« 2009年12月 | トップページ | 2010年2月 »

2010年1月28日 (木)

柏文彦『地侍の魂』

 地侍というのは鎌倉時代後期から戦国時代にかけて活躍した武装農民のことで、著者によると「彼らは何のつても無く独力で荒野を切り拓き、優れた農業技術と工夫で生活基盤を築き上げ、企画力。経営力を駆使して富を蓄積し、それから得た自由、独立、尊厳を守るために武装した人々である」(13頁)とのことです。
 この厄介な存在は秀吉の兵農分離政策により認められなくなりましたが、江戸時代には下級武士、有力農民、自立した承認といった姿に変わって、地侍の精神を発揮し続けました。当時世界最先端技術だった先物取引や複式簿記を導入したのも彼らだったそうです。
 確かにかつての江戸というのは、世界史上最も見事な社会制度と生活環境を実現させた都市だったと思いますが、そこで文化の力をどんどん蓄積していたのがこの地侍出身の人びとだったのかもしれません。
 とすれば、今ほとんどの国民がお上から何かをしてもらうことばかりを期待するような心持ちになっていることは、堕落以外の何物でもないと言えるのではないでしょうか。
 みんな誰か偉い人にぶら下がって生きていこうとしているなんてJALみたいではないですか。大学も地方自治体も補助金ばかりあてにしていると―ずっとそうでしたが―JALを笑っていられなくなります。
 本書では地方で活躍した地侍たちの姿が活写されています。本気で世のため人のために命を賭けていた侍たちがいたのですね。江戸時代なんかは地侍の末裔の方が侍らしくて、武士はみんなお役人になってしまった感があります。
 いずれにしても、これが日本の底力だということがわかります。今日の難局を乗り切るには彼らの心意気を学ぶことから始めるべきでしょう。元気が出る本です。

(草思社2009年1800円+税)

| | コメント (0)

2010年1月27日 (水)

荒川洋治『文学の門』

 著者の文章にはいつも、曰く言い難い微妙なところを丁寧に触って確かめていくような感じがあります。そして、著者によって紹介された本や詩は新たな輝きを得てこちらに迫ってきます。
 本書で紹介された蜂飼耳の『のろのろひつじとせかせかひつじ』(理論社)なんかは早速注文してしまいました。著者の適切な言葉で紹介されると、読まずにはいられなくなってしまいます。
 本書の考察でなるほどと感じたことの一つに、話を途中で切ることの効用があります。それは「話の筋が通っていれば、それでいいのだ。不都合はない。『だらだらしないな。この人の話はみじかい」という印象を与え、安心感を与える」(116頁)ということになります。
 さらに言えば「そもそも人の話を聴くことは、苦痛なことなのだ。できることならば、人の話は聞きたくないのだと思う。そうでないと感じているときでも、実はそうなのである、ということを話し手は、いつも心得ておく必要があるのだろう。[自分の話を途中で]切ることの意味も、そこにある」(117頁)ということです。
 考える文章です。読点の多さが考えるリズムを刻んでいるようにも感じられます。
 もう一つ引用しておきます。歌についてです。
 「いま歌をつくる人たちは、自分が歌をつくることだけに興味をもち、歌をかえりみなくなったように思う。これまでの名歌をそらんじたり、しっかり文字に記すことのできる人は少ない。歌の歴史への興味もうすい。おそらく自分が『濃い』のだ。自分を評価しすぎているのだ。個性というものを過剰に信頼しているのかもしれない。そこからはいいものは生まれない」(210-211頁)
 そうなんですよ。あっさり断言されていますが実に重要なことです。実際、ここ250年くらい個性というものに侵され続けてきたのが文学であり芸術だったのですが、それにもかかわらず、良い文学は奇跡的にも存在し続けてきました。
 今日では、わが国でも著者のように文学が好きで文学を語れる人は希少生物のようになってしまいましたが、文学を心置きなく語れる世の中は良い世の中であるに違いありません。文学という営みの意義もそこにあるのだろうと思います。

(みすず書房2009年2500円+税)

| | コメント (0)

2010年1月25日 (月)

クリス・アンダーソン『フリー 〈無料〉からお金を生みだす新戦略』

 タダほど高い物はないという言葉がありますが、タダの魅力には抗し難いものがあります。ハーシーの安物のキスチョコがタダで貰える場合は、消費者はスイスのリンツの高級チョコが一粒15セントでも買わないそうです。
 この魔力を持つ「タダ」の周りでお金を儲ける方法を見つけ出した人が成功を収めるという本です。実例はグーグルです。なるほどグーグルはこうして儲けていたのかということがちょっとわかってきました。
 音楽CDなんかは海賊版を認めるだけでなくて、むしろ積極的にタダにして配ってしまったほうが、コンサートの観客数は伸びるそうです。CD制作会社は儲からなくてもイベント業者は笑いが止まりません。無料を余儀なくされたCDは今日では宣伝活動と割り切るしかないようです。
 面白いのは、海賊版が出回るほど生演奏のステージの価値があがるというところで、結局人びとは何に価値があるのかということは理解しているようです。この感覚はわかる気がします。かつて忌野清志郎のコンサートに3回ほど足を運びましたが、その時のステージの印象にはどんなCDを聴いても得られないものがありました。尾崎豊のコンサートなんか行っておきたかったなあ。亡くなってからその良さに気がついていては手遅れですが。
 人びとの好みが本物志向になるのなら、複製芸術が無料になるのは―複製技術がコストゼロに近づく以上―道理にかなっています。それはそれで認めていかないといけないでしょう。
 こういう本を読むと、いつも大学経営にどのように応用できるかということを考えないわけには行かないのですが、事態はすでにかなり進んでいて、カリフォルニア大バークレー校では看板教授の講義がユーチューブで公開されています。
 そこで実際にその教授から手取り足取り直接指導を受けてみたい人が大学の門を叩くというのが狙いだそうです。私の勤め先の通信教育部でもなにかフリーのコンテンツを考える必要がありそうです。すでに自前の教科書をフリーにする大学は出てきています。科目履修生の学費を1科目までならタダにするというのもいいかもしれません。
 いずれにしても読者のビジネスマインドを大いに刺激してくれる本です。

(小林弘人監修・解説、高橋則明訳、NHK出版2009年、1,800円+税)

| | コメント (0)

2010年1月23日 (土)

岡野雅行『カネは後からついてくる! 世界一の職人が教える仕事の哲学』

 著者の本はたくさん出ていますが、どれを読んでも元気が出てきます。また、似たようなことが書いてあるようでいて、ちょっとずつ違います。サービス精神旺盛な人なのでしょう。必ず新たに教わることが書いてあります。
 本書では
 1.頭のいい人より「面白いやつ」になれ
 2.ガードの固い人より「ナメられやすい人」になれ
 3.「いい人」より「変わり者」がいい
 という3点が印象に残りました。
 アイデア勝負の人なので、1.と3.はよくわかります。「面白いやつ」には人がよってくるし、単に時代の反対を行く天の邪鬼ではなくて時代の「先」を行くには「変わり者」がいいというのもなるほどと思わされます。
 2.のナメられやすい人というのは、「ナメたいヤツにはナメさせときゃいいんだよ。そのたんびに反骨魂がたくましくなっていくんだからさ」(191頁)ということです。
 だいたい人を舐めてかかるってのは地位や権威を笠に着たバカなんだから、ムキになってけんかするのもおろかです。これをやる気に変えてがんばるところがミソですね。
 世の中には「所詮私大出でしょ」とのたまう故宮沢喜一のような人とか、沢山いますもんね。短大で教えていると「所詮短大の先生でしょ」とか「短大から大学の教員になれるヤツなんているのか」なんてことが学部の偉いさんたちの間で公然と語られているのを耳にします。
 ただ、面白いことにそういうことをいう連中に限って、例外なく学問的業績が驚くほどお粗末なのです。まあ、劣等複合意識の代償行為なのでしょうが、あまりにもわかりやすい行動様式なので笑ってしまいます。
 とは言えもちろん、いくら生意気な私でも面と向かって笑ったりはしません。「ああ、またか」と思ってスルーするだけです。でも、本書を読んでからは「改めてやる気を出してくれてありがとう」と心の中で感謝するようにします。

(青春出版社2009年1280円+税)

| | コメント (0)

2010年1月21日 (木)

日下公人『日下公人が読む 日本と世界はこうなる』

 この著者にはいつも感心させられます。著者によれば、250年続いた近代化の時代が終わって、次に来るのはポストモダンの時代ですが、それはかつて日本が達成していた価値観が再び有効になる時代でもあるようです。日本の文化の重層性には侮れない貴重なものがあるので、少し落ち着いて考えると未来へのヒントはすでに自分たちの文化の中にあるということです。
 とはいえ、インテリや官僚は外国崇拝でダメです。普通の人びとの生き方の中に今も根付いている伝統を掘り起こす必要があるのです。
 この点で著者のインテリ嫌いは徹底しています。私も年とともにあつかましくなり、この頃はインテリからは何を言われてもまったくこたえなくなりましたが、それも著者のような人たちに勇気づけられてのことです。
 著者は近代化の「二百五十年前から続いている古い考えに、ばかに自信を持っている人がいるのは困る。古い本からの試験に通った人はみな少しおかしい。落ちた人のほうが偉い。受けない人はもっと偉い、と私は自信を持つようになるまで五十年かかった。自信をつけるのは大変だった」(159-160頁)と述べています。
 なるほど著者にしても自分を偉いと思っているバカとの戦いは、かなり大変なことだったのですね。でも、自分の頭と言葉で考えることができる人は結局強いのです。

 本書でなるほどと思ったことの一つに、アメリカは古代の上に近代を継ぎ足したような珍しい国だという考えがあります。ヨーロッパの食いつめ者が作ったアメリカはまずは食べることが第一で、ヨーロッパのように感性の基礎となるべき中世がないので、モデルをいきなり古代ギリシャに求めたということです。そういえば連邦政府の主要な建物はみんなギリシャ様式の柱が正面に並んでいます。あれってコンプレックスだったんだ。
 それで、ギリシャの奴隷制も引き継いだというわけですね。こういう発想は本当に勉強になります。比較文化論の授業で早速紹介したいと思います。

(ワック2009年1238円+税)

| | コメント (0)

2010年1月20日 (水)

三浦しをん『まほろ駅前多田便利軒』

 面白かったです。直木賞受賞作ですが、なるほど納得です。
 舞台となっている東京都まほろ市というのは町田市がモデルのようですが、何だかかなり現実に忠実な感じのリアリティーがあります。登場人物も個性的で、実に巧みにストーリーが練られています。
 漫画やドラマに向いていると思ったら、実際に漫画の原作になっているようです。ドラマ的な感性というのは、当たり前の話ですが、いろいろなものをたくさん観て楽しんでいる人に備わっているものですが、その点ではわが国の漫画家というのはレベルが高いと思います。直木賞作家はこれなくしては賞をもらえないので、当然優れていますが、これが対照的に駄目なのは芥川賞作家だったりします。
 でも、もっと決定的に駄目なのは学者さんで、これは演劇や文学を研究している人でもほとんど例外なくダメです。まあ、ストーリーを分析してつまらない論文をでっち上げようとする魂胆では、ドラマ的な感性が養われるはずがありませんが、そのダメさ加減は一般大衆のレベルよりも格段に落ちるからから始末が悪いのです。
 これはわが国の哲学者でもそうで、演劇と哲学が深い関係にあるなんてことを直感できない人はたくさんいます。まあ、わが国の場合は哲学者ではなくて哲学「学者」ですから当然かもしれませんが、結局本気でものを考えていないのでしょう。
 話が飛びました。いつもですが。
 ところで、便利屋稼業の主人公と昔別れた奥さんとの問題は未解決になっているので、続編があるかもという期待はありましたが、本書の解説によると、確かに続編があるそうです。また本になるのを待ちたいと思います。それぞれの魅力的なキャラクターがもはや作者の手を離れて勝手に動き出していることでしょう。楽しみです。漫画の名作「じゃりン子チエ」みたいです。
 そうそう、いいセリフがあったので、紹介しておきます。
 「はるのおかげで、私たちは初めて知ることができました。愛情というのは与えるものではなく、愛したいと感じる気持ちを、相手からもらうことをいうのだと」(196頁)
 子どもが生まれたちょっと特殊なカップルの気持ちですが、特殊でなくてもそうですよね。気に入っています。
 
(文春文庫2009年543円+税)

| | コメント (0)

2010年1月18日 (月)

手島孝『学としての公法』

 戦後の法解釈学ではたとえ行政法でも公法と私法という分類を用いないのが主流で、公法という概念自体を用いない教科書も少なくありません。しかしその同じ行政法を運用する現場では公法概念を用いる方が便利なことも徐々に指摘されてきています。
 先日読んだ櫻井敬子の入門書にはそのあたりの事情が書かれていて、なるほどと思わされましたが、そのとき引き合いに出されていたのが本書です。本書では公法の意義とその具体的な範囲が明確に書かれているので、学会の潮流に反しているようで、法律解釈の現場からの要請に応えているという画期的な本です。
 思えば、政治学などでは昔から行政国家現象ということが言われていて、現代社会では行政サービスが肥大化し、それに伴って行政府の権限が過剰に大きくなるといけませんね、というノリでした。行政が肥大化するということは、当然その根拠となる法律条文がほかならぬお役人によってのべつ幕なしに制定されてきたということと表裏一体をなしていて、このことを法学では「法化」などと呼んでもいます。
 民主政治というのは国民の意志によって動くので、個人の要求にどんどん応えていけば、必然的に行政国家になり、条文や施行細則だらけの法化現象が起こってくることになるでしょう。
 そしてそのとき、私権の拡張と相互的な衝突だけでなく、それを抑えるべき公共性が確立されないと、やっぱり法解釈に正義が反映されないのではないかということです。正義の要請はかつての西洋のように神や国王からではなく、国民国家の公共性という(これも神の代理品みたいなものですが)少なからずフィクショナルな観念から出てくることにしたのが近代法治国家の取り決めです。
 こうして自己原因に基づく法的正義、つまり、法はその正しさを法の中にしか求めないという正義観が生まれてくるわけですが、宗教的正義でもなく政治的正義でもないこの正義観が根付いてこないと本当の意味での近代民主主義にはなりません。そして、著者の意図はこうした法的正義が具体的に示される領域として公法を捉え直すことにあるようです。
 特筆すべきは、著者の教養が古今東西にわたって広く深いため、話があちこちの古典の内容に飛んでは時々主題に戻ってくるという不思議でとらえどころのない叙述スタイルになっていることです。
 きっと著者の講義を聴くとめっぽう面白いのでしょうけれど、この「ですます」調でなおかつくだけた感じの文章は、読む方としてはちょっと戸惑います。一般的な法学者の語り口ではないので、きまじめな人にはつらいかもしれません。早くポイントをまとめてくれ、と言いたい人もいるでしょう。もちろん極めて大事なことも書かれていますが、理論書という感じではなくて、不思議な味わいの本です。
 おそらくかつて法学者に教養があった時代の法学者に向けて書かれた本なのでしょうが、今の法学者は生活も研究もすべての面で余裕をなくしていて、教養人とはほど遠く、とても著者みたいに読書していないと思われます。
 というわけで、たまたま私は面白いと思って読みましたが、この内容で一般書というわけにもいかないので、一般的な読者がつくことはあまり期待できそうにありません。でも、法学部の学生なんかには是非とも読んでもらいたい本です。

(有斐閣2004年2200円+税)

| | コメント (0)

2010年1月15日 (金)

P.K.ファイヤアーベント『知についての三つの対話』

 科学哲学者の中で一番私の肌に合うのがこの毒舌の情熱家ファイヤアーベントです。演劇好きの著者らしくこの対話編はスリリングでした。登場人物に託して言いたいことも思いっきり言っています。
 著者の他の本からも薄々わかっていましたが、ポパーのことをほとんど認めていないのですね。「ポパーは哲学者なんかじゃないって。彼は形式的衒学者だよ。だからきっとドイツ人は彼のことが好きなんだ」(103頁)なんて言っちゃってます。
 確かに、私もこのところ必要あってポパーを読んで、こまでは言いませんが、同じような感想を持ちました。ポパーって中身がないのですよ。それだったらマイクル・ポラニーのほうがずっとましだよねという感じは本書にも出てきて、同感です。(もっとも、著者の『自由人のための知』ではポラニーも批判されていましたが。)
 ポパーと言えば、実は、旧帝大系の学者さんの中には「ポパー命」のような人たちも少なからずいらっしゃるので、日本でも場所を選ばないと、こんなことは言えない空気があります。しかし、これをファイヤアーベントはもっとポパーシンパの多い欧米の知識社会で堂々と発言するのだから、ポパー学派ないしは批判的合理主義者たちから蛇蝎のように嫌われるはずです。ファイヤアーベント批判の大合唱本というのも出ているくらいです。
 しかし、ファイヤアーベントとは『自由人のための知』以来の付き合いですが、今にして思えば、私自身かなり影響を受けている気がします。特に、認識論や方法論を含む「根本的な問題の解決のためには専門家(医者や科学哲学者その他諸々の)からそれを奪い返し、市民の手に委ねよう」(241頁)という魅力的な提案については基本的に同意するのですが、その問題を具体的にどうしたらいいかということずっと考え続けてきましたし、今も考えています。
 本書の存在はこの文庫で初めて知りましたが、読み応えがありました。本当に面白くて魅力的な人です。自伝もまた読み返してみます。それと、本書の中で著者が評価しているレッシングやブロッホの本もこれから読んでみようと思います。

(村上陽一郎訳ちくま学芸文庫2007年1300円+税)

| | コメント (0)

2010年1月13日 (水)

森田たま『今昔』

 1951年に出版された同盟書籍の復刻版です。『もめん随筆』から14年を経て、著者57才の頃の本です。登場人物が次第に現代に近づいていて、登場する人の名前も林芙美子や芝木好子、平林たい子、久保田万太郎、草野心平といった最近の人が出てきます。岩波茂雄や小泉信三なんて人も出てきます。
 著者の文章の味わいは変わっていませんが、年齢のせいかもしれません。ちょっとさっぱりした感じになっています。それでも、このジャンルは「怪しうこそ物狂ほしけれ」の世界で著者の狂おしき世界が時々垣間見られてぞくっとさせられます。だからこそのファンなのですが、この著者の世界は独特です。
 本の装丁はきれいですが、復刻版にもかかわらず、新漢字、新仮名遣いに変えられているのが残念です。著者の文章は旧仮名遣いだとより一層美しさが引き立つのですが、そのあたりは先日書店で見た中公文庫版の『もめん随筆』は旧仮名遣いでしたので、感心させられました。
 旧版をおそらくスキャナーで読み取って、新仮名遣いに打ち直していったようで、「ございます」が「ごぎいます」(81頁)とあったりするのはそのせいかと想像されます。また、本文の割り付けがヘンなところもあって(94-95頁)ちょっと笑えます。しかし、年譜や著者の写真が載っているところはサービスが行き届いています。
 若いときの写真を見ると、雰囲気が作家の中沢けいに似ています。資質も似ているような気がします。そういえば大学の頃はキャンパスに中沢けいのほか、当時すでに漫画家としてはちょっと違った名前でデビューしていた山田詠美もいましたし、演劇では川村毅もいたし、文学を志している仲間たちにとっては完全に水をあけられた感じがありました。そして、そんな連中は原稿を書くでもなく新宿で悄然と朝まで飲んでいたりしていました。
 私もたまにつきあっていましたが、作家志望ではなかったのは幸いでした。かくいう私も実は当時サックスを吹いていたのですが、すでに同年代で天才的な腕を持つ西直樹なんてピアニストがいて、まあ同じような気分を別の場所で味わっていました。
 でもまあ、そんなメジャーデビューできない連中も、自身の才能に見切りをつけて、それぞれに立派なサラリーマンになっていったようです。ただし、私はまだちょっと道を踏み外したままでいるような気がしていますが。

(暮らしの手帖社2005年1600円+税)

| | コメント (0)

2010年1月12日 (火)

櫻井敬子『行政法のエッセンス』

 著者については橋本博之氏との共著『現代行政法』が好著だったので、以前から注目していましたが、本書は入門書として理想的な出来栄えです。高木光の『ライブ行政法』の改訂新版が出るのを心待ちにしていましたが、本書はそれをしのぐかもしれません。
 本書では中央省庁や司法制度の改革といった今日的なトピックが前半にまとめられていて、後半は行政法の基本原理と行政救済法が手際よく解説されています。行政法の現場のホットな情報も満載で勉強になりました。窓口指導なんて行政法の本で読むのは初めてですが、面白かったです(129頁~)。
 冒頭の「本書の使い方」というところで、初学者と既習者で分けて読み進む章の順番などが指示されていますが、そのあたりの構成も考え抜かれていて心憎いくらいです。こういう本が書ける人は本当に優秀なのだと思います。
 文体は「ですます」調で親しみやすいのですが、辛辣なことも結構書かれていて、かなり「熱い」人だなあという印象です。行政法学者には珍しいことに、本人が楽しんで研究に取り組んでいることが伝わってくる元気のいい文章です。
 前半では中央省庁改革における内閣機能の強化がきっちり評価されているのが特徴で、これは昨年の政権交代以降どうなっていくのかということも含めて、著者の考えを聞いてみたいものです。学生の頃なら著者の教える大学に聴講に行ったかもしれません。
 著者は最高裁判決のおかしいところも容赦なく批判していて、怖いもの知らずという感じですが、きっと、審議会委員なんかになろうとして時の政権に色目を使ったりするようなところがまったくないためでしょう。
 『現代行政法』も第二版が出たようなので、近いうちに買って読んでみたいと思います。

(学陽書房2007年2200円+税)

| | コメント (0)

2010年1月10日 (日)

藤野登『論理学―伝統的形式論理学―』

 この年末年始に帰納法について文章をまとめるにあたって、この学生時代の論理学の教科書を引っ張り出して読んでみました。ついでに図書館にある何冊かの論理学の教科書にも目を通しましたが、形式論理学の解説書としては本書が一番よくできていました。
 これに合わせてベーコンとミルの帰納法も調べてみましたが、本書ではそのあたりも正確にまとめてあって、原書にあたって正確な記述を心がけているように思われ、著者の誠実さに感心しました。こんなことは当たり前のようでいて、専門の学者でも手を抜いていい加減な記述でお茶を濁す人が少なくないのが実情です。
 大学当時の論理学のI先生が選ばれただけのことはある本です。今でもネット上には載っていますので、注文すれば入手できるかもしれません。昭和42年初版で15年以上版を重ねていますから、かなり息の長い本ですが、それだけのことはあります。こうした基本的な事柄と思考を押さえてある本は、こちらがあらためて物事を基本的に考えようとするときに、本当に参考になります。
                *
 帰納法と言えば、個別の事実から一般原理を引き出すという、いわば実証科学が拠って立つとされている方法ですが、カール・R.ポパーなどは「帰納法は存在しない」とまで断言して、『科学的発見の方法』などで思いっきり攻撃しています。しかし、ポパーに言われなくても帰納法がヘンなことは論理的には誰でもよくわかります。
 そういうポパーの論理は反証可能性も含めて確かに論理的によく構築されていますが、正しければいいってものでもないのが実は科学的発見の現場の論理のようです。ポパー自身、科学的発見は形而上学と深い関係があることを認めてもいるので、そのあたりは決して石頭ではないのですが、では形而上学と科学的発見の関係はどうなのかというと、そこは論じていなくて読者としては不満が残ります。

 この点は自身並外れた科学者でもあった科学哲学者のM.ポラニーが『個人的知識』や『知と存在』でしっかり展開しています。ポパーの反証可能性についても「自己ー批判的な厳格さの偽りの装い」と言って批判している箇所があります(『個人的知識』255頁)。ポラニーは『個人的知識』では形而上学的立場あるいはキリスト教的立場をほとんどさらけ出してまで発見の論理を展開していて爽やかです。懐疑的な立場を批判する以上、自身の信念を前面に出さざるをえないのでしょうけれど。
 ちなみにポラニーは、1919年にハンガリー人でカトリックのマグダ・ケメーニと婚約する数週間前の10月18日に、カトリックとして受洗していますが、奥さんの話ではいつまでカトリックだったか判然としないそうで、一説にはポラニーは1934年頃からプロテスタントの立場に立っていたとも証言されています(Moleski,Martin X.,Personal Catholicism, Washington,D.C.,2000,p.51)。
 ポラニーは形而上学の重要性についてはおそらくポパーと同様の考えをもっていたと思われます。しかし、そのポラニーはポパーとは違って帰納法自体については何も文句をつけていません。現場の科学者たちにとっては仮説と検証を自在に行き来し、修正を重ねることが重要だったからでしょう。帰納法自体はいい加減な論理ですが、実験さえしっかりしていればいいというのが科学者の流儀のようです。

 帰納法が発見の論理につながるというのは、ミルの議論が有名です(ところで、ミルの英文は昔さかんに東大入試に使われたそうですが、確かに適度に構文が込み入っていて偏差値の高い受験生向けの問題に適しています)が、ベーコンも独特です。しかし、このあたりを科学史や科学哲学と結びつけて研究している人はあまりいないようです。
 ベーコンの帰納法が顕在表や欠如表そして程度表といった表を用いるのは、発想が古来の修辞学や記憶術にあるからだと思います。ロッシの『魔術から科学へ』は思想史としてはいいのですが、科学的発見の論理からベーコンの帰納法に光を当てた論考があったら是非読んでみたいと思います。あ、そうです、林達夫の著作集の未読の巻を調べてみます。

 以上、論文には書かなかった研究上のこぼれ話です。こうやって書いておけば、いつか何かの役に立つかもしれません。読んでくれた人には長くなってすみませんでした。

(内田老鶴圃昭和42年900円)

| | コメント (0)

2010年1月 8日 (金)

奥田英朗『ララピポ』

 これは何とも痛々しい小説ですが、著者の他の作品と同様、読後感は決して悪くありません。裏表紙の宣伝文に「下流文学の白眉」とありましたが、社会の隅っこにいる情けないけれどどうしようもない人たちの群像悲喜劇です。
 かなりえげつない性の問題を扱っていますが、シュニッツラーのロンド(輪舞曲)みたいな感じで全体が構成されているのはさすがです。登場人物に男女を問わず、ここまでうんざりするほど自己観入できてしまうのは著者ならではでしょう。
 要は、人間は愚かだなあということがしみじみとわかる小説で、悲惨な話が連作になって見事につながっています。中でも一番すごい人物造形は、体重90キロの「デブ専裏DVD女優で口述筆記されたエロ小説のテープリライター」という女性ですが、これはこれで実にしたたかな女性でもあって、現実に十分ありそうな気がしてきます。
 その登場人物がこう述べています。

「世の中には成功体験のない人間がいる。何かを達成したこともなければ、人から羨まれたこともない。才能はなく、容姿には恵まれず、自慢できることは何もない。それでも人生は続く。この不公平にみんなはどうやって耐えているのだろう」(298-299頁)

 しかし、この小説の登場人物たちと実は紙一重のところに自分の人生もあるのです。違いがあるとしたらささやかな幸運だけでしょう。登場人物の中にはW大政経学部卒の対人恐怖症のフリーライターが出てきます。学歴だけは彼の誇りですが、対人恐怖症のため、どんどん仕事を失っていきます(でも、こういういやーな感じの学歴差別意識を露骨に持っている人は大学には結構いますね。こらえきれずに口に出す人もいます)。この人物は学歴エリートの意識を捨てられないだけに一番惨めな感じになっています。
 実際、私も現にいつ職を失って食い詰めるか分かったものじゃあないですし、そうなったら自分でも何をしでかすか分かったものじゃありません。今こうして何とか無事に生きていられるのも本当にありがたいことです。感謝しなければいけない人がいっぱいいすぎて、南無阿弥陀仏とでも言いたい気分です。

 ところで、ララピポというのは一種の空耳です。渋谷の街を歩きながら登場人物が耳にした言葉ですが、もとは英語です。そういえば、その昔、レット・イット・ビーが「レリピー」に聞こえたのを思い出しました。最近はラリピーというのもありましたね。いやシャブピーでしたっけ。

(幻冬舎文庫平成20年600円+税)

| | コメント (0)

2010年1月 7日 (木)

土屋賢二『われ大いに笑う、ゆえにわれ笑う』

 本書を古本屋で見かけて、最初の数頁を読んでみて、未読だったことに気がつき買ってきましたが、読んでいくうちに一度読んだような気がしてきました。同じようなタイトルの本がたくさんあるのは著者の作戦かもしれません。でもまいっかと思って読み進めていくと、やっぱり読んでいなかったような気がして、結局どうでもいいやという気になって読んでしまいました。
 とにかくこれだけ冗談ばかり書いてあるのはすごいことです。毒にも薬にもならない自虐的なギャグが多いのですが、時々無性に読みたくなります。これは中毒症状かもしれません。
 ところが、著者本職の哲学では結構すごくて怖い人みたいなことが、野矢茂樹の『論理トレーニング』のあとがきに書かれていて、実はカミソリのように鋭い人なのかもしれないという気もしていましたが、このユーモアエッセーシリーズを読む限り、そんなことをまったく感じさせない徹底ぶりです。だからこそすごい人なのかもしれません。
 著者の語り口は、イギリスの作家のジェローム・K.ジェロームのユーモアセンスに似たところがあって、語り手自体がずれているというとぼけた味わいがあります。このセンスを著者はどこで身につけたのでしょう。興味があります。
 そういえばそろそろ著者も大学を定年になる年齢かと思いますが、そうなると、今後のエッセーでは助手とか学生の話が出てこなくなるかもしれないので、ちょっと寂しい気がします。どこかの私学でさらに教え続けられて、またちょっと変わった話題が登場することを期待したいと思います。

(文藝春秋1996年1381円+税)

| | コメント (0)

2010年1月 6日 (水)

奥田英朗『ウランバーナの森』

 めっちゃ面白かったです。主人公のモデルとなっているジョン・レノンのファンにはたまらないだろうと思います。
 ウランバーナというのは盂蘭盆で、お盆のことですが、1970年代にしばしば日本に長期滞在してヨーコの主夫をしていた当時のジョンが主人公です。軽井沢の旧家での一夏のスピリチュアルな体験というわけですが、お盆ですからいろんな亡霊たちが彼のもとを訪れるわけです。
 設定もストーリーも実によく練られていますし、私は詳しくないのですが、解説によると、どうやらレノン関係の資料もきっちり押さえてあるらしく、そのせいか細部の描写にも驚くほどリアリティーがあります。このあたり奥田ワールドの面目躍如です。
 亡霊たちが出てくるというのはまるで日本の能みたいですが、そのあたりも意識しているのが、この作家のすごいところです。橋がかりにあたる橋も出てきますし(その橋が笑い声を上げたりもします)よく考え抜かれています。そして、ジョンゆかりの亡霊たちが日本の霊的世界ともリンクするのがこのウランバーナの森というわけです。とにかく、こんな小説を書けるなんて楽しいだろうなあと思わされる本です。
 今までジョン・レノンはそんなに好きではなかったのですが、この小説を読んでからはぐっと親近感がわいてきました。

(講談社文庫2000年571円税別)

| | コメント (0)

2010年1月 5日 (火)

五日市剛さんの「ツキを呼ぶ魔法の言葉」講演筆録

 正月に家内の実家に行ったとき、義父からもらって読みました。なんと本書は書店では入手できないにもかかわらず、口コミで100万部以上売れているそうです。でも、読んでみると納得です。
 本書の「魔法の言葉」というのは、著者がイスラエルを旅行したときに知り合ったおばあさんから教えてもらった「ありがとう」と「感謝します」という二つの言葉で、これををどんなときにも意識して口に出すことで幸運が舞い込んでくるそうです。以前読んだことのあるダイアー博士の本にも共通するものがありますが、もっと具体的な言葉として語られているのが特徴です。
 それで、どうやら「ありがとう」という言葉は急な不幸に見舞われたときなどに、どちらかというと魔除けの言葉として使って、不運の連鎖を断ち切るもののようで、「感謝します」は本当に感謝するときに使うようです。
 なるほどそれでは試してみようかと思って、昨日なんか通勤電車に乗ると、マスクをしていない若者が、いかにも風邪ですって感じの咳を車両内で思いっきりしまくって平気な顔をしていたり、喫煙禁止地域で平気で喫煙していたりするのに出くわします。うーん、「ありがとう」ってこんなときに言うのはやはり修行が要るようです。
 このように「ありがとう」を言うのが難しいときには「南無阿弥陀仏」にしてみるのはどうでしょうね。妙好人みたいですが、いいかもしれません。もっとも、言われた方はびっくりかも。
 それから、汚い言葉を使って人の悪口を言うのは逆に不幸を呼び込むことになるとも説かれていて、うかつに莫迦とかくたばれとか言えなくなります。これも私としてはかなり修行が必要です。
 しかし、自分の周囲を見渡してみても、確かに不平不満と人の悪口ばかり言っている人は明らかに不運のスパイラルに入っていますし(そういえば、そういう人って他人のことに関心がなくて、自分の話しかしないように感じます)。
 その一方で、ありがとうと言ってにこにこしている人には確かに幸運がやってきそうな気がします。それから、そういう人は相手の話に興味を持って耳を傾けてくれるタイプの人が多いようです。結局幸運というのは、人に好かれることから始まるということでしょうか。
 やっぱり「ありがとう」から始めてみます。

(とやの健康ヴィレッジ2004年8月発行400円)

| | コメント (0)

2010年1月 4日 (月)

福岡伸一『世界は分けてもわからない』

 分子生物学というのは高度な理論と地道な実験・観察との間にかなりのギャップがある分野のようです。細胞を手作業ですりつぶしたりという仕事の煩雑さは読んでいるだけでもいやになるくらいです。本書の後半には天才的に手際よく捏造データをこしらえた人物も登場してきて、何ともおそるべき世界だと感じました。
 指導教授の求めるとおりの理想的なデータをそろえることができれば、学会で名をあげ、世間的な成功が約束されるのですから、そこに天才的な捏造家というものが登場してもおかしくありません。
 しかし、そうして捏造したデータが実証する仮説が結局のところ、後時代の科学者たちによってその正しさが証明されてしまったことで、皮肉というか何というか、本当に不思議なことです。
 著者はちょっとミステリー的なタッチで、このミクロの世界をわかりやすく説明してくれます。おしゃれですね。読者が多いのもうなずけます。いい本でした。

 年末年始は論文を書くのに忙しく、また、通勤電車にも乗らないので、ブログ用の本を読むわけにはいきませんでした。でも、今日から再開です。4日から勤務というのも学校としてはちょっときついかもしれません。でも、授業時間を確保せよとのたまう文科省には逆らえないのです。
 読者の皆さんにとっても今年がいい一年でありますように。
 それから、この休みの間の論文執筆途中で読んだ本についても、感想を徐々にアップしていきたいと思います。

(講談社現代新書2009年780円税別)

| | コメント (0)

« 2009年12月 | トップページ | 2010年2月 »