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2010年6月30日 (水)

竹田青嗣『「自分」を生きるための思想入門』

 かつて読んだ著者の『自分を知るための哲学入門』が面白かったので、本書も読んでみました。しかし、語り下ろしのためか、本書にはいわゆるテクストの快楽的な部分がなくて、ちょっとがっかりしました。
 ああでもないこうでもないとテクストを紡ぐ作業は、普通なら読みにくい文章になるだけのように見えて、実は思想書にとっては欠かせない要素なのかもしれません。文章を書きながら考えるというリズムが読者に共有されるとき、そこに独特の思考の空間が生まれるからです。
 もっとも、本書では通り一遍ながら、多くのテーマに触れられているために、著者の思想の全体像はとらえやすくなっています。特にフッサールを読み込んだ著者の見方はポストモダンには批判的で、かなりユニークなところがあります。私もまだ若い頃に、翻訳が出たばかりの『イデーン』をむさぼるようにして読んだ記憶が蘇ってきました。
 著者は人生を「欲望ゲーム」の総体と考えています。そして、そのゲームのルールが対等で、開かれたものであることと、そのルール変更が可能であることを重要な要件と考えています。この思想はウィトゲンシュタインの思想の橋爪大三郎的読みの影響も受けているのかもしれませんが、分かりやすくてなかなかいい感じです。
 ただ、善とか美というものを説明する場合には、ルール以外のものから考えていかなければならなくなるでしょう。この点で、どこかでプラトン的な要素がないとうまくいかないような気がしますが、どうでしょう。
 もう少し著者の他の本も読んでおきたいと思います。

(芸文社1992年1300円+税)

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2010年6月28日 (月)

赤瀬川原平『老人力 全一冊』

 著者独特のゆるーい感じの語り口が素敵です。このブログにリンクしている友人の文章 binsei blog がちょっと似た感じがするのは、美術関連の人だからかもしれません。文体というより発想の飛び方に特徴があって、何だか真似できないリズムがあります。
 老人力というのはもちろんシャレで、老人パワーとは正反対のものです。つまり、加齢とともに落ちていく力を負のエネルギーの発露ととらえるものです。だから、ボケというのは「老人力がはたらいている」と考えます。そして、何より著者の文章の力の抜け具合がそもそも老人力の見本なのです。
 こういう遊びができるのは、著者に南伸坊とか藤森照信といったユニークな友達がいるからでしょう。こういう人たちと一緒にいると一日中笑って過ごせそうです。
 そういえば井上陽水なんかもまわりの人といつもこんな感じで過ごしているようで、あの歌詞のぶっ飛び方の背景には冗談ばっかり言い合いながら言葉遊びに熱中する仲間たちがいるのです。
 実際に「最近物忘れがひどくなって云々」というよりは「老人力がついちゃってさあ」と言った方がちょっとした符牒を共有している感じもして、人生が余計楽しくなりそうです。
 しかし、このゆるーい感じの本の中にはときどき次のような実に鋭い指摘が仕込まれてもいるのです。

 「たとえば例の少年の人殺し事件。いろいろな識者がその事件の中に論理的に分け入り、細かく分析していく。AだからBになって、BだからCになったということが、端から理由がつけられていく。いろんな説があるけど、ぼくなどはどの説も正しいと思ってしまう。でもそういう論理をたどっていると、何だかその事件を肯定するような位置にいるのに気がつく。
 嫌だなあと思う。
 殺人はもちろん嫌だけれど、それを嫌というふうにいえないような論理の力そのものが嫌になるのだ」(84-85頁)

 この曰く言い難いところを言い当てるのもまた「老人力」による力の抜け具合があるからこそのような気がします。若者にありがちな直線的論理では論理以外のところにはたらいている力を見失ってしまいがちだからです。
 ま、ともかくいい本です。

(ちくま文庫2001年680円+税)

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2010年6月25日 (金)

斎藤美奈子『文壇アイドル論』

 2002年に岩波書店から出た単行本の文庫版。文庫化にあたってあとがきのかわりに「アイドルたちのその後」を収録しています。ここでいう文壇アイドルとは、村上春樹、俵万智、よしもとばなな、林真理子、上野千鶴子、立花隆、村上龍、田中康夫の八名です。
 みんな八〇年代から九〇年代にかけて一世を風靡した人たちですが、そうしたアイドルを作り上げた批評界やマスコミ、そして何よりも世間一般の風潮がある種社会学的に解剖されています。しかし、もちろん、その中心にあるのは作家の特徴を見事に射抜くような著者自身の批評です。その目の確かさは、アイドルたちの周りで提灯を持っていたり、訳も分からずに踊っていたりした有象無象の批評家たちの何倍も鋭いものです。
 彼女の目の確かさはアイドルたちのその後の活躍ぶりからも裏付けられています。恐るべき本です。口の悪さも天下一品ですが、この批評眼の裏付けがあるのだから、説得力は群を抜いています。
 また、それに加えて、著者は各作家の作品も批評も本当に丹念によく読んでいるなあと感心させられます。結構読まずに書評を書いたりという人が多い中でこのきっちりとした姿勢は立派です。本当は他の三流批評家たちのほうが異常なのですが。

 著者の読みの鋭さを示す例を挙げておきます。例えば俵万智の短歌は、短歌という古い形式に新しい感受性をもたらしたという批評家たちの評価とは反対に、「新しい文体(物語形式)で古い感受性(物語内容)を歌ったからこそ」(53頁)万人に受け入れられたとみています。
 また、よしもとばななの小説は少女漫画の影響よりもコバルト文庫の少女小説(氷室冴子、新井素子、折原みとなど)の影響下に成立している、という発見もえらいものだと思います。(コバルト文庫といえば、昔、中国人留学生でこのシリーズを貪るように読んでいた女の子がいましたが、日本語の上達度が群を抜いていました。1年たったら日本人と変わらなくなっていました。)

 ところで本書は、1987年から3年間ハンガリーに留学していた私にとって、あのバブリーな時代の空気を改めて教えてくれる貴重な本でもあります。そっかー、あのころこんなことがあったんだ、ということで自分の中の分断された時間と歴史意識のリハビリになります。
 たった3年くらい日本にいなかっただけなのに、帰国するとテレビタレントたちがみんな微妙に額が上がって老けていたりしたことを覚えています。アイドルたちはずいぶん入れ替わっていましたが、本書を読むと文壇アイドルたちもそれぞれに苦労していたことがわかります。
 とはいえ、今もみんな健在なのは(書いていない人はいますが)寿ぐべきことです。 文壇アイドルはかなりしぶといようです。

(文春文庫2006年629円+税)

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空海『ビギナーズ 日本の思想 空海「秘蔵宝鑰」 心の底を知る手引き』

 長いタイトルですが、空海の『秘蔵宝鑰』(ひぞうほうやく)の現代語訳です。解説的な部分も文中に織り込んだ現代語訳で、読みやすくなるよう工夫されています。主著とされる『十住心論』の角度を変えた解説のようにもなっています。
 結局は密教が一番すごいという主張ですが、論証が綿密になされているような本でもないので、「ふーん、そんなものか」という感じで読むしかないのですが、阿羅耶識の法華経の密教の立場からの見方が現れていてなかなか興味深いものがあります。
 密教が仏教の集大成だという形で他のすべての教えを、儒教も含めて体系的にとらえているのは空海のオリジナルだと思いますが、書き方は素直に論理的で、問答なんかが織り込まれているところなどは劇的で面白いですが、だからといって、奇を衒ったところはまったくありません。ちょっと意外な感じさえします。
 ただ、比喩がかなり巧みで、漢文読み下し文を見ているとさらに詩的イメージを喚起するところがありますので、原文の漢文は鮮やかな名文なのではないかと想像されます。当時の党の人々を驚かせたというのは嘘ではなさそうです。そのうち同僚の中国人スタッフに漢文を見せて感想を聞いてみようと思います。(ただし、この文庫には読み下し文までしか収録されていません。)
 司馬遼太郎がいろんなところで書いていることですが、空海の思想は体系化されて完結しています。そのため、すべてが道半ばで力尽きた最澄とは違って、空海の思想は後継者が発展させる余地がなかったのではないかと言うのですが、一理あるかもしれません。
 体系の完結は必ずしも思想の完成ではないにしても、教壇の論理では後世これを乗り越えることは難しくなるでしょう。なにせ今もってこの宗派では空海は死んだことになっていないくらいだからです。本人に怒られるのはかないませんからね。

 ところで「第九住心」の「極無自性心」は池田晶子の思想と重なってきて面白いなあと思います。現代語訳では「自分のごく近くにありながら見きわめにくいものはわが心であり、また微細でありながら宇宙に偏在しているものは、わが心の仏なのです。『わが仏』こそは思議しがたいとらえにくいものであり、『わが心』もまた広くかつ大なるものであります」(145頁)。
 ということは、哲学者の故池田晶子は次に生まれ変わって、今頃第十住心のステージに進んでいるのかもしれません。「哲学の巫女」とか呼ばれていましたが、成仏してしまいました。あるいはまだ成仏せずに、今ごろ冥界で空海やプラトンたちと談笑しているのかもしれません。

 それはそうと、『十住心論』はちゃんと読んでおかなきゃいけませんね。

(角川ソフィア文庫平成22年819円税別)

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2010年6月22日 (火)

畑村洋太郎『決定学の法則』

 失敗のメカニズムを明らかにして、失敗を繰り返さないよう対策を立てるのが著者のいわゆる「失敗学」ですが、失敗を糧にして何をするのかというと、人は常に何事かを決定しているのです。
 つまり失敗学の先にある創造的思考のメカニズムを明らかにするのが本書のタイトルにある「決定学」というわけです。物事を決める道筋を構造的にとらえておくことで、より深く的確な決定ができるようになるというのが著者の主張です。
 今までは欧米の成功例を改良して決定してきたことがらも、今日では自ら新しい領域に踏み出さなければならず、「人真似ではなく、自ら試行錯誤しながら未知のものを創造し、新しい成功例を作り出さなければならない」(17頁)からです。

 決定は単純論理的な作業ではなくて、ジグソーパズルのようなものだと著者は言います。思考平面上で思考の断片をつなぎ合わせながら、行きつ戻りつそれぞれの選択肢を選ぶといった作業だからです。
 面白いのは、そうやって思考の道筋を付けて行く際には、論理的思考は何の役にも立たないと著者が言っているところです。確かにジグソーパズルで一つ一つのピースをつなぎ合わせるのに論理や演繹は不要です。
 論理や演繹がやってくれるのは「出来上がった道筋の正しさを評価する手助けだけ」(41頁)だからです。何だか二流の文芸評論家や学者みたいですね。そして、「決定の道筋を作り上げていく過程で『道案内』できるのは、経験と知識の積み重ねから出てきた『体感』『実感』なのです」(同頁)。

 そうなんですよ。著者は実際「気」とか「山勘」なんかの重要性も認めています。これは仕事の現場のメカニズムにおいて無視できない要素です。決してオカルト的なことを言っているわけではありません。
 著者の「成功のための17の経験則」には良い表現が出てきます。17全部は挙げませんが、たとえば、
・すべての決定は賭けである
・夢と志を持て
・まずは動け
・論理は後付け
・山勘にも三分の理
・人事が万事
・躊躇に得なし
・反省より「省察」せよ
などです。

 で、ここにもあるとおり、結局すべての決定は賭けなので、決定しないで後悔するよりは決定して後悔したほうがいいのではないかと著者は言います。失敗しても、その失敗を糧に成功につなげていけばいいのですから。
 勇気づけられる本です。

 ただ、ダメ会社だと悪い「気」に覆われていて、決定以前に新鮮なアイデア自体が出てこないのではないかとも思います。失敗したら後がないし。文字通り土壇場にあるところも多いのではないでしょうか。

(文春文庫2007年524円+税)

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2010年6月21日 (月)

畑村洋太郎『起業と倒産の失敗学』

 2002年の『社長のための失敗学』の続編です。経営の失敗のカタログになっています。ベンチャー企業の失敗例が集めてありますが、著者は「失敗学を最も必要とするのはベンチャービジネスだ」と言います。ベンチャー企業は時流に乗って一時的な成功を収めたあとからが勝負ですが、そこから安定した組織作りを含めた経営の難しさも始まります。
 本書ではそこで見事に失敗した実例が10例集めてあります(文庫版なので、単行本出版以降の情報も補足されています)。これを他山の石として自社の起業に活かせるかどうかということが、ベンチャー企業のみならず、すべての組織に共通する問題だろうと思います。
 しかし、組織のすべてに例外なくあてはまるのは、経営者が「自分の失敗は見たがらない」ということです。他人の失敗ならいくらでも笑えますが、いざ自分のこととなったら、隠そうとする以前に見なかったことにしてしまいます。著者はこれを「失敗は隠れたがる」という言葉で表現しています。
 そこには「私だけは誤らない」という過信があり(「私だけは謝らない」と行動で示す人もいますが)、取り巻きによってその過信は増幅されていきます。しかし、人間は誤りを犯す動物です。例外はありません。そのあたりの常識がはたらかなくなったときが危険なのだろうと思います。
 しかし、誤りを今後に活かすなら、倒産しても再出発できますし、そうした実例も本書には出てきます。また、危機がそれほど深刻でない起業でも、今までよりよい組織が生まれます。
 組織における重大な事故については、現場の担当者を免責した上で、本当の情報を共有することが必要ですが、その重要性はなかなかわかってもらえません。経営者にとってはあまりに恥ずかしい誤りなんてのがあるからでしょう。
 そのあたりが組織再建の鍵なんですけれどね。

(文春文庫2006年571円+税)

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2010年6月20日 (日)

井沢元彦『世界の[宗教と戦争]講座』

 『井沢元彦の世界宗教講座』(1993年)の増補改訂版ですが、かなり大幅に加筆されています。ユダヤ教については新たに章が追加されていて、宗教紛争についても細かな情報が追加されています。逐一読み比べたわけではありませんが、改めて感心させられた指摘が少なくないので、ほとんど別の本と考えてもいいかもしれません。
 以下に「へぇー」と思ったことを挙げておきます。

・イスラム社会はオイルマネーを持っていても映画にお金をつぎ込むことはしない(163頁)。偶像崇拝禁止の規範に触れるからでしょうか。
・浄土真宗は般若心経を読まない。般若心経には絶対的なものは何もないといういわゆる「空」の思想が説かれていますが、阿弥陀如来を絶対化する教義には合わないからだそうです(201頁)。
・貴族が鎧を着ないのは鎧が元々皮で作られていたからではないか(296頁)。動物を殺してその皮を剥いで作ったものは汚らわしいという差別意識が貴族にあっても不思議ではありません。(ところで日本の貴族というのは鳩山元首相みたいなKYの人を思い浮かべればいいのでしょうか。)

 これだけ世界が狭くなってくると、日本人がいつまでも宗教音痴でいて良いというわけにはいかなくなってきました。橋爪大三郎の宗教社会学講座と併せて今日読まれるべき必読文献だと思います。

 ただし、東方教会があたかもカトリックの三位一体説に異議を唱えているかのような記述は間違っています。アルメニア正教会を除く正教会はすべて三位一体を認めているはずですが。

(徳間文庫2003年590円+税)

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2010年6月17日 (木)

ハイデッガー『存在と時間(下)』細谷貞雄訳

 上巻を読んでいて、この独特の造語による分析の手法は空間的で構造的な存在の分析にはそれなりに当てはまっても、時間の分析に至って破綻するのでないかという気がしたのですが、実際本書は未完です。(何より上巻ほど面白くありませんでした。) 時間の問題の難しさは「質というもの」についての判断を伴うからだと思います。
 さらにその質は永遠に続くものではなくて、消滅します。まあ、物質もそうですが、人間にとっては「死」という問題が立ちはだかっていて、そもそも人間は自分の死をとらえることはできないわけです。
 そんな人間が価値判断を積み重ねながら生きているというのは、何だか大変な問題を含んでいます。価値の問題は絶対的な価値の存在を前提にしないと出てきませんし、かといって、判断をしなければほとんど一歩も前に進むことができません。

 こういう問題からキルケゴールの信仰やヘーゲルの弁証法をあえてとらないで、ギリシア的論理(おそらくは読む人が読めば似非古代ギリシア的論理)だけで突破しようとしたのが、この「存在と時間」という本だと思います。
 ハイデッガーがこうした厄介な方法をとったもう一つの理由は、読み手としてまず第一にフッサールの読者を想定していたところにあるのかとも思います。ドイツで哲学をするということは、カントやヘーゲルという先達に加えて、師匠のフッサールが乗り越えるべき巨大な山として目の前にそびえ立っているということです。
 ハイデッガーは先達に戦略的な頭の良さで勝とうとしていたのかもしれません。そしてその点にかえって彼の性格的な弱さが現れているような気がします。本人としては本当だったら生の哲学をやりたかったのかもしれませんが、その点についての確信的な図々しさを持ち合わせていなかったのだろうと私は邪推しています。
 アランなんかとは正反対の不幸な思想家です。

(ちくま学芸文庫2008年1200円+税)

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2010年6月15日 (火)

マルティン・ハイデッガー『存在と時間(上)』細谷貞雄訳

 ハイデッガーのこの主著は今まで敬遠していました。ナチスの太鼓持ちで、言っていることはキルケゴールとニーチェの焼き直しばかりだという坂田徳男による強烈な批判を読むと、「そうかも」という気にさせられますが、食わず嫌いでもいけないと思って読み始めました。
 で、読んでみるとやっぱりそれなりの面白さはありました。かつて『形而上学入門』なんかはそんなに気にもならず、かと言って関心もせずに読んだ記憶がありますが、本書はのっけから造語のオンパレードで、哲学書としてもかなり異様な部類に属するように思います。
 ハイデッガーが哲学の重要な問題をつかんで、これをどのように表現するかといいうことに腐心していたことはよくわかります。ただ、ギリシア語の語源の哲学的分析なんかは、古代ギリシア人が今生きていないからいいようなものの、冷静に考えてみると必ずしも有効な哲学的方法ではないことがわかります。自分がギリシア語に堪能だということが言いたいのなら話は別ですが、そうだとしたらまた笑止です。
 文体は造語以外はむしろ素直ですが、話が込み入ってくるとこんな感じになります。

「現存在がその日常性においておこなう配視的な開離が、『真実の世界』のーすなわち、現存在が実存するものとしていつもすでにそのもとにいる存在者のー存在自体を発見するのである」(237頁)

 現存在は人間、存在者は神というように勝手に置き換えて読むとわかってくるところもありますが、ハイデッガーはギリシャ的ではあってもキリスト教的ではないので、その感受性にはどこかヨーロッパ的でないものを感じます。その根底には情熱と野蛮さと子供っぽさが同居しています。
 あまり付き合いたくないタイプの人間だったかもしれませんが、書くものが刺激的だったことは確かです。生真面目な師匠のフッサールは困ったことでしょうね。
 本書を読んでいると、内容の当否はともかくとして、こちらが今考えていることについていろんな形で刺激を与えてくれます。どこか嘘くさくて不思議な本です。本当はドイツ語原文で読んだほうが理解できるのでしょうが、そこまでするのだったらピカートなんかを読んだ方がいいというのが私の正直な気持ちです。
 
 もっとも、翻訳文はよくもこれまでというくらい丁寧に考えぬかれて訳されているようで、読んでいて日本語自体にストレスを覚えることはありません。これはすごいことだと思います。
 下巻を読んでもまだ言いたいことがあったら、また書きます。

(ちくま学芸文庫1994年1200円+税)

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2010年6月 9日 (水)

阿部泰隆『対行政の企業法務戦略』

 企業の法務担当者や顧問弁護士にとっては必携の本だろうと思います。具体的実践的なアドバイスと理論武装の道具が一式揃っています。行政法がこれほどまでに武器になるとは思いませんでした。さすがに弁護士としても行政訴訟を担当されてきた著者だけのことはあります。
 もちろん他の著作と同様、著者独特の語り口も失われてはいません。あまりにもわかりやすいたとえには笑いを禁じえません。たとえば、

 「許可を受けた飲食店が繁盛するので、その隣に調理場を増設した。許可は得ていない。料理を運んでくる。そのことがわかってあなたはその飲食店に行きますか」(230頁)
 「ある学生寮で、男女の部屋の間にドアがあり、開けることができるが、明確に分離されているといったら、誰が信ずるだろうか」(同頁)

 といった具合ですが、これは神戸空港が法的に明らかに売れない土地を売れると称して造成している小型機用の土地のことです。
 そういえば、神戸空港の利用客は当初の見込みの3分の1にも満たないという報道がありましたが、市の計画のずさんさには改めて驚かされます。いっそ海兵隊の基地をここに置いたらどうでしょう。静岡空港でもいいかもしれません。どうせ数年後に海兵隊はグアムに行くことが決まっているのですから。

(中央経済社2007年2,800円税別)

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2010年6月 5日 (土)

阿部泰隆『やわらか頭の法戦略―続・政策法学講座』

 最近の法哲学の必読文献とされるものを読まずにいたら、いつのまにか研究会で話題について行けなくなっていましたが、それではと思って読んでみたらやっぱり面白くありませんでした。
 法哲学者は法律実務家に劣等複合意識があるのか、現実の諸問題の解決に有用な理屈を実務家にすり寄って捻り出そうとしているように見えるときがあります。それだったらいっそ思い切って哲学をするか、実務家になるかすればいいと思いますが、それなりに法学部の教員という地位にもこだわりがあるのでしょう。
 この点で、法解釈学にとどまらず、弁護士実務もこなし、豊かな発想で様々な政策提言までも行なう著者は、とんでもないスーパーマンに見えます。そして、著者の思考の背景には法哲学的にもシンプルで力強い思想があるように思います。
 本書の著者の提言は一見極端に見えて、実によく考え抜かれています。これに対して「極端だ、現実の政治過程では実現が困難だ、等の反論がある。しかし、検討をする前からダメだと決めてかかるとか着地点を決めるのではなく、あるべき姿を先にきちんと描いて、その上で、その実現の戦略を考え、現実と妥協すれば、よりよいものができるであろう。そして、このような過程をたどれば、誰がどこでどのように歪めたかがわかるので、立法過程の透明化に資する」(「はしがき」iii頁)と述べています。ちなみに、最近は審議会の議事録も官庁のホームページで公開されていたりしますから、余計透明度は増しています。
 著者はこういう考えで政策提言してきたからこそ、実際に後の立法にかなりの影響を与えて来ています。

 ところで、著者のホームページアドレスが巻末に載っていたので覗いてみると、著者ご自身の仕事についての簡潔で要を得た印象深いフレーズがあったので、紹介しておきます。

「密林のような行政法規の共通システムを体系化し、不備な法を合理的に解釈し、さらに、裁判で実現するほか、アイデアを考えて政策を作り、そして法制度化し、立法にまでもっていく、」(http://www.ne.jp/asahi/aduma/bigdragon/index.html)

 ということを実際にできるのだからたいしたものです。同ホームページにも様々な論考やエッセーが載っていて、つい読みふけってしまいます。とにかく面白くてすごい人です。

(第一法規平成18年2,800円税別)

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2010年6月 3日 (木)

海堂尊『死因不明社会 Aiが拓く新しい医療』

 医者で作家という人は少なくないと思いますが、医療問題をこれだけ作品とリンクさせて書ける人はそんなにたくさんはいないように思います。
 本書は科学の啓蒙的新書シリーズ「ブルーバックス」の一冊として書かれていますが、小説の主人公の架空の対談を軸に解説がなされているという、極めてユニークな体裁を取っています。
 著者は死因不明の遺体の解剖率がたったの2%しかないことと、その背景にある官僚や学会の偉いさんたちの問題をはっきりと指摘しています。いわゆる監察医制度がある自治体は東京23区、横浜市、名古屋市、大阪市、神戸市の5都市しかなく、昭和60年以前には監察医制度がおかれていた福岡市と京都市は当時の法改正によってリストから外されてしまっています。
 したがって、これらの都市以外では、例えば虐待死した子供の遺体解剖については親が拒否することができるのです。水面下で殺されている児童たちが少なからずいるのではないでしょうか。また、逆に見ると、児童虐待で問題になった事件の発生地に注目すると、ほとんどこの五都市だけだったなんてことがあるのかもしれません。
 著者の『チームバチスタの栄光』はベストセラーだった記憶がありますが、背景にこうした重要な社会問題への問い掛けがあったんですね。単なるミステリーではなかったようです。
 厚生労働省と学会のお偉方の強力なタッグを切り崩すのは大変だと思いますが、これが医療制度改革の国民的合意形成に資することがあるとしたら、著者の作戦は見事に成功したことになるでしょう。そうなるといいですね。ワクワクします。

(講談社ブルーバックス2007年900円+税)

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2010年6月 2日 (水)

C・S・ルイス『子どもたちへの手紙』中村妙子訳

 『ナルニア国ものがたり』の著者だけに世界中の子どもたちからファンレターが舞い込んでいたのは当然ですが、こまめに返事を出していたというのは驚きです。本書はルイスから子どもたちへの返事を集めたものですが、読み応えがあります。
 子どもだからといって相手を舐めることなく、真剣に返事を書く姿勢はルイスの生き方を象徴していますが、すごいことです。実際、子どもたちの中にはルイスの意図を世の中のインチキな評論家たちよりもはるかによく理解できている読み手がいるのですから、そのことにさらに驚かされます。
 ルイスは自身の作品の中で『愛はあまりにも若く』を「いちばんいいと考えているのですが、そう考える人はたくさんはいません」(124頁)と言います。でも、子どもたちの中には、あのすごい本のメッセージを的確にとらえている読者が少なからずいることがわかります。
 印象に残る箇所は他にも多々ありますが、一番気に入ったのは次の文章です。

「そう、来世を信じると感じ続けることは、たしかにむずかしいものです。でもこの自分が死んだとたんにまったくなくなってしまうと信じつづけることだって、同じくらいむずかしいものじゃないでしょうか。それがどんなにむずかしいかわたしが知っているのは、クリスチャンになる以前のわたしは、いつもそう信じようとつとめていたからなのです」(105頁)

 わが国に支配的な自称「無宗教」的な宗教意識について考える上でも、ルイスはいつもいいヒントを与えてくれます。

(新教出版社1981年、2005年復刊2200円+税)

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