宮地正卓『科学的認識と帰納的推論―ヒューム、ポパー、ライヘンバッハ―』
題名に惹かれて買ってしまいましたが、よっぽどこの種の問題に関心のある人でなければ読めない本です。一般読者向けとしては決して面白いものではないからです。こういう本を読んでいると、哲学の研究論文は学問ではあり得ても、必ずしも哲学ではないということがよくわかります。まあ、それが成り立つのは学歴で守られた大学の教壇だけでしょうけれど、これでは学生はたまったもんじゃありません。
ヒュームの読み方一つをとっても、結論としては主観的偏向といった手垢のついた一般的理解を得るために、ラッセルやエイヤー、ポパーやライヘンバッハの読みを証拠として挙げて論じています。確かによくお勉強されてはいますが、退屈です。しかし、日本は決して哲学の後進国ではないのですから、昔の京都学派みたいに堂々としていたらいいのにと思います。
それはともかく、ヒュームはもとより自然法則と人間的自然としての本性を意図的に区別しない立場なので、それが「主観主義的偏向」だから駄目だという読み方は、馬に対しておまえは牛じゃないからなってないとでも言っているようなものです。
同様にヒュームはヘーゲルのような観念論だから駄目という箇所もあって、主観主義や観念論をただそれだけで駄目だという決めつけは、一昔前の教条的マルクス主義の紋切り型なのかなという気もします。こんなのは私は哲学が読めませんと告白しているようなものです。まずは自分で読まなきゃいけないのに、ご自身の読みによっぽど自信がないのでしょうか(私のように断定しすぎるのも問題ですが)。
ポパーについても問題です。ポパーの評価が教科書的に定まっていなくて頼れるところがないのかもしれませんが、ヒュームあるいはヘーゲルについての批判と同様に、明らかにピントがずれています。
著者は、ポパーが帰納法を否定したことをライヘンバッハの立場から批判するのですが、言い方が大げさな割には大したことを言っているわけでもありません。著者によれば、ポパーは「多くの人が確信しているほど、帰納論理は有効だとは思えない」(133頁)と言うべきだということですが、その程度のことだったら、ポパーがその先に見据えている発明の論理についての言説には一切触れずにあげつらうのはフェアじゃないなあという気がします。
いろんな思想家が出てきますが、その言葉尻をつなぎ合わせることで著者の立場が補強されているだけです。そして、そこでもやはりそれぞれの思想家の美点をとらえてその先にある問題を読者とともに考えようとするようなスタンスは全くとられていません。私が退屈と言っているのはその意味です。
思想家の意図を全く意に介さない読解というのは、一見自由でモダンでどんなことでも言えるように見えますが、そうじゃないんです。
(日本図書センター2003年4000円+税)
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