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2011年11月30日 (水)

マイケル・ポラニー『創造的想像力』[増補版]慶伊富長=編訳

これもいい本でした。訳文もこなれていて、ポラニーの本にしては読みやすかったです。

本書は科学者や理工系学生に向けての講演や論文を編集し訳出したものです。私個人的には「吸着ポテンシャル理論」などは正確にはどういうことなのかわかりかねるのですが、ポラニーの提起したこの理論が、49年もの間無視されたり忘れられそうになったりしながら、最終的には疑う余地のないものとして確定されるというそのいきさつに科学者共同体の有様が窺われて、興味深く読むことができました。

また「科学と人間」では、西洋の科学主義的世界観が人類の道徳原理と自由の理念をどれほど破壊してきたかということが、これでもかというくらい強調されています。第一級の科学者でありながら、預言者的な使命感に燃える思想家でもあったポラニーらしい論考です。わが国では坂田徳男のスタンスに似ていると感じます。坂田先生はポラニーは読んでいなかったみたいですが。

人間を科学的発見に導くのは未だ見ぬ実在への予感ないしは先見で、それを系統立てて取り出すことはできないとポラニーは繰り返し述べていますが、それが科学の現場でどのようにはたらいているかということについてはそれなりに描写することはできます。124−125頁にそのあたりの事情がうまく述べられています。

科学者が暗黙のうちに個別バラバラな認識を統合させているという知の働きは、社会理論の新たな展開にもつながる可能性を秘めています。ポラニーはそこに理想的社会のあり方を投影させてもいますが、そちらの話については、先日読んだ『科学・信念・社会』や主著『個人的知識』を参照する必要があります。

(ハーベスト社2007年1,800円+税)

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2011年11月28日 (月)

マイケル・ポラニー『人間について』中山潔訳

ポラニーの翻訳で読んでいなかったものをこのところまとめて読んでいて、本書もその一冊です。ただ、これについては『個人的知識』を読んでいるかぎりでは、特に新しいことはないような気がしました。本書はむしろ『個人的知識』への入門書として読むのもいいかもしれません。元来講演原稿のため、結構わかりやすくまとまっているからです。

しかし、「暗黙知」のはたらきについては、本書のほうがより整理された形で論じられていますので、やっぱりあらためて本にするだけの価値はあると思います。暗黙知という知のあり方に注目すると、ポパーのいっていることなんかでも、かなり底が浅いような気がしてきます。

ポパーの議論では『歴史主義の貧困』で言われていることが、ここでも触れられていて、合理主義者、相対論者、決定論者がそれぞれきっちりと論駁されています(90〜93頁)。本書ではここのところが一番衣裳に残りました。

それにしてもそもそも言語化しづらい知のはたらきに注目して、これを言語化しようとする著者の試みは、当時の英米圏ではかなり孤独な戦いを強いられていたのだろうなと想像します。著者の他の本と同じく本書中にも経験論者の過激な連中からの批判に答えようとしているところが出てきますが、論理にうるさい連中であるだけに、おそらくかなり大変だったことでしょう。

本書では経験論が「経験主義」と訳されていて、ちょっと戸惑いました。訳語も同じ版元から出ているポラニーの本でそれぞれに違っているのは困りますね。同じ編集者のはずなので、もう少し調整してほしいものです。

(ハーベスト社1986年1100円)

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2011年11月27日 (日)

マイケル・ポラニー『科学・信念・社会』中桐大有・吉田謙二訳

このところポラニーの著作をいろいろと読み返しているうちに、本訳書の存在を知らなかったことがわかり、早速購入しました。私がハンガリーに留学中の1989年に出ていたのですね。

本書は慶応大学日吉メディアセンター図書館から除籍されたもので、古書店で安く入手できました。慶応はこれを除籍にして大丈夫かなあ。美本です。除籍されるまで3人しか借りていなくて、その3人も読んだ形跡がないくらいに中身は新品同様です。

さて、本書を読んでみると、あらためてポラニーの世界観に共鳴するところがたくさんありました。ポラニーが真っ当なクリスチャン・シンカーだということもよくわかります。T.S.エリオットと交流があったというのも思想に共通点が多かったからでしょう。

しかし、1980年代は私自身ポラニーのキリスト教思想についてはピンと来ていませんでした。栗本先生も当時は「聖書をちゃんと読んだことはない」とおっしゃっていたので、そのあたりの要素はすっ飛ばしていた気がします。ゼミではPersonal Knowledge なども読んでいたのですけどね。

私はハンガリーに行くようになった1987年頃から聖書に真面目に取り組むようになったので、日本に帰国してからはポラニーの思想が以前よりもわかるようになりました。まあ、そもそも聖書を知らずにヨーロッパの思想がわかるはずがないのですが、聖書を読むことで、わが国のインテリが長らく西洋のインテリをわかったふりをしていることもわかるようになったのは、面白い経験でした。

わからないことは日本人としてわからないと認めると、そこから素直な展開が望めるのに、もったいない話だとは今でも思っています。でも、素直でない人間は相手にしないほうがいいですね。これ、一般論ですけど。

本書ではポラニーが科学者共同体のメカニズムと規範の生成について一歩踏み込んだ議論をしているところが印象的でした。明るい前向きの思想です。ニヒリズムの対極にあります。これ、わかるんです。

自由な討論をいつも実際におこなっている共同社会は
(1)真理というものがあり
(2)当の共同社会のすべての成員がそれを愛し、
(3)それを追究する義務を負うていると感じて、
(4)実際それをすることができる
という四つの命題に献身しているといいます(137頁)

理想的すぎる命題のようにも見えるかもしれませんが、これは科学者共同体も含む社会全体の話ですから、理論的射程は広いです。人は他者とそれを含む世界を評価し、互いに意志を伝え合う生き物である以上、否応なしにこれらを基本にして生活しているわけです。

読んでいていろいろと励まされる思いでした。読んでよかったです。今書いている本にもこの本書の放っているオーラを投影させたいと思います。

(晃洋書房1989年)


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2011年11月26日 (土)

池田信夫『ハイエクー知識社会の自由主義』

ハイエクの美点を鮮やかに取り出して、コンパクトにまとめられた好著です。さまざまな思想家の言わんとするところを3〜4行で言い切ってしまえる著者の力量には感心させられます。

以前から著者の経済学説の正確な理解については感服していましたが、著者の関心は経済学だけにとどまらず、社会の森羅万象に目配りが及んでいて、文献の裏付けも確かなので、本当に勉強になります。

巻末の参考文献も有用ですが、詳細がウェブ上に掲載されているのもありがたいです。今後の読書の目安にしたいと思います。

本書で感心したのは、ハイエクの盟友でもあったマイケル・ポラニーを著者が高く評価しているところです(65-66、194-195頁)。実際、ハイエクの同時代人の文献を丹念にたどっていくとポラニーという創発地点に行き着くところがあるのですが、この点で著者が単に勤勉なだけでなく、社会理論に対するセンスが極めて優れていることがわかります。さすがです。

(2008年PHP新書700円税別)

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2011年11月25日 (金)

ベルグソン『道徳と宗教の二源泉』中村雄二郎訳

本書を読むのは4度目です。読むたびに新たな発見があります。本書は聖書的世界観が下敷きにされた哲学書ですので、日本人でベルグソンのことを理解できる人というのはクリスチャンの割合からすれば、人口の1パーセント以下になる可能性があります。哲学者でも聖書をきっちり読んでいる人は少ないので、一般的日本人の割合とそう変わりません。

それはともかくとして、ベルグソンの思考の独特の粘り強さには驚かされます。提起された論理的図式は複雑ではありませんが、それが全体として了解できるのは、さまざまなことに目を配りつつしっかり細部を把握した後のことになります。しかし、この哲学者は直感的にはすでにさらに遠くを見据えているので、ときどき道に迷わされます。読者としては、ちょっと迷ったあとで出口を見つけてそちらに進むとほのかな明かりが差してくるといったところがあります。そうやって考えながら読むのが一種の快感になってきます。

それにしても本書は渾身の力を込めて書かれたキリスト教哲学でもあります。C.S.ルイスの『ナルニア国ものがたり』と同じ構造をしています。と言っても、わかる人にしかわからないのですが。閉じた宗教と開いた宗教の対比は後のさまざまな思想家たちにストレートに影響しています。

自然の驚異やあるいは他の集団から自分たちを守るために「社会」というものが形成されますが、その中である神秘的な開放系の宗教が生まれて、社会は開かれた空間へと飛躍するというストーリーは、西洋史の事実にも裏打ちされているように見えます。

しかし、開かれた社会への変貌はまだ道半ばなため、現在の混乱があるとも言えます。ある過渡期に自分が位置しているという時間感覚もまた、この開いた宗教=社会観が人びとに与えてくれたものです。ポパーやハイエク、それからマイケル・ポラニーも、このベルグソンの系譜に位置づけられます。また、弟とはイデオロギー的には正反対の思想家にも見えるカール・ポランニーの「二重革命論」もベルグソンの影響を受けています。

私が今書いている社会学の教科書も、結局この閉じた社会と開いた社会の話に触れざるをえません。その意味であらためて多くの示唆を受けることができました。翻訳の文体が中村先生なので、これもまた懐かしく読むことができました。

(白水社1965年)

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2011年11月19日 (土)

トーマス・クーン『科学革命の構造』中山茂訳

昔読んでピンと来なかった本ですが、論文に必要なので再読しました。やっぱり今ひとつピンと来ませんでした。世評は高いのですが、語り口も含めてまったく肌に合いません。

まあ、確かにパラダイムという言葉は著者が使い始めて人口に膾炙するようになったので、そのコピーライター的センスは並大抵のものではないと思います。しかし、そのパラダイムという言葉に著者が明確な定義を与えているかというと、そうでもなくて、曖昧なところがたくさんあります。論敵もそこを突く人が多かったのでしょう。版を重ねるごとに仮想敵を意識してか、記述が余計錯綜してくる感じがします。

パラダイムが変化することを「科学革命」なんて言っちゃったものだから、かえって説明が面倒くさくなっている気がします。ただ、これもネーミングがいいので、特に革命好きの日本のインテリには好まれる要素があったのではないかと思います。

要するに、パラダイムというのは「これが科学だ」と科学者みんなが考えている価値観のことで、アインシュタインが出てくるとニュートン的な前提がひっくり返ってしまうのを科学革命と著者は呼んでいます。

ただ、そうした同じパラダイムに属する科学者集団の中で、新たな科学的発見がどうしてもたらされるのかということついては、マイケル・ポラニーの暗黙知に言及する程度でお茶を濁しているので(それはそれで貴重な言及ではあるのですが)、物足りない気がします。そこのところがこの分野で一番スリリングかつ面白いところなのにねえ、と思ってしまいます。

でまあ、結局のところ、またポラニーに戻らなければいけないようです。いいんですけど。

(みすず書房1971年)

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2011年11月18日 (金)

土屋賢二『幸・不幸の分かれ道―考え違いとユーモア』

本書は著者のユーモアエッセーと哲学がバランスよく配合されたいい本です。以前から著者のエッセーの独特の論理のずらし方にはイギリスの自分をこけにして笑ってみせるユーモアのセンスが感じられて、只者ではないとは思っていましたが、哲学を読んで初めて著者の哲学とユーモアの間にも密接な関係があることがわかりました。本書はその総合のような感じですね。

著者は本書が二本の柱からなっていると言います。一つは「綿密な思考」、もうひとつは「ユーモア」です。ウィトゲンシュタインとアリストテレスに示唆を受けつつ、著者が哲学的にこの境地にたどり着いたということもわかります。東大法学部から文学部にテンブしてこういう境地に達した人というのは著者くらいのものではないでしょうか。そのことも本書に出てきます。

著者のセリフで気に入ったのは、次の箇所です。

「哲学の勉強をしていて一番よかったと思うことは、人間はみんな、基本的に愚かだと分かったことです」(16頁)

そういえばソクラテスからしてそんなことを言っていましたから、これは立派な哲学的伝統を受け継いだ発言ですが、今日の知識人なんかは自分だけは例外だと思ってしまいがちです。思い上がってしまいがちなのです。そして、そんな人が職場の空気だけではなく、世の中全体をも悪くしているように思えてきます。

そんな落とし穴に陥らないためにも本書は一種の解毒剤の役割を果たしてくれると思います。

イギリス人のユーモアについて書かれたところなんか、実に面白かったのですが、他にもユーモアもいっぱい散りばめてあります。本書の最後の頁にも「本書は書き下ろしです。ご安心ください」と書いてあります。帯には「懇親の書き散らし」とありますし。最初から最後まで笑えますが、中身は真面目な哲学も十分読みやすい形で展開されています。お勧めです。

そういえば、先日私も同僚と共に科研費の申請書を提出したのですが、本研究の期待される成果は何かという問いに答えて、「人間の愚かさがわかる」と本当に書いておきました。これで通るとしたら、審査員はかなり懐の深い人だと思います。あるいは土屋賢二ファンかもしれません。

(東京書籍2011年1300円税別)


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2011年11月17日 (木)

渡辺保『忠臣蔵―もう一つの歴史感覚』

怨恨に基づく集団テロ事件が、日本人の心に訴えかける国民的ドラマとして成長していった過程を見事に描き出した名著です。仮名手本忠臣蔵が作者、役者、観客が一体となって相互に影響を及ぼしあいながら創り上げられていったことがよくわかりました。

それにしても著者は歌舞伎の世界を、江戸時代から役者の評判記が残っていることもありますが、まるで観客席に居合わせたかのように描いていて見事です。また、当時の役者のスキャンダルやゴシップの追いかけ方も週刊誌の記事のように読ませてくれます。式亭三馬の忠臣蔵への複雑な愛情の記述も面白かったです。

そして、こういう筆力をもった人だからこそできたことだと思いますが、著者はこの分野の学者が通説としている近松門左衛門中心の史観をひっくり返す祐田善雄の説を支持することができるのでしょう。

「祐田説を信じれば、すべての解説書は書き換えられるべきであり、もし信じなければ、その反論が述べられるべきである。そういうことが起きないのは、祐田善雄にとって不幸せであるばかりでなく、吾妻三八にとってもまた不幸せなことである」(43-44頁)

歌舞伎研究の世界でも、学者たちはすぐ徒党を作り、大家の意見を丸呑みにしてすましているようですね。なんだ、どこでもいっしょか、という感想を持ちました。もっとも、本書刊行当時の昭和56年とは事情も違ってきているでしょうけれど、変わっているとしたら、それは大家の代替わりが行われたからにすぎないのではないかと邪推してしまいます。ま、どうでもいいことですが。

学者が馬鹿なことを書き続けていてくれているからこそ、こうした優れた一般書の存在意義もあるわけです。記者クラブの新聞記者が取材にも行かなくなてきたご時世だからこそ、フリーのジャーナリストが活躍できる余地が広がっているという状況とも似ているかもしれません。どの世界でも阿呆に与せずましてや伍しない戦略が必要になりますね。

(中公文庫昭和60年420円)

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2011年11月16日 (水)

TAMAYO『TAMAYO的 差別の乗り越え方 コメディ+LOVE♥』

10年ほど前にアメリカでコメディアンとして成功して凱旋帰国していた著者の本です。古書店で見つけたので入手。中身は差別についての真摯なメッセージでした。もちろん書き方はコメディアンらしく決して堅くありませんが。著者一流の危ないジョークがどういう考え方でコントロールされているのかがわかって、いい勉強になります。

何せ版元が解放出版社ですから。でも、意外なくらい頭の柔らかい会社だということがわかりました。こういう本が出せるなんて、見直しました。

本を作る姿勢は真面目ですが、内容は著者の自伝的なエピソードとともに、ジョークの台本もたくさん収録されていて楽しめます。彼女のジョークだけでなくて、他のマイノリティ芸人たちのジョークも収録されていて興味深いです。笑いのセンスは日本と違うところもありますが、わかりにくいときはそれこそ異文化摩擦の実例と考えておけばいいでしょう。

本書の最後に素敵な言葉があったので、紹介しておきます。

「すごーく難しいことやけど、正しく生きて、人を許し思いやる心を持つように努力しているだけで、誇りは勝手に湧いて出るわよ」(202頁)

大事なことです。

このところ著者の噂を聞かないので、あの人は今、って感じですが、今も元気で舞台に立っているといいですね。

(解放出版社1994年1236円)

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2011年11月13日 (日)

マルクス『経済学・哲学草稿』城塚登・田中吉六訳

学生時代に一度は読んでいた本ですが、年とって読み返すと、いろんなことがわかって、余計に楽しめました。今はヘーゲルの論理学や精神現象学も一度や二度は読んでいますし、近代経済学の知識も当時よりありますので、マルクス主義者になる資格は十分ありそうです。

しかし、背景知識が増えるとかえって当時のマルクスの苦労が偲ばれて、がんばっていたんだなあ、とか考えてしまいます。対象化の作業が自身とは正反対のものになり、自分に敵対するものに転化し、その対象から逆にないがしろにされるというするという有名な疎外論は、ヘーゲル弁証法の展開そのものですが、弁証法が反定立に何を置いても成り立つという好例になっています。要するにめっちゃ観念的なのです。

それだけマルクスに対するヘーゲルの呪縛が強かったことがわかります。この分かったような分かんないような論理がマルクスの怪しげな魅力にもなっているので、話は複雑です。さらに、もっとわかりやすい魅力としてはそのヒューマニズムがあります。これが出てくると、水戸黄門の印籠のようにひれ伏す人が、おそらく今でもたくさんいるはずです。こっちの方は私はダメです。むしろ笑っちゃいます、ごめんなさい。

「無神論は宗教の止揚によって、共産主義は私有財産の止揚によって、自己を媒介した人間主義である。この媒介の止揚ーとはいってもこの媒介は一つの必然的な前提なのであるがーによってはじめて、積極的に自己自身からはじめる人間主義、積極的人間主義が生成するのである」(216頁)

というところを読んでも、この「人間主義」って信仰の対象みたいだなあと思ってしまいます。それから、この引用からもわかるように、マルクスにはほとんど宗教音痴のようなところがあるので、この点で日本人にはフィットするところがあるのかもしれないと感じました。

ただ、近代経済学の批判を単に机上の理屈だけからではなくて、植民地支配とか当時のでたらめな侵略、殺戮行為の背景を知った上でやっているところは、やはり只者ではないと思います。資本論にはもっとはっきり出てきますね。これは本当に重要です。すなわち、土地も労働も商品になるという暴力性に気がついているところは、今日でも有効な視点ですので、しっかりチェックしておきます。

(岩波文庫1964年520円)

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2011年11月12日 (土)

カール・ポランニー『経済の文明史』玉野井芳郎・平野健一郎編訳

文庫版を久々に読み返してみました。定式化とキャッチフレーズが秀逸です。歩オランニーは目の付け所がいいので、いろんな人から良いメロディーをいただいてオペラにまとめ上げたプッチーニみたいなところがあります。

ただ、細かなところで一貫性のないところもあって、せっかくの定式化も体系とまでは言えないところでとどまっています。先人の本の読み方に直感だけですませてしまうところがあったのかもしれません。例えばマルクスなんかには、かなりしつこくヘーゲルを読み込んで、内在的に乗り越えようとするところがありますが、そういう思考の粘りのようなものは感じられません。あっさり系です。

マルクスとベルグソンとウェーバーのアイデアをよく使っていますが、枠組みや用語を拝借してはいるものの、彼らの粘着気質からはまったく影響を受けていません。それはもう不思議なほどです。そのかわり、この軽さゆえにいろんな学問分野を渡り歩くことになり、そのことを通して後世に多くのヒントを与えてくれています。ヒントを受けたその先は読者が自分で考えていかなければ、という気にさせられるからです。これもまた個性の一つですしょう。

ただ、明らかに影響を受けているはずの恩師ショムローについて、ポランニーが1950年代以降の論文でも一言も触れていないのはやはりいただけません。読んでいてだんだん腹が立ってきました。1948年に妹から送られてきたショムローの二冊の本を読んで、いたく感銘を受けた旨を書簡に記しているのにねえ。

この点で、今回読み直していて、「互酬」(おかしい言葉です。「酬」って、漢和辞典を引いてみたら? コンパでもしますか。「互恵」ではいかんのでしょうか)概念をめぐって、ポランニーの方がアリストテレスに引きずられて、ショムローよりも面白くない定式化をしている箇所が見つかりました(303頁以降)。

これが原因だったのかな、という気もしましたが、だからといって誉められた話ではありません。深刻な影響を受けているからからこそ影響の痕跡を消したかったのかもしれません。実際には、ショムローは1920年に亡くなっていましたし、無視するだけでよかったのですが。それでも、本を送った妹もラウラなんかは違和感を持っていた可能性があります。亡命ハンガリー人でショムローのことをよく知るヤーシなんかも、そう思っていたかも。

このあたりの事情は拙著『ハンガリー法思想史』にも書いておきました。12月に出ると版元は約束していますが、進捗状況について何も言ってこないので、まだまだ先の話になるかも。3年以上前に校了して「あとがき」も書いたんですけどね。でも、出たら読んでやってください。

(ちくま学芸文庫2003年1400円+税)

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2011年11月11日 (金)

土屋賢二『あたらしい哲学入門 なぜ人間は八本足か?』

かつて哲学の恩師が、英米の言語哲学は才能のある人たちが束になってかかっても歯が立たないところがあると言っていたので、なるほど、そういうものかと思っていましたが、著者はきっちりその立場から哲学を書き上げています。そして、著者がウィトゲンシュタインに始まる日常言語学派の中でも最高の成果を上げている哲学者の1人だったんだということまで分かりました。

あのユーモアエッセーも〈哲学の問題にはそもそも論理的にヘンなところがあり、そのあたりをきっちり整理すると、問題はほとんどなくなる〉という議論の副産物として書かれたようなところがあります。論理が鋭すぎて笑いの領域にまで突き進んでしまったのかもしれません。

副題の「なぜ人間は八本足か?」という問題は、そもそも問題がヘンなので、答えることができないのですが、哲学の問題の多くはその種の誤解に基づいているというのが、ウィトゲンシュタインに影響を受けた著者の立場なわけです。で、それはそうなんでしょうが、この問題を読んだだけで笑っちゃいますから、哲学の問題を解消するためとはいえ、そんなことばかり考えていると、笑わずにはいられない境地に達するのかもしれません。

また、これと同じ問題意識をユダヤジョークの中に発見したりするところ(44-50頁)も面白かったです。「壁に掛かっていて、緑色をしていて、口笛を吹くものは何だ?」(49頁)というなぞなぞの答えってわかりますか? 答えは「ニシン」なのですが、そのとことんナンセンスな理由付けに驚かされます。まあ、本書を読んでみてください。

こういうジョークを聞いたり、ラビのもとでタルムードをああでもないこうでもないと解釈しながら育つと、優秀な法律家が出てくるのは当然のことのような気がしますし、哲学者が出てくるなら、やはりウィトゲンシュタインやレヴィナスのような一筋縄ではいかないタイプになるのでしょうね。

ユニークでおそるべき哲学入門です。類書はありません。

(文藝春秋2011年1333円+税)

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2011年11月 9日 (水)

菊谷和宏『「社会」の誕生 トクヴィル、デュルケーム、ベルクソンの社会思想史』

かなりユニークな設定の社会思想史で、社会学史になっています。近代の「社会」についての意識がまずトクヴィルに生まれ、デュルケームが継承し、ベルクソンへと流れていく道筋をそれぞれの著作に基づきながらたどっています。

社会学史的に言うなら、オーギュスト・コントやハーバート・スペンサーが、ほとんどすっ飛ばされているのが驚きです。しかし、読んでいくとそれなりに著者の言いたいことはわかってきます。フランス革命やその後の社会的混乱の中で、3人の登場人物たちが、現実の問題と即かず離れずの距離をとりながら(ベルグソンは離れますが)理論を紡ぎ出していくところが描き出されています。

本書ではドレフュス事件など当時のフランス社会の状況がうまく書かれていて、そのあたりは勉強になりました。ただ、岩波の『思想』に載った学術論文がもとになっているので、あまり一般読者向けとは言えない本です。文体も気合いが入りすぎているところがあって、違和感があります。

それにしても何なんでしょうね、この違和感は。一昔前のアカデミックな文体ってこんなんだったでしょうか。最近あまりこういうのを読んでいないせいか、懐かしい感じもします。

(講談社2011年1500円税別)

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2011年11月 8日 (火)

丸山健二『怒れ、ニッポン!』

著者がツイッターで毎日書いていた鋭い文章が、あらためて一冊にまとめられました。まとめて読んでみると、一貫して強い怒りに支えられた息の長い文章になることが分かります。タイトルからして「怒れ」とありますし。

しかし、飽きっぽく忘れやすい国民であるわれわれは、こんなに怒りを持続できないような気がします。その点で著者は明らかに日本人離れしています。

それにしても、怒りが継続できないということは、思考もまた継続できないのではないかという気がしてきます。あまりパッとした思想家がいないのも、そのせいかもしれません。

本書は12月6日までこのサイトからPDFファイルでダウンロードできます。文章のあいだに原稿用紙の頁が挟まっていて、自分で書き込むようになっています。全体が280頁以上になるので、書き込みたい人は印刷するより買った方が安くつくという計算になります。なるほどうまいこと考えられています。

私も一通り読みましたが、いずれ買うことになりそうです。行動を呼びかける著者の文章に対してどう応じたかを記録しておくと、気合いが入りますし、楽しいかもしれません。でも、あとから読んで恥ずかしいことにならないようにしなければ。

(眞人堂2008年1300円+税)

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2011年11月 7日 (月)

高橋広次『環境倫理学入門 生命と環境のあいだ』

この分野は以前から奇妙な議論が横行する傾向があるので、私はどちらかというと敬遠してきました。植物の権利とか、その植物の後見人として裁判を闘うとか、理屈は分からなくもないけれど、ついついそのくだらなさに笑ってしまうからです。

しかし、真面目な著者はこの分野で丹念に議論をフォローし、争点を浮き彫りにしてくれていて、本当に助かります。ヘンな議論はヘンな議論として、「倫理の主体」と「生命の主体」を混同させるべきではない(146頁)として、しっかり言いたいことを言いつつ、この広大な分野の鳥瞰図を提供してくれています。

こういう仕事は基本的に趣味人の私にはどう転んでもできないことを痛感させられます。私の場合、議論がくだらないと「面白くない」の一言で片付けてしまいます。その点、著者には法学部の先生ならではの責任感もあるのかもしれません。もちろん責任感や使命感だけでなく、能力と情熱がないと始まらないわけで、いやー、ほんと、たいしたものです。

私も食わず嫌いを少しは反省しなければいけませんが、何よりそのための道案内として本書は役だってくれそうです。感謝しないではいられません。

(勁草書房2011年2,000円+税)

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2011年11月 6日 (日)

田中成明『法的空間』

ここ数年、手続的正義の問題に関心があって、ちょこちょこ文献を読んできましたが、この問題についてはやはり著者の書くものがもっとも目配りがなされていて、さすがという感じです。本書も後半で民事訴訟理論とのリンクをはかりながら、手続的正義と手続補償の問題が論じられていて、勉強になりました。

実のところ、個人的にはルーマンの手続的正義についての議論について、いろんな論文で著者が反対の立場を取っているところに興味があって、読んできたのですが、本書ではそれがアレクシーの議論に基づくものだと書かれていました(264頁注44)。議論としては説得的ですが、トラをやっつけるのにライオンを持ってくるような感じに見えるので、ちょっと残念です。

国立大学の法学部の先生ですから、あらゆる文献をもれなく検討した上で、議論を展開することが宿命づけられているのでしょう。ご苦労が偲ばれますが、せっかく「対話的合理性」に基づくオリジナルな議論をされているのですから、読者としてはこれまた別の角度からの切り口を期待してしまいました。

もちろんつねに海外ネタを探している研究者向けには、大変ありがたい本です。またそれぞれの大家について学会での精密な読解と議論が深まることが期待されます。うーん、それにしても私のような不真面目な会員はますます足が遠のいてしまいます。

まあ、著者の場合、理論は理論でいいとして、実務を多少理想化しすぎるきらいもあるので、私としては実務にも詳しく、裁判の当事者にまでなって理論を模索している行政法の阿部泰隆さんのような人が書くものが、一番参考になります。法哲学の研究者があまり注目していないのはもったいないなあといつも思っています。それについてはまた別に書くことにします。

(東京大学出版会1993年6000円+税)

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2011年11月 4日 (金)

木田元『現象学』

現象学は私が学生の頃結構ブームでしたが、その当時本書を読んでいなかったのは、もったいないことでした。でもまあ、今読んだのだから、一生読まないでいたことにはならなかったということで、よしとしておきます。

本書は現象学をフッサール、ハイデガー、サルトル、メルロ=ポンティ、ときにはルカーチなどにも言及しつつ各思想家の視点から多角的に解説した本です。著者によれば、現象学の一番面白い部分はフッサールにもあったものの、やはりハイデガーの存在論とリンクするところにあると、明確には言っていませんが、確信されています。

ハイデガーによる存在=生成の現象学がある意味で虚焦点のような役割を果たしています。一番評価が低いのはサルトルのそれで、確かにかつての哲学のスターは時間がたってみると、メルロ=ポンティより数段レベルの低い思想家だったことがわかりますが、本書での位置づけもまあそんな感じです。メルロ=ポンティの思想と本書で引用されている文体はなかなか魅力的なので、これから何冊か読んでみるつもりです。

本書できっちりと捉えられた現象学のエッセンスは、後に著者が見出すマッハの思想とのつながりが自然に予想されます。著者の読解が正確で正当なものだということが、こうして古い本を読み返してみても明らかに示されているのは、すごいことだと思います。おっちょこちょいであとから絶版にするだけでなく、回収して燃やしたくなるような本を書いているなんちゃって教授や評論家は結構いますから。

(岩波新書1970年720円+税)

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