デュルケム『社会学的方法の基準』宮島喬訳
1980年に買ったときに読んで以来二度目です。ということは32年くらい経っています。そのときよりも当時の事情がわかっているので、面白く読めました。先輩のコントとスペンサーをことあるたびに批判し、自分の立場を固めようとするかなり挑戦的な本です。
議論の展開がきっちりしていて、論争好きだったことがうかがえます。彼を敵に回すと大変だったでしょうね。私は読んでいませんが、友人の歴史家によると、デュルケームはドレフュス事件でも弁護する論陣を張ってかなりがんばっていたそうです。
ハンガリー人の社会学者ヤーシ・オスカールが1905年か6年頃にフランスのデュルケームのもとを訪ねたとき、議論でこてんこてんにやられてしょげかえっている手紙が残っていますが、ヤーシがそのとき聞いた質問がことごとくデュルケームの立場と正反対だったことがあらためてわかりました。これではわざわざ地雷を踏みに行ったようなものでした。ちなみに、その後ヤーシはデュルケームの信奉者になってハンガリーに帰ります。すっかり洗脳されてしまいました。
それはそうと、デュルケームはコントやスペンサーよりももっと科学の内在的論理に即した社会学を構想しています。当時としては「社会を物のように扱う」というのはかなり新鮮な方法だったこともわかります。実際にやっていることは現象学的社会学の先取りのような視点が含まれていて、結構面白いのですが、デュルケーム本人が「物」にこだわることで誤解を受ける可能性もあります。
というのは、自然科学の概念が20世紀に入って量子力学の時代になったあたりから全く変わってしまったからです。それ以来観察主体の主観を排除した純粋に客観的な物質というのは、想定できなくなってしまいました。
で、レヴィ=ストロースなんかはそのあたりの事情をしっかりふまえつつ、フランス社会学は師匠のマルセル・モースによる「全体的社会事実」の概念により、この困難を乗り切ってきたのだという論文を書いています。
(このあたりのことはもうかれこれ4年ほど前にゲラができていて未だに出版されていない拙著『ハンガリー法思想史』に書いています。版元はもうすぐ出版できると言っていますが、この4年間編集者を次々と不幸が襲い、息をつくいとまもないほどです。この12月も入院されていて先週退院されたばかりだそうです。なかなか難しい状態ですが、本が出たら読んでやってください。)
なお、デュルケームの個別の仕事はまあ、そんなに込み入ったことはなくて、素朴に映りますがそれでも「社会的事実」についての議論は甥で後継者のモースにつながる側面を持っています。
とまあ、いろいろ考えさせられますが、またこれ今私が書いている社会学の教科書に反映させるつもりです。話が込み入らないように工夫したいと思います。
(岩波文庫1980年450円)
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