斎藤美奈子『文章読本さん江』
著者の力量が遺憾なく発揮された本です。これまで文章読本を書いた誰よりも、批評家として鋭く、文章家として見事です。著者のいつもながらの毒舌は、本質を射抜くような批評眼の冴えによるものだということがよくわかります。
そもそも文章読本という現象を批評するという著者の目の付け所がスゴい。著者によれば、谷崎潤一郎から井上ひさしに至るまでの文章読本の著者はみんな「ご機嫌」なのです。
著者は皆、文章の世界で自他共に認める大家か、あるいは自分でその仲間入りをしたと思っている御仁なので、人様にものを教える立場に立てて陶然としているのです。著者はこれを「キャリア自慢のエリート職人集団」と呼びます。
さらに著者は、文章読本には「目には見えない階層構造が隠れて」いて、それは「話すのはかんたんだが、書くのはむずかしい」(145頁)という価値観だと言います。
だから「文章読本に浸っていると、文章が書けるのはたいへんに偉くて誇らしいこと、書けないのは恥ずかしくて情けないこと、のように思えてくる。これがそもそものまちがいかもしれない」(162頁)ということになるわけで、やっぱりそれはまちがいでしょう。
「文は人なり」という信仰が文章読本の中では生き残っているので、いい文章はいい人間の証拠みたいに考えたら、読者は人格評価の差別的価値体系の中に追い込まれてしまいます。
著者はそのあたりの事情を「人文一致」と呼び、その場合、文章のテクニック=レトリックを否定し、書く楽しみ、工夫する楽しみを奪うことになると指摘します。
著者はさらに歴史的に学校作文のあり方にさかのぼり、実用文と文芸作品の書き方を補うために、文章読本が誕生したという経緯を述べながら、戦後の学校作文が私小説化したり、エッセイ風の体裁になったりする傾向を読み取っています。
そうしたらまた、文章読本は学校作文を否定する形で、たとえば「あるがままに」書くのはやめよう、という主張で清水幾太郎や三島由紀夫の本が登場してくるわけです。
著者は社会学者や経済学者以上に社会科学的分析のセンスがあります。その手の専門の本も学生時代にしっかりと、批評の対象として読み解いていたのではないかと思われます。もしも著者が研究者になっていたら、同業者が皆かすんで見えてしまったことでしょう。
大学の先生なんて著者のアイデアの十分の一も持たないまま、つまらない論文をぼちぼちと書いているならまだいいほうで、そもそも書けないのではないかという人が少なくないのですから、情けない話です。
もちろん私にとっても他人事ではありません。他所から見たら同じバカの仲間ですから。でも、いずれはこの状況から脱出するつもりで力を蓄えておくつもりです。
(ちくま文庫2007年780円+税)
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