白川静『孔子伝』
これはすごい本でした。読んでよかったです。本書では歴史を語る理想的な方法がとられています。しかし、方法といっても誰でもできるものではありません。死ぬほど勉強して、テクストを何度も読み込み、考えて考え抜いてこの語り口が得られるのだろうと思います。
歴史について著者は次のように言います。
「歴史的研究は、いわば追体験の方法である。追体験することによって、過去ははじめて過去となり、歴史となる。すなわち歴史としての意味をもちうるのである。しかしそのような追体験はあくまでも個人的な、また主体的な営みを通じて、行なわなければならない。その追体験の場をもつために、われわれは歴史学の方法をとるのである」(150-151頁)
このことにより本書では、これまで私が論語を通じて断片的にイメージしていた孔子その人の像が、実に鮮明に浮かび上がってきました。墨子や老荘思想との関係もよくわかります。これからも繰り返して論語を読むことはあると思いますが、そのときにはより身近な人物像が生き生きとイメージできることになりそうで、今から楽しみです。
本書では荘子の評価も高く、孔子の晩年の思想と荘子のそれが意外に近いということも納得のいく解釈です。直感的には昔からそんな気がしていたので、ちょっと嬉しい気分です。著者によれば「儒家に対するきびしい批判者とされる荘子は、その精神的系譜からいえば、むしろ孔子晩年の思想の直系者であり、孟子は正当外の人である」(208頁)とのことです。
こうした解釈を支えているのが、著者の文章に対する鋭い審美眼です。論語の文章が簡潔で美しいということをはじめ、様々な文章の味わいがわかるのは二流の学者にはあり得ないことですが、だからこそ当然、著者のような超一流の学者はこれを武器として使うことができるわけです。
ところで、この点では森銑三も文章がわかる人でしたが、それが皆目わからない二流学者相手にずいぶん消耗戦を強いられたようです。西鶴の文章から本人の手によるものは『一代男』だけだという説はいまだに通説にはなっていないようです。ちなみに世間では世阿弥と禅竹の文章の美しさ(と舞台)の違いがわからない人が一流と目されていたりするようですが、そんなことは結構どこにでもあるものです。能を本当によく見て、楽しんでいる人からは莫迦にしか見えないだろうと思いますが、本人はその冷ややかな目には気づくことなく学問的権威の安楽椅子の上にふんぞり返っています。
私の師匠の一人故T先生は生前そのあたりのことはあっさりと「あの男[世阿弥]は天才ですから」とおっしゃっていて、若年の私はすごいと思いました。それも法律哲学の授業でですよ。
今はそんな教養人はほとんどいなくなってしまいましたが、私にとっては師匠の言葉と存在が当時から自分の学問の道しるべでしたし、今もそう思っています。先生の一言一言が今でも何かにつけて脳裏をよぎります。
実際、学問や技芸ではそういうスタンスの方が本当は精神的にも自由なのです。本書にはこのことも「述べて作らず」というところで学問的伝統に触れつつ書かれています。これは昔から学問の要諦だったのですもんね。
一方、世の中の専門家たちの二流三流どころはお勉強はできても美を解さないために、研究も人生も明らかに自縄自縛に陥っていますが、本当のところ学問自体が好きでも何でもなくて、嫌々ながらの作業としてやっているので、そのことにすら気がつかないようです。気が回るのは大学や学会という世俗の場所での権勢争いだけです。
これでは孔子の思想など、わかったふりはできても、本当には理解できるはずがありません。しかし、どんな職業の人でも気骨のある人にはたちまちにしてわかるとともに、その後の人生の亀鑑として光り輝くものだと思います。
本書はそんな畏るべき普通の人にお薦めの本です。
(中公文庫2003年改版895円+税)
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