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2010年4月28日 (水)

ディーノ・ブッツァーティ『石の幻影』大久保憲子訳

 表題作「石の幻影」は中編小説で、その他五編は短編です。その五編のうち四編は文庫の『神を見た犬』のそれと重なっています。で、何と言っても「石の幻影」です。
 これは神学的な創造力の賜物ではないかと感じました。神を冒涜する寸前のところまで話が展開します。幻想文学とかSFといったものとは一線を画しています。
 というか、神学的創造力はSFに信仰という骨組みを与えて、もっと遠くへと読者を連れて行ってくれます。C・S・ルイスのSF三部作がこれに近いような気がします。
 と、こう書くと宗教嫌いでかつ宗教音痴の人は、そんな作品はオリジナリティに欠けるのではないかと思うかもしれませんが、実はその反対にオリジナリティの固まりのような小説世界が展開されています。
 この立体的な世界観は「世界を創る存在」という視点があるからこそ可能になるのではないかと考えたりしています。それは世界が何となく出来上がってしまう世界とはずいぶん違うものです。
 でもまあ、とにかく読んで滅法面白いことは請け合います。こういう小説を書けると人生が楽しくなるのではないかという気がします。

 ところで、短編の訳は近年の文庫の方で多少言葉遣いが改められているので、そちらを読んだ方が翻訳者経由で作者の意図がよりよく伝わると思います。

(河出書房新社1998年1800円税別)

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2010年4月26日 (月)

ラッタウット・ラープチャルーンサップ『観光』古屋美登里訳

 大変な筆力のあるタイ出身の作家の短編集です。各短編の主人公はすべて一人称の語り手であり、全部が出口のない、とことん凄惨な状況にあります。そして、そうした様々な主人公の人生の断面が鮮やかに切り取られています。それはときおり実に美しい情景でもあったりします。
 正直言ってあまり楽しんで読める本ではありませんが、タイを舞台にした様々な人々に自己観入することができるという点では何だか大変勉強になるところのある作品です。ちょっと林真理子の小説みたいなところがあります。ただし本書は鬱陶しい悪夢を見たような読後感なのですが。
 昔知り合った日本人のバックパッカーが「タイは心のふるさとです」と言っていましたが、これを読むとあまり行きたくなくなってきました。でも、きっと色鮮やかで生命力あふれた、善悪も美醜もごちゃ混ぜになったところなのでしょう。そしてそれは日本のぼんやりしたぬるさとはまったく違うんでしょうね。
 思えば今、政治状況がいろいろと大変なのもこのタイでした。この小説に出てくるような人たちがたくさん集まってくると、なるほどあんな風になるのかと、ちょっと納得させられるところがあります。ただ、背後で糸を引いている国について、大マスコミがまったく報じないのは、やっぱり自己規制をかけているのでしょう。ま、いつものことですが。
 それはともかく、この作家の名前が長くてなかなか覚えられません。三つくらいに分けて何かに連想付けして覚えましょうか。
 あ、それと、この翻訳も全体に読みやすくてよかったと思いますが、訳者あとがきのところで「弱冠25歳」という表現があって、またかと思いました。流行ってるんでしょうか。

(早川書房2007年1800円+税)

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2010年4月25日 (日)

フランツ・モルナール『芝居は最高!』三田地里穂訳

 シチュエーション・コメディの傑作です。最近この台本のハンガリー語版をハンガリーの国立図書館からPCでダウンロードできるようになったので、ハンガリー語版や英語版を見比べたりしながら読んでみました。
 それで気がついたことですが、どうやらハンガリー語版から英訳されたとき、英米流のジョークが書き込まれたようです。作者自らが書き加えたのか、英訳者Wodehouseがそうしたのかは不明です。邦訳は英語版に拠っていますが、さらに私の持っている古い英訳にもないギャグがあったりするので、上演を重ねるにつれて練り上げられていったのかもしれません。
 たとえばこんなところ。劇作家と招待先のお屋敷の召使との会話です(19頁)。

トゥライ 「エ~ト・・・結婚してるの?」
ドヴォルニツェック 「はい、旦那様、おかげさまで」
トゥライ 「奥さんは健在?」
ドヴォルニツェック 「はあ、まあ、そうとも申せましょう・・・二年前兵隊と駆け落ちいたしました・・・ありがとうございます、旦那様」
トゥライ 「私に礼を言うことはない・・・兵隊に言いなさい」

 この手のギャグはハンガリー語版にはなかったものですが、随所にこうした笑いがちりばめられています。モルナールは晩年はアメリカで暮らし、ニューヨークで亡くなったので、自作に英語で手を入れていたことは十分に考えられます。物語全体は窮地に陥った登場人物たちが、劇作家が急場しのぎで書いた劇中劇を演じることで、最後は丸く収まるという、ちょっと凝ったつくりになっています。
 アメリカでは1926年に初演。日本では1990年にテアトル・エコーが上演しています。次に上演される機会があったら必ず劇場に足を運びたいと思います。

(而立書房1990年1200円税別)

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2010年4月24日 (土)

城山三郎『官僚たちの夏』

 1960年代の通産官僚の内幕物です。主人公は「ミスター通産省」と呼ばれる型破りの猛者ですが、実在の人物がモデルになっているかどうかはわかりません。小説の中では豪快で魅力的なキャラクターなので、読者としては肩入れしたくなりますが、やっていることは結局のところ産業界の統制を強めて省益を守ることです。
 まあ、これを典型的な官僚的人物がやったとしたら、面白くも何ともない話になっちゃいますね。いずれにしても、作者は登場人物たちの行動を客観的に書いているので、官僚の生態を知るためにはかなり有益です。
 人事や政策をめぐるこの熱いドラマの中でも、官僚というのは

 1.学校秀才にすぎないので、政治家のような腹芸はできない
 2.仕事をする上でのコスト意識がまったくない
 3.一生懸命外国の政策モデルを探してきてわが国に当てはめようとする

といった特徴が容易にわかります。一生懸命なところはわかりますが、根本が間違っていたときに責任をとるわけではないので、気楽かもしれません。ゆとり教育が間違っていても、謝るわけでもなくのうのうと大学教授に天下りという人を見たら、そんな気がしても仕方ないでしょう。
 本書では省庁間の縄張り争いや政治家との駆け引きも活写されていて、何とも人間くさい場面が満載ですが、人事の決まり方の微妙な内部論理が一番面白いと感じました。このあたりは民間企業とも共通していて、仲間内の評価が尊重されるところは社会学の重要テーマを形成すると思います。
 今構想中の権力論にもいろいろとヒントを与えてくれました。
 それにしてもやはり官僚というのは好きになれない人種です。

(新潮文庫昭和50年552円税別)

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2010年4月21日 (水)

加能作次郎『世の中へ・乳の匂い』

 外国の小説を読んだあとでこの小説を読むと、自然や人間心理のあやが綿密に描かれていて、大変な湿度を感じます。著者自身のことを題材にした小説ですが、これほど様々な経験をしたからには、きっと書かずにはいられなかったのだろうなと感じました。
 幼いころから丁稚奉公に出て苦労を重ね、かなりえげつない人生の裏面を見ながら主人公が成長していくのですが、それが決して恨み節にならずに、美しいリズムのある文章で綴られるところが素敵です。湿度は感じますが、爽やかなところがあります。人間の出来が上品なのでしょう。
 まあ、いずれにしてもこんな見事な文章が書ける人ですから、作家にならない手はなかったのでしょうが、苦学をしながらしっかり勉強して外国文学の翻訳も出しています。相当な努力家ですね。そしておそらく外国語の翻訳という作業を通じて自身の日本語を点検することも文章力の向上にもつながったのでしょう。
 著者と同時代の作家では宇野浩二がいます。同じ私小説でも味わいは全然違いますが、時代的には共通するところがあり、久々に宇野浩二の『蔵の中』を読んでみたくなりました。
 このところ小説付いています。まだしばらくは小説を読んでいたい気分です。きっと実人生で殺伐とした気分になることが多いからでしょう。他人について、がっかりさせられることが重なると、確かにやりきれないものです。しかしこの点で、文学というものは少しだけ救いになるような気がします。

(講談社文芸文庫2007年1400円税別)

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2010年4月17日 (土)

ブッツァーティ『神を見た犬』関口英子訳

 奇想天外で明るい作風の作家です。ガルシンやチェーホフを読んだあとですから余計にそう感じるのかもしれませんが、とにかく発想がぶっ飛んでます。この独特の小説世界は病みつきになりそうです。
 しばしば修道士や聖人や神様が登場したりするのがイタリアらしくていいですね。隠修士というのは本書で初めて知りましたが、即身成仏するための修行僧といった感じです。他にもカトリック的世界観が自然に出てきては、小説世界と見事にリンクしているのが印象的でした。
 本書の中の短編「驕らぬ心」は隠修士のもとに告解にやってくる司祭が司教となり、大司教とどんどん偉くなるたびに告解に訪れるという話ですが、最後の二人の対面のシーンは感動的です。
 ネットで調べると、この著者の小説は他にも邦訳が数冊出ているので、早速注文しておきました。

 さて、翻訳はこなれた日本語で読みやすかったのですが、27頁に「弱冠二十二歳」、201頁に「弱冠十七歳」とご丁寧にも二度も誤用があって興醒めでした。「弱冠」は二十歳にしか付かないなんてことは、ちょっと手間をかけて辞書を引くだけで知ることができるのに、語呂がよくてかっこよさそうだからということで使っちまったんでしょうね。翻訳者の虚勢の一種でしょうけれど、恥ずかしいことです。
 これに気がつかない編集者もきょうびは大勢を占めるようになってきたのでしょう。もっとも、いずれは「ゆとり教育」世代が編集に携わるようになるでしょうから、その頃にはこれももはや誤用ではなくなっているかもしれません。世情におもねる国語辞典は先頭切って認めかねませんし。

 と思ってPCの中の『明鏡国語辞典』を調べてみると、すでに「弱冠十八歳」という用法が収録されていました。『広辞苑』は持っていないのでわかりませんが、あの辞典のことですから、ひょっとしたらとうの昔に先頭切って認めていたのかもしれません。
 それにしても「衆寡敵せず」とはまさにこのことでしょう。何だか自分のほうがいつのまにか老人になった気分です。今浦島とは自分のことだったのか。これからは「天保老人」と呼んでください。でも、本当の天保老人だったら、愚かな虚勢に基づく誤用が標準になるなんてことは断じて許さないでしょう。

(光文社2007年686円+税)

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2010年4月14日 (水)

チェーホフ『かわいい女・犬を連れた奥さん』小笠原豊樹訳

 チェーホフは戯曲から入ったので、小説を読むとどうしても戯曲のイメージと重なります。今まで観た中ではハンガリーの個性派女優ウドヴァロシュ・ドロッチャの演技が印象的だったので、女性の登場人物についてはつい彼女の演技が浮かんでしまいます。
 ともかく人間の愚かさを観察させたらチェーホフの右に出る作家はいないのではないかと思われるほどですが、チェーホフの描く人物は饒舌で猛々しいか、理屈っぽい皮肉屋でなければ寡黙で愚鈍というタイプが多く、ふつうに賢い人というのがあまり出てこないような気がします。「かわいい女」なんてフェミニストが読んだら怒り出しそうな気がします。
 もちろん、そういう人たちが織りなすドラマは可笑しくも悲しい独特の現代的な味わいがあるのですが、これが小説として書かれると、フェミニストならずとも、この作家は女性の賢さというものを(ひいては人間の賢さも)発見できなかった人なのではないかと思われてきます。
 この点がドストエフスキーと違うところなのでしょう。信仰ないしは世界観の違いかもしれません。世界がちょっと壊れてしまっているのを本人もどうしようもないと感じているというところでしょうか。だからこそ現代人の感覚にぴったりはまるところがあるのでしょうけれど。

 翻訳は名手としての誉れ高い神西清の訳文よりも違和感がありません。実は昔から小笠原豊樹というより詩人としての岩田宏のファンだったので、つい手に取ってしまったというのが本当のところです。でもさすが詩人です。いい訳文で感心しました。
 それにしても翻訳家としての小笠原豊樹はマヤコフスキー(露)、プレヴェール(仏)、ブラッドベリ(英)と三カ国語も名訳を残しているスーパーマンです。どういう頭をしている人なのでしょうね。

(新潮文庫平成17年改版438円税別)

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2010年4月12日 (月)

米原万里『他諺の空似 ことわざ人類学』

 ことわざというのは結構世界中で似たようなものが伝えられてきたということがわかります。まあ、人間の愚かさというのは万国共通でしょうからね。人間はみんな結構阿呆で、それも自分が思っているよりもかなり阿呆だということが、残念ながら共通しているのです。
 本書は古今東西のことわざを比較しながら、時局を批判するという連載記事がもとになっていますが、話の枕にしばしばエロティックな小咄が置かれていて、殺伐とした気持ちにならないよう配慮されています。というか、シモネタは単なる著者の趣味かもしれませんが。
 時局についてはコンパクトに正確な知識がまとめられていて、わかりやすいです。あらためて教えられるところが少なくありません。著者の読書量が半端ではないことがうかがえます。
 介護保険の業者がヘルパーからはねる上前は何と8割9割があたりまえだということ(43頁)や、旧電電公社たるNTTは電話の債権を買い戻すと約束しておきながら、制度が廃止されたので勝手に消滅させてしまった(203頁)とか、言われてみると確かに怒らざるを得ないようなことが、さらっと書いてあります。
 批判や皮肉満載ですが、さっぱり、カラッとした味わいがいいですね。
 本書は最近文庫化されたようです。おすすめです。

(光文社2006年1400円+税)

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2010年4月11日 (日)

ガルシン作・神西清訳『紅い花 他四編』

 どの作品も印象に残る短編集です。しばしば潔癖なまでに正義感の強い登場人物が登場して、物語を動かしていきます。
 物語の背景にある19世紀末の帝政ロシアの状況は、共産党一党独裁下のそれと違わなくて、自由を求め、自身の責任を全うしようとすると、周囲の壁やらガラスの天井にぶつかって圧殺されてしまいます。短編集の中の動物や植物を登場人物にした寓話形式の作品はそんな中で生まれたのだろうと思われます。
 ロシアの人は昔からこんな感じだったのかと思うと、あらためて気の毒な気がしてきますが、そんな中からこうした文学が生まれてくるのですね。全編がひりひりとした軋轢の感覚に包まれていますが、変な言い方ですが、読んでおいて損はありません。いい短編集だと思います。
 文学史家はガルシンをチェーホフにつながる系譜と考えているようですが、確かにそういう面はあると思います。でもまあ、だからどうっていうこともありません。作品を読むに越したことはありません。
 一番印象に残った作品は「信号」で、薄給の線路番の主人公が、同僚の無謀な行為によって脱線しかねない状況に陥った列車に、身を挺してその危機を知らせる話です。いい話です。

 そういえば最近ロシア語の勉強を再開しました。ラジオ講座を聴くくらいですが、ロシア史学史の人名と文献チェックができるくらいにはしておきたいからです。しかし、これからは文学が読めるようになることも目標に付け加えることにします。

(岩波文庫2006年改版460円+税)

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2010年4月10日 (土)

池谷裕二『単純な脳、複雑な「私」 または自分を使い回しながら進化した脳をめぐる4つの講義』

 脳科学というと、脱税でNHKを降板した茂木健一郎の語りを通じてしか知りませんでしたが、この本では最先端の脳科学の様子がわかります。様々な学問を横断しつつ、かなりスリリングな展開が見られるようです。
 本書は高校生対象の講演をもとに作られていて、内容も具体的でわかりやすいのですが、同時に著者の優しい人柄も感じられて、実にいい感じの本に仕上がっています。こんな感じで高度なことをわかりやすく書けたらいいなあと思いますが、おそらくやってみると簡単なことではないはずです。そうして最後には複雑系や自己組織化の話まで持っていくのですから、著者の力量は半端ではありません。
 本書には著者が作成した動画やプログラムを見せてくれるサイトのアドレスも公開されています。読んでわかりにくいところについてはこれを見ればたちまち了解できます。というか、驚きの動画です。下記のサイトを見てみてください。

http://www.asahipress.com/brain/

 これを見ると、脳が勝手に物を見えなくしたり、存在しないはずのものを作り出したりすることがよーくわかります。
 本書を読んで、脳も臓器の一種だということに気付かされました。また、臓器も脳の一種であると言えそうです。臓器移植をすると、元の持ち主の持っていた記憶が移植先の人物に忽然と現れると聞きます。
 それはともかく、脳は極めて精巧に出来ていると感心させられることもあれば、結構ずさんで欠陥だらけのものを、これまでだましだまし使ってきたという側面もあるわけです。そして、いずれにしてもこの不思議な脳というものの働き方の癖を知っておいて損はないと思います。
 この癖を知ることで「自分は今こんな状態にあって現実を見るバランスが悪くなっている」と自覚することができ、少しは脳の働きの制約から自由になれると思います。もちろん簡単には行かないのですが、人が自身の文化の枠組みにとらわれている場合と似て、これは人類の永遠の課題のような気がします。

(朝日出版社2009年1700円+税)

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2010年4月 9日 (金)

石渡嶺司『最高学府はバカだらけ 全入時代の大学「崖っぷち事情」』

 大学進学希望の子をもつ親御さんや大学関係者にとっては必読の本です。著者は全国の大学をしっかり取材していて、確かな情報が得られます。例生活校正な記述で、決して告発本ではありません。
 著者が本書を書いた理由は、大学という組織にある「化学反応」に興味を惹かれたからだそうです。ここでいう化学反応とは「新入生が馬鹿で教職員がアホっぽいとしても、学生の相当数は在学中に成長し、見事にバカ学生から脱皮する」(8頁)ことを指します。
 教職員の立場からすると、学生たちはそれぞれに勝手に脱皮していくので、大学の手柄ではないようにも思いますが、それでも彼ら彼女らが脱皮するために必要な環境を整えておくことは今日ではもはや義務でしょう。
 本書にはもちろんうんざりするようなバカの実例も示されています。バカ学生には単なるどこにでもいるバカ学生だけでなく、偏差値の低い大学区出身者を思いっきり見下す難関大学のバカ学生も含まれています。バカ教職員の例についてもあたかもバカの見本市みたいですが、そんな環境の中でも学生たちはバカから脱皮してくれるのですから確かに不思議です。
 私も毎年卒業年度の学生と話をしては、その思いを強くしています。4年間を無駄に過ごしてきたわけではないんですよね。教職員のバカは何年たっても改善されないのに、学生の方はどういうわけかしっかりしてくるのです。本当にありがたいことです。
 救いはありそうです。著者は本書の最後のところでこう述べています。
 「日本の大学の面白いところは、ろくに改革をしていない大学でも、学生の面倒を見ようとする『まともな』教職員がきちんと存在するところだ」(243頁)
 そうなんです。うちのような「日本一の〇〇大学」なんて呼ばれたことのあるところでも、各学部に少なくとも5人前後はまともな教職員がいます。たぶんその割合は全国どこでもあまり変わらないのではないかと思います。
 進路に悩んでいる受験生は安心してどこかの大学に入って、そこで人生や学問のいい師匠を見つけてくれたらいいのではないでしょうか。うちに入ってくれるともちろん嬉しいですけれど。

(光文社新書2007年740円+税) 

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2010年4月 7日 (水)

勝間和代『勝間和代のインディペンデントな生き方 実践ガイド』

 女性で年収600万円以上を稼ぎ、自慢できる夫や恋人がいて、年をとるほどすてきになっていくというのがインディペンデントな生き方、本書で言うインディなのだそうです。具体的で実現可能な目標として、露骨な気もしますが、いいのかもしれません。
 実際、女性で年収600万円以上というのは女性の全労働人口の10%に満たないそうですから、キャリア女性の目標値としてはいいのでしょう。男性で言うと1000万円以上の稼ぎ手に匹敵するそうですから、これは現実にはかなりのイバラの道でしょう。
 もっとも、インディにとってのいい男というのが年収1000万円以上を「余裕を持って」稼げる男だそうですから、その10%の中でも相当悪いことをやっている人なのかと勘ぐってしまいそうになります。
 インディとは「いい男と恋をしながら、自由に生きられる権利」ということですから著者がかつて結婚生活で苦い思いをして、現在かなりいい恋人に恵まれているということも想像されます。このあたりの素直さというか無防備さが著者の美点でもあるのですが、その一方で香山リカなんかに噛みつかれるところなのでしょう。
 でもまあ、細かいことはさておき、キャリア女性の努力目標と心得としては、まったく持って正しいことが書かれています。本書をインディな男性のための本だと思って読めば、ちょっと恋なんかについては問題がありそうですが、ま、いいんじゃないでしょうか。
 英語学習や読書のコツについてもいいことが書かれています。
 がんばって幸せになりましょう。

(株式会社ディスカヴァー・トゥウェンティワン2008年1000円)

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2010年4月 4日 (日)

池谷裕二・糸井重里『海馬 ―脳は疲れない―』

 中高年を勇気づけてくれる本です。それも思いっきりです。加齢とともに脳が衰えるということがはっきり否定されています。若者よりも30才以上の人の方が「経験してわかる」ことに関しては発達していると言われると、自分自身を振り返っても確かにそんな気がします。
 実際、私自身について言えば、本を読むスピードは若いときより現在のほうが格段に速くなっていますし、スロージョギングとナンバ走りを組み合わせてトレーニングしているおかげで持久力もついています。
 本については、速読によって読書量が増えることで、理解力も上がってくるように思います。まあ、自己満足かもしれませんが、カントの三批判やヘーゲルの『大論理学』を読んでいなかった20代前半よりは、思想史の見取り図が頭の中にできてくれば、流行の現代思想にはたじろがなくなります。
 これも通勤時間が片道2時間かかるおかげです。週日9時から5時まで教務事務の仕事をしていますが、電車の中でくたびれて眠ってしまわない限り、本によっては二~三冊読めます。ブログや論文の原稿も電車の中で書いているので、乗車時間の全部を読書にあてられるわけではありませんが、さまざまな辞書を使う翻訳作業を除けば、私にとって電車の中は移動書斎のようなものです。

 本書では脳の特性と可能性がいろいろと示されていて勉強になりました。思わず付箋を貼ったところを以下に抜粋してみます。
・ぼくの知っているかぎりでは、一流と言われるような人で無口な人って、ひとりもいないんですよ(糸井)
・脳は死ぬまで休まない―脳はいつでも元気いっぱいなんです。全然疲れない(池谷)
・いろんなものを吸収して豊かな人になることと、頭をよくはたらかせることはひとつのことだって、すばらしいですね(糸井)
・昔の科学は結果勝負なところがあって、ぜんぶを証明してつくりあげたあとにはじめて発表していたんですが、今は仮説のまま公表しちゃうんです。仮説の発表後に人が寄ってきて、その仮説を証明していくというように、科学全体がプロセス重視に変わっているんです(池谷)
・頭のいい人は、長期的な視点でみれば案外進化しない、とぼくは思っているんです(池谷)

 とまあ、もちろんこれだけでは何だかわかりにくいと思いますが、対談の中にいろんな発想の鍵が含まれています。
 それとは別に池谷裕二氏は小学校まで勉強がまったくできなかったそうで、小学校6年で漢字テスト100点満点中2点だったとか、驚くべきことが書かれています。基本的に記憶が苦手で、数学は公式が覚えられないので、問題を見てから公式を導き出すというとんでもない頭の使い方をしていますが、これがかえってよかったのかもしれません。

 そういえば橋本治も同様の解き方をしていたとどこかで読んだことがあります。二人とも、そして糸井重里も本当に頭のいい人だと思いますが、学校秀才的な頭の良さではないところが面白いと思います。
 天才への道は、それはそれで凡人には真似できないですけれど、進む方向なら断然こっちでしょう。ちょっとでも天才に近づけるだけで本当に面白いですから。

 学校秀才は答えの決まった問題の解法を暗記しているだけなので、ご苦労なことだなあと思いますが、年とともに融通が利かなくなって、頭が悪くなっているように見えます。正解も解法もない現実問題の前では手も足も出せずにただただ固まっています。
 学校秀才のタイプには絵に描いたような学校自慢、偏差値自慢だけではなく、それなりに社会的に洗練された変化形がありますが、やはり何よりも悲しいのは、そういう人たちが何より話をしていても面白くなくて、全然魅力的ではないということでしょう。

 もちろん東大出(比喩です)でも滅法面白い人もいるのですが、そういう人は秀才の限界というものを心得ている点が違うのでしょう。かえって段違いに成績優秀だったりもしますから、一筋縄ではいきません。
 コンプレックスには劣等複合意識だけでなく優等複合意識もあるので、そうした色眼鏡を本当に取り払うことができるかどうかということと、他人に対して優しい気持ちで接することができるかということが鍵なのだと思います。

(新潮文庫平成17年590円税別)

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