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2011年12月29日 (木)

上野玲『うつは薬では治らない』

わが国では年間自殺者が3万人を超えて13年目になりました。本書の著者も13年うつで苦しまれています。うつと長くつきあってきた著者だけに本書は説得力があります。

そもそも、うつが医学的にまだ何も解明されていないに等しいとは知りませんでした。巷間でセレトニンが足りないとか何とか言われているのも仮説にすぎなかったんですね。おまけに薬の副作用もかなり危険な場合があります。本書にはそのあたりの事情がきっちりと書かれています。

私の場合は今までのところ幸いにもうつとは縁がなくてすんでいますが、いつなんどきそんな状況になるかわかったものではありません。ただ、昔の教え子で「死にたい」と言うのがいて長電話に毎日のようにつきあわされたことがあります。卒業してからも何か壁に突き当たると電話してきました。

本書を読んでみると、その学生の精神状況と重なるところがかなりあることがわかました。あのときとにかく親身に話を聞き、しかし甘いことは言わずに接したのは悪くはなかったようです。

もう一つ、うつに関してはハンガリーの法哲学者で46歳で自殺したショムローのことが長年気になっていました。遺された日記なんかも読んでみましたが、彼もうつだったのかもと考えると、ちょっとわかってくるところがあります。

というわけで、うつと無縁できた私でも、本書にあらためて教えられることで、ものの見方、人の見方が広がります。うつ患者への接し方の心得を参照できるレファ本として身近なところに置いておきたいと思います。学校の先生にとっては必携です。

それにしても、長年うつの状況にありながら、多くの患者さんや医師に取材し、本書をまとめ上げられた著者には本当に感服します。

(文春新書2010年780円+税)

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橋本治『ちゃんと話すための敬語の本』

日本語の先生が大学進学先の決まった留学生に1月からの授業で敬語を教えるとのことで、本書に目を通してみました。そうしたら、本書は「正しい敬語の使いかたをするなんて、こんなにもへんだ」ということを教える本(70頁)でした。即効性はありませんが、敬語の背景や淵源を知るにはいいかもしれません。

生徒が先生に職員室に呼び出されたとき「お召しによりまして参上仕りましてございます」(38頁)と言うと、敬語としては最上級の表現で、間違っていませんが、使いかたとして「正しい」わけではありません。ギャグでなければ時代劇になってしまいます。

ところで、使いかたのマニュアルだと、なぜそう言うのかということはわかりませんが、敬語をさかのぼって聖徳太子の冠位十二階から説明してくれる本書は、正しい敬語の使いかたを考えるための貴重な手がかりを与えてくれます。

著者は敬語の用法が他者との距離を表すことをきっちり捉えているので、敬語が不要だとかなくなるだろうとかいっているわけではありません。敬語のことを自分で考えるということは、人間関係のあり方を体得するということにつながります。その意味で本書が年少者向けのプリマー新書として書き下ろされたのはいいことだと思います。でも、大人にも読んでほしい本です。

(ちくまプリマー新書680円+税)

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2011年12月26日 (月)

森博嗣『自分探しと楽しさについて』

以前から「自分探し」なんてセンスのない若者がやることだと思っていましたが、著者は大学の先生として学生の相談を受けたりしてきたせいか、若者に優しいです。実際、きまじめな若者がちょっと見方を変えるだけで、脱皮したりするのも見てきたからでしょうね。

理系の頭の著者らしく、理屈できっちり考えていくところが素敵です。他人の本など一切引用せず、きっちり筋道立てて考えることで、ストレートに鋭い表現が生み出されるところに独特のいい味わいがあります。文章のリズムもユニークです。

「なにをしても、自分は見つかるし、なにをしても、自分は高まる。まずは考えないで、行動することだと思う。考えるのは、そのあとで良い」(51頁)

「『他者』を認めること、それが『自分』を確立する。認めるというのは、存在を認め、立場を認め、意見を聞き、人格を尊重し、必要であれば、守り、敬う、ということである」(101頁)

「『他者』の集合、そしてその集合が時間的にも蓄積したもの(歴史)が、「社会」である」(124頁)

「難しいのは、考えることであり、さらに難しいのは、考えすぎないことだ。考えていけば、必ず矛盾が生じる。矛盾があったからといって絶望することはない。世の中すべて、自分も他者も社会も矛盾だらけなのだから」(151頁)

という感じです。社会学者が書くものよりも刺激的です。たぶん著者が「考える人」だからでしょう。学者は考えないでコピペする人が多いですから退屈なのだと思います。学者の場合、横のものを縦にするにも日本語としてこなれていないため、余計難解になってしまいます。

でも、わが国の社会科学者たちは一から自分の頭で考えることだけは恐ろしくてできないのです。能力の問題もありますが、自分で考えるような生意気な真似をしたら、学会の重鎮などからきついお叱りを受けて、下手をすると追放の憂き目にあうからです。

なんだかなーって、いつも思ってはいるのですが、ま、私などは学会とはほとんど無縁なので気楽ですが、斯界で出世しようとすると、サラリーマンの悲哀のような感じになってしまうのです。なーんだ、典型的なムラ社会ではないか、と思うでしょう。そのとおりなのです。

著者はもう国立N工業大学をお辞めになっていますし、以前よりもより自由な生き方をされているようです。その心持ちには学ぶべきところがたくさんあります。

(集英社新書2011年700円+税)


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2011年12月25日 (日)

アダム・スミス『国富論Ⅰ』大河内一男監訳

初めて読みますが、さすがに近代経済学の開祖の本だけのことはあって、経済の重要な問題がしっかり論じられています。最初から後にリカルドが展開した比較生産費説が素朴な形ながら展開されていて感心させられました。

この第1巻における利子や賃金の話などにも随所に慧眼が光っていて、あらためて只者でないことがわかります。あらためて『道徳感情論』の退屈さは何だったんだろうと不思議になります。

もっとも、最後のところで大量の貨幣の流入が利子率に影響しない旨を、アダム・スミスの親友D.ヒュームの『市民の国について』に触れながら述べていますが、そこで、ヒュームの翻訳(岩波文庫小松茂夫訳)の該当する箇所を読んでみたら、ヒュームのほうがさらにオリジナリティにあふれていました。スミスもたいしたものですが、あらためて「ヒューム畏るべし」の感を強くした次第です。

それにしても、新大陸から略奪してきた富がヨーロッパに流れ込んでくることで経済が活性化したのは事実ですが、考えてみると不思議な現象です。これもまたバブルですもんね。そもそも、経済現象が本質的にバブルだということもよくわかります。ジョン・ローが編み出した紙幣というシステムもそうした危うい基礎の上に成り立っているのですが、経済史上の事実とつきあわせて論じると、このあたりよくわかってくるんじゃないでしょうか。

ヒュームは先の著書の中で物価を漸増の状態に保つ政策がベストだと言っています(60頁)。さすがですね。スミスが第2巻以降でどんなことを言うのか楽しみです。

(中公文庫1978年895円+税)

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2011年12月23日 (金)

高橋幸恵・橋本健一『ゼロからだって「教師」になれる!〜教員免許取得&採用試験合格NAVI〜』

著者の高橋さんからいただきました。出たばかりの本です。小中高で教員になる道ってたくさんあるんですね。「最短1年で教員になろう」と表紙に謳ってあります。読めばなるほどそんなこともやりようによっては可能なんですね。本書は教職に就くための総合案内および学習指南書として実によくできています。

いただいた本だから言うわけではなくて、資料編も充実していてわかりやすく編集されています。どこで勉強したらいいかについては、全国の教員免許が取得できる教育機関が一覧でき、採用試験の自治体ごとの競争率や受験用件、受験科目の相違まで実に丁寧です。

Q&Aも充実していて、かなりの疑問点はこれを読むとある程度解決の糸口が見つかりそうです。教職を目指す人は是非ご一読ください。

(オクムラ書店2011年1600円+税)

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2011年12月19日 (月)

西加奈子『漁港の肉子ちゃん』

久々にとんでもなく素晴らしい小説を読みました。西加奈子はもう私の中では荷風や太宰よりも上位にランクされる小説家になってしまいました。彼女の小説世界の奥行きの深さには心底驚かされます。

いつものようにストーリーもきっちり練られていて、泣かせるところも心得ています。涙腺が弱い人はちゃんと大きなハンカチを用意して読んだほうがいいでしょう。

また、タイトルの「肉子ちゃん」ですが、これくらい美しくない登場人物は他にないんじゃないかというキャラクターです。少女のお母さんなのですが、すごいです。映画化されるとしたらどんな女優さんがいいでしょう。太っていて不細工で、人を信じやすくて騙されやすく、いつもとても明るいお母さんです。演じ甲斐のある役だと思います。

なお、細かいところですが、物語の中ほどのところで主人公の少女自身が成長して、ものの見方が変わることで、亀裂の入った人間関係が修復するところは、地味ですけれど新鮮な驚きがありました。こういうのって定点観測しがちな作家の目が足かせになって、結構難しいことのように思います。

小説家といえば、荷風や太宰はともかくとして、社会の底辺の人びとを結構ストレートに書いたフランスのセリーヌなんていう世界的な作家がいましたが、正直いって、西加奈子のほうがもっと鋭く深く、暖かい作品世界を作っていると思います。

あとがきによると、地震の前の石巻や女川を旅行したときに着想された作品だそうです。さ作品の中では舞台は北陸の漁港ということに変わってしまいましたが、地震の後もいろんな思いを抱きながら書き続けてくれたことで、こんなに素晴らしい作品が日の目を見ることになったのは、慶賀すべきことだと思います。

できるだけ多くの人に(それも多くの女性に)読んでほしい小説です。

(幻冬舎2011年1400円+税)

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2011年12月18日 (日)

菊地成孔+大谷能生『東京大学のアルバート・アイラー 東大ジャズ講義録・キーワード編』

『歴史編』が前期の講義で、本書『キーワード編』は後期の講義です。もぐりの学生もたくさんいて盛り上がっている教室の様子がよく伝わってきます。でも、本当はこれ録音ではなくて書かれているんですね。

本書ではジャズの楽理面と、ダンスの歴史との関係がより詳細に展開されています。中でもダンスという視点は新鮮で、改めて教えられることがたくさんありました。踊れる音楽なのかそうかということはあまり考えたことはありませんでしたが、ジャズがその発生時点ではダンスと密接な関係があったことは言われてみればその通りで、黒人のものすごく複雑なステップと躍動感を受け容れ、育むことができる音楽になるのにもさまざまな展開があったわけです。なるほど。

で、ビ・バップからモダンでは一転して踊れなくなるんですね。ただ、マイルスなんかはそのあたりを心得ていて、晩年の作品では聴衆が踊っていました(ブダペストでのコンサートのとき、ハンガリーの聴衆はみんな立って踊っていました。日本だとみんなまじめな学生みたいに座って聴いていましたが)。あれって、分かった上で創っていたんですね。さすがマイルス。

ってなことをいろいろ考えさせられる本で、聴きたいCDも増えるし、読みたい本もリストに加えなければならないし、本は付箋だらけになってしまいました。多彩なゲストスピーカーも面白い人ばかりで、全体にさすがエンターテイナーです。学生に楽しんでもらおうという姿勢が素晴らしい講義録でした。

(文春文庫2009年686円+税)

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2011年12月16日 (金)

カール・R・ポパー『開かれた社会とその敵 第二部 予言の大潮』内田詔夫・小河原誠訳

第二部です。標的はプラトンからヘーゲルおよびマルクスへと移ります。スタンスは同じように単純なので、感想も変わりません。知識人同士でどうぞやり合ってくださいという気持ちになってきます。

もちろん政治的スタンスはポパーが圧倒的に正しいと思いますが、どこかで、それってふつうでしょ、とふつうのおじさんの感覚からつぶやいてしまうところがあります。ユダヤ人知識人のある種のスタンダードで、典型的な政治的態度だと思うからです。

それって私も同じなんですけどね。ただ、論敵に対する姿勢が「駄法螺屋フィヒテといかさま師ヘーゲル」(56頁)とののしるような感じになると、あまりいい感じはしないだけではなく、やはり、彼らの人気を支える人たちの中にも何かの形で真理に触れるところがあるのではないかという、自説への反証可能性が開かれていないような気がします。

昔、福田恆存が、批判する相手に対する敬意と愛情がない批評は結局うまくいかないと自省しながら述べていましたが、そういうことに尽きるのかなと思います。

なお、部分的におやと思うところがあったのは A.Kolnai の本からの引用でした。面白そうなので、この人調べてみます。ハンガリー系かなあ。

(未來社1980年3500円+税))

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2011年12月13日 (火)

カール・R・ポパー『開かれた社会とその敵 第一部 プラトンの呪文』内田詔夫・小河原誠訳

全体主義と歴史主義を毛嫌いするポパーらしい本です。ユダヤ人として親戚や仲間が殺された経験がこういう本を書かせたのでしょう。というか、ポパーの本のどれにもその核となる経験は生きていると思います。

ただ、恨みが強すぎて議論が平板になるあまり、論敵の中にある貴重な要素を見落としてしまう場合があります。本書ではプラトンを敵として定めたのはいいのですが、プラトンはさすがにそんなに簡単に矮小化できません。

本書はプラトンをほとんど神とあがめ奉る人たちにとっては挑戦的な議論だったと思います。しかし、一般の読書人にとってはプラトンの国家といえども、そんなに神格化したりもしていないので(権威大好きの秀才は別ですが)、それぞれの議論に是々非々の感想を持っているものです。

いくらプラトンでも、裸で体操をするのを笑ってはいけないとか書かれていると、普通の感覚では「ばっかじゃなかろか」と思うでしょう。プラトンの『国家』が全体主義的だなんてことは、ポパーに言われなくても、一読すればわかります。これを無理矢理民主主義的に解釈しようとするプラトン学者が異常なだけの話です。

ポパーにとって、プラトンがヘーゲルやマルクスと並ぶ諸悪の根源の一人であることはよくわかりますが、では、その彼らがどうしてそこまで人気を集め、社会に影響を与えてることができたのか、という原因の分析をもうちょっと突っ込んでもらえたらと感じてしまいます。

ポパーの哲学的立場は英米の分析哲学に親和性が高いものなので、いわゆる「中身」を期待することはできない相談かもしれません。そもそもポパーにとっては「中身」を求めること自体がナンセンスなのだろうと思います。それは一つの哲学的立場としてはよくわかります。

ただ、その「中身」を求める人びとの目には、プラトンやヘーゲルあるいはマルクスは神というより、ほとんど悪魔的な魅力をたたえる存在として映っています。そこのところの秘密を解き明かしてくれるためには、ポパーは善人すぎるのかもしれません。

第二部の感想はまた別に書きます。

(未來社1980年)

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2011年12月12日 (月)

内田樹『期間限定の思想』

著者の『おじさん的思考』の続編にあたる本です。文庫化されていたのをたまたま本屋で見かけたので、早速買ってきて読みました。読んでみると、確かに「日本の正しいおじさん」の多くは、このようにややこしく考えることはなくても、結果としてそのように振る舞っている気がしてきます。

著者によれば、「日本の『正しいおじさん』というのは、実際にはもっと知的だし、もっと内省的だし、もっと深くものを考えている。そうでなければ、日本はここまでこられなかっただろうと思うわけです」(248頁)ということになります。

そうなんです。つまらないおじさんばかりではないんです。ちゃんとした人はたくさんいるんですよね。ただ、黙って仕事して、黙って普通の堅実な生活を送っているので、メディアのイメージに合わないだけのことです。

ただ、ダメなおじさん連中は目立ちますし、ときには法に触れたりしてメディアを賑わしてくれますが、たとえ役人や大学の先生であっても、まともな人が多少なりともいるので、全体がどうにか回っていっていると思われます。ただ、最近はああいうところには、まともな人はいるにはいるけれど、その割合はかなり少ないような気がしてきていますが。

本書は著者には珍しく、対話形式のエッセーも含まれていて、これがなかなか楽しめます。随所にギャグがちりばめてあり、結構芸が細かいですね。最近の著書ではお目にかからないスタイルなので、是非また女子大生との対話という形でなくてもいいですから、書いてほしいと思います。

それにしても、ラカンとかバルトのような現代思想家の難解と言われる論理が、ここまで読みやすい文体の中で展開されているというのには、あらためて驚かされます。東大仏文の人は難しいことを難しいままかあるいはそれ以上に難しく語る傾向があるとおもっていましたが、著者のようにここまで理解が徹底していて、思想が血肉化されているいると、こんな芸当ができるのかもしれません。

自宅の本棚を調べてみたら『おじさん的思考』も持っていなかったことに気がつきました。買って読まなきゃです。

(角川文庫2011年552円税別)

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2011年12月10日 (土)

橋本治『勉強ができなくても恥ずかしくない』

そうなんです。ただ、大事なことは、主人公のケンタくんが大学に入ってから気がついたように「小学校や中学校や高校の勉強は、そういうことができるようになるためにするもんなんだな」(237−238頁)ということなのです。

この「そういうこと」とは「自分の考えたいことをきちんと考える」ということです。でも、これができるようにならない人のほうが絶対多数です。学者でもそうなんです。外国の学者が問題設定をしてくれて、答えまで示してくれたのを引き写してようやく仕事をした気になっている人がわんさといます。どうかすると他人の褌で相撲を取りながら、自分で考えた気になっている人までいるくらいです。

まあ、勝手に幻想の世界を泳いでくれていたらいいと思いますが、そういう人が威張ったり、やたらと自分の出身学校閥以外の人に攻撃的だったりするのは勘弁してほしいですね。ただ、いろんな研究者に話を聞くと、どこの学会もそんな感じみたいですね。

本書はほとんど自伝のような小説です。今までにも著者の同様のエピソードを細切れには読んできましたが、ここまで等身大の主人公が登場する学校小説はそんなにないんじゃないでしょうか。自分もそうだったなあということがたくさんあります。とりわけ勉強がわからなくなったときのつらさはよくわかります。

その中で懸命に物事を考え、決して大げさではなくて「人の生き方を追求している」主人公ケンタくんの姿はいいなあ、すがすがしいなあと思います。たくさんの小中学高校生に読んでほしい本です。もちろん大人もですけどね。

(ちくま文庫2011年780円+税)


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2011年12月 9日 (金)

桂文珍『落語的笑いのすすめ』

慶応大学での半年の講義が元になった本です。慶応大学には一度だけ栗本愼一郎先生の講演を聴くために遊びに行ったことがあります。シンポジウムみたいな形式で、他に糸井重里や高橋章子なんかもいましたね。1980年代のことです。

あの慶応での講義かと、ぼんやり当時の様子を思い出しながら読むのもいいものです。ハーバードで白熱講義をされても、行ったことがないのでもう一つイメージが湧きませんし。でも、いつか著者にはハーバードでも爆笑講義をやってほしいと思います。世界平和のためにも。

さて、サービス精神満点な著者だけに、本書も笑いが満載です。授業でも使えそうなコネタもたくさんあって、参考になります。落語という芸能の歴史についてもいろいろ興味を惹かれました。落語の歴史というと江戸文化の歴史でもありますが、お笑いのネタとしての古典文学ということでいうと、竹取物語から笑いが満載だということは知りませんでした。

また、あらためて宇治拾遺物語や今昔物語の笑いにも興味を惹かれました。これはちゃんと読んでおかなければ、人生大きな損失をしそうな気がしてきました。それと、文珍本人の講座もいいですが、何よりも高座の方を一度(と言わず、何度も)聴いておかなければいけませんね。

(新潮文庫平成18年514円税別)

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2011年12月 7日 (水)

池谷裕二『記憶力を強くする 最新脳科学が語る記憶のしくみと鍛え方』

「へぇー」と感心させられることがたくさん書かれています。脳や記憶についていろんなところでいろんなことが語られていますが、本書でどういうことが科学的で、またどういうことが科学的裏付けがないかということがだいたいわかると思います。

以前から、脳の神経細胞は死滅する一方だとは聞いていましたが、その神経細胞は年とともに減っては行っても、「神経回路は年齢を重ねるにしたがって増加していくのです。この事実は、若い頃よりも歳をとったほうが記憶の容量が大きくなるということを意味しています」(187頁)とあります。

「歳のせいで覚えが悪い」という嘆きは著者によれば大変な間違いで、「そういう人は単なる努力不足であるように思います」(同頁)と手厳しい。でも、そうなんでしょうね。私もハングルをとりあえず継続して勉強していますが、放送を繰り返して聴くと、いやでも覚えるところがあります。努力が足りていないとなると、素直に努力するというのが正解でしょうね。

著者が本書を書いたとき30歳だったそうで、この若さでこれだけわかりやすく、かつ嫌みのない本を書けるというのには驚かされます。俺って頭よすぎて困っちゃうもんね、みたいなところが全然ないのがすごいです。さすがこの分野のトップランナーだけのことはあります。本当に優秀な人というのは、こんな風にさっぱりしているようですね。

(講談社ブルーバックス2001年980円税別)

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2011年12月 6日 (火)

内田樹『呪いの時代』

呪いを解除するには祝福を、世の中を元気にするには贈答を、という素晴らしいメッセージからなる本です。著者の本は何よりも体感的に納得できるのがいいですね。

フランス思想の身体性やセンスの問題を正しく受けとめると、合気道とも相まって、こんな形になるのかもしれません。分析哲学を吸収すると土屋賢二のユーモアエッセーになるのと同じように、一見意外なものが生まれてくるようで、根底では通じるものがあるのだろうと思います。

著者によれば、「『呪い』の言説が際だってきたのは、1980年代半ば、ニュー・アカデミズムの切れ味のいい批評的知性が登場してきた頃からでした。この頃から、「知性の冴え」がほとんど「攻撃性」と同義にな」ったといいます(16頁)。当時私は大学院に行っていたので、この空気はよく知っています。

その頃は「『こんなことも知らない人間に、この論件について語る資格はない』と切り捨てる態度に出る学者がたくさんいました」(11頁)とありますが、今も研究会などに出てみると、当時の若手が今や重鎮となって、同じ口ぶりで攻撃してきます。

著者はこれに対しては「自分の知っていることは『知るに値すること』であり、自分が知らないことは『知るに値しないこと』だと無反省的に信じ込める学者のことを僕は端的に『学者の腐ったようなやつ』と呼んでいました」(13頁)という対抗策をとられたようです。なるほど。

で、その手の呪詛の言葉を他人に投げかける人は(驚くほどお粗末な論理と、驚くほど汚い言葉遣いによって)、ほとんど神の立場から断罪してくるのです。著者によると、そうした「全能感を求める人はものを創ることを嫌います。創造すると、自分がどの程度の人間であるかがあからさまに暴露されてしまうからです」(19頁)。私もそういう人を何人か知っていますが、確かに年齢の割にはあまりパッとした業績はありません。可哀想な人たちです。

著者はこれから経済が「ぐるぐるものが回る」互恵的な「贈与経済」に変質してくるという予測を立てています。そうなると面白いですね。経済成長はしませんが、やたらとチップとか心付けが横行してサービスがよくなったりするかもしれません。そして、何らかの「お返し」をしなければという人びとが、とにかく経済的には無性に見える行為を熱心にやるようになるというのが、ある意味で経済の本来の姿だからです。

思えば私が主催している無料のハンガリー語講座もかれこれ10年近くになるのですが、元々ハンガリー政府から奨学金をいただいて留学したということがなかったら、開かなかっただろうなあと思います。もうほとんど永遠の恩返しの気持ちでやっています。

ほかにもレヴィナスのメッセージなど、たくさん刺激的な話があります。これからいろいろと頭の中で反芻したい内容です。

(新潮社2011年1400円税別)

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2011年12月 5日 (月)

ダニエル・カーネマン『ダニエル・カーネマン 心理と経済を語る』友野典男・山内あゆ子訳

行動経済学の本を開くと、必ずこのカーネマンとトヴェルスキーによる実験が載っていますが、本書にはそのカーネマンのノーベル賞受賞記念講演や自伝ならびに二つの論文が収録されています。

その中でもとりわけ自伝は読み応えがあります。トヴェルスキーとの共同研究がカーネマンにとってどれほど楽しくスリリングだったかということがわかります。子どもが仲のいい友人と時間を忘れて遊びに熱中しているという感じでしょうか。これを研究として寝食を忘れるほど集中してやるというのはすごいですね。

また、この経済学の業界じゃなかった学会は、かなり悪意に満ちた批判が飛び交う場所のようで、二人があらゆる嫌がらせの質問にも対応するべく作戦を練るところが印象に残りました。ちょっと日本の学会とは違う感じがします。悪意や嫉妬を抱く人なら同じくらいいるのでしょうけれど、そこまで露骨に出すのはやはり文化の違いでしょうね。

それはそうと、行動経済学の実験例は授業に使うと効果的なので、本書からもまたいくつか拝借して楽しい授業にしたいと思っています。本書は予備知識がなくても読めますので、行動経済学って何?と思っている人にもお勧めです(でも、もっとお勧めなのは本書の監訳者友野典男さんの『行動経済学」[光文社新書]です)。

行動経済学は人間の非合理性を実証しようとしているのではなくて、「いついかなる場合も完璧な合理性があるという非現実的な概念に異議を唱える」(106頁)ためにあるといいます。そう言いながら、行動経済学は人間の愚かさのパターンを俎上に乗せるので、一部のきまじめな人の神経を逆なでしているのかもしれません。しかし、それは回り回って人間の賢さの追求へとつながる議論だと思いますけどねえ。

なお、翻訳は日本語としてよくこなれていて読みやすいです。これだけストレスを感じずに読める翻訳書はそうはありません。

(楽工社2011年1900円+税)

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2011年12月 4日 (日)

中村雄二郎『テロは世界を変えたか』

昨日リアル書店を久々に訪れて、本書が2003年に出ていたことを知り、早速購入しました。「師匠お懐かしうございます」って感じです。久しぶりに大学の講義や大学院のゼミを思い出しました。

特に大学院のゼミではいろいろなことを何の遠慮もなく話されていたので、昔は文章から受ける印象とは違うなあと思っていましたが、こうしてあらためて読んでみると、本書なんかは文章でも言いたいことを言っていたのだなあとわかります。

本書の前半部が思想的自叙伝になっていて、個人的には懐かしく読むことができましたが、それだけにとどまらず、随所に鋭い指摘や問題提起があります。たとえば、

・「新しい哲学とか思想を生み出すというのは、単なる論理操作ではなく、〈新しい述語〉を生み出すことではないか」(27頁)
・イスラム教徒に改宗した唯物論者のロジェ・ガルディの「歩みのなかに、二十世紀の人間経験にとって貴重なものが含まれていることに気がつくようになった。〈思想〉とはなんなのか、〈イデオロギー〉とはなんなのか、西洋の人間あるいは人類にとって〈イスラム〉とはなんなのか、〈共同体〉と結びつかない魂(あるいは人間)の救済は不可能なのか、等々である」(168頁)

最後の共同体の問題は、今私も考えているところです。なーんだ、自分は相変わらず師匠の問題提起の中をぐるぐる回っているのかと、お釈迦様の手の中を飛んでいた孫悟空のような気分になります。

師匠の呪縛畏るべしですね。しかし、研究の道を見失わないでいられるのは本当にありがたいことです。

(青土社2003年1600円税別)

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2011年12月 3日 (土)

池田信夫『イノベーションとは何か』

イノベーションはちょっとあるいはかなりクレイジーな才能が生み出すもので、大げさに言えば世界を変えるほどの力を持つ商品のことです。最近亡くなったジョブズが開発したiPhoneやiPadのように新たな需要を呼び起こす商品がいい例です。

あんなものがなくても生きて行けるのに、ないと寂しくてどこかすさんだ気持ちになるようなモノです。イノベーションはソフトウェアでもいいわけですから、本質的には情報といえるかもしれません。いずれにしても日本人の得意なモノづくりとは根本的に違った発想から出てきます。

本書はイノベーションをめぐる経済的な諸問題を見事に整理したもので、理論的にもM.ポランニーやハイエクを援用しながらきっちり固められています。要するに、パラダイムを変える力を持つ発明・発見はどうして生まれるかということですね。そしてそれは、自由な精神活動から生まれるのです。

もちろんそんなイノベーションはそうそう起こるものではなくて、成功事例を見てみても、10のうち1でも当たれば大変なっことだといういことになります。ソフトバンクなんかは幸運が味方したほとんどまぐれ当たりという評価にすらなります(168頁)。

マイクロソフトやアップル、任天堂やグーグルのような代表的な企業の分析も見事で、いろいろと参考になります。参考っていうのは大学経営のことですが、これもイノベーション次第でこの閉塞状況を打開できるのではないかと思うからです。

ただ、そう思って読んでいると、こんなくだりが目にとまりました。

「日本企業が優秀な人材とすぐれた要素技術をもちながらイノベーションを生めないのは、過剰に空気を読むコンセンサス型の企業文化がフレーム転換を阻害し、初期のうちにあきらめる擬陰性を生み出しているためだ」(207頁)

大学にはさほどすぐれた要素技術はありませんが、その他は同じ問題を抱えています。変人はそれなりにいますが、イノベーションを生み出せるほどの変人はやっぱり大学を極めて不自由なところと感じますので、やっぱりいられませんし、大学も一割打者を飼っておく度量はないでしょう。他方で、サラリーマン教員はといえば、今度はあまりにも従順すぎてトップに過剰忠誠を尽くし、自由の阻害要因になります。

というわけで、大学に関しては「こりゃダメだわ」というのが正直な感想ですが、おそらくこれからは民間企業で頭の柔らかいところは自由な社風でイノベーションを誘発しようとすると思います。そんなところしか生き残っていけないとなれば、そう動くような気がします。

大学はもはや賞味期限が切れています。やっぱ私塾の時代かもしれないですね。

(東洋経済新報社2011年2000円+税)

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2011年12月 1日 (木)

日垣隆『つながる読書術』

読書をめぐるあらゆることがきっちりと調べ、考えぬかれて書かれている本です。読書会について触れた読書論も他にはあまりない気がします。読書会が、ジョブズではありませんが、人生のあらゆるドットがつながる場所になりうることを教えられました。コメントを持ち寄るという手法もいろいろ活かせそうです。

今まで大学所在地の商工会議所などでたびたび講演や講座をやってきましたが、読書会というのも手ですね。何より双方向的で楽しくなりそうです。大学の通信教育にもいろいろと参考になりそうなアイデアが得られました。早速できることから実行に移します。

第四章の「書いて深める読書術」にある、読むことが書くことと密接な関係があるという指摘および提案も、実際こうやって読書ブログを書いていると、本当にそのとおりだなあと思います。自分にノルマを課すにもいいですし、書こうと思って読むと確かに読み方が変わりますね。

本書中に出てくる面白そうな本を10冊ほどチェックして読み進んでいたら、多くは巻末付録にまとまって出ていました。本当にサービス精神が行き届いています。今まで著者のおすすめ本で外れはなかったので、今後の読書の指針として大いに参考にしたいと思います。

(講談社現代新書2011年760円税別)

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