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2009年12月26日 (土)

福岡伸一『動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか』

 「生命とは動的な平衡状態にあるシステムである」(232頁)というのが著者の生命観です。生命は分子レベルでは次々に入れ替わりながらその平衡状態を個体として維持しています。
 そして、その個体がくたびれたら、生命は次世代の個体へと生命のバトンを受け渡しながら、なんと38億年も続いてきています。「だから個体というのは本質的には利他的なあり方なのである」(246頁)とも著者は述べています。印象に残る表現です。
 デカルト以来の生命機械論やドーキンスの利己的遺伝子といった思潮とは全く異なる立場ですが、私にとってはこの著者の立場の方がしっくり来ます。万物流転というかあるいは色即是空というか、一般的な日本人にはなじみやすい世界観なのかもしれません。
 そのせいか、本書を読むと、自分の体の中にもミクロの時間がめまぐるしく、しかし同時にゆっくりと流れているような(矛盾していますが)不思議な気がしてきます。分子生物学というのは面白い世界を見ているのだなあとあらためて感じさせられます。ウイルスの話は『生物と無生物のあいだ』でも読んだのですが、ここでもまたあらためてその独特の性質に驚かされます。
 わが国では以前からM.ワールドロップやJ.グリックのような科学ライターがいないなあと思っていましたが(日垣隆は例外です)、著者は第一線の科学者でありながら、読者を惹き付ける語り口と構成力をもっているおそるべき人です。
 本書の最後に出てくるライアル・ワトソンの二冊の本『エレファントム』と『ホール・ホッグ』も著者による訳が出ているそうなので、今度読んでみようと思います。鯨と象が低周波で語り合っているなんて話は、これはもう読まずにいられません。
 ワトソンによると自然界は歌で満ちているそうです。そして、本書の著者ももちろんそこに共感しています。面白そうです。

(木楽社2009年1524年+税)

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2009年12月25日 (金)

三上敏視『神楽と出会う本』

 神楽というのは各地にそれぞれ由緒あるものが残っていますが、これまでちゃんとした研究はなされてきませんでした。本書は理論的な解説も優れている上に、実際に全国25カ所の神楽を見て歩いて紹介した本です。
 神楽は、能の前身がどんなものだったのかという興味もあって、つとめて観るようにしています。と言いながら、今年の初めには神楽ではなく雪の福井県まで田楽を観に行ってきました。
 まあ、私にとっては神楽でも田楽でもいいのですが、本書で紹介されているものとしては、玉敷神社神楽と高千穂神楽、それに伊勢神楽を観に行ったことがあります。これからも機会があったら各地に足を運びたいと思っていますが、その点で本書はいいガイドブックになってくれそうです。現地へのアクセスや問い合わせ先も明記されていますし、見所がきっちりと解説されています。写真もたくさんあって興味をそそられます。
 各地の民俗芸能には日本文化の様々な要素が重層的に織り込まれているようで、興味深いものがあります。著者の本を手がかりに来年の旅行の計画を立てるつもりです。だいたいどこでもバスツアーくらいなら出ていますので、大変ですけれど、観ると結構やみつきになります。今度は隠岐の島の島前神楽にでも行ってみようかなあ。

(アルテスパブリッシング2009年2200円税別)

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2009年12月24日 (木)

能町みね子『オカマなのにOLやってます。完全版』

 生まれてきて気がついてみたら、自分の性が心と一致していないというのはえらいことです。著者は自分のことを自称で呼べないので何だか妙だと思っていたら、そういうことだったかと後で気がついたなんて、のんびりしています。しかし、同時に自分のことを「俺」とか「僕」と呼べるかどうかということからこの問題が始まっているなんて、ふつうはなかなか気がつかないことですので、貴重な記述だと思います。
 それにしても途中から別の性に移行するのには、本当にいろんな苦労があることがわかります。そのあたり機微を実に上手く書いてくれているのが本書の特徴で、頭のいい人だなあと思います。
 著者は後書きで、今ではOLもやめて、手術も施して、オカマでもOLでもなくなり、「女性」としてエッセーを書いたり、イラストを描いたりする生活をしているそうですから、いつ他のOLに男だと悟られるか戦々恐々としている必要がなくなったのは幸いでしょう。
 しかし、いろいろとすったもんだし苦労しながら生きてきた著者が「男と女の境界線なんていいかげんなもんですよー。まったく」(281頁)と言っているのは説得力があります。そういうものにこだわりすぎると大切なものを見落としてしまうということでもあります。
 何はともあれ本書はいろいろと読者の世界を広げてくれる本です。男女というのもまた異文化だということがよくわかりますので、「異文化コミュニケーション」や「比較文化論」の参考図書として学生たちにも薦めておこうと思います。

(文春文庫2009年657円+税)

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2009年12月23日 (水)

楊逸『すき・やき』

 21歳の中国人女子留学生が主人公の小説なので、ふだん留学生のお世話をしている身としては、これは読んでおかなくちゃと思って新刊を入手した次第です。
 彼ら彼女らの生態は比較文化論としても面白いところがありますが、こうした小説ではその心の中が少し窺えるのも貴重です。うちの留学生たちもこんな感じでいろいろな問題を抱えながらいつもアルバイトと勉学に精を出しているのかと思うと、ちょっと切ない感じもしてきます。
 小説の構成はかなり考えられていて、日本が学校からの同級生の韓国人男子学生から交際を迫られながらも、アルバイト先の弥生人顔のすまーとな日本人店長に惹かれていくというのは、日中韓の国際関係を暗示しているような感じです。
 そのあたりは、主人公が美人だということも含めて、ちょっとあざとい感じもしますが、アルバイト先や大学などの人間模様は面白いと思います。細かい仕掛けがこらしてあるのは、いわゆる「自然な」筆致を好む日本人作家とは違って、作家はこうして作品を作り込むのがいいという感覚があるのかもしれないなと感じました。
 知人に小説を書いている中国人女性がいて、日本語添削を頼まれたことがありますが、その人もなかなかいい感じの作品を書いています。習い覚えた外国語でものを書くというのは大変なことですが、それで論文ではなく小説を書こうというのですから、書くだけでもすごいなあと感心します。
 時々間違いではないけれどもこんな風には言わないという表現のぎりぎりの面白さがあるのは学習者の文章の特徴ですが、本書にも時々出てきます。編集者としてはどの程度手を入れたらいいのか迷うところでしょう。
 私の外国人の友人で見事な日本語の使い手がいますが、あるとき「何かろくなものはありますか」と聞かれたことがあります。ろくでもないものの反対はろくなものという発想でしょうけれど、一瞬何かなと思って、すぐに意味がわかりましたが、面白いなあと思いました。
 本書では日本語学校での外国人同士の共通語である怪しい日本語会話を堪能できます。韓国人男子学生と主人公との会話も意志が通じたり通じなかったりで、独特の面白さがあります。
 さて、文章は別にして、先の小説を書いているという中国人の知人もこの作家の発想に似た、比較文化論的面白さがあるように思いましたが、一度こういう作家が出てきてしまうと、二匹目のドジョウというわけにも行かないのが辛いところです。別の路線を開拓しなくては。
 それはともかくとして、こういう作家が出てくると、留学生はもとより日本在住の外国人にとっても、大きな励みになることでしょう。

(新潮社2009年1300円税別)

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2009年12月22日 (火)

奥田英朗『ガール』

 30代半ばのOLが主人公の短編集です。どの短編もしっかり構成されていて、読後感が爽やかでおすすめです。個人的には、時々いい小説を読まないと何だか心に潤いがなくなる気がするのですが、本書は実にいい潤いとカタルシスをもたらせてくれます。
 それにしても、人びとの生態が実によく観察され、ファッション情報も見事に収集されていて驚きです。手で口を隠しながらけらけらと笑う若いOLに対して「こっちなんか、いつの間にか、笑うときは手をたたくようになってしまったものなあ。ひどいときは足まで踏みならす」という独白が実にリアリティーがあります。どうやって取材したのでしょうね。
 OLの生態はもちろんですが、そのOLたちの目から見た男性陣の格好悪さもしっかり描かれていて、その説得力には舌を巻きます。また、職場に好男子の新入社員が入ってきたときの女性たちのざわめき方と恋のさや当てのすさまじさも勉強になります。って何の勉強だか。そう、人間の愚かさについての勉強です。
 本書に対する女性の読者の反響が大きく、共感がたくさん寄せられているのも納得がいきます。でも、だからこそ男性陣にも読んでもらったほうがいいでしょうね。ここに出てくる愚かなタイプの男性はそこらじゅうにうようよしているからです。少しは自分の鏡にしないといつまでたっても賢くなれないでしょうから。と、自戒を込めて思っている次第です。

(講談社文庫2009年552円税別)

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2009年12月21日 (月)

ビル・ローマックス『終わりなき革命 ハンガリー1956』

 1956年の「ハンガリー事件」は最近ようやく公式に「革命」と呼ばれるようになりましたが、ソ連側から見た「動乱」でも中立的な「事件」でもなく、それが革命とする理由は本書を読むとよくわかります。
 56年の担い手は本書が説くように知識人ではなく、労働者とその後に続いた学生たちでした。このとき生まれた労働者評議会が存続し、自主管理体制として発展していたなら、ポーランドの「連帯」に似たものとなっていた可能性もあります。
 現実には労働者評議会はつぶされ、カーダール体制がその他の国内勢力をも押さえつつソ連とかなり上手く妥協して、それはそれで独特のかすかな発展と延命を遂げるに至ったのですが、結局は政治的自由がなければ経済は発展しないということがわかったのが1989年の体制転換だったように思います。
 本書は、翻訳者の南塚先生にハンガリーから勲章が授与されたときの記念講演とパーティーに出席して、お土産にいただいたものですが、付録に南塚先生による1956年事件の時系列的概略史と年表も収録されていて重宝します。いい本です。当時の労働者たちの元気の良さには感動的なものがあります。
 ちなみに、南塚先生のご講演は、先生が留学された1972年当時のハンガリーの様子がよくわかり、大変興味深いものでした。結構いい時代でもあったことがわかりましたが、そのあたりの良さを支えていたのは56年組の労働者たちだったのかなと、本書を読んで感じました。当時と比べてみると、私が留学した1987年から90年にかけては制度疲労が臨界点に来ていたように思います。
 今はどうなのかというと、難しいのですが、決して悪い時代ではないと思います。そして、他の西側諸国と同様に、政治的自由が何物にも代え難いという意識だけは共有されるに至っていると思います。大衆的民主主義の制度は確かにそんなにいいものではないのですが、それでも宗教的・イデオロギー的独裁体制にならないだけでもよしとしなければならないということなのでしょう。

(南塚信吾訳、彩流社2006年2,800円+税)

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2009年12月17日 (木)

武田邦彦『偽善エネルギー』

 新刊です。著者の別の本『偽善エコロジー』と版元も装丁も同じなので、あやうく間違いそうになりました。間違って買わないか、あるいは同じ本を二冊買ってしまうかのどちらかでしょうけれど、どちらでもなくてよかったです。
 本書では次世代エネルギーのインチキがしっかり指摘されています。政府が補助金を出してくれるからと信じてババをつかまないようにしなくては。著者の他の本と同様に「へぇーそうだったの」という話題が満載です。
 著者によれば石油は消費量と新たに発見される油田の量から考えてあと30年くらいで確実に不足するとのことです。ということは、近い将来石油は不足し、今の10倍くらいに値段が上がることが予測されます。
 それで、石油がなくなると、医薬品や冷蔵庫の冷媒が作れないので、「しばらくは病人は薬をもらえず、冷蔵庫は冷えなくなる」(153頁)と考えるのが現実的だということです。たとえば電気だけでは薬はできませんからね。しかし、オイルサンドや石炭などの、石油の代わりになる資源の利用技術を進めておけば慌てなくてすむとも述べています。
 電力に関しては原子力発電で、耐震性と人災をクリアすれば大丈夫とのことで、これは大丈夫という話です。要は人びとが技術革新をどんどんやっていけるような社会風土と人材を育成することが大切だという主張です。つまり、決して悲観的ではなく、冷静に明るい未来の到来を示唆する本です。
 この流れの中では「エコ」は全く意味がないという結論にもなります。そうだろうなと思いますが、政府もマスコミもすべてが一色に染まっている現状では、本当に反時代的な本であるとも言えます。しかし、客観的・科学的データに基づいて理論的に考えるなら、本書の結論は妥当なのだろうと思います。
 NHKなんかは実に偏った報道をしていることがよくわかります。IPCCなどの報告を完全に無視しつつ、南極は温暖化して氷が減っているとか、海水面がすでに1.5メートルも上昇したとか(本当は7センチ上昇、ツバル気象庁は15センチ下がった)、ガセ情報を流しまくっています。
 笑っちゃうのは京都議定書の基準年である1990年以来、NHK自身が80%も二酸化炭素の排出量を増やしたということです(135頁)。

 NHKの職員にもインテリはたくさんいるので、IPCCの報告書を読んだりしている人は少なくないと思いますが、きっと大幹部にエコ推進者がいて逆らえないのかなという気もします。
 ニュース解説の人たちならこれくらいのことは当然知っているはずなんですけどね。せめて両論併記ぐらいのことは提案してみたらどうでしょうか。おそらく自身の保身と出世が第一なのでしょうけれど、役所や大学なんかとは違うのだから、少しは骨のある報道人がいてもいいじゃないでしょうか。
 あるいは本当に彼らは不勉強で、本なんか読まない連中なのでしょうか。最近の偏差値秀才は本を読まなくなってきているという話も聞きますので、そんなこともあるのかもしれません。

(幻冬社新書2009年760円+税)

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2009年12月16日 (水)

森田たま『もめん随筆』

 素晴らしい名文でつづられた見事なエッセーです。著者は何だかすごく肝の据わった、しかし、恐るべき情熱も内に秘めた女性のように思います。ちょっと怖いところがあって、それがまたそこはかとない魅力になっています。
 文中の登場人物も内田百閒、漱石、芥川龍之介、田村俊子、宇野千代など賑やかです。また、大阪のおばちゃんというのは昔から言動のパターンが変わっていないということもわかりました。
 本書は復刻版なので、旧仮名旧漢字で書かれていますが、大阪弁のセリフが旧仮名遣いで書かれていると、何だかとても新鮮な感じがしました。中公文庫から出ている版は未見ですが、おそらく新仮名遣いだと想像され、それだと魅力が割り引かれそうです。しかし、解説が付いていることでしょうから、買っておこうかとも思っています。
 さて、本書のどんなところが怖いかというと、次のようなところです。

「さてその廿歳の頃、男は専横極まりなきものと思ひ暮らしながら、ふとしたもののはずみから私はふらふらとその憎むべき相手と結婚してしまつた。爾来二十年いまではこの世の中に男程親切な優しい人種はないと思つてゐる。從って男にどんな不平があるかとたづねられても、咄嗟には何事も思ひ浮かんでは來ないのである。女同志のつきあひがちやうど場ちがひのするめをたべるやうに、噛めば噛む程筋が残つてくつのに引かへて、男の友人は西洋のお酒のやうに、月日がたてばたつ程まつたりとした味の出てくるものである事を二十年の歳月が私に教へてくれた」(199頁)

 うーん。これは正しいのかもしれない。この後に亭主にふるわれた暴力の数々の描写が続くのですが、逆にだからこそこの考察は説得力を持ってきます。私の友人知己の女性陣も、それからいうまでもなく配偶者も、こんな風に男性の事を考えてくれているのかと思うと、観音菩薩か阿弥陀如来かはわかりませんが、本当のところ男というものは女性によって完璧に手玉にとられているのでしょう。
 でも、妻はともかくとして、こういう女性の友人があるなら、男性としても心豊かな人生を送れそうな気がします。

(新潮文庫昭和26年、平成6年復刊520円)

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2009年12月14日 (月)

白取春彦『今知りたい世界の四大宗教』

 基本知識が正確に解説された良書です。宗教が文化の基礎にあり、人間を創っているということがなかなか理解されないのが日本人の一般的な特徴だと思いますが、その辺の事情が始めにきっちりと押さえられていて共感します。
 ユダヤ教徒キリスト教の解説が本書全体の264頁中70%を占めていて、仏教は30ページほどしかありませんが、まあ、物足りなければ他の本を紐解けばいいでしょう。基本的知識は網羅されています。
 それぞれに地図や年表、表が適切に配置されていて気が利いています。カナンの地がどのあたりにあるかとか見てわかるのは実にありがたいです。それぞれの宗教について目からウロコの情報がちりばめられています。そう、その「目からウロコ」の話(パウロの話)も忘れずに掻かれていました。
 私にとっては旧約聖書とイスラエルの歴史の話がコンパクトに書かれているのがありがたかったです。また、著者の他の本で「人の子」という言葉の持つ意味がほのめかされただけで終わっていて消化不良だったのが、本書でははっきりと解説されていて、それがダニエル書に根拠を持つ神の子という意味だということがわかりました。
 これからも本書は何かの折に参照し、読み返すことになるだろうと思います。比較文化論の参考図書にも推薦しておきます。

(講談社2006年1600円税別)

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2009年12月10日 (木)

シモーヌ・ヴェーユ『哲学講義』アンヌ・レーノー編

 昔から何度も読み返している本ですが、読むたびに新たな発見があります。実は今、一般社会人向けの講座で本書を購読しているのですが、あらためて彼女はすごいなと思わされます。
 本書は女子校での講義ノートが元になっていますが、教え子たちは幸せだったことでしょう。かつて、アランの教え子だった学生は立ち居振る舞いからしてすぐにわかったといわれていますが、そのアランの教えを受けたヴェーユの、そのまた教え子たちも、きっといい雰囲気を持っていたのではないでしょうか。いずれにしても、こんな綿密なノートを残していてくれたことに驚嘆するとともに感謝せずにはいられません。
 本書で今回最も驚いたのは、身体についての記述です。たとえば、
「身体はどんな思考よりも先に世界を分類してしまうものなのです」(24頁)という表現です。続けて「私たちが身体をもっているというただそのことによって、世界は身体にとって秩序立ったものとなり、世界が身体の反応によって整理されるわけです」(同頁)と述べています。
 頭に先んじて身体が反応するということをよく観察してみるなら、確かにこうした思考が導き出されるのはわかりますが、さらに、そこから「私たちの身体とかかわりをもつのは、全体であって細部では」なく、「身体は関係を捉える」(25頁)という具合に言い換えていくところが鮮やかです。独特の比喩的な論理展開ですが、どきりとさせられます。
 もう一つは、昔読んで救われた気がしたところですが、フロイトの「抑圧」に関する記述です。以前ここでも書いたような気もするので、簡単に引用しておきます。それは、

「私たちのなかにいる怪物どもをあかるみに引きだし、怪物どもと対決することを恐れてはなりません。カトリックでも、自分のなかに見出すものを恐れるな、あらゆる種類の怪物がそこにはいるのだから、と申しております」(121頁)

 具体的にはこんな表現になるわけです。

「おまえはいったい何を考えているの? ―人殺しよ。―さあ、もうそんなことは考えないようにしなさい」(同頁)

 そっかー。あらためて抑圧してしまって全然かまわないんだ、と若い頃の自分には腑に落ちるところがあったのです。今読んでもこの考え方でいいと思います。これはなんといっても「恐るべき子供たち」を預かる教育関係者たちにとって、実にありがたい教えです。
 そもそもフロイトはかなりの自然科学主義者でもあったため、精神的エネルギーをエネルギー保存の法則に倣って論じようとしていたというだけの話です。邪悪なエネルギーを決して甘く見るわけではなく、あかるみに引きずり出して対決せよというヴェーユの姿勢は、現代思想の前線におけるジャンヌ・ダルクのように輝いて見えます。すごい人です。

(渡辺一民・川村孝則訳、人文書院1981年1800円)

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2009年12月 9日 (水)

マイケル・ポラニー『個人的知識 脱批判哲学をめざして―』

 昔読んだ本ですが、このたび必要あって再読しました。科学の現場からの発想がいっぱい詰まった本です。ただ、膨大な細部にはかなり専門的で難しいことも書かれているので、丹念に読み通すとかなり時間がかかります。先週末の出張に持参して読み始めて、今日ようやく読み終わりました。
 マイケル・ポラニーは本書に限らず、各方面に斬新なアイデアを提供した人です。『自由の論理』がハイエクに与えた影響は明らかですし、本書の議論はトーマス・クーンのパラダイム論にも重要な示唆を与えています。後の時代に登場する複雑系の発想の先駆的な記述もありますし、本当に膨大なヒントの固まりのような人です。
 ただ、著者は文章の展開の中で発想を紡ぎ出すようなタイプの思想家ではないので、読者にとっては、いわゆるテクストの快楽が味わえるわけではありません。これだけ興味深い内容でありながら、読んでいて決して楽しくないのは、翻訳文のせいではないようです。原文で読んでもその印象は変わりません。
 これは英語が彼にとって外国語だったからというわけでもなく、ポラニーの思考の型のようです。英語の上手い下手は私にはわかりませんが、英語がポラニー家の最も優先的な家庭内言語だったこともはっきりしていますから。ハンガリー語なんかは晩年忘れていて、アディの詩だけ突然思い出したりしていたそうです。
 なお、翻訳は原文に忠実でしっかり訳されていると思います。何をどう訳したかということが明示されているので、訳語がしっくりこなくても納得はできます。それにしてもこれだけ多方面にわたる話題が登場するにもかかわらず、本当によく訳されていると思います。(ハンガリー人の詩人の名前がへんてこな発音になっていたのは、ちょっと調べてほしいと思いましたが。)
 本書の題名の「個人的知識」ですが、個人的というのは著者独特の使い方で、「私的」という意味ではもちろんなくて「身体的」と言い換えても通るような、心身一如の人格的で総合的な知のはたらきのことです。造語も多く、何だか大げさな気もしますが、頭の固い西洋人を説得するためには、こう言わざるを得なかったというのは理解できます。
 しかし、こうした知のはたらきのことは、日本人にとってはそんなに難しく言わなくても、みんな直ちに納得してくれるような気がします。お疲れ様と言いたくなります。どうも日本人はこうした現実に密着した思想については、そのショートカット的理解が得意なので、浄土真宗にしても、禅宗にしても、たちまちのうちに「わかってしまう」ところがあります。わかってしまうどころかすでに昔から実践してしまってさえいるのがすごいところです。
 そういえば、岡本太郎が太陽の塔を建てたとき、カンディンスキーが涙を流して感動して握手を求めてきたという話があります。出発点が違うのに、到達点で先回りしてしまうというのは面白いことです。本当は、出発点が違うからこそ(遅れていたからこそ)、起死回生の手段を思いついたのだと思いますが、そういう意味ではポラニーがカンディンスキーに見えてきます。しかし、ポラニーも科学思想史の中では「暗黙知」なんてなことを言い出すわけで、実は岡本太郎だったのです。
 今回再読してみて、以前よりも私自身のキリスト教の理解が多少深まったせいもあるのですが、本書がはっきりとカトリックの基本思想の枠組みに準拠して語られていることがわかって面白かったです。著者が1920年にカトリックの受洗を受けて、イギリスではT.S.エリオットとも交流があったという伝記的事実を裏付ける思想を確認できたのは収穫でした。プロテスタントの歴史家、J.ルカーチが本書を批判しているのも宗派の違いに基づいていたのかもしれません。

(長尾史郎訳ハーベスト社1985年4800円税別)

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2009年12月 3日 (木)

中村雄二郎『臨床の知とは何か』

 師匠の本を久しぶりに引っ張り出して読んでみました。弟子の中でも師匠から最も遠い方面にいて、勝手な研究ばかりしていると思っていた私でも、自分でも本を書くようになってみると、結局のところ、師の設定した問題の中でものを考えてきたのだということがあらためてよくわかりました。
 そういえば数年前に同じ門下の後輩が企画してくれた研究会で発表する機会があったのですが、発表が終わってから後輩に「中村先生と話し方がそっくりで、笑いをこらえるのに必死でした」と言われて驚いたことがあります。師匠の影響はいつの間にか身体的なものにまで及んでいたようです。
 中村先生というのは東京の下町生まれで、陽気で短気で喧嘩っ早いお芝居好きのおっさんです。ビートたけしが演じるようなキャラクターなのです。本からは想像がつかないかもしれませんが、ゼミ中は結構言いたい放題の発言で面白かったです。土曜日は朝からフランス語の読解、午後は各週で英語かドイツ語の読解ゼミを夕方までやっていました。えらく長いゼミですが、面白かったです。たまに早く終わるときは、テキストの間に演劇のチケットが顔をのぞかせていました。時間が近づくとそわそわしはじめるので、実にわかりやすかったです。いずれにしてもこれだけつきあっていたら、影響を受けないほうが不思議です。

 さて、本書は情念の問題から出発した著者の思索の歩みをたどりながら、頭でっかちな西洋思想ではなく、人間の生きる現場の思想を構築しようとするものです。著者の他の本もそうですが、本書も問題の集約から始めて、さらにその問題群の広がりを示唆するというスタイルがとられています。問題をまとめる手際の良さは天下一品です。
 こうして著者のいう「臨床の知」というものを見ていくと、本人が言うとおり、西田幾多郎の「行為的直観」や鈴木大拙の日本的霊性の問題につながっていくことがわかります。あらためてこの二人にも注目しておく必要がありそうです。
 ところで本書をよく見てみたら著者サイン本でした。新刊で出たときすぐに買って、ゼミのコンパのときにサインをしてもらったような記憶が甦ってきました。先生のやや癖のある筆跡を見ると、当時の様々な思い出も甦ってきます。
 最近昔のペンパルがあらためてメル友になってくれているので、ちょっとノスタルジックになっていますが、いずれにしても余計感慨があります。こういうのはスピリチュアルな経験だと勝手に思っています。

(岩波新書1992年550円)

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2009年12月 2日 (水)

宮地正卓『科学的認識と帰納的推論―ヒューム、ポパー、ライヘンバッハ―』

 題名に惹かれて買ってしまいましたが、よっぽどこの種の問題に関心のある人でなければ読めない本です。一般読者向けとしては決して面白いものではないからです。こういう本を読んでいると、哲学の研究論文は学問ではあり得ても、必ずしも哲学ではないということがよくわかります。まあ、それが成り立つのは学歴で守られた大学の教壇だけでしょうけれど、これでは学生はたまったもんじゃありません。
 ヒュームの読み方一つをとっても、結論としては主観的偏向といった手垢のついた一般的理解を得るために、ラッセルやエイヤー、ポパーやライヘンバッハの読みを証拠として挙げて論じています。確かによくお勉強されてはいますが、退屈です。しかし、日本は決して哲学の後進国ではないのですから、昔の京都学派みたいに堂々としていたらいいのにと思います。
 それはともかく、ヒュームはもとより自然法則と人間的自然としての本性を意図的に区別しない立場なので、それが「主観主義的偏向」だから駄目だという読み方は、馬に対しておまえは牛じゃないからなってないとでも言っているようなものです。
 同様にヒュームはヘーゲルのような観念論だから駄目という箇所もあって、主観主義や観念論をただそれだけで駄目だという決めつけは、一昔前の教条的マルクス主義の紋切り型なのかなという気もします。こんなのは私は哲学が読めませんと告白しているようなものです。まずは自分で読まなきゃいけないのに、ご自身の読みによっぽど自信がないのでしょうか(私のように断定しすぎるのも問題ですが)。
 ポパーについても問題です。ポパーの評価が教科書的に定まっていなくて頼れるところがないのかもしれませんが、ヒュームあるいはヘーゲルについての批判と同様に、明らかにピントがずれています。
 著者は、ポパーが帰納法を否定したことをライヘンバッハの立場から批判するのですが、言い方が大げさな割には大したことを言っているわけでもありません。著者によれば、ポパーは「多くの人が確信しているほど、帰納論理は有効だとは思えない」(133頁)と言うべきだということですが、その程度のことだったら、ポパーがその先に見据えている発明の論理についての言説には一切触れずにあげつらうのはフェアじゃないなあという気がします。
 いろんな思想家が出てきますが、その言葉尻をつなぎ合わせることで著者の立場が補強されているだけです。そして、そこでもやはりそれぞれの思想家の美点をとらえてその先にある問題を読者とともに考えようとするようなスタンスは全くとられていません。私が退屈と言っているのはその意味です。
 思想家の意図を全く意に介さない読解というのは、一見自由でモダンでどんなことでも言えるように見えますが、そうじゃないんです。

(日本図書センター2003年4000円+税)

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2009年12月 1日 (火)

ベーコン『ノヴム・オルガヌム(新機関)』

 本書を読むのは文庫版だけでもこれで3度目になります。研究上の必要からですが、読んでみるとやはり面白いです。さすがに古典といわれる本は違います。
 でも、ベーコンの面白さというのはあまり論じられていないような気がします。実にイギリス人らしい思想家だと思いますし、イギリスでは実際に現在でも著作が版を重ねています。もしも本書が若い人にも読まれ続けているとしたら、頼もしい限りです。
 イギリスの思想家は全体に共通して「人間の知性にはおかしいところがある」と考えているところがあるように思います。人間が論理的に一分の隙もなく論理を組み立てたとき、つい眉につばをつけて斜めから見てしまうようなところがあります。
 そういう燦然と輝く理性の光は歴史的には常に大陸からやってきたからでしょうか。その手の理性信仰に対しては、ゆめゆめ警戒を怠るなとみんなで申し合わせでもしているかのようです。そして、この流れは言うまでもなくD.ヒュームにもJ.S.ミルにも受け継がれています。
 そのあたりを伝える箇所を本書から引用すると、次のような感じになります。

「推論によって立てられた一般命題が、新たな成果の発見に役立つことは決してあり得ない。なぜならば自然のもつ精細さは、推論のそれを何倍も越えるものだから。しかし個々的なものから正当に順序立てて抽出された一般命題は、逆に新たな個々的なものを容易に指示し・提示し、したがって諸学を働きあるものにする」(24節、77頁)

 この「自然のもつ精細さ」というのが面白いところで、これに直接向き合うものとして実験と帰納を位置づけているのがベーコンの特徴です。この点でベーコンは二十世紀の単純な科学万能主義者とは随分違うところを見ているのです。
 こういう単純さの中に、微妙で重要な要素を含めて論じることができるのが偉いところです。ここには現場の直感がはたらく余地が確保されているからです。そういえば私の師匠の本に『臨床の知とは何か』というのがありました。もう一度読んでみます。
 歴史学者のドーソンは、自然科学者たちはデカルトよりもベーコンに拠ったと述べていましたが、この素朴さは科学の現場ではworkしやすいのだろうと思います。それは、考えに考え抜いて議論を重ねるポッパーの反証可能性よりも、結局のところ使えるものになっているのではないかというのが私の見立てですが、どうでしょう。

(桂寿一訳岩波文庫1978年660円+税)

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