エマニュエル・レヴィナス『困難な自由 — ユダヤ教についての試論』
読むのに難儀しますが、刺激的な本です。旧約・新約聖書はそれなりに読んでいても、タルムードは読んだことがないので、タルムードの立場から読まれた聖書の姿は新鮮でした。
レヴィナスの思想=タルムードというわけではないかもしれませんが、現場の今ここにいる人の存在を最大限尊重する思想はすばらしいと思います。これをすると論理を犠牲にすることもしばしばだと思いますが、事実、論理は突然次元を超えてみたり、反対のことをあえて言ってみたりするように見えるところがあります。「それでいいのだ」と、まるでバカボンのパパみたいな論理もあります。
これはレヴィナスを批判しているのではなくて、赤塚不二夫が天才なのだということで理解してください。レヴィナスはむちゃくちゃ変なことを言っているようでも、その中に何パーセントかの真実があると、そこから異次元へとワープして、その真理を肯定してしまうという技を持っています。
それが果たしてタルムード的なのかどうかはわかりませんが、旧約聖書の救いようのない残虐な記述などを解釈すると、そして、ユダヤ人として有史以来の差別と迫害を受け続けてくると、言葉そのままに受けとるようなナイーブなことはしなくなる(または、できなくなる)のかもしれません。
特に印象的だったのは、約束の地を征服したときのカナン人の殲滅について、レヴィナスが「『聖書』の理解しがたい章句のうちでもとりわけ理解に難い場所である」(205頁)と述べているところです。この残虐さには当然強く憤激するとも述べています。そして、
「驚くべきことは、他ならぬ責務と制裁を伴ったこの苛烈な道徳に親しんで形成されたがゆえに、ユダヤ的意識はそこから血に対する絶対的嫌悪を学んだ、ということである。その一方、非暴力を説いた教えは二千年かけても、世界がその自然な趨勢として暴力に向かってゆくことを阻止することができなかった。『旧約聖書』の峻厳な律法は、温良な学派であることを説いてはいるが、柔弱の教義を説いてはいない。問題はその成功によって律法を正当化することではない。そうではなくて、峻烈なる神と自由な人間たちが打ち立てる人間的秩序は、悪しき人間のための「無限の善性」より良きものであるということが、霊性の本質におそらくはかなっているということなのだ。「律法」の原理を維持している神だけが、その峻烈さをたわめ、口伝律法を通じて、「聖なるテクスト」の必然的厳格さを超出することができるのである」(205−206頁)
ちょっと長いのですが、こんな感じの論法です。へー、そう来るのって感じですね。議論の弱点をいつのまにか強みに変えてしまっています。デカルト的明晰性のみを頼りとする議論にはありえないような展開でしょう。
これは大勢の人に対してではなく、個別の人に向けてじっくりと説得するタイプの論理です。タルムードというのは師弟関係の連鎖の中でこうした解釈技法を秘伝のように守り育ててきたのかもしれません。
翻訳者の内田樹さんは、こういう論法をよく用いますが、翻訳を通じて、あるいはレヴィナスご本人から直接学ばれたのではないかと思います。私も内田さんのファンですので、この思想と論理の用い方からはできるだけ多くのものを吸収したいと思います。
(国文社2008年4000円+税)
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