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2012年2月29日 (水)

石平・福島香織『中国人がタブーにする中国経済の真実』

いつものように豊富な現地調査に基づいていろんな情報を教えてくれる福島さんと、日本に帰化した石平さんとの対談です。で、やはり驚かざるをえない事実がたくさん挙げられていました。

経済成長を維持するためかどうか、例えば地方政府による土地の譲渡がGDPの1割を占めている(46頁)ということや、中国の経済政策は上層部が「最後はお金を刷って財政を投入すれば解決する」(50頁)とまじめに信じていることなどです。

これでは最後にハイパーインフレになるのが目に見えています。早ければ今年の夏頃にはえらいことになるかもしれません。

また、へぇーっ、と思ったことは、かの周恩来が「自分が無神論者であることを証明するため、自分の先祖の墓を破壊し」(124頁)たというエピソードです。そこまでやるんですね。

それから、日本文化のパクリとして「AK98」なんてのがあるんだそうで、もちろんAKB48がモデルですが、倍以上の人数がいます。

面白かったのは、福島さんの発言で「中国人と話をしていて思うのは、頭のいい人たちは、左派であろうと右派であろうと、きちんと議論ができることです」とあることです。これ、ほんとにそうですね。わが国ではこれはありません。偏差値エリート大学出身で自他ともに頭の良さを誇る大学教授が、常に上から目線であたりを睥睨し、口を開けば相手を罵倒することしかできなかったりするのを学会や研究会でしばしば目にしますから、この点は本当に情けなくなります。あ、これ、法学や経済学などの文系エリートの話ですが。

(PHP研究所2012年1400円税別)

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2012年2月28日 (火)

日下公人『日下公人の発想法 いま日本が立ち上がるチャンス!』

昨年の震災をきっかけに人びとの間でお上に頼らない新しい動きが出てきています。著者はそうした動きを丹念に観察し、調べてくれています。と同時に、個人の寄付にまでいろいろと手続を指示して税金をかける財務省の手口とか、米軍のトモダチ作戦の裏事情とか、いろいろとショッキングな情報もしっかり載っています。

本書はそんな役人や政治家たちのえげつない振る舞いを、庶民はしっかり記憶していますよというメッセージでもあります。

しかし、考えてみると、政府は現実にお金がなくなってきたのですから、ここはいっそ地方ごとに叡智を傾けて自助努力を行えば、自ずとわが国は小さい政府になり、連邦制に近づいてくるということにもなるわけです。

確かに、震災後のわが国には民間の力を最大限発揮するチャンスが訪れているとも見ることができます。会社も銀行に頼らず社債を発行して財源を確保すれば、下からの金融改革になります。また、原発を地下数千メートルに埋めた小型発電プラントにして、燃料はトリウムにするとか、ジャイアントケルプという昆布の一種を筏で栽培して、その下でアワビを養殖するとか、面白いアイデアが光っています。

最後の頁に「新聞も外務省も学者もいらない時代がきている。映像を使えば英語もいらない。庶民と庶民が立ち上がって行動し、助け合う時代がはじまろうとしている」(181頁)とあります。この時代の流れが本物であってほしいものです。

(ワック株式会社2011年1238円+税)

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2012年2月25日 (土)

若林亜紀『ドロボー公務員 日本を喰い物にする優雅な特権階級』

ギリシアの公務員を見ていると、何と露骨に自分の都合ばかり主張することかとあきれますが、実はわが国の公務員も似たようなものだということが本書を読んでよくわかりました。

本書によれば、平成11年から平成20年で公務員の給与所得は平均920万円から1001万円に増えているそうです。民間の所得はこの半分ですから、本書の副題にあるとおり、優雅な特権階級といわれても仕方ないですね。

地方公務員は自治体によって違いますが、国家公務員よりも厚遇されている場合もあります。また、休職しても3年間は給与が満額支払われたりと、制度的に思いっきり手厚く保護されています。実際、東京都庁では働かずに給料をもらっている休職者が2,923名もいるんだそうです。

天下り根絶とか言っていたはずの民主党政権は見事に丸め込まれ、独立行政法人を新たに6つも作ってしまうというていたらくです。ギリシアをお手本に官公労が旗を振ってみんながついていくという構図です。

近代日本のガン細胞さながらですね。マックス・ウェーバーもマートンもまさかここまでとは思わなかったことでしょう。実は病状はもう手術が不可能なくらいに深刻になっているのかもしれません。

(KKベストセラーズ「ベスト新書」2011年705円+税)

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2012年2月24日 (金)

日下公人『日下公人が読む 2012年~ 日本と世界はこうなる』

いつも楽観的で明るく夢のある日下さんです。本書もご多分にもれず、夢と希望を与えてくれます。

なにせ、独自のいろんな情報網から良い話がたくさん集められているので、いつもほんとうに勉強になります。

冒頭に次のような話が紹介されています。

「アメリカの海兵隊は救援物資を水陸両用トラックに満載して福島の海浜に運び、集まってきた住民に一個ずつ手渡いたところ、住民はすぐ一列に並んで後ろへ後ろへとリレーを始めたので腰が抜けるほど驚いたという。ミシシッピ川水流域のアメリカ人でも住民は一個ずつを抱え込んで走り去ったからである」(2頁)

こんなっことが震災後いろいろとわかってきて、外国人の日本を見る目が変わったと書かれています。そうかもしれません。マスコミが報じないと事実自体が存在しなかったことになりますが、もはやマスコミが社会的使命を果たしていないことも皆さんよくわかってこられたようですから。

本書で一番新鮮だったのはトリウム発電についての情報です。ウラン燃料の原発に替わるものとして真剣に考える必要がありそうです。すでに技術は開発済みですし、あとは政治決断次第です。

しかし、この政治決断というのが一番のネックになっているのは、いかにもわが国らしくて、情けないです。しかし、ひょっとして、決断力不足という問題は政治家だけでなく、今日のわが国の社会の隅々にまで及んでいるのではないでしょうか。

もはやわれわれはあらゆる面で国に頼っていてはいけない時代に入りつつありますね。

(ワック株式会社2011年1238円+税)

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2012年2月23日 (木)

橘玲『貧乏はお金持ち「雇われない生き方」で格差社会を逆転する』

個人がマイクロ法人になると、こんなに不思議なことが起こるのかという驚きに満ちた本です。国家とりわけ年金制度が破綻しかけているわが国ではもはや国家に頼っていてはうっちゃりをくらうことが確実です。企業もそうです。

そのためのあらゆる防御策が満載の本ですが、実行に移すのはやはり大変そうです。何とか定年まで乗り切ればと思うサラリーマンが大多数ですから、本書は夢物語としてしか読まれないのかもしれません。

でも、そうだとしても、会計やファイナンスの基本もわかりやすく書かれていて、この点だけでも本当に勉強になります。ただ、個人的には経済やお金の話に弱いので、その場ではわかったつもりになっても、記憶にはなかなか定着しそうにありません。私は前世でよほどお金持ちだったのでしょうかねえ。

ただ、将来私塾を開くときには本書の知識をもとにいろいろと貸借対照表を眺めながら運営をすることにもなると思うので、ここぞというときに思い出せるくらいにはしておきたいと思っています。

サザエさん一家が法人化したときのシミュレーションはわかりやすくてよかったです。しかし、著者はこの複雑怪奇なわが国の税制や金融のシステムを本当によく把握していますね。つくづく感心させられました。

(講談社+α文庫2011年838円)

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2012年2月21日 (火)

カント『プロレゴメナ』篠田英雄訳

純粋理性批判を読んだあとで本書を読むと、わかりやすく感じますが、これを先に読むとやっぱりわかりにくいような気がします。大学院生の頃、仲間内で読書会をした記憶がありますが、これだけ読んでわかったような気がしていても、結局何も理解が定着しなかったようです。

それはともかく、本書は「ヒュームの警告こそ十数年前に初めて私を独断論の微睡から目覚めさせ、思弁哲学の領域における私の研究に、それまでとはまったく異なる方向を与えてくれた」(20頁)という箇所を引き合いに出すためだけに読まれる傾向があるような気もします。

確かに印象に残る表現ですし、ヒュームのカントへの影響を端的に表しているので、思想史家にとっては便利でしょう。ただ、やはり、純粋理性批判のあとの本ですので、少し別の角度から論じられていて、筆致も伸びやかで著者の余裕が感じられます。

カントは言いたいことをいろいろ言い換えながら、何度も確認して話を進めてくれるので、読者にとっては楽です。カントの語り口に慣れると、だんだん安心して読めるようになります。

実はまだ、判断力批判を読んでいないので、またそう遠くない将来に読んでみようと思っています。坂田徳男先生の翻訳もあることですし。

(岩波文庫1977年500円)

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2012年2月20日 (月)

『世界の名著28 ホッブズ』永井道雄責任編集

昔、先輩が「ホッブズが予言の自己成就について語っている」と言っていたのがずっと耳に残っていました。たまたま現在社会学の教科書を書いていることもあって、もしそうなら社会学のテーマとしても面白いですし、該当箇所を探してみようと思い、この『リヴァイアサン』を読んでみました。

結論から言うと、そんな箇所は見つかりませんでした。聖書の預言者の「預言」はたくさん出てきましたが、それとは違いますし。先輩がたまたまどこかでホッブズ研究者が言ったことでも読んでいたのかもしれません。

でもまあ、そんなことでもなかったら本書は読まなかったと思いますし。結果として読書のきっかけになったのはありがたいことです。

どうも最近古典づいていることもあって、昔の先生や先輩が語っていたことを手がかりに読むことが多いのですが、やはり読んでみるとさすが名著と言われるだけのことがあり、二度目や三度目であっても新鮮な驚きがあります。と、同時に先生や先輩も結構いい加減なことを言ってっくれていたことがわかります。そもそも読んでいなかったんじゃないかということもありますし。

その点で恩師の故立石龍彦先生は本当に哲学者、思想家の勘所を見事にとらえた発言をされていたなあと、古典を読むたびに感心させられます。もちろん私もつねづねそうありたいと思って、先生のように必ずしもギリシア・ラテン語を含むすべて原典にあたれるわけではないですが、せめて翻訳ででもいいので、思想史事典などに頼らずに、名著を直接読んでから書くようにしています。

だから、カントの「カテゴリー」って「純粋悟性概念」のことだよねといったことが、ある種の確信を持ってつぶやけるようになります。つぶやいてどうなるかというと、怪しいおじさんになるだけです。ただ、ハッタリだけの人はすぐに見抜けるようになります。

ま、そうやって業界(学会)で仲間を自分勝手に減らしているのですが。

それはともかく、ホッブズです。

ホッブズって、フランシス・ベーコンの助手をしていたんですね。文章の明快さや語り口などに影響は感じられますが、あえて思想の方向は師匠と正反対にしようとしているところがあります。

方法としてはデカルトに近く、演繹的に語ります。まず明快に概念の定義から始めるところなどは、イギリスの思想風土からすると、実は結構反感を買うのではないかとも推測されますが、実際、論敵も少なくなかったようです。

人狼状態とか(言葉としてはオオカミさんは出てこないですね)、統治権力を国家に集約するリヴァイアサンの比喩など、政治学の教科書の出てくるところ以外では、独特の自然法論が面白かったです。それと、罪刑法定主義や違法性阻却事由の話など、法思想史的にはホッブズが最初に言い出したわけではないのでしょうけれど、重要な指摘が明快になされていて、へぇーっと感心させられました。このあたり後に調べてみる必要がありそうです。

後半の聖書解釈も合理的精神と信仰のバランスが上手くとれていて、なんとなく先輩の話から反キリスト教的な印象を受けていましたが、反教会、それも反ローマ教会的な姿勢であって、反キリストではないことがよくわかりました(国教会も嫌いだったとは思います)。むしろ真剣なクリスチャンだからこその言説で、あらためて好感を持ちました。

近代共和制国家の内在的論理を確認するためにも政治学や法学の徒にとっては読んでおくべき本ですね。私は今頃読んだわけですが、ま、それでもさらに年取ってから読むよりはましだということにしておきます。

(中央公論社昭和54年980円)

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2012年2月17日 (金)

ニール・ジョンソン『複雑で単純な世界 不確実な出来事を複雑系で予測する』

ワールドロップの名著『複雑系』(新潮文庫)以降の複雑系科学の進展状況がよくわかる本です。題名に著者の言いたいことが集約されていますが、これまでの科学では複雑すぎて手がつけられないと思われていた現象が、スーパーコンピュータの発達で、妙な規則性が見出されるようになったのが。そもそもの始まりでした。

FX取引や金融市場、ガン細胞、交通渋滞など、様々な身近な出来事が、見方によっては時折不思議な規則性を示したりします(「秩序ポケット」といいます)。そこで、その規則性をもとに予測ができれば、問題の解消につながるのではという期待が当然出てきますし、実際に精密な理論と計算によって、この現象に対するアプローチが可能なところまで来ていることがわかります。

ただ、本書を読んでもまだ、いいところまで来てはいるものの、問題を解決するところまでは来ていないという印象は残ります。というのも、いくら精密に計算を重ねても、あくまで現象のシミュレーションとしての精度が増すだけで、現象に対しては近似値にとどまるため、これをもってどこまで問題の解決がなされるかはまだわからないからです。

いい線行っているんだけど、え、これだけ? というところもちょくちょくあります。それと、問題の設定自体が間違っていたりすると、壮大な無駄話になるような気がしないでもないのです。定員30名のこじゃれたバーに行くか自宅にとどまるかという選択肢から議論が始まったりすると、ほかの選択肢を考えたくなったりします。

もっとも、これは明るいアメリカ人向きの科学でもあり、今後もこの分野には全米中から優秀な知性が集まってくると思いますので、私としても注目はしていきたいと思います。翻訳はこの手の本ではいつも見事な訳文を紡ぎ出してくれる阪本芳久氏です。この人、すごいですね。

(インターシフト2011年1900円+税)

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2012年2月16日 (木)

カント『純粋理性批判(上)(中)(下)』篠田英雄訳

まるまる四日間病院で点滴につながれていたので、その間に本書3冊をなめるように読むことができました。二度目ですが、やはり若いときに読んでわからなかったことが、50歳も過ぎてくると素直に入ってくるようになるのが不思議です。

で、あらためてすごい本ですね、これは。これだけ綿密な論理を重ねて体系的に考えられる人は哲学史上でもそうはいません。それと、今日のインテリでもカントをきっちりと読んでいる人は必ずしも多くないことがよくわかりました。その手の人は哲学事典なんかの記述を丸呑みにしてわかったふりしているだけです。

それはともかく、言語が必ずしも体系的記述にふさわしくないので、どうしても独特の造語を使わざるをえなくなります。カントの哲学はそうした造語が多くて、その点では理解するのに骨が折れます。ただ、カントはその造語を記述が進むに従って別の言葉で言い換えて論じるので、順番に丹念に読んでいくと、わかるようになってもいます。親切な人柄が偲ばれます。

事実そうやっていわれた言葉はすんなり入ってきます。例えば、

「理性は決して直接に対象に関係することなく、常に悟性にのみ関係し、また悟性を介してのみ理性自身の経験的使用に関係するのである。理性は(対象の)概念を創るのではなくてこれらの概念を整頓し、またこれに統一を与えることができるのである」(中)306頁

これでもかなりわかりやすい方ですが、この事情が要するに

「人間の認識はすべて直観をもって始まり、直観から概念にいたり、理念をもって終わるのである。人間の認識がこれらの三要素[純粋直観、カテゴリーおよび理念]に関して、それぞれア・プリオリな認識源泉をもつが、かかる認識源泉は一見したところ経験の一切の限界を無視して顧みないかの感がある。しかしいったん批判を完成してみると、この批判は次のことを我々に確証するのである、即ち——理性の一切の思弁的使用が、これらの三要素をもって可能的経験の領域の外へ出ることはまったく不可能である」(356頁)

翻訳者の適切な注もあり、こうやって言い換えてわかりやすくなったり、新たな問題を示唆したりという具合に進んでいくのがカントのスタイルです。ただ、ここでは特に直観と概念と理念の位置づけが印象的でした。ちなみに概念のところはもとは「純粋悟性概念=カテゴリー」という用語が使われていて、やっぱり用語がいかめしいととっつきにくいですよね。

なお、理念の方を展開するとヘーゲルになっていきますが、この理念の理解の仕方が忠実に反映されているのがマックス・ウェーバーの「理念型」をめぐる考察です。ウェーバーの話については、今執筆中の社会学の教科書に反映させます。

それにしても理性の適切な使いかただけでこんな本が書けてしまうのは、本当は頭がいいのか悪いのか、ときどきわからなくなります。それで、結局ものの本質、すなわち「物自体」は理性によっては認識できないということになるのですから、入念に準備運動をしていっこうに泳ぎ出さない人みたいなところがあります。

でも、だからこそ面白い人です。ヘーゲルも面白いですが、あまり友だちにはなりたくありません。カントさんはふつうにつきあってもかなり面白い人だったんじゃないかという気がします。

(岩波文庫1961年各550円)

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2012年2月15日 (水)

ひろさちや『けちのすすめ 仏教が教える小欲知足』

ここ数日入院していたときに読んだほんの一つです。入院中に読むのに最適の内容です。病気の多くがストレスから来るので、本書の不安の解消法は役に立ちます。実は解消というより「飼いならす」ことなんですね。

「むしろ今の不安を、わが身の欲望から出た錆と考え、その不安を飼いならすことができる哲学を持つことが何より大事」(13頁)

そうですよね。こういうときに副題にある「小欲知足」が生きてきます。欲望を小さくすることで不安も小さくなるということです。

で、欲望を小さくすると、人によく見られたい気持ちもなくなり、世間体の多くから背を向けた生活をすることになるので、それが「けち」ということになるわけです。タイトルは一見人を驚かすようなところがあっても、理にかなっています。その点ではないようも含めて、前著『「狂い」のすすめ』の続編みたいな感じです。

しかし、資本主義経済の底知れぬ欲望のシステムや、日本社会の原型思考などのよく観察され考え抜かれた指摘は見事です。続編といっても二番煎じではありません。

特に日本人の原型思考では「お隣さんはいないと困るけど、嫌なやつ」というかたちで、「意地悪じいさん」としての隣人をとらえています。

「つまり、日本人には、もともと[ヨーロッパのような]労働者の連帯意識はないのです」(104頁)

なるほど農耕社会っぽい今の職場を見ても、思い当たるフシがあります。また、アメリカははぐれものが集まった国なので、こうした連帯意識はありません。そこで、

「いっそのこと労働者をなくしてしまえと、労働者を消費者に変えていったのが、アメリカ型資本主義です」(105頁)

これが日本に上陸して「怪物へと姿を変えていった」のが今の日本ということになります。詳しくは本書をどうぞ。

行き着くところまで行き着いてしまったら、著者の言うようにわれわれはみんな「けち」で行くしかなさそうです。

もうひとつストレスの原因となってくる人間関係については、著者は仏教の「縁」の考え方を紹介してくれます。私たちに「今の生き方で自分の人生を行くっていいんだよ」と許してくれると同時に、嫌なやつもひどいやつのありかたも仏様がお許しになっていることですから、「あなたが他人の心を変えることはできない」(188頁)と考えることです。

そうすると、他人に対して余計なこともいわなくなり、「いい意味で無関心でいられる」(189頁)ようになるといいます。

これでかなりストレスが軽減されるといいなあ。しかし、どうだか。やっぱりわが身を振り返っても愚かだからなあ。

でも、本書によってちょっとでも心が軽くなるといいですよね。

(朝日新聞出版2009年1200円+税)

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2012年2月10日 (金)

マーク・ブキャナン『人は原子、世界は物理法則で動く 社会物理学で読み解く人間行動』阪本芳久訳

『複雑な世界、単純な法則』のあとに出された本です。複雑系やネットワーク科学に造詣の深いサイエンス・ライターが社会科学における先端科学の有効性を探った本です。

人種差別や民族虐殺のような悲惨な出来事の背景にどんな力が働いているのか、という問題意識から出発し、そこに社会物理学的な組織化の過程を見出しています。行動経済学や社会心理学の近年の諸成果も巧みにに取り入れられていて勉強になります。

語り口が平易で、話の展開も上手ですが、ちょっと引っ張りすぎのところがあります。冒頭でニューヨークの犯罪がかつて劇的に減少した例を挙げて、その原因を考えさせようとしますが、これに関しては結局その答えが明示されないまま終わってしまいました。

社会物理学というのはまだ、十分な法則性が見つかっている分野ではないからですが、期待を持たされた分だけ、え、これだけ、という気にさせられます。著者はあくまでライターで、自分で研究していることではないので、そのあたりは限界かもしれません。ただ、まとめている先端科学の実験例などは実に興味深いものがあって、今執筆中の本にも参考文献として挙げておきたいと思います。授業でも大いに使えそうです。

ところで、著者はナチスやボスニアのムスリム虐殺については触れますが、アメリカの数々の悪行について一言も触れていないのはお見事で、いっそ爽やかなくらいです。しかし、そうは言ってもやっぱり「なに言ってんだい」って気にはなります。ちらっとでも触れておけばいいのに。

(白揚社2009年2,400円+税)


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2012年2月 9日 (木)

ライプニツ『単子論』河野与一訳

昔読んでさっぱりだった本ですが、今回読みなおしてみて、初めて意味するところがわかってきました。キリスト教の知識もある程度必要かもしれません。なにせ、神様からの愛を実感しながら書かれたような幸せ感に満ちた哲学ですから。これではあの皮肉屋のヴォルテールが揶揄するはずです。

「神が初めに精神又は他のあらゆる事象的一体を創造した際、その精神に生ずる凡てのことが、精神そのものから見ると完全な自発性に依っていながら而も外界の事象と完全な適合を保って精神そのものの奥底から出て来るような具合にしておいたのだと云わなければならない」(76頁)

難しい言い方ですが、人間の精神はまるで植物の種子のように神様によって仕込まれていて、植物の側からすると自由で自発的に成長している感じになっているというわけです。で、それはどんな種子かというと、「精神に類似し、一種の有機体と結合した、真の統一の原理」を含むようなもので、これがアリストテレスのいう「エンテレケイア」、ライプニッツが「単子」と命名したものです。

この単純な実体はそれ以下に分けることのできない最小単位で、これが合成されて物体を形作っているといいます。これは何かに妨げられない限り、お互いに調和するべくプログラミングされています。ライプニッツの哲学を「予定調和」と呼ぶのはこういう事情です。

といっても、単子ってそんな魂と物質が合わさった最小単位なんて、だれも見たことはありません。また「判明な表象を持ち且つ記憶を伴っている実体だけを精神と呼ぶ」(231-232頁)とか言われると、余計わからなくなります。でも、こういう仮説を立てるところが形而上学の真骨頂でもあるので、ま、いいんじゃないでしょうか。

そこから派生するからこそ、神の唯一性の証明や欠如としての悪の問題が出てくるので、あ、これは重要ではありますが、あっちの世界のことだなとわかります。キリスト教思想としてはよく理解できます。そのあたりは私は暗いのですが、後世に与えた影響も小さくなかったのだろうと思います。

それにしても、才能にあふれる明るい哲学者です。だからこそヴォルテールも茶化したくなったんでしょう。二流だったら茶化すに値しませんから。いずれにしても、読みながらヴォルテールの『カンディド』が何度も脳裏をよぎって邪魔しにきました。

カンディドの最後場面でのセリフは確か「自分の畑を耕そう」とかではなかったでしょうか。社会主義時代のポーランドで観た見事な舞台を思い出します。これはいろんな意味に取れるセリフですが、ヴォルテールもここは茶化そうと考えていたのではなかったような気がしました。ちょっぴり悲劇、ちょっぴり希望という感じでしょうか。ライプニッツとヴォルテールが舞台上で握手しているような気がした芝居でした。

現代人は体質的にアンチクライストで、おまけにわが国では宗教アレルギーが多いこともあって、ライプニッツの哲学は理解されにくいと思いますが、読んでおくと世界が広がると思います。本書は読み進めると理解が進むようにうまく編集されています。お勧めです。

(岩波文庫1984年550円)


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2012年2月 8日 (水)

マックス・ウェーバー『理解社会学のカテゴリー』林道義訳

1982年に買って読んで以来、二度目です。当時引いた下線を見ると、法理論に使えそうなところばかり探しながら読んでいたようです。訳文は著者何を言いたいかがしっかり解釈されて翻訳されていることがわかり、好感が持てます。それでも難しいとすれば、それは著者の言いたいことが微妙なところにあるからです。

こうして30年ぶりに読み返してみると、ウェーバーは曰く言い難いところを微妙な論理と表現で本当に巧みに語っているなあと感心させられます。しかし、安易に日本語でやろうとすると、書いている本人はわかったとしても、読者にとっては極めて難解な文章になってしまいそうです。

言いたいことがすっきりと書かれているという点では『社会科学と社会政策における客観性』のほうがいいと思いますが、本書ではテンニースのゲマインシャフトとゲゼルシャフトの概念が検討されていて興味を引きます。ウェーバーからこんなにきっちりと理解されるて、テンニースも嬉しかったでしょうね。

それにつけても思い出されるのが、ウェーバーと交流のあった若きルカーチの話です。ルカーチはウェーバーから哲学者としての才能に乏しいという内容の手紙を受けとり、衝撃を受けます。哲学風味のエッセーならいいんじゃないとも書かれていましたが、そんなこと書かれてと余計傷ついたのではないでしょうか。

それだったらウェーバーもかつて強い影響を受けていたマルクスに回帰して、マルクス主義哲学者になってやれと思ったのでは、と以前ハンガリーの研究者が言っていました。それが邪推だとしても、ウェーバーからその手紙を受けとってまもなくして、突然ハンガリー共産党に入党して周囲を驚かせましたのも事実です。

ウェーバーもわざわざそんな手紙を出さなくても、と言いたくなりますが、どうやら一癖も二癖もある人だったようですね。

(岩波文庫1968年200円)

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2012年2月 7日 (火)

内田樹『「おじさん」的思考』

柄のないところに枝を接げる内田流の論理展開がスパークしています。結構気合いが入っているのは、あとがきによれば、本書が著者の事実上初めての単行本だったからのようです。そのため、本書には後の著書でも展開されるエッセンスが凝縮されているところがあります。

以下本書に出て来る金言を列挙してみます。

1.「極論すれば、大学教師であるためには『バカであること』は障害にならないのである。『バカであることを恥じている』だけで十分なのである」(49頁)→「知への愛」が鍵ということですが、意外とこれは難しいことです。勉強することで「恥知らずの秀才」という種類のバカになる可能性があります。

2.「自分を他人より不幸だと思っている人間は倫理的にふるまうことがむずかしいだろう」(72頁)→教員を大切にしない学校はひどいところになるでしょう。

3.「かけがえのないものが欠如してもなお、人はその欠如に耐えていくほかない」(86頁)→小津安二郎の映画の言いたいことってこれだったんですね。言われて納得。

4.「破局的なときに、平常心の人にはついていくな」(112頁)→ついていくと命を落とします。とんでもない非常事態と思ったら新たな行動を起こす必要があるはずです。「揺れは確かに大きかったけれど、裏山まで逃げる必要はありません。校庭で待機しましょう」と落ち着いて断定する教師を信じてはいけません。

5.「若い人に必要なのは、この終わりなき自己解体と自己再生であると私は思う。愛したものを憎むようになり、いちどは憎んだものを再び受け容れる、という仕方で、私たちは少しずつ成長してゆく。そのためには幼いときから『異界』と『他者』に、書物を介して出会うことが絶対に必要なのだ」(165−166頁)→私にとってはフランス現代思想がそんな感じだったかもしれません。今はベルグソン、アラン、ヴェイユ、それから、古いところではヴォルテールあたりで落ち着いています。

6.「大人であるということは、経験の豊かさとも識見の高さとも肝の出来具合とも関係がない。『大人にならなければならない』という当為をわが身に引き受けることによってのみ人は大人になるのである」(189頁)→これがないから世の中全体が子どもっぽっくなっているんでしょうね。ついでにいうと、「男」「女」「父親」「母親」なんかも覚悟一つです。経営者も労働者もね。

7.「青年にとっていちばん大事なことは、『何を知っているか』『何ができるか』ではなく、未来に対して、他者に対して、どれほど開放的に、愉快に応接する用意が出来ているかである」(221頁)→青年以降はすべてこうありたいですね。それが「日本の正しいおじさん」のありかたでもあります。

世の中に行われている言動に微妙な違和感を抱きながら意識の奥底に放置しておいたようなことがらが、著者の言葉を通して形になって出てくると、深く体感的に納得できます。漱石の小説なんかもこういう読み方ができるのかとあらためて教えられました。『虞美人草』なんか未読なので、これをきっかけに読んでみようと思います。

(角川文庫2011年552円税別)

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2012年2月 6日 (月)

上野玲『視線が怖い』

ゆえあって著者から生原稿をいただきました。集英社新書(だったかな)として3月頃に刊行予定の原稿です。面白かったです。本が出たら買います。

視線恐怖というのは、他人と目を合わせるのが苦手を通り越して、恐怖になるという状態のことですが、うつや摂食障害を抱えながら、この視線恐怖にも苛まれた経験のある著者自身のルポルタージュでもあり、取材を通じて、あるいは研究書をあたって得られた知見が動員されて、この症状(といっていいのでしょうか)についての「今」が分かる本です。

また、視線をめぐる日本文化特有の扱い方について文化論的にも触れられていて、興味を惹かれました。民話や伝説などに頻繁に登場する「見るなの禁」や、仲間と一緒に同じ物を見る「共視」が責任逃れの手段にもなっているという指摘は新鮮でした。このあたり論理的なつながりがうまくつかめない所がありましたが、共視については専門の研究もあるとのことで、そうした研究への道案内としても有益です。

昔から「ガンつけた」とかいって暴力沙汰になったりするのも、考えてみれば不思議な現象ですね。本書でもこの点についてもうちょっと文化的に考察されていたらありがたかったですが、著者は若い女性から露骨に「ガンつけられる」つまり敵意のこもった目で睨まれる経験があるそうなので、読んでいてそちらのほうに驚かされました。それも一度や二度ではないとのこと、何とも気の毒な経験です。

日本的集団の中では昔からガンつけたといってボコられ、目立つといってボコられ、黙っておとなしくしていると軽く見られ、あるいは無視されるわけですから、ある意味で視線恐怖にならないほうがおかしいくらいのなのかもしれません。これでは街中ではおちおち目も開けていられません。私も視線恐怖気味なんでしょうか。

しかし、出張で上京するたびに街の人びとの視線が名古屋あたりと比べてやたらときついなあと感じます。めちゃめちゃ他人のことを気にして、欠点を暴こうとしている悪意が潜んでいる気がしていましたが、これはどうやら気のせいばかりでもないようです。

かつて漱石は『草枕』の冒頭で「とかくこの世は住みにくい」と書きましたが、特に東京はストレスフルです。もう少しどうにかならないでしょうかねえ。

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2012年2月 3日 (金)

マルクス/エンゲルス『新編輯版ドイツ・イデオロギー』廣松渉編訳、小林昌人補訳

マルクスが熱に浮かされるようにして書き飛ばした未完の遺稿を、エンゲルスが丹念に並べ替え手を入れていたらしい不思議な本です。どこをどのように手を入れたり書き込んだりしていたかということまで追跡して編集しなおしたのは、故廣松渉の大変な業績なのだそうです。

それはそれとして、やはり昔の版で読んだ時とは印象は違いますが、独特の口の悪さと預言者的な語り口は、マルクス本人に由来するようです。これにやられてしまうと、立派なマルキストになれるのでしょうけれど、私は昔から体質的についていけません。

後にヘーゲルを読むようになると、もっとぶっ飛んだ才能だったので、マルクスが正常に見えたくらいです。といっても、ヘーゲリアンにもなりませんでしたが。

今回アダム・スミスをそれなりに丹念に読んでから本書を読みかえすと、分業についての経済理論をマルクスもエンゲルスもまったく触れずに、もっぱら階級制度を固定させ、経済格差を生み出す原因としてしか捉えていなくて、ちょっとがっかりしました。マルクスの立場から言えることはありそうに思うのですが。

こうなったら、資本論に取り組むしかなさそうな気がします。ま、やってみますか。

(岩波文庫2002年840円+税)

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2012年2月 2日 (木)

マックス・ヴェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳

デュルケームを読んだ後にウェーバーを読むと、論理の使いかたと概念の厳密性について、根本的な方向の違いを感じないではいられません。デュルケームは社会学に無理してやや古い哲学を盛り込もうとしますが、ウェーバーは哲学者以上に精密な論理を用いながら、あくまで社会学をやろうとしています。

ウェーバーは理念型という理想的かつ典型的な概念を用いて、幾何学の補助線のように、社会学的問題を解くための思考の補助線にしようとします。

「理念型はむしろ、純然たる理想上の極限概念であることに意義のあるものであり、われわれは、この極限概念を規準として、実在を測定し、比較し、よってもって、実在の経験的内容のうち、特定の意義ある構成部分を、明確に浮き彫りにするのである」(119頁)

このあたりの議論の精密さは、どちらかというと19世紀的な遺物を引きずりがちなデュルケームとは異次元のものです。

ただ、日本のウェーバー研究者というのは私は苦手で、肌が合いません。補訳の折原浩なんかは大家で立派な人なんでしょうけれど、読めません。どうしてでしょうね。数行読むだけでそれ以上先へ進みたくなくなります。いつかは苦行と思ってでも読み通さなければいけないでしょうけれど、まだしばらくは敬して遠ざけておきたいと思います。

(岩波文庫1998年660円+税)

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2012年2月 1日 (水)

デュルケム『宗教生活の原初形態』(下)古野清人訳

デュルケームによれば、社会は人間が作ったものですが、人間の手を離れて自己原因的に「物として」成立して、それがまた人間に影響を与えてくるという寸法です。宗教もそういう意味では社会が作ったものということになります。

この立場から当時の現地調査に基づいた民族学の業績から、宗教と儀礼に関するものを批評的に通観していますが、いわゆる現地調査をしないアームチェア人類学者のはしりかもしれません。現地調査が当然とされる今日の文化人類学や民族学の領域では、こういう人は存在できなくなっているかもしれません。

資料はスペンサー&ギレン、ストレーロウ、ホウィットなど、オーストラリアの原住民の研究者が中心で、今日の目から見るとかなり奇妙で、不思議な風習などもかなり収録されています。しかし、デュルケームはもっぱら自身の哲学の傍証としてしか考えていないように見えます。

弟子のモースやユベールは同時期に現地の資料に没入しすぎて論文にまとめられなくなるくらい、おそらくショックを受けていたのだろうと推察されます。彼らが苦心して書いた呪術や贈与の話は読むと背景にとんでもないことが控えているという気がしますが、さらにその弟子のマルセル・グリオールなんかはこれまたおそらくそこに刺激を受けて、実際に現地ドゴン族の社会と宗教に入り込んでぎりぎりのところで研究をまとめたりしています。

ちなみにかの岡本太郎も当時ースの講義を聴いていた一人で、「アームチェア人類学者とか言われるけど、面白かったよ」とどこかで言っていました。こうしたフランス社会学の奇人変人列伝があるなら読んでみたいです。

この点、デュルケームは極めて思弁的な仕事をしています。彼の意図は社会学よりも、社会を成り立たせている哲学/思想の方に感心があったようです。もともと哲学畑の人ですし、ベルグソンと年齢もそんなに変わりませんし。ベルグソンに対するライバル心もあったかもしれません。ただ、私が思うに、思想の深さでは完全にベルグソンに水をあけられていますけど。

それで、本書の結論部分は堰を切ったように哲学論/科学論が語られたりします。そこではクーンのパラダイム論に先駆けて、集合表象の枠内でしか科学が成立しないということを論じて見事です。ウェーバーの「社会科学における客観性」論文も、客観性をめぐってクーンよりも鋭い議論をしていますし、クーンの議論自体はポラニーの拙劣なパクリですから、クーンの評価は私の中ではもうほとんどゼロに近いものになっています。パラダイムという言葉をはやらせたのが功績でしょうか。これも時代とともにかすみますね。

ところで、本書に出てくるオーストラリア諸民族や事物、地名の名称は昔、F.ショムロー『原始社会の財貨流通』(1909年)を訳したときに大いに参照させて頂きました。ショムローは本書と同様の文献を用いながら、財貨流通や交換の問題に取り組んでいます。これはモースが賞賛するところとなっていますが、デュルケームは初期から一貫して経済のことにまったく関心がない人なので、本書には何も言及されていません。トーテミズムについてのピクレルとショムローの研究書『トーテミズムの起源』には言及されていますし、著書の存在を知らなかったわけではないと思います。見事に関心がなかったのでしょう。

(岩波文庫1975年改訳550円)

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