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2010年3月31日 (水)

佐藤光『マイケル・ポランニー「暗黙知」と自由の哲学』

 M・ポランニーの最良の紹介書です。単なる解説ではなく、著者が
言いたいことはしっかり言っていて好感が持てます。著者の専門の経済学からポランニーの経済理論を扱ったところは実は他にほとんど研究がなされていないエアポケットだったりしますので、門外漢の私には特に勉強になりました。
 また、ポランニーの宗教論も特にわが国では盲点でしたが、著者は果敢に攻めています。著者が註の中で記しているように、栗本慎一郎氏が「ポランニーの生命観の神学的合意を欧米の研究者のように敷衍するのは禁欲すべきだ」言っているのに対し、異教徒にもそれなりの理解と議論は可能であり、宗教的基盤の相違を持って議論を差し控えるとすれば、日本人には、当分の間、西欧哲学の宗教的側面を論じることが不可能ということにもなりかねない(255頁)と述べているのは正論でしょう。
 ただ、実際のところ当時聖書を真剣に読んだ経験すらなかった栗本氏の議論は「俺のわからないことは言わないでくれ」ということにすぎないので、日本人でも西洋人でも勝手に論じればいいと思います。実際、西洋人でもキリスト教や聖書の理解がでたらめなインテリも少なくありません。そんな人間にはダメ出しをすればいいだけのことです。
 ただ、残念なことに、本書では実際、著者のキリスト教理解が十分でないように感じました。ポランニーの著作は実にうまくまとめてありますが、ポランニーは露骨なほど明らかにキリスト教的立場を打ち出していて、そこを著者は今ひとつわかっていないような気がするからです。
 ポランニーの伝記的資料を読んでもはっきりと1920年代にカトリックの洗礼を受けたことと、後年カトリック的立場からプロテスタント的聖書理解に傾いていたことが記されてますし、あるいは奥さんから証言されたりもしています。シェーファーやルイスやピカートの本は、著者の守備範囲外のところにあるのかもしれませんが、いわゆるクリスチャンシンカーの本に親しんでいると、ポランニーはすんなり入ってきます。思想史の裏街道を少し歩いていただくと、より読みごたえのある本になると思いますが、どうでしょうね。
 なお、ハンガリーの人名が英語風発音になっていて、そのあたりも調べていただけたら良かったのにと思いました。論文が言及されている私の先生のナジ・エンドレもナギィとかになっています。誰のことかと思いました。

 でも、全体には本当によく勉強されていて、すばらしい本だと思います。

(講談社2010年1700円税別)

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2010年3月30日 (火)

鈴木大拙『禅とは何か』

 平易な文章で高度なことが述べられているすごい本です。仏教の興りから禅への展開が端的にまとめられていて、仏教史の概略もわかった気になります。
 仏教が真理の単なる認識論にとどまらず、他者および社会性を含んだ具体的で実践的な効用を持つように展開していく様子が実にうまいこと書かれています。

 もちろん仏教も宗教ですから、神秘性を根底に持っていますが、その神秘のあり方を「受動的な」ものとしてとらえるところがまた面白いと思います。そのあたりの境地は禅でも南無阿弥陀仏と唱えても変わらないとまで言い切っています(198頁)。なるほど著者は『日本的霊性』親鸞も鈴木正三も妙好人も同じ境地にあるととらえていましたが、それはこの受動性の理解にあるのかと腑に落ちるところがありました。
 受動性というのは「自分よりも大きいものが、自分の占めておった平面にはいって来たということ」(202頁)で、ちょっと長くなりますが以下に引用します。

「自分がその中に自分より以上のものを感ずると、自分というものがなくなる。そのなくなったところから自分というものがあるということになる。そこにありがたい気分がわくのである。その自分がありがたいという心持になると、その時はかえって自分がなくなるときである。ありがたいということは、自分のある間は出て来ない。自分がない―自分がないということは、消極的の、ない、ということではなくて、自分よりも以上のものが自分に来たということの意味である、その自分よりも以上のものが自分に来たというときに、自分というものは感ぜられない、そのときにかえって自分がありがたいということが本当に感ぜられるのである。これが神秘ではあるまいか」(203頁)

 こんな具合で著者には独特のリズムと論理があります。この他に「山川国土悉皆成仏」の元になる思想がすでに仏陀のことばの中にあることも指摘されていて、興味は尽きません。いずれは著者の全集を入手して本腰を入れて取り組む必要がありそうです。

(角川ソフィア文庫平成20年改版)

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2010年3月27日 (土)

ロンブ・カトー『私の外国語学習法』

 大学を出るまで語学が苦手だった著者は、本書で紹介されている方法によって他国に留学したりしないで、16ヵ国語をマスターしてしまいました。5ヵ国語の同時通訳、10ヵ国語の通訳、16ヵ国語の翻訳者として活躍したという超人的な人です。
 しかし、その方法というのは決して奇を衒ったものではなくて、週平均10~12時間の学習時間を確保することを最低限の条件として、読書を中心に取り組むものです。
 しかし、この読書中心というのが特徴的ではあります。とにかくわからない単語が出てきても辞書を引かずに文脈からその意味を想像しながら読んでいくというものです。小説なんかを読むなら結構行けるかもしれません。
 確かに、興味がある分野の本を選んで、どんどん読んでいくというのは、あとから単語の意味がわかったときには、電光石火のように全体が了解されて、パズルを解くような面白さが得られます。
 かつて清水幾太郎がこの方法を勧めていましたが、やってみると途中で何だか不安になってしまって、どうしてもパズルのように楽しむには至りませんでした。当時は今ひとつ著者を信頼していなかったのでしょう。しかし、思えば清水幾太郎もまた語学の達人でしたね。

 それならばと、ここで心を入れ替えて、この方法を徹底してみることにしました。早速C.S.ルイスのTill We Have Facesという小説を読み始めたところです。これは翻訳がひどいところがあるので、原文で読みたいと以前から思っていたものです。数独パズルのようなつもりで読んでみます。
 面白そうなことを自分自身を実験台にしてやってみるのは結構好きなので、ナンバ走りやスロージョギングなどに続いてやってみるつもりです。それらしい成果が上がったら報告します。
 そうそう、スロージョギングは確かに効果的です。歩くより遅い速度で30分~40分走ることを続けると、驚くほど持久力がつきます。いまだに学生たちとバスケットボールのゲームができるのはこのおかげです。

(米原万里訳ちくま文庫2000年950円+税)

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2010年3月26日 (金)

鷲田小彌太『「知」の勉強術 大学時代に何を学ぶか』

 著者の美点がよく出ている本です。こういう人生指南の書は著者のサービス精神とあいまって、しばしば道を見失いがちな若者たちにとって有益だろうと思います。決して説教臭いわけではないので、受け入れられやすいのではないかと思います。
 著者は悩み多い時期には大いに悩みなさいと言います。ただ、その際に大きな力となるのが、読み、書き、考える力だということで、そうした力を獲得する方法が説かれています。
 その点では実際のところ、若者でなく中年にとっても役に立ちます。ただ、学生時代には学生という身分だけでいろんな人と出会うことができるという特権もあります。本書ではそのことも含めて「終生の師」のもとに飛び込んで、ひたすら奉仕することの意義も書かれていて印象的でした。
 いわゆる「鞄持ち」は「その先生から知識や技術を学ぶ、生き方、生活のスタイルを学ぶ最良の方法なのです。ですから、若いときには、下働きは買ってでもしたほうがいい」(180頁)と著者は言います。同感です。どうも、これをやっている人とやっていない人とでは研究者になってからでも何か味付けが違うような気がします。
 たぶん師匠は師匠でそのまた師匠から同じように学んできたことがあって、その知的運動に参加しているという感覚がいつの間にかスタイルとして身につくのでしょう。その影響は自分の計り知らぬところで現れていて、気持ちが悪いくらいです。自分自身年をとるにつれて、ますますその感が強くなってきています。
 師匠の声は頭の中でしょっちゅう響いていますし、立ち居振る舞いも今でも目に浮かぶので、いつの間にかそれに自分が似てきていても、もはや修正は効かないのです。こりゃあ呪いの一種かもしれません。師匠畏るべしです。

 ところで、著者が薦める日本と日本人を知るための的確で簡単で楽しい道というのは司馬遼太郎の本をその代表作に限って時系列に読んでいくことだそうです。これは確かにいいかもしれません。まだ読んでいない『空海の風景』から『義経』という具合に順番に読んでみたいと思います。

(KKベストセラーズ2000年667円+税)

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2010年3月25日 (木)

養老孟司『養老孟司の〈逆さメガネ〉』

 著者の議論はいつも筋が通っていて曖昧なところがありません。わからないことはわからないこととして扱いますので、ごまかしもありません。
 しかし、そう思ってそのまま読んでいくと、結果的に世間一般の思い込みと正反対の結論に至ることがあり、それを本書では「逆さメガネ」と言っています。それはがたとえば、心に個性があるのではなくて、身体に個性がある(144頁)という言い方になったりするわけです。
 こうした世間一般の思い込みというのは、それぞれの個人の思い込みであり、本当は日々流転し生成変化している世の中の現象を、自分自身の身体も含めて、その中に閉じ込めようとしています。
 著者の言う「唯脳論」や「脳化社会」というのもそういうことで、「自分は自分である」という意識の働きが「自分は変わらない」という思い込みに変化し、意識で説明できないものは間違っているという信念をも生み出します。
 でも、君子豹変と言われるように、人間もまた突然変わりえますし、それがいい方向に変わることも十分考えられます。著者ははっきりと述べてはいませんが、人類を見捨てているわけではないようです。

 かつて著者が大学の研究室で飼っていたネズミは、生まれたときから水をやって、餌をやって、それを切らさないようにしていたら、檻から出しても逃げようとなかったそうです。「ときどきその姿が、いまの若者と重なります」(143頁)と言います。
 しかし、そんなネズミでも一旦檻の外に出て、数日たったらもう敏捷になり、捕まらなくなるそうで、「環境しだいで、生きものなんて、それほど違ってくるんですから。だからこそ教育なんです」(同頁)

 日ごろ若い学生と接していると、なんだかんだと言いながらも、その若さそのもののもつ可能性についつい目を細めてしまいますが、可能性だけにとどまらず、本当に驚くべき力を発揮することが少なからずあるので、著者の言うことは私もよくわかります。
 そして、年齢にかかわらず、意識で自分自身に縛りをかけてしまわない限り、人間にはいつでもかなりの可能性が残っています。言い方は控えめですが実は希望に満ちた本です。

(PHP新書2003年680円税別)

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2010年3月24日 (水)

米原万里『愛の法則』

 本書は著者の遺作だったのですね。もっとたくさん彼女の本を読みたかったのに、早く亡くなられて残念です。
 本書は著者の講演を元にした読みやすい本ですが、しゃべったままでは本になりませんので、後からきっちりと本人が手を入れたのでしょう。きっと最期まで丁寧なお仕事をされていたのだと思います。本書の冒頭には池田清彦の暖かい文章が寄せられています。

 ところで、同時通訳をしていた著者によると、サミットにおける同時通訳方式は、日本だけが英語以外の言語を全て英語経由で通訳するうというものでした。日本だけは妙なことをやっているのですね。でもこれは、国際化というと英語教育に力をいれることですべてが片がつくと思い込んでいるという、いかにもわが国らしいやり方です。
 著者は同時通訳の仲間の中で英語の同時通訳者の話題が一番つまらないと述べていますが。著者はその原因を英語の通訳者の圧倒的多数が英語しかできないことに求めています。そうかもしれません。大学の英語の先生も英語以外の言語に堪能な先生は多くありません。
 図抜けて優秀な英語学者は他言語も習得することを勧めていますが、まあ例外です。英語学者に限らず優秀な研究者はたいてい3ヶ国語以上の言語には通じています。そうすると「それぞれの言語が相対化されてひとつの言語をかなり突き放してみることができますが、英語の場合は英語一辺倒なんです」(101頁)と著者が述べていることもよくわかります。まあ確かに、よくいる英語バカって本当にバカですもんね。

 著者は言うまでもなくロシア語の達人ですが、著者が9歳から14歳までプラハのロシア語学校で受けた教育方法は、かなりよく練り上げられたものだったようです。印象的なのは、国語の授業と宿題で実作品を大量に読ませるということです。学校の本を図書館に返すときにはその内容を司書の先生に話さなけらばならないし、授業では一段落を読み終わったら、その内容を自分の言葉で要約させるということを徹底的にやらされたとのことです。このことによって著者は「ものすごく攻撃的で立体的な読書」(174頁)になったと言います。
 作文の授業でも人物描写の抜粋を読ませて、その要旨を書かせ、さらに細かくその物語の骨格=構造を書かせるといった分析的作業をさせます。そして、そこから今度はテーマについて自分でまとめて書くという段階に移って行きます。これって、一度教材を見てみたいものです。
 自分で授業をするときにも、この分析と総合のプロセスは参考になります。自分なりに工夫して、いずれ行政法と比較文化論の授業やテキストにも取り入れてみるつもりです。

 ところで、著者が子どもの頃愛読した大人向けの『三銃士』というのは、ダルタニアンとミレディーの濡れ場ばかりだったとのことです。へぇー、そうだったんですね。実家にもかつて全巻揃っていて「妖婦ミレディーの誘惑」なんていう巻もあったので、そこはかとなく気になってはいましたが、もはや処分してしまいました。そんなことなら読んでおけばよかった。
 
(集英社新書2007年660円+税)

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2010年3月23日 (火)

鷲田小彌太『はじめての哲学史講義』

 哲学は著者の本業なので、気合を入れているのはわかるのですが、本書は何だか肩に力が入ってしまって、いつもの闊達な感じが消えてしまっています。わかりやすく書こうとはしているのでしょうけれど、どこかで同業者の目を意識しているのかもしれません。
 それでも哲学者たちの人生最期のときのことが資料としてまとめられていたりして、読者サービスは満点です。独身の哲学者には*印がついていて週刊誌的興味も惹かれます。独身者が多いのは、哲学をしていると異性に関心がなくなるからだと聞いたことがありますが、そうなのでしょうか。
 本書ではさすがマルクスの理解が見事です。表現は固いですけど。
 著者によると「マルクスの哲学上の最大の『発見』は、資本家的生産システムの分析を通じて、この社会が合理的に統御不能な存在である、人間の『主観』から独自な『主体』(意志)をもつ、ということを見いだしたこと」(180頁)だと言います。
 つまり「人間社会は無意識な主体存在である。人間の合理的な意識(理解)や意図(プラン)を超えて進む無意識(自然)の過程である。その最高形態が資本家社会である。こういうせっかくの大発見を、マルクスは自分で抹殺してしまった」(同頁)とも言っています。
 元マルクス主義者とはいえ、マルクスについてこういうことを冷静に言えるようになるまでには、相当読み込んで考えいなければなりません。さすがです。
 本書ではこのほかに、ハイデガーの「脱自的実存」がニーチェの「超人」と基本的に同じだという指摘も光っています。こうしてみると、著者は信者の嫌がる正しいことを言わずには済まない性質のようで、敵が多いという前に、ハナから嫌がられているのではないかという気がしてきます。空気を読んだ上であえて確信犯的に逆らってしまうという感じでしょうか。
 こういうことをしてみたい気持はよくわかりますが、くれぐれも後ろから刺されたりなどしないよう、お祈り申し上げます。

(PHP新書2002年680円税別)

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2010年3月21日 (日)

日下公人・養老孟司『バカの壁をぶち壊せ! 正しい頭の使い方』

 対談をもとに交互に原稿に手を入れた作りの本になっています。二人ともそれぞれにユニークな発想をする人なので、それぞれの問題意識がうまくクロスオーバーすると絶妙の展開になります。以下に印象に残ったエピソードを列挙しておきます。

・第二次大戦直後の韓国人、台湾人の中には駅前などの一等地を勝手に自分の土地として線引きして財をなした者があって、阪神淡路大震災のときにたくさんの死傷者が出た場所もそうした場所だった。
・そうした当時警察に頼んでも埒が明かない場所では自衛団が作られ、それが後に暴力団になっていった。
・旧ソ連の中央計画経済は日本の石油輸入量の増加を見込んでいたが、日本の省エネ対策が成功したため石油価格も思うように上がらず、党支配の強化のために秘密警察KGBに頼った国家運営をするようになっていった。
・日本のホームレスの記録映画を撮ってアメリカのホームレスに見せたら、アメリカのホームレスは「日本に行きたい」と言った。
・日本がアメリカにフランスやドイツのようにノーと言ったら、最初は怒りを買うが、そのうち忘れて、日本に対する尊敬の念が残るだろう。
・宗教の中で唯一「脱都会」を説くのが仏教である。他の宗教は皆都市の宗教である。

と言った感じです。こんなことがいっぱい書いてあれば、この先の話の展開についてもいろいろと考えさせられますし、頭が柔らかくなると思います。

(ビジネス社2003年1400円+税)

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2010年3月20日 (土)

ロナルド・ドゥウォーキン『権利論〔増補版〕』

 今から20年くらい前に、とある研究会でこのドゥウォーキンについて、本書の訳者の一人である小林先生のご発表を聞いたことがあり、そこではあまり面白そうな印象がなかったので、読まずに放ったらかしにしていました。
 その後かなり大部の翻訳が何冊か出ましたが、流行りものに手を出さないでいるうちに、著者の本は基本的な学術文献の地位を獲得していたようです。それではということで今回読んでみましたが、なるほど著者をハートやロールズ以降のビッグネームの一人に数える人がいても不思議ではない内容でした。
 最近はこのあたりに発言の根拠を置いて先端を走っている気分でいるのがいいのかもしれません。我が国の研究者は相変わらず外国人タレントを追っかけてはいても、ちょっと演技がうまくなっています。
 著者はこれまでの大雑把な理論のモデルではうまく解釈できない問題を取り上げながら、現場の実定法解釈の立場に即した微妙な論理を丁寧に記述しています。その論理を追っかけている限りは実に頭のいい人だなと思わされます。とりわけ、実務家にコンプレックスを持っているタイプの法哲学者にとっては、この論理は羨ましく見えることでしょう。
 ただ、私のような特に法哲学に使命感を持っていない趣味人の目には、これだったら、阿部泰隆や三ヶ月章のような実定法学者の著作の方がよっぽどためになると感じます。より理論的でもあり、かつ具体的・実践的だからです。
 むしろ、実務家の方からは「あなた方がやっていることは実はこんなことです」と指摘してもらったり、あるいはもっと倫理や哲学について根本的な話を聞くほうが有益だという話を聞きます。
 私は最近の法哲学者のように実務家を理想化する気もありませんが、彼らから呆れられつつ話を合わせてもらう気もない(もちろん私は法学部教授といった偉い場所にいるわけではありません)ので、要は根本的に考えるという点で互いに理解し合えたらいいと思っています。
 それはともかく、訳者の解説にもあるように、著者自身が理論体系への指向性があるかどうかということについては、本書の段階では不明なところがあるようです。世評高い同著者の『法の帝国』もいずれ読んでみるつもりです。
 ハートやロールズとの比較についてはその時に書くつもりです。

(木下毅・小林公・野坂泰司訳、木鐸社2003年)

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2010年3月17日 (水)

井沢元彦『中国 地球人類の難題』

 毎日中国人留学生と付き合っていると、国家としての中国の行動もある程度類推が効くようになります。基本的に個人のエゴだけからでも類推可能な行動パターンが見られるのは、国家意識が実は希薄だからだと思います。彼らは国家意識ではなくて民族意識が過剰なのです。
 著者は19世紀のそれだと言っていますが、もっと前のものかもしれません。いずれにしても現代中国社会は近代市民社会とは無縁の代物で、中国共産党の全体主義的支配体制です。ダルフールやチベットで無茶苦茶やっていることは仮に知っていても、彼らに言論表現の自由は認められていませんので、そのことを分かった上で付き合っていかないと、かわいそうでもあるのです。
 その点で、両国で歴史の共同研究をしましょうなんて、土台無理な話です。自由な歴史研究は不可能な体制ですから。
 著者は靖国問題をめぐっても冷静な議論を展開しています。特に「儒教は『死者の霊を認めない』宗教だ」(131頁)という指摘にはうなずかされました。普段彼らを見ていて日本人よりもずっと無宗教的な感じがしていましたが、それでも旧暦の正月に無理をしてでも帰国しようとする留学生の心性の背景にあるのは、先祖崇拝の儒教精神なのかもしれません。
 本書で紹介されているソウル大学の李栄薫教授や「月刊中国」編集長の鳴霞氏、そして李登輝元総統などは本当に立派な見解をお持ちで頭が下がります。日本人の方が改めて教えられることが沢山あります。

(小学館2007年1200円+税)

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2010年3月16日 (火)

C・S・ルイス『悪魔の手紙』

 本書を読むのは二度目になります。1942年にイギリスで刊行された当時はベストセラーだったそうですが、宗教的にも知的にもかなり高度な内容の本です。当時のイギリスの読書人はかなりのハイレベルだったのではないかと思います。同じイギリスでも、今だとそうは行かないんじゃないでしょうか。
 ある若者を誘惑しようとする新米の悪魔に、その叔父でもある先輩の悪魔が手紙を通じて助言をするという設定です。うっかり読んでいると登場人物の関係がわからなくなるので、相当しっかりと集中していなければなりません。
 ちなみに本書で「敵」というのは神のことで、「彼」はキリスト、「彼ら」は精霊です。キリスト教嫌いのわが国では本書はベストセラーにならないはずです。解説の蜂谷昭雄氏も偉い人なのかもしれませんが、本書ではかなり頓珍漢なことを言っているので、読者の理解の助けにはなりません。翻訳書としては不幸な生い立ちの本かもしれません。
 しかし、そのあたりの難所をかいくぐると、悪魔がどんな手段をとるのかという点について見事なカタログとなっています。筒井康隆ではありませんが、キリスト教的な「俗物図鑑」です。宗教的俗物、平和主義的俗物、愛国主義的俗物、民主主義的俗物、現代思想的俗物と、まさに悪魔の手に落ちんばかりの俗物が勢揃いです。悪魔が身近な実在であることがよくわかります。
 また、本書は諷刺文学にとどまるものではなく、若者が天に召される(「敵」の手に落ちる)ときの描写は、ルイスの独特の死生観が投影されていて、なるほどという感じがします。
 人が死ぬときのことをきっちり書くのは、その死後のこともしっかり見通せているからでしょう。そこが書ければ、ルイス本人としては、自身の肩書きが作家でも哲学者でも中世文学研究者でも、何でもよかったのではないでしょうか。困るのは分類好きの研究者だけでしょう。
 
 実は今、権力をめぐる快楽と恐怖そして幸福との関係について一年くらいかけてまとめたいと思っています。本書をまた読んでみたのも何か書かれていそうだからでしたが、残念ながら今考えていることに直接示唆が得られたわけではありませんでした。でも、すごい本ですね。いつか何かの役に立つのは確かです。権力についてはもっと身近なところで、さしあたり大学政治や学校経営なんかを観察することにしたいと思います。

(森安綾・蜂谷昭雄訳、新教出版社1978年、新装版1994年2,000円+税)

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2010年3月12日 (金)

美輪明宏『世直しトークあれこれ』

 テレビ番組「オーラの泉」は終わってしまいましたが、本署ではあの番組に出演したいという芸能人が引きも切らないと書かれていました。そうでしょうね。大体の人が好感度アップしますもんね。
 でも、実際にはゲストの背後に何か悪いものが見えても、番組中には話さないようにしようと江原啓之と約束していたそうです。(381頁)収録後にはきちんと話をされたとのことですが、番組中でもちょっと言いよどんだ感じがあると、あとで石田壱成のように逮捕されたりしていたので、番組中にすべてを隠しきることはできなかったようです。
 前世がどうだったかとかいうのはどうでもいいのですが、交際している男性のことを言い当てられた奥菜恵はその後結婚報道があったりして、やっぱりあの二人には何かが見えてはいたのでしょう。
 さて、前世が天草四郎という美輪さんですが、やっぱり何百年も生きているような感じです。輪廻の話なんかは仏教みたいですが、いろいろな神仏のご加護を全部受け入れるような世界観です。こういうのはやはり日本的と言っていいのでしょう。本人が生き神さまみたいに見えてきます。ファッションセンスも独特ですが、やはりそれだけの美意識を磨いている人なんだなということが本書からもよくわかります。
 本書の指摘で一つ印象に残ったのが、世界中の美術館、図書館、劇場、コンサートホールで男女比は半々だそうですが、日本は8割から9割が女、子どもそして若者だということです。ゴルフか飲み屋あるいは風俗関係にしか行かない日本のオッサンたちは現場の若い社員の情報には耳も貸さないと批判されていますが、まあ、そうでしょう。時代に取り残される典型的タイプですが、いまだにその種の人間が経営に携わっている会社はお先真っ暗でしょうね。

(PARCO出版2007年1600円税別)

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2010年3月11日 (木)

山本夏彦『一寸さきはヤミがいい』

 大学1年の頃叔母に勧められて以来、著者の書いたものをずっと読み続けてきました。ただ、本書はうかつにも入手しそこなっていて、古本屋で購入しました。
 著者の長年のファンだからでしょうか、これまで文章の印象から老人と間違えられることが多々ありました。このブログはそうないと信じたいのですが、かえって老人が若ぶっているように見えているかもという不安もないではありません。
 まあ、そんなことを言っているうちに私自身、気がつけば実年齢が老人の域に達しつつありますので、無事生きながらえれば、おのずと時間が解決してくれることでしょう。
 本書は著者が亡くなる直前までの週刊新潮の写真コラムをその絶筆までをまとめたものです。人生最期のときまで書き続けていたのだから立派です。それにしても、88歳にして頭は全然衰えていません。すごいことです。
 著者は私が読み始めた頃にしてすでに還暦を過ぎていたのですから、印象はずっと変わりません。同じことを倦まず弛まず書き続けていますが、読者としてはもうほとんど噺家の名人芸を堪能しているような感じです。
 とはいえ、話題の中に以前より微に入り細に入り描き出されている箇所に改めて驚かされたりします。ベルサイユ宮殿の不潔さを昭和30年代の隅田川のそれにたとえるなんてのは書物による知識に加えて昔を実際に知る人でなければできません。老人の話はこれだから貴重です。
 芸者のお仕事についても、田中角栄の遊び方を引き合いに出しながら、あ、そういうことだったのねとわかります。してみると、江戸時代の遊郭では芸者というのはどうだったのかとかえって疑問も湧いてきました。日本版風俗の歴史というテーマでコンパクトな本があると便利ですが、実際あるかもしれません。調べてみます。

(新潮社2003年1600円税別)

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2010年3月10日 (水)

阿部泰隆『行政法解釈学Ⅰ 実質的法治国家を創造する変革の法理論』

 本書は専門の法律書ですが、およそ専門家らしからぬ駄洒落混じりのユニークな文体で、滅法面白い本でした。とにかく、今まで読んだ法律書の中で一番楽しめた本です。とりわけ行政法をかじったことがある人には是非お薦めしたい本ですが、門外漢がいきなり読んでも結構面白いかもしれません。それでも、できれば櫻井敬子の『行政法のエッセンス』や藤田宙靖『行政法入門』などを一読してから取り組まれると、面白さが倍増すると思います。
 今まで行政法という分野は独特の理論体系が初学者の理解を妨げていましたが、著者はそんなものを根本から取り払って、法治主義と憲法という近代法律学の原点から実践的に使える理論を構築しています。実際に著者が弁護士として数々の行政事件訴訟にも関わってこられた経験も生きているのでしょうけれど、これまでの行政法学を大胆に改革しようとしています。読んでいていささか心配になってくるほどです。
 その点では公務員試験には向かないと思いますが、新司法試験にはいいかもしれません。判例も実にたくさん収録されている上、それぞれが快刀乱麻を断つがごとく鮮やかに解説されています。法的思考力を鍛える上でも本書の右に出る本はありません。ただ、読むのに時間がかかることだけは覚悟した方がいいでしょう。私は1週間かけて読みました。まあ、司法試験受験生ならこれくらいはこなさないと合格は覚束ないと思います。
 しかし、最近の資格試験の受験生は何でも暗記に頼って勉強する傾向があるとも仄聞しています。司法試験くらいは考える力を試す試験であってほしいですが、どうなんでしょうね。すでに早くから国家公務員試験Ⅰ種の受験生が暗記だけで乗り切るタイプばかりだとは聞き及んでいます。実質が択一試験だけですから、これはかなり昔からそうだったようです。今の現職も実はとうにそうだったのかもしれません。そもそも創造力とは無縁の世界ですから、それでもいいのかもしれませんが、法律家もそうだとしたらえらいことです。

 それはともかく、同著者の第Ⅱ巻も昨年出たばかりなので近いうちに買って読みたいと思います。また、著者の他の本もこれから集めて読んでみるつもりです。

(有斐閣2008年4700円+税)

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2010年3月 9日 (火)

木村政雄『吉本興業から学んだ「人間判断力」』

 何年か前に靖国神社で著者を見かけたことがあります。その時はもう吉本興業をお辞めになっていたと思いますが、穏やかでいい感じの表情が印象に残っています。
 本書は2002年の本ですが、本書で述べられた著者の豊富なアイデアの中には、その後実現したものがかなりあって、感心させられました。目の付け所がいい人だと思います。
 やはりだてに吉本興業で苦労してきたわけではありません。人を見る目ができているのでしょう。本書でなるほどと思ったのは「腰の低い人ほど、権威に頼らない」(32頁)と見ているところです。著者は腰の低さというものを「肩書き権威による判断を避け、ずばり相手の懐に飛び込む」(同頁)姿勢だと考えています。なるほど確かに同僚にそういう先生がいますが、そんな感じです。あとから思えば、意外に本人が言いたいことを言ってしまっているのです。
 また「変」な人間が会社を救う(127頁)というのも、著者流というか、吉本流ですね。著者は「変」な人間は、世の中の常識に浸りきっていないからだといいます。
 私の職場ももう少し「変」というか、面白い人間がたくさんいてくれると不況を乗り越えるアイデアが出てくると思うのですが、発想が凡庸だという点では、偏差値エリートと変わることがありません。その上偏差値はずっと低いので、余計格好がつきません。
 実は別に東大を出ていなくても、学校で優秀だとちやほやされてそのまま学閥なんかを作ってしまうと、実はお役人とあまり変わらないメンタリティーが身につくようです。私の母校の教員たちにもそういうのがいましたから、よくわかります。
 でも、そんなことを続けて学生を無視していたら、大学なんか早晩潰れちゃいますよね。その日は遠くないかも。

(講談社2002年1300円+税別)

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2010年3月 8日 (月)

鷲田小彌太『新・学問のすすめ 超・情報化社会の知の活用術』

 著者の『大学教授になる方法』では「偏差値50でもやり方さえ間違わなければ誰でも大学教授になれる」というキャッチコピーでベストセラーになりましたが、読んでみると、共産党員が大学教員になるというコネの存在については書かれてませんでしたが、それ以外の中身は結構まともで、要は学問が社会に浸透し広く共有されることを願った本でした。
 本書のメッセージも同様で、学問をすることは幸福につながるということなのです。「学問こそが、人間の生きる喜びの基本をなす基本要素になった、というのがこの時代なのだ」(212頁)と著者は言います。民主的学問のすすめという感じでしょうか。
 1997年の本ですが、コンピュータの性能が当時からしても飛躍的に高くなっている以外、内容は古くなっていません。パソコンが文章製造機であり、出版社、超郵便局だ(127頁)という主張はまさにその通りで、私なんかノートパソコンがなかったら、論文や本は書けなかったし、これからも書けないだろうと思います。何しろ電車の中が貴重な執筆時間ですから。
 ところで、偏差値50でもというのは極端みたいですが、世の中は広いのでそんな教員もいないわけではありません。それでいて「T大までの人」よりも優秀だったりしてもこれまた不思議ではありません。大学に入った後の努力次第ということは確かにありえます。
 それに、仮に愚鈍でただただ幸運のみに恵まれた教員というのがいても、その幸運さを周囲の人に分け与えてくれるなら、こんないい先生はいないということになるかもしれません。教壇という不思議なところに立つだけで「師」というのは成立するのです。あとは弟子の心構え一つでしょう。
 実際そんなのがいたら張っ倒したくなるでしょう。でも、昔から大学というところにはどこでもいるんですよ、こんなのが。そういう師匠から本当にラッキーさというものだけを学ぶことができたらすごいことです。おそらく相当の我慢強さが求められるでしょうけれど、その暁にはあなたにも必ずや幸福が訪れることでしょう。

(マガジンハウス1997年1300円税別)

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2010年3月 6日 (土)

ライアル・ワトソン『思考する豚』

 小学生の頃、豚はきれい好きな生き物だという話を聞いたことがあります。しかし、小学校の通学路の近くにあった豚舎はいつも汚かったので、それじゃあ豚小屋の環境は気の毒だなあと思っていました。
 しかし、本書によると、どうやら豚はきれい好きなだけではなくて、犬猫やサル以上に賢い生き物のようです。ワトソンが飼ったことのある3種類の豚を含むの世界中の豚はいずれも「茶目っ気があり、社交性に富み、好奇心に溢れて」(321頁)いたそうです。
 ただ、私たち人間の方に、動物には意識というものがないという思い込みがあるために、コミュニケーションがうまく図れなくなっているというのが著者の主張です。
 実際、著者が最初に飼っていたイボイノシシのフーヴァーは人と常にコミュニケーションを取ろうとし、著者が遊んでくれないときは一人遊びをしたりして、実に愛らしくも賢いのです。著者は豚と付き合っていくうちに、彼らは言語に近いシンタックスを備えた鳴き声も持っているとさえ信じるようになりました。 ワトソンはさすがに生物学者だけあって、動物との意思疎通に巧みですから、話半分で聞くとしても、やはり当たっているような気がします。豚の方は人間をことさら差別せずにコミュニケートしようとしてくるというのが面白いと思います。
 要は世の中の生き物は全部つながっているということなのでしょうけれど、それにしても、先日読んだ象についての話もそうでしたが、豚の賢さはこれはこれでかなりのもののようです。これから動物園や農園に行く時は豚に注目して話しかけてみたいと思います。近い将来、飼い犬のように豚を連れて散歩する人が出てきても不思議ではありません。
 春風亭小朝が別れた奥さんから「金髪豚野郎」なんて罵られていましたが、豚にとっては迷惑な話です。しかし、これも豚のイメージが変わってくると、罵倒語ではなくなるかもしれません。金色の豚なんて、思えば何ともゴージャスな幸運を持ってきてくれそうです。

(福岡伸一訳木楽舎2009年2500円+税)

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2010年3月 4日 (木)

谷沢永一『嫉妬する人、される人』

 嫉妬が日本社会を動かしているとみるのが、以前からの著者の持論です。本書では驚くべきエピソードが幾つも紹介されますが、陰惨な話が続いて重たくなるのを巧みに避けて、読みやすい体裁に仕上げられています。著者自ら本書は「嫉妬論」ではなく「嫉妬講談」であると述べていますが、さすがです。読者へのサービス精神旺盛なところは見習わなければ、と昨日出来上がった自分の学内紀要論文の校正を見ながら余計に痛感しています。
 本書で指摘されて驚いたり納得させられたりしたことを、以下三つばかり挙げておきます。
 一つには、北条泰時が御成敗式目の事実上の起案者でありながら、自分の名前を前面には押し出さなかったことです。おそらくは当時の年長順に13番目に署名しているだけというのですから、ほとんど自分の姿を消しています。著者は泰時を政治の天才と評し、「日本人とは何かをよくよく知っていた、恐ろしい男なのです」(32頁)と述べています。
 もう一つは、日本の陸軍と海軍の仲の悪さで、すでに日露戦争の時から旅順攻略に際して海軍の協力の申し出を陸軍参謀総長が勝手に断っていたそうです。日清戦争の戦死者が2万人程度ですから、旅順戦だけで6万人の戦死者数は当時としてはかなりのものです。日本軍はこのころにしてすでにかなりお馬鹿なことをやっていたことがわかります。
 最後に、鎌倉政権が合法と認められた根拠を著者は、頼朝が征夷大将軍という令外の官に任ぜられた措置にあると見ています。歴史が転回する節目に、嫉妬を超越した天皇が裁可を下されるという日本政治のパターンはこのとき始まったとしています(210頁)。なるほどそうかもしれません。
 いずれにしても、人間社会で何らかの活動をする以上、自分の嫉妬心の制御と他人のそれへの対応策はしっかり立てておく必要があります。ことに職場で嫉妬が絡むことはしばしばありますが、これを甘く見ると命取りになります。
 本書はその点で有益かつ具体的なアドバイスに満ちた本です。読書の効用についても述べられています。「本を読むことは、学問をすることではありません。自分の精神をコントロールするこつを覚えることなのです」(131-132頁)。つまり、読書で嫉妬を抑えるということなのです。
 巻末の嫉妬関連文献一覧が改めて読書欲をそそります。へー、こんな本があったのなら読まなきゃという感じです。

(幻冬舎2004年1300円+税)

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2010年3月 3日 (水)

ライアル・ワトソン『エレファントム 象はなぜ遠い記憶を語るのか』

 すごい本でした。人間の可能性が、動物の可能性と共に爽やかに広がる感じがする本です。ライアル・ワトソンについては昔流行っていたときには敬遠していましたが、読んでみると確かにスピリチュアルな面がありますが、決してキワモノではありません。
 本書は子どもの頃から象に強く惹かれていた著者の知的自伝も兼ねていて、うまく構成されています。なにせ、5歳の頃に象に近づきたくて、そのウンチに両手をつっこんだくらいですから本物です。10代前半には南アフリカのケープで友人たちと狩猟採集生活をしている時に、本格的な原住民(コイ族)と仲良くなり、一緒に白い象を目撃します。
 その白い象も原住民もひょっとしたら幻(ファントム)だったのかもしれないのですが、そうしたことも含めて全体的な生命現象として考察して行きます。超常現象的なことも否定せずに、全部考えてしまおうという姿勢は、きっと著者がアフリカの自然に接してきたからでしょう。
 ローレンツやデズモンド・モリスの教えを受けながら動物行動学者になった著者は、再び南アフリカの象に会いに行きます。保護区で最後の一頭になったメスの象は海岸に出てシロナガスクジラのメスと超低周波音で語り合うのです。
 象のコミュニケーションについては低周波だけでなく様々な手段があって、近年科学的な解明が進められている人のことで、驚かされることばかりです。著者の表現を借りると「象たちが何百万年ものあいだ使ってきた広大な生物ウェブの世界に、人間が参入するときが来たのだ」(276頁)ということになります。
 著者はさらにこう述べています。
 「幸いなことに、人々は良識を取り戻しつつある。直感的な理解も、幼稚だとか妄想だとか言って簡単に片付けられなくなってきた。私たちは、正規のルートとは違うところから伝えられる情報にも耳を傾け始めた。この本は、そうした情報の一つだ」(347頁)
 そうなんです。わかる人にはわかることですが、その「わかる人」は確かに増えてきているような気がします。しかし、象がこんなにスピリチュアルで知的な生き物だったとは本当にびっくりです。
 それにしても、本書を読むきっかけになったのは福岡伸一の『動的平衡』ですが、そこに載っていた白い象と鯨の対話する若冲の絵はどういう経緯で描かれたのでしょうね。若冲の才能もとんでもなくすごいですが、その情報源は中国やインドでしょうか。

(福岡伸一・髙橋紀子訳木楽舎2009年1800円+税)

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2010年3月 2日 (火)

渡部昇一『国、死に給うことなかれ』

 これは著者の近年の国内外の諸問題に対する見解がコンパクトに凝縮された本です。時には産経新聞でも遠慮するくらいはっきりした立場を取る著者ですが、論拠もはっきりと示されていて説得力があります。本多勝一や大江健三郎の姑息さが際立ちます。彼らとしては反論しようがないと思いますが、案の定沈黙を決め込んでいます。
 本書では第二次大戦の日本軍が官僚的になってどんどん弱くなっていく過程も描かれていて、このところ不振のスポーツ界と似ているような気もしてきました。オリンピックの役員なんか相当官僚化しているのでしょう。JOCの役員なんか年をとるにつれてどんどん人相が悪くなっている気がします。税金で大名旅行をして飲み食いすると、どこか後暗くてあんな顔になるんじゃないでしょうか。
 なお、本書で初めて知りましたが、第二次大戦の宣戦布告を前の晩飲みすぎてアメリカに渡しそこなった当時の在米大使館の奥村勝蔵一等書記官と井口貞夫参事官は、お二人とも戦後に外務事務次官に相次いで昇進しているそうです(125頁)。辻政信のような軍人の風上にも置けないクズの話は有名ですが、役人の世界も今と変わらずインチキだったのですね。
 著者はこうした国辱者のエリート官僚の名誉を「褫奪」することを提案しています。勲章なんか絶対に与えないというわけです。なるほど。実際にはできないとは思いますが、この発想は貴重です。しかし実際、当時すでに彼ら在米大使館のキャリア官僚は切腹するべきだという声があったと言いますから、まだ国家意識が健全だったのでしょう。
 また、重光葵氏の評価がきっちりとなされているのは良かったと思います。このところ白洲次郎がちょっとしたブームでしたが、勝るとも劣らない立派な人でした。今は何だか情けない政治家ばかりになってしまいました。気骨がなくなったら知性もいよいよダメになる感じがします。地元の選挙民からも「あんなに莫迦とは思わなかった」と言われているくらいですから、祖父のDNAなんてあったところで、あてにならないものです。
 本書ではあくまで噂としてですが、中国に行った政治家は1000万円単位で現金を渡されることがあるとのことです。そう言われてみると言動に思い当たる節のある政治家がちらほら出てくるような気がします。この間なんか幹事長を先頭にお手々つないで行ってきた議員連中がいましたよね。やっぱりたんまり貰ってきたんでしょうか。
 政治家もこちらから機密費をふんだんに使って闇世界ともども動かすくらいのことをしないと、国際政治の世界では太刀打ちできないのではないでしょうか。

(徳間書店2008年1600円+税)

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2010年3月 1日 (月)

渡部昇一『なぜか「幸運」がついてまわる人10のルール』

 古書店で見つけました。ちょっと前の本ですが、内容は古くなっていません。
 アランの幸福論を時々参照しながら自説を述べるという形式ですが、その中の古今東西の人物のエピソードには教えられるところが多々あります。
 著者が知力と体力を鍛えることについて読者に勧めているのが、記憶力を鍛えることと、身体の柔軟性を保つ真向法の実践です。真向法は私も就寝前にちょっとやるようにしていますが、記憶力を高めるというのはもっと意識してやってみる価値がありそうです。著者は次のように述べています。
 「脳も身体のうちなのだ。筋肉はボディービルをやれば強くなるが、それと同じく、脳も鍛えれば強くなる。その最良の方法が、暗記することなのである」(179頁)
 著者の場合は外国語のことわざや名文句を覚えたり、好きな歌の歌詞を一番から四番まで全部空で歌う方法が効果があったと言っています。私もハンガリーのポップスを覚えてみようとして、大体一日かけると覚えることができると実感しています。これからもっと曲数を増やしていくつもりです。
 しかし、どんなふうに効果が出てくるのかは、それをしなかった場合と比べてどうなのかということになると思いますが、どうなんでしょうね。まあ、これからどんどん衰えてくるのが記憶力でしょうから、やって損はないと思います。
 体力の方はこのところスロージョギングに凝っています。なにより身体がエラくならないところが気に入ってます。ナンバ走りでジョギングするとさらに楽です。それでいて実にいい汗をかくことができます。散歩をすると身体が暖まるのに時間がかかり、いまいち満足感がないのですが、これはいいですよ。四月の健康診断が待ち遠しいです。

(三笠書房2003年1300円+税)

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