マルティン・ハイデッガー『存在と時間(上)』細谷貞雄訳
ハイデッガーのこの主著は今まで敬遠していました。ナチスの太鼓持ちで、言っていることはキルケゴールとニーチェの焼き直しばかりだという坂田徳男による強烈な批判を読むと、「そうかも」という気にさせられますが、食わず嫌いでもいけないと思って読み始めました。
で、読んでみるとやっぱりそれなりの面白さはありました。かつて『形而上学入門』なんかはそんなに気にもならず、かと言って関心もせずに読んだ記憶がありますが、本書はのっけから造語のオンパレードで、哲学書としてもかなり異様な部類に属するように思います。
ハイデッガーが哲学の重要な問題をつかんで、これをどのように表現するかといいうことに腐心していたことはよくわかります。ただ、ギリシア語の語源の哲学的分析なんかは、古代ギリシア人が今生きていないからいいようなものの、冷静に考えてみると必ずしも有効な哲学的方法ではないことがわかります。自分がギリシア語に堪能だということが言いたいのなら話は別ですが、そうだとしたらまた笑止です。
文体は造語以外はむしろ素直ですが、話が込み入ってくるとこんな感じになります。
「現存在がその日常性においておこなう配視的な開離が、『真実の世界』のーすなわち、現存在が実存するものとしていつもすでにそのもとにいる存在者のー存在自体を発見するのである」(237頁)
現存在は人間、存在者は神というように勝手に置き換えて読むとわかってくるところもありますが、ハイデッガーはギリシャ的ではあってもキリスト教的ではないので、その感受性にはどこかヨーロッパ的でないものを感じます。その根底には情熱と野蛮さと子供っぽさが同居しています。
あまり付き合いたくないタイプの人間だったかもしれませんが、書くものが刺激的だったことは確かです。生真面目な師匠のフッサールは困ったことでしょうね。
本書を読んでいると、内容の当否はともかくとして、こちらが今考えていることについていろんな形で刺激を与えてくれます。どこか嘘くさくて不思議な本です。本当はドイツ語原文で読んだほうが理解できるのでしょうが、そこまでするのだったらピカートなんかを読んだ方がいいというのが私の正直な気持ちです。
もっとも、翻訳文はよくもこれまでというくらい丁寧に考えぬかれて訳されているようで、読んでいて日本語自体にストレスを覚えることはありません。これはすごいことだと思います。
下巻を読んでもまだ言いたいことがあったら、また書きます。
(ちくま学芸文庫1994年1200円+税)
| 固定リンク
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- ドイツ語で読む珠玉の短編(2026.06.23)
- 山本七平『小林秀雄の流儀』(2019.07.28)
- 田中圭一『うつヌケ うつトンネルを抜けた人たち』(2017.02.20)
- 天外伺朗『宇宙の根っこにつながる生き方 そのしくみを知れば人生が変わる』(2017.02.19)
- 柴田昌治『「できる人」が会社を滅ぼす』(2016.12.30)
この記事へのコメントは終了しました。


コメント