デュルケム『宗教生活の原初形態』(下)古野清人訳
デュルケームによれば、社会は人間が作ったものですが、人間の手を離れて自己原因的に「物として」成立して、それがまた人間に影響を与えてくるという寸法です。宗教もそういう意味では社会が作ったものということになります。
この立場から当時の現地調査に基づいた民族学の業績から、宗教と儀礼に関するものを批評的に通観していますが、いわゆる現地調査をしないアームチェア人類学者のはしりかもしれません。現地調査が当然とされる今日の文化人類学や民族学の領域では、こういう人は存在できなくなっているかもしれません。
資料はスペンサー&ギレン、ストレーロウ、ホウィットなど、オーストラリアの原住民の研究者が中心で、今日の目から見るとかなり奇妙で、不思議な風習などもかなり収録されています。しかし、デュルケームはもっぱら自身の哲学の傍証としてしか考えていないように見えます。
弟子のモースやユベールは同時期に現地の資料に没入しすぎて論文にまとめられなくなるくらい、おそらくショックを受けていたのだろうと推察されます。彼らが苦心して書いた呪術や贈与の話は読むと背景にとんでもないことが控えているという気がしますが、さらにその弟子のマルセル・グリオールなんかはこれまたおそらくそこに刺激を受けて、実際に現地ドゴン族の社会と宗教に入り込んでぎりぎりのところで研究をまとめたりしています。
ちなみにかの岡本太郎も当時ースの講義を聴いていた一人で、「アームチェア人類学者とか言われるけど、面白かったよ」とどこかで言っていました。こうしたフランス社会学の奇人変人列伝があるなら読んでみたいです。
この点、デュルケームは極めて思弁的な仕事をしています。彼の意図は社会学よりも、社会を成り立たせている哲学/思想の方に感心があったようです。もともと哲学畑の人ですし、ベルグソンと年齢もそんなに変わりませんし。ベルグソンに対するライバル心もあったかもしれません。ただ、私が思うに、思想の深さでは完全にベルグソンに水をあけられていますけど。
それで、本書の結論部分は堰を切ったように哲学論/科学論が語られたりします。そこではクーンのパラダイム論に先駆けて、集合表象の枠内でしか科学が成立しないということを論じて見事です。ウェーバーの「社会科学における客観性」論文も、客観性をめぐってクーンよりも鋭い議論をしていますし、クーンの議論自体はポラニーの拙劣なパクリですから、クーンの評価は私の中ではもうほとんどゼロに近いものになっています。パラダイムという言葉をはやらせたのが功績でしょうか。これも時代とともにかすみますね。
ところで、本書に出てくるオーストラリア諸民族や事物、地名の名称は昔、F.ショムロー『原始社会の財貨流通』(1909年)を訳したときに大いに参照させて頂きました。ショムローは本書と同様の文献を用いながら、財貨流通や交換の問題に取り組んでいます。これはモースが賞賛するところとなっていますが、デュルケームは初期から一貫して経済のことにまったく関心がない人なので、本書には何も言及されていません。トーテミズムについてのピクレルとショムローの研究書『トーテミズムの起源』には言及されていますし、著書の存在を知らなかったわけではないと思います。見事に関心がなかったのでしょう。
(岩波文庫1975年改訳550円)
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