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2012年2月16日 (木)

カント『純粋理性批判(上)(中)(下)』篠田英雄訳

まるまる四日間病院で点滴につながれていたので、その間に本書3冊をなめるように読むことができました。二度目ですが、やはり若いときに読んでわからなかったことが、50歳も過ぎてくると素直に入ってくるようになるのが不思議です。

で、あらためてすごい本ですね、これは。これだけ綿密な論理を重ねて体系的に考えられる人は哲学史上でもそうはいません。それと、今日のインテリでもカントをきっちりと読んでいる人は必ずしも多くないことがよくわかりました。その手の人は哲学事典なんかの記述を丸呑みにしてわかったふりしているだけです。

それはともかく、言語が必ずしも体系的記述にふさわしくないので、どうしても独特の造語を使わざるをえなくなります。カントの哲学はそうした造語が多くて、その点では理解するのに骨が折れます。ただ、カントはその造語を記述が進むに従って別の言葉で言い換えて論じるので、順番に丹念に読んでいくと、わかるようになってもいます。親切な人柄が偲ばれます。

事実そうやっていわれた言葉はすんなり入ってきます。例えば、

「理性は決して直接に対象に関係することなく、常に悟性にのみ関係し、また悟性を介してのみ理性自身の経験的使用に関係するのである。理性は(対象の)概念を創るのではなくてこれらの概念を整頓し、またこれに統一を与えることができるのである」(中)306頁

これでもかなりわかりやすい方ですが、この事情が要するに

「人間の認識はすべて直観をもって始まり、直観から概念にいたり、理念をもって終わるのである。人間の認識がこれらの三要素[純粋直観、カテゴリーおよび理念]に関して、それぞれア・プリオリな認識源泉をもつが、かかる認識源泉は一見したところ経験の一切の限界を無視して顧みないかの感がある。しかしいったん批判を完成してみると、この批判は次のことを我々に確証するのである、即ち——理性の一切の思弁的使用が、これらの三要素をもって可能的経験の領域の外へ出ることはまったく不可能である」(356頁)

翻訳者の適切な注もあり、こうやって言い換えてわかりやすくなったり、新たな問題を示唆したりという具合に進んでいくのがカントのスタイルです。ただ、ここでは特に直観と概念と理念の位置づけが印象的でした。ちなみに概念のところはもとは「純粋悟性概念=カテゴリー」という用語が使われていて、やっぱり用語がいかめしいととっつきにくいですよね。

なお、理念の方を展開するとヘーゲルになっていきますが、この理念の理解の仕方が忠実に反映されているのがマックス・ウェーバーの「理念型」をめぐる考察です。ウェーバーの話については、今執筆中の社会学の教科書に反映させます。

それにしても理性の適切な使いかただけでこんな本が書けてしまうのは、本当は頭がいいのか悪いのか、ときどきわからなくなります。それで、結局ものの本質、すなわち「物自体」は理性によっては認識できないということになるのですから、入念に準備運動をしていっこうに泳ぎ出さない人みたいなところがあります。

でも、だからこそ面白い人です。ヘーゲルも面白いですが、あまり友だちにはなりたくありません。カントさんはふつうにつきあってもかなり面白い人だったんじゃないかという気がします。

(岩波文庫1961年各550円)

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