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2009年12月 9日 (水)

マイケル・ポラニー『個人的知識 脱批判哲学をめざして―』

 昔読んだ本ですが、このたび必要あって再読しました。科学の現場からの発想がいっぱい詰まった本です。ただ、膨大な細部にはかなり専門的で難しいことも書かれているので、丹念に読み通すとかなり時間がかかります。先週末の出張に持参して読み始めて、今日ようやく読み終わりました。
 マイケル・ポラニーは本書に限らず、各方面に斬新なアイデアを提供した人です。『自由の論理』がハイエクに与えた影響は明らかですし、本書の議論はトーマス・クーンのパラダイム論にも重要な示唆を与えています。後の時代に登場する複雑系の発想の先駆的な記述もありますし、本当に膨大なヒントの固まりのような人です。
 ただ、著者は文章の展開の中で発想を紡ぎ出すようなタイプの思想家ではないので、読者にとっては、いわゆるテクストの快楽が味わえるわけではありません。これだけ興味深い内容でありながら、読んでいて決して楽しくないのは、翻訳文のせいではないようです。原文で読んでもその印象は変わりません。
 これは英語が彼にとって外国語だったからというわけでもなく、ポラニーの思考の型のようです。英語の上手い下手は私にはわかりませんが、英語がポラニー家の最も優先的な家庭内言語だったこともはっきりしていますから。ハンガリー語なんかは晩年忘れていて、アディの詩だけ突然思い出したりしていたそうです。
 なお、翻訳は原文に忠実でしっかり訳されていると思います。何をどう訳したかということが明示されているので、訳語がしっくりこなくても納得はできます。それにしてもこれだけ多方面にわたる話題が登場するにもかかわらず、本当によく訳されていると思います。(ハンガリー人の詩人の名前がへんてこな発音になっていたのは、ちょっと調べてほしいと思いましたが。)
 本書の題名の「個人的知識」ですが、個人的というのは著者独特の使い方で、「私的」という意味ではもちろんなくて「身体的」と言い換えても通るような、心身一如の人格的で総合的な知のはたらきのことです。造語も多く、何だか大げさな気もしますが、頭の固い西洋人を説得するためには、こう言わざるを得なかったというのは理解できます。
 しかし、こうした知のはたらきのことは、日本人にとってはそんなに難しく言わなくても、みんな直ちに納得してくれるような気がします。お疲れ様と言いたくなります。どうも日本人はこうした現実に密着した思想については、そのショートカット的理解が得意なので、浄土真宗にしても、禅宗にしても、たちまちのうちに「わかってしまう」ところがあります。わかってしまうどころかすでに昔から実践してしまってさえいるのがすごいところです。
 そういえば、岡本太郎が太陽の塔を建てたとき、カンディンスキーが涙を流して感動して握手を求めてきたという話があります。出発点が違うのに、到達点で先回りしてしまうというのは面白いことです。本当は、出発点が違うからこそ(遅れていたからこそ)、起死回生の手段を思いついたのだと思いますが、そういう意味ではポラニーがカンディンスキーに見えてきます。しかし、ポラニーも科学思想史の中では「暗黙知」なんてなことを言い出すわけで、実は岡本太郎だったのです。
 今回再読してみて、以前よりも私自身のキリスト教の理解が多少深まったせいもあるのですが、本書がはっきりとカトリックの基本思想の枠組みに準拠して語られていることがわかって面白かったです。著者が1920年にカトリックの受洗を受けて、イギリスではT.S.エリオットとも交流があったという伝記的事実を裏付ける思想を確認できたのは収穫でした。プロテスタントの歴史家、J.ルカーチが本書を批判しているのも宗派の違いに基づいていたのかもしれません。

(長尾史郎訳ハーベスト社1985年4800円税別)

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