ハイデッガー『存在と時間(下)』細谷貞雄訳
上巻を読んでいて、この独特の造語による分析の手法は空間的で構造的な存在の分析にはそれなりに当てはまっても、時間の分析に至って破綻するのでないかという気がしたのですが、実際本書は未完です。(何より上巻ほど面白くありませんでした。) 時間の問題の難しさは「質というもの」についての判断を伴うからだと思います。
さらにその質は永遠に続くものではなくて、消滅します。まあ、物質もそうですが、人間にとっては「死」という問題が立ちはだかっていて、そもそも人間は自分の死をとらえることはできないわけです。
そんな人間が価値判断を積み重ねながら生きているというのは、何だか大変な問題を含んでいます。価値の問題は絶対的な価値の存在を前提にしないと出てきませんし、かといって、判断をしなければほとんど一歩も前に進むことができません。
こういう問題からキルケゴールの信仰やヘーゲルの弁証法をあえてとらないで、ギリシア的論理(おそらくは読む人が読めば似非古代ギリシア的論理)だけで突破しようとしたのが、この「存在と時間」という本だと思います。
ハイデッガーがこうした厄介な方法をとったもう一つの理由は、読み手としてまず第一にフッサールの読者を想定していたところにあるのかとも思います。ドイツで哲学をするということは、カントやヘーゲルという先達に加えて、師匠のフッサールが乗り越えるべき巨大な山として目の前にそびえ立っているということです。
ハイデッガーは先達に戦略的な頭の良さで勝とうとしていたのかもしれません。そしてその点にかえって彼の性格的な弱さが現れているような気がします。本人としては本当だったら生の哲学をやりたかったのかもしれませんが、その点についての確信的な図々しさを持ち合わせていなかったのだろうと私は邪推しています。
アランなんかとは正反対の不幸な思想家です。
(ちくま学芸文庫2008年1200円+税)
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