が来て以来、何だか止まったままのようで、最終校正原稿はとっくに渡してありながら、怖くてその先の話を聞けないままです。えらいこっちゃです。
 この業界の中でもとりわけ新聞は、配達システムを惰性で続けているというだけの理由でかろうじて持っているだけで、私の場合も新聞については、何が起こったかを確認するだけのために目を通しているだけです。それも、この事件についてはこういう記事になるだろうなと想像したとおりの論調で載っているので笑わずにはいられません。その点では朝日も産経も同じです。事件への突っ込みの甘さと記者クラブでの談合ぶりは実によく似ています。ほんとに何やってんだか。
 私は、大事なニュースはインターネットのお気に入りのサイトと複数の有料メールマガジンから仕入れています。会員制の雑誌も取ろうかなと考えているところです。その一方で、新聞を読む必要はどんどんなくなっているので、もう少し給料が下がってくると、最初にやめるのは新聞になりそうです。
 本書もお仕事用の本でしたが、感想は他のシリーズと変わりません。ただ、2005年の本なのですが、すでに古くなっているところがあります。こういう分野は書いていく端から古びていくところがありますので、執筆者は大変ですね。

(ミネルヴァ書房2005年3,500円+税)

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2009年11月15日 (日)

カール・R.ポパー『果てしなき探求(下)』

 本書を注文していたら下巻だけ3週間以上かかりました。上巻に載っていたこの巻の目次からすると面白そうだったので、早速読んでみましたが、ちょっと期待はずれでした。必ずしも上巻でもう少し読みたいと思っていた事柄が下巻で展開されているわけではありませんでした。私が個人的に気に入った表現はむしろ上巻の方にありました。
 しかし、ボルツマンやアインシュタインやシュレディンガーなどの錚々たる物理学者たちを相手に科学理論を徹底して論じたりするのは、守備範囲の広いポパーならではのことでしょう。彼らに対しても少なからぬ示唆を与えているところは本当にすごいことです。しかし、ポパーの理論の独特なところはなかなか一般的には理解されにくいと思います。
 実際、文系理系を問わず「帰納は神話である」(90頁)と言われてぎょっとする学者たちは少なくないはずです。科学は反証をつねに可能とするスタンスで作られた推測や仮説で十分であり、帰納なしでうまくやっているのだと言われても、にわかには信じがたいでしょう。
 しかし、よくみてみると、これは慎重に練り上げられた科学理論なのだということがわかってきます。もちろん、本書だけではわかりづらいところもたくさんあるので、ポパーの主著を一通り読んだあとに再読するといいかもしれません。
 あらためて畏るべき頭脳だと思いますが、ポパーの議論は正論だからといって必ずしも人気があるわけではないようです。結局自然科学者たちは、ラクをして適当に実証主義風に実験を処理し、理論を構築しているように見えなくもないのです。そのことにもおそらく何らかの理由があると思いますが、私はむしろその理由の方に興味があります。
 学会などに顔を出すと、ごく一部の例外を除き、学者のほとんどはバカじゃないかと思うことがあります。しかし、そのバカの理由には社会学的にいろいろと興味深いものがあります。まるでみんなして学問という約束事の踊りを踊っているように見えます。
 そして、その約束事は決して象牙の塔の中だけで作られたものではなく、いつの時代も世におもねる空気が練り込まれています。一千万人が行くなら我も行こうという小賢しさで、つねに探りを入れるように世の中の空気をうかがっているのです。曲学阿世とはよく言ったものです。でもおそらくどこの学会もそんなんばっかりですよ。

(森博訳岩波現代文庫2004年1000円+税)

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2009年11月13日 (金)

渡部武達・松井茂記責任編集『叢書 現代のメディアとジャーナリズム 第3巻 メディアの法理と社会的責任』

 本書もお仕事で読みましたが、これはヘンな意味で面白いところがありました。だいたいのところこのシリーズの著者たちは政治的スタンスとしては進歩派ないしは左翼的立場を取る人が多いのですが、この巻は「法理」というだけあって、法律の専門家が書いているところがあります。特に第一部がそうなのですが、これが、純粋な知識人の良心の発露と著者たちが考えて書いているところに水を差すことになっているからです。
 つまり、法律家というのは利益考量的判断を常にするわけですが、これが戦闘的フェミニズムのヤクザのような論調と対立するわけです。編者でもある松井茂記とそのほかの法律家は要するにバランスのとれた、あーでもない、こーでもない議論を展開しながら、冷水をかけまくっていて、おそらくこの間のほかの著者たちは本が出来た後から苦々しく思っているのではないかと思われます。
 また、ジャーナリスト崩れで大学に職を得た教授陣は、一般に世におもねる行動パターンがほとんど本能的に染みついていますので、やっぱり法律家たちとは相性がよろしくないだろうと思われます。
 個人的にはかつて元羽織ゴロの教授というのを知っていましたが、これがとんでもない食わせ物でした。唯一の著書というのは鼎談の新聞記事をまとめたもので、文章力はないわ、当然論文なんかまともなものは書けないわで、話題は記者時代の自慢話でなければ、お金とシモネタばかりで、結局学生へのセクハラで退職させられました。
 羽織ゴロというのはまた、よく人にたかる体質で、只飯只酒にあずかることに慣れているばかりか、相手かまわずねだるんですね。出版社や旅行会社に食わせろ飲ませろって本当に言うのだから驚きます。その昔は入社しても給料はもらえない代わりに、新聞社の名刺をもらって、これで飲み食いしろと言われていたそうですから、ごろつきと言われても仕方ないわけです。そして、その伝統は今も脈々と流れています。
 もっとも、これが賤業だという意識でいるならいいのですが、エリート然として威張っているのだから始末が悪いのです。若くて優秀な記者にも知り合いがいますが、この業界はひどいのはとことんひどいので、そんな連中の持っている空気にだけは染まってほしくないと願っています。

(ミネルヴァ書房2004年3,500円+税)

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2009年11月12日 (木)

川又一英『エーゲ海の修道士―聖山アトスに生きる』

 アトスは俗世間から隔離された正教の修行の聖地です。正教信徒の学生さんから送ってもらった本で、著者の本としては2冊目になります(前の本もいただいたものです。多謝)。これもいい本でした。
 最終章の復活祭の記述は、西欧の世俗化したキリスト教に愛想を尽かしたリルケの正教観を引用したりしながら、とても美しい情景が描き出されています。かつて一度だけ見たことのあるセルヴィア正教会のミサと、学生時代にフランス語購読で読んだリラダンの『残酷物語』の中の「ヴェラ」という短編を思い出しました。そのときの担当は飯島耕一先生でした。どちらかというと学生よりも先生の方がテキストに感動されていて印象的でした。
 本書の聖大土曜日の記述を読んでいると、復活祭が正教の最大の祝祭だということもよくわかります。紹介されていたロシアの哲学者ニコライ・フョードロフの思想もいずれフォローしておきたいと思います。かのベルジャーエフが触れていたようないなかったような・・・。
 本書を読んでいて教えられたことはたくさんありますが、中でも三位一体論において、正教会が認めていない「フィリオケ」(精霊が父からだけではなく子からも発出するという説)について興味をひかれました。正教が言うとおり、これはローマ教皇による三位一体説の改竄かもしれません。
 C.S.ルイスは名著『キリスト教の精髄』の中で、精霊は父と子の「間」にはたらくと述べていましたが、このことを意識してのことだったのかということが今にしてわかりました。日本人的にはどちらでもいいような気がしてしまいますが、それではいけないのですね。難しい世界です。
 私自身、精霊はともかく、俗世間で悪霊には囲繞されている毎日ですが、仮にそんなものであっても「子」から出てくると、おそらく善悪二神論に陥るという理屈になるのだろうと思われます。ルイスは正教会の人にも目を通してもらったと書いていましたが、「間」にはたらくという表現で妥協点を見出していたのでしょう。
 しかし、現実には正教会とカトリックの間の教義の溝はなかなか埋まらない気がします。カトリックの側からは「フィリオケ」についてはどう見えているのでしょうね。

 このところ世におもねる学者やジャーナリストたちによる、世俗的な功名心だけがあふれる編集本を読まざるをえない毎日でうんざりしています。しかし、こういう本を読むと、心が洗われる思いです。アトスには一度行ってみたいものです。

(集英社2002年1800円+税)

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2009年11月11日 (水)

井上宏・荒木功責任編集『叢書 現代のメディアとジャーナリズム 第7巻 放送と通信のジャーナリズム』

 お仕事上の必要から読むほんの3冊目です。何せこのシリーズ全8巻を全部読まなければいけません。なんと退屈なことでしょう。こんなものを読んで何をするのかということは一応内緒ですが、まあよくある仕事です。
 とりあえず読んだということでここに記しておきますが、題名からもわかるように、一般向けの本ではありませんので念のため。本書の中のコラムにもありましたが、ジャーナリズムとアカデミズムは相性がよろしくないとのことで(井上俊「ジャーナリズムとアカデミズム」本書216頁)、ということは、すなわち本書のようにジャーナリズムをあつかった論文集という体裁の本なんか到底面白くなるはずがないわけです。
 それでも、アルジャジーラについて書かれた第7章なんかは興味深く読みました。ただ、独壇場(どくだんじょう)という独擅場(どくせんじょう)の誤記から始まった言葉が平気で使われていると、今や辞書にも載っている言葉ではあっても、筆者の知性に疑いを持ってしまいます。
 アカデミズムもジャーナリズムも流行に敏感で腰の軽い人が世にはばかる傾向があるという点では実は双子のような関係にあります。仲が悪いとしたら近親憎悪のためでしょう。使う言葉もカタカナ言葉が多く、権威主義的でとりわけ外国の権威に弱く、内部的には親分子分的人間関係に支配されています。ジャーナリストが大学にも役人と仲良く天下りしてきたりすることも珍しくありませんが、それなりのルートが確立されているのでしょう。
全国どこの大学も結局のところ、こうして愚者の楽園になっていくのです。残念ながら、いよいよもって、本当にまじめな研究者が生きていく場所ではなくなりつつあります。

(ミネルヴァ書房2009年3,800円+税)

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2009年11月10日 (火)

橋本治『明日は昨日の風が吹く』

 雑誌「広告批評」に連載されていたコラムを1997年から雑誌の最終号のそれまで選んだものです。母体の「広告批評」が廃刊になったとは知りませんでした。誰のための雑誌かよく分からない上に、編集長が思いっきり凡庸な人だったので、早くから見切りをつけて読んでいませんでしたが、いつの間にか橋本治の連載があったとは知りませんでした。もっとも、それならそれで立ち読みで済ませていた気がしますが。
 それにしても、コラムは橋本治の鋭さ全開で感心させられることしきりです。経済に関しては最新刊の新書『大不況には本を読む』と重なるところが少なくありませんが、これも改めて読むとまた改めて説得されてしまいます。
 サブカルチャーへの視点も確かで、歌謡曲の衰退については次のように述べています。

日本人は、もう十分に「共有するもの」を共有してしまったので、全国的に流通する歌謡曲を、そんなにも必要としなくなったのだ。「多くの日本人が共有する情景」ではなくて、「自分一人に必要な心情」へ傾いていって、それまでの「全日本人を対象とすることによって成り立っていた歌謡曲」は、衰退へと向かったのだ。「阿久悠の時代」は1980年代の前半までで、それは阿久悠が不振に陥ったのではなくて、日本人が各自バラバラになにかを求め始めた時代の到来のせいだと思う(153頁)。

 こういうのって本当にすっきりします。内田樹の解説では橋本治は「自分が何を知っているのかを知るために書いている」という「説明する人」なのだそうです。これもなるほどという気がします。だから事態は実にわかりやすく説明されているわけです。ただ、では橋本治が何を言いたいかというと、言いたいことがあるのではないという構造になっています。言いたいことを混ぜると説明がわかんなくなっちゃうからです。
 というわけで、文芸評論家は橋本治を昔から一貫して無視し続けてきました。これからもそうでしょう。そして、解説を書けるのは内田樹のようなこれもまたすごいセンスの持ち主でなければならないということになっているのです。

 それはそうと、自分が知りたいからこそ文章を書くというのはありなんですね。安心しました。そんなつもりで書いた拙著新刊『法と道徳―正義のありか』もネットで検索にかかるようになりました。bk1とかです。また、店頭ではジュンク堂などの都内大手書店にもあるようです。どうぞよろしく。

(集英社2009年1800円+税)

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2009年11月 8日 (日)

梯實圓『妙好人のことば』

 弟の17回忌の法事に行ってきました。道すがら読んだのが本書です。タイミングがよすぎる感じですが、お経を聞きながら真宗門徒の飾らないながらも深い信仰心を表わすことばを思い起こしていました。
 鈴木大拙がとりあげて有名になった浅原才市以外にも、すばらしい人びとが味わいのあることばを残しています。
 三河のおそのは「おさしつかえなし、ご注文なし」ということを二、三年いいづめにしてみなされ、きっと、お慈悲をいただくことができます、と言います。阿弥陀仏の絶対無碍の救いがこのようなふつうのことばで言い表されていて、忘れがたい味わいがあります。
 讃岐の庄松(しょうま)は文字が読めないのに大無量寿経を読んでみよと意地悪な坊さんに言われて、平然と「庄松を助けるぞよ、庄松をたすけるぞよと書いてある」と答えます。
 庄松は豪快な人物で、風呂たきとしてお代官さまの背中を流しながら、「盗み食いしてようくらい、肥えとる」といって、代官の背中をポンとたたき「ご恩忘れな」と言ったそうです。こんなことを平然として行ないながら「正直者」だということで代官からのおとがめはなかったそうです。庄松の人徳や器量のなせる技でしょうが、お代官もそれなりに人間ができていたのでしょう。
 私も天下り役人たちにこんなこと言ってやりたいものですが、庄松みたいに人間ができていないので、やめておきます。
 もう一つ挙げておきたいのはやはり、独特のリズムを持っている才市の詩です。

 子の心
 子の心は親の心よ
 親の心
 親の心は子の心よ
 親子の心 二つなし ひとつ心
 機法一体 なむあみだぶつ
 なむあみだぶつの外になし
 なむあみだぶつを 助けたり
 なむあみだぶつに 助けられたり
 ごおんうれしや
 なむあみだぶつ

 ここでは「親」というのは阿弥陀如来で、「機」は自分の身体のことだと思えばいいでしょう。阿頼耶識の境地は禅宗でなくても、才市にあってはこんな感じで到達できたのかもしれません。
 それはともかく、私の祖母もいつも何かにつけてはありがたやと感謝しながら、「なもあみだんぶ」を唱えていました。妙好人とまではいかなくても、そんなご老人の姿を目にしなくなって久しい気がします。日本人は劣化しているのかもしれません。また、もしも現在の状態から宗教意識が再生するとしたら、どんな形になるのでしょうか。
 今日の法事でも故人の霊を身近に感じることができましたが、何だか嬉しそうにしていました。冥界で元気というのもヘンですが、遺族がみんな元気だからでしょう。ありがたくもうれしいことです。
 もっとも、こんなことはあんまりはっきり見えるとかどうとか言ってしまうと江原さんになっちゃうので、話半分で聞いてもらうようにしていますが、実は弟とはあっちの世界で一緒にバスケをやろうとひそかに約束しているのです。楽しみです。

(法蔵館1989年1,500円税別)

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2009年11月 6日 (金)

日垣隆『折れそうな心の鍛え方』

 私の周囲では中年を過ぎてストレスやら過労やらで心が折れそうになっている人は少なくありません。たまたま私が鬱になっていないのも僥倖に過ぎないと思います。私の場合、週に3~4回大学生や高校生たちと一緒にバスケットボールをして、体を動かしているのが功を奏しているのだろうと思います。
 単純に計算すると9月から今週の3日の祝日まで一日も休まず働きづめでしたが、夕方からバスケットをする日は元気いっぱいなのです。明日は高校の女子チームが出場する県大会の応援に行きます。その後、職場に顔を出して書類を整理して、レポート添削をして帰宅します。明後日は法事で弟の墓のある広島へ日帰りです。
 というわけで、またしても土日はつぶれてしまいそうですが、まあ、勝手に働いているようなものですし、多少の睡眠不足になっても思いっきり体を動かした方が寝付きもよく頭も冴えます。こんなときは過労にならないようです。さらに、ナンバ走りでスロージョギングをするようになって、40代のときよりも体力がつきました。若いときにこれをマスターしていたら人生が変わっていたかもしれません。
 とか言っていると、いつかコートでぽっくりなんてこともあるかもしれません。まあ、そのときはそのときですが、いずれにしても無理しているわけではなくて、楽しくて仕方ない状態なのがいいのでしょう。

 さて、本書はサービス精神豊かな著者らしく、具体的に鬱状態から抜け出す方法が惜しげもなく開陳されています。どれも劇的な方法というわけではありません。むしろ、そんなのがあったらまゆつばものでしょう。小さなガス抜きを繰り返しながら徐々に立ち直っていくというのが本書のスタンスです。
 気に入ったのは、頻繁に入浴し、頻繁に着替えるという気分転換法です。意外とこんなことから手をつけるというのがいいのかもしれません。また、セレトニンのはたらきを正常化させるには、よく歩くこと、よく噛んでものを食べること、腹式呼吸をすることなんてのが医学的にも裏付けられているそうです。陸上の高野進氏によれば、昔の人は一日にだいたい2万7千歩も歩いていたそうで、歩かなくなった現代人は、それなりに神経が病むリスクをしょっていることになりそうです。
 ほかに効果のある手段として、出来るだけたくさん泣くことというのがあり、これも著者らしく「感動して泣ける映画」として30本が推薦されています。DVDで入手しやすいものだけが選んであり、本書を読んで是非とも見たくなった映画がいくつか出てきました。
 今までに見たものとして「ライフ・イズ・ビューティフル」が取り上げられていて、当時の感動を思い出してジーンとしてしまいました。著者のセンスを信頼して見てみようと思った映画は「グッバイ・レーニン」「やさしい嘘」「グラン・トリノ」などです。
 また、Buena vista social club は以前CDを知人にもらって愛聴していましたが、これ映画があるんですね。キューバを捨てなかった老人のミュージシャンたちのお話とは、、、是非とも見なくては。

(幻冬舎新書2009年740円+税)

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2009年11月 5日 (木)

森銑三『明治人物閑話』

 森銑三については山本夏彦のエッセーでその存在を知っていましたが、こうして読むのは初めてです。簡潔で美しい文体です。本書では、鴎外や漱石、二葉亭あるいは成島柳北などの明治の知識人や歌舞伎役者、落語家などを、適宜その文章を引用しながら手際よく紹介してくれています。
 文人の中でも著者はとりわけ斉藤緑雨の文章に惚れ込んでいるようで、実際、著者の文章は確かに緑雨のそれとリズムが似ているような気がします。私も皮肉屋の緑雨は大好きです。でも、著者は緑雨よりはずっとストレートにいい人だったのではないかと思います。
 本書を通じてかつての著名人たちがより身近に感じられるようになりました。著者の、余計なことを語らずに文章を大量に引用するスタイルは、その人物の人となりを直に味わうという効果があります。ただ、名妓を批評した成島柳北の単文の最後に出てくる漢文なんかはうまく味わえないのが残念です。せめて返り点が振ってあればと思いますが、白文で漢文を読める人なんて今ではほとんどいないのではないでしょうか。
 明治時代は和漢洋の知識に長けていなければ教養人とはみなされませんでしたから、私なんか当然失格です。ちょっとは読めるようになっておいた方がいいかなあと思いながらいたずらに年だけ重ねている最中です。情けない。
 本書や山本夏彦のエッセーに名前の出てくる登場人物に花柳小説の名手と呼ばれた作家の岡鬼太郎がありますが、読んだことはないながら名前だけを知っていたら、かつての恩師のT先生に感心されたことがありました。T先生は和漢洋に通じた最後の教養人で趣味人のお一人だったと思いますが、それでもご自分は中途半端だとおっしゃっていました。
 こうした本を通じて徐々に明治時代の知人が増えてくると、いろいろと世界が広がるという以上に人間の器量の点で当時の人びとから教えられるところがたくさんあります。自分も少しでもあやかりたいという気になってきます。文体からすると老人かと思われることのある私は、実はひそかに「目指せ天保老人」と思ったりしているのです。でも漢詩文のできない天保老人ではまったく格好がつきませんが。

(中公文庫2007年改版857円+税)

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2009年11月 4日 (水)

橋本治『大不況には本を読む』

 本書は最終章を除いて経済の話題です。1985年のプラザ合意以来の日本の経済状況がわかりやすく述べられています。独特なのはその書き方で、以下のような具合です。

 「もしも、1985年の段階で、日本が『いるんだかいらないんだかよく分からないものを“買え”などという、罰ゲームみたいなことを言われるのだったら、そんなのはいやだから、もう儲けるのはやめる。我々のいる世界経済は不健全だ』と言っていたら、世界経済は『拡大』なんかには向かわずに、『縮小』の方向へ向かっていたでしょう。そして、『世界同時不況』というような、愚かしい経済危機に直面することなどなかったでしょう。」(62頁)

 で、実際、「いるんだかいらないんだかよく分からないもの」を売りつけるのが資本主義経済の基本で、アヘン戦争なんかはその典型だと著者は考えています。ヘンなものを売りつけられ、また作らされて持って行かれるというのは植民地と宗主国の関係ですが、世界経済は確かにそういう形で最初は発展しました。
 リカードの理論なんかはそうした中でいかにも精密かつ正確に作られていますが、国際分業論なんてのは、ある意味で正確なだけに怪しいという側面もあったのかもしれません。幸せな理論だと思いますが、当時ヘンなものを売りつけられて貿易だと言われてもピンと来ないという人びとの感情にも一理あったように思います。
 さて、そんな中でそのうち自分で安くて性能のいい工業製品を日本だけが作っては先進諸国に売るようになりました。これは世界史的には考えられなかった見事な逆襲でしたが、それを達成した日本が仮に真っ先にゼロ成長経済体制に転換していたとしたら、確かに世界に貢献していたことでしょう。
 実際には日本人は相変わらずこの事態を深く考えることもせず、「物づくり日本」を推し進めて、気がつけば経済大国になってしまっていたわけですが、このいきさつをもう一度振り返って、踏み出さなかった一歩のところに立ち返って考えてみましょうというのが、本書のスタンスです。
 そこがすなわち「本を読む」という地点で、いきなりという感はありますが、「でもそうだよね」という同意が得られるような気もします。自己を知り他者を知り、自分の行く末を考えるには、結局のところ本を読んで考えるという当たり前のことが必要であり、もっとも効果的だからです。
 全体に、偶然でしょうけれど、『大転換』のカール・ポランニーの議論と近いところがあります。いずれにしても、世界経済が落ち着きを取り戻して新たな相貌を現わすことがあるとしたら、本書で描かれているような感じになるのかもしれません。

(中公新書ラクレ2009年740円税別)

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2009年11月 1日 (日)

色川武大『うらおもて人生録』

 元博徒による人生論です。人間の運とのつきあい方が書いてあります。見事です。運というものと真剣に付き合うことを考えておかなければ、堅気でも道を踏み外す恐れがあることも教えてくれます。思えば誰にとっても本当は人生はギャンブルなんですよね。
 それはともかく、本書の至る所に金言がちりばめられています。座右の書にして、折に触れて読み返すようにしたいと思います。
 元劣等生で不良の著者は、同じ劣等生諸氏に向けて愛情を込めて書いているので、同類の私は不良ではなかったにせよ、やはりほっとさせられます。優しい人だったんでしょうね。でも、優しいだけではなくて、実に鋭く厳しい観察をする人でもあります。本当の意味で他者に対して愛情にあふれた見方をする人なのだと思います。
 元々は新聞の連載コラムとして書かれたもののようですが、連載中は意外に母親の読者が多かったようで、それを受けて「お母様方へ」という章もあります。ギャンブラー的な生き方は基本的に男が多くて、著者も劣等生の若い男性向けに書いていながら、実際にはおそらく読者の反応として母親から手紙が寄せられることが少なくなかったのだろうと思います。
 そういう男の子をもつ母親もまた本書を読むとある意味で安心させられるところがあったのでしょう。だからこその読者の反応だと思いますが、本書では普遍的な魂の技術が指南されていますので、優等劣等に限らず、また母親や息子に限らず、できるだけ多くの人に読んでもらいたいと思います。母親は安心し、息子は勇気づけられ、父親ももう一勝負するかという気になることでしょう。娘は未来の夫に思いを馳せるのかなあ。
 私もまだまだこの先ギャンブル的人生が待ち受けているかもしれません。実際安定していると思っていた職種でもどんどんつぶれていく時代に入っています。大学も例外ではありません。いろんな意味で、現役として助言を仰ぎたいと思います。

(新潮文庫昭和62年514円税別)

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