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2009年11月12日 (木)

川又一英『エーゲ海の修道士―聖山アトスに生きる』

 アトスは俗世間から隔離された正教の修行の聖地です。正教信徒の学生さんから送ってもらった本で、著者の本としては2冊目になります(前の本もいただいたものです。多謝)。これもいい本でした。
 最終章の復活祭の記述は、西欧の世俗化したキリスト教に愛想を尽かしたリルケの正教観を引用したりしながら、とても美しい情景が描き出されています。かつて一度だけ見たことのあるセルヴィア正教会のミサと、学生時代にフランス語購読で読んだリラダンの『残酷物語』の中の「ヴェラ」という短編を思い出しました。そのときの担当は飯島耕一先生でした。どちらかというと学生よりも先生の方がテキストに感動されていて印象的でした。
 本書の聖大土曜日の記述を読んでいると、復活祭が正教の最大の祝祭だということもよくわかります。紹介されていたロシアの哲学者ニコライ・フョードロフの思想もいずれフォローしておきたいと思います。かのベルジャーエフが触れていたようないなかったような・・・。
 本書を読んでいて教えられたことはたくさんありますが、中でも三位一体論において、正教会が認めていない「フィリオケ」(精霊が父からだけではなく子からも発出するという説)について興味をひかれました。正教が言うとおり、これはローマ教皇による三位一体説の改竄かもしれません。
 C.S.ルイスは名著『キリスト教の精髄』の中で、精霊は父と子の「間」にはたらくと述べていましたが、このことを意識してのことだったのかということが今にしてわかりました。日本人的にはどちらでもいいような気がしてしまいますが、それではいけないのですね。難しい世界です。
 私自身、精霊はともかく、俗世間で悪霊には囲繞されている毎日ですが、仮にそんなものであっても「子」から出てくると、おそらく善悪二神論に陥るという理屈になるのだろうと思われます。ルイスは正教会の人にも目を通してもらったと書いていましたが、「間」にはたらくという表現で妥協点を見出していたのでしょう。
 しかし、現実には正教会とカトリックの間の教義の溝はなかなか埋まらない気がします。カトリックの側からは「フィリオケ」についてはどう見えているのでしょうね。

 このところ世におもねる学者やジャーナリストたちによる、世俗的な功名心だけがあふれる編集本を読まざるをえない毎日でうんざりしています。しかし、こういう本を読むと、心が洗われる思いです。アトスには一度行ってみたいものです。

(集英社2002年1800円+税)

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