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2012年3月30日 (金)

池田信夫『原発「危険神話」の崩壊』

著者は原発推進はと思われている節がありますが、そうではなくて、「原発は危険だが、そのリスクを他の発ガン物質や環境汚染と同じ規準で比較し、費用対効果を最適化すべきだ」(6頁)という立場です。彼を警戒している人こそ読んでおくべき本だと思います。

本書は科学的で客観的なデータに基づいた、冷静な本ですが、下手なことをいうと「炎上」させようと待ちかまえている空気が反原発派には渦巻いていますから、いやーな感じがします。

というわけで、今日は「おわりに」から引用しておわりにします。

「問われているのは、原子力か『自然エネルギー』かなどという技術の問題ではなく、人間が科学をいかにコントロールするかという知恵である。(中略)科学の限界を自覚しながら、論理と事実にもとづいて考えるしか、gんざいの危機を収集する道はない。われわれは安全神話に安住するのでもなく、危険神話におびえるのでもなく、科学技術という厄介なものと共存してゆくしかないのである」(189-190頁)

(PHP新書2012年720円税別)

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2012年3月29日 (木)

山浦玄嗣『イエスの言葉 ケセン語訳』

すごい本です。まだの人は是非読んでみてください。聖書の言葉がここまできっちりと解釈された上で、著者の地元の気仙沼地域の方言に翻訳されています。単に新共同訳聖書を方言に置き換えたようなものではなくて、見事な聖書解釈、ギリシア語解釈を経由しているので、驚くほどしっくり来る日本語になっています。

例えば「愛する」は「大事にする」、「ことば」(ヨハネ1・1)は「神様の思い」、「裁く」は「善し悪しをいう」という具合です。ギリシア語の「現在命令」を動作の継続を表す用法と確かめた上で、「もとめよ。さらば与えられん」という有名な言葉は「願って、願って、願ァ続けろ。そうしろば、貰うに可い」という訳になります。

従来の訳よりも意味がすっと入ってきます。「聖霊」なんて難しい漢語を使わずに神様のプネウマは「素朴に風であり、息である。それで十分だと思います」(145頁)と斬新でわかりやすいのです。

というわけで、有名な「汝の敵を愛せよ」なんかは「敵(かたき)だってもどごまでもだいじに(でァじ)にし続げろ」(112頁)になるわけです。

ヨハネによる福音書の最初のところ「初めに言葉ありき」はこんなふうになります。

初めに在ったのァ
神さまの思いだった。
思いが神さまの胸に在った。
その思いごそァ神さまそのもの。
初めの初めに神さまの
胸の内にあったもの。

神さまの
思いが凝って
あらゆる物ァ生まれ、
それ無しに
生まれだ物ァ一づもねァ

神さまの思いにァ
あらゆるものォ生がる力ァ有って、
それァ又、
生ぎる喜びィ人の世に
輝かす光だった。          (14-15頁)

すごいでしょ。私は目頭が熱くなりました。

著者は被災地のお医者さんで、著者の病院も津波に襲われて大変だったそうです。幸い死者は出なかったそうですが、

「冷たい雪と真っ黒な泥濘におおわれた見わたす限りの瓦礫の野を前にして、呆然と立ちつくす私の肩をかっちりとつかんで、イエスはいいます。」
「おい、元気を出せ、この生き死人め。この俺は死んでもまた立ち上がったのだぞ。その俺がついているんだ! さあ、涙をふけ。勇気を出して、いっしょにまた立ち上がろう。お前のやるべきことが、それ、見えるだろう!」(247頁)

ご一読を!

(文春新書2011年780円+税)

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2012年3月28日 (水)

生松敬三・木田元『現代哲学の岐路 理性の運命』

稀代の読書家の二人が、ポストモダンの思想家に至るまでの西洋近代哲学の歴史を自在に語った本です。いろんな思想家たちの思想史的こぼれ話も面白いですし、特に木田元さんの発言が自由闊達でいい感じです。

いろいろと教えられたことがたくさんある本ですので、以下に箇条書きにしておきます。まあ、自分のための覚え書きですが。

・マルクスの発想の核心に「根源的自然」の復権という一種ロマンは的な発想があること
・ゲシュタルト心理学とゲーテの発想との共通性
・ルカーチの『歴史と階級意識』の斬新なマルクス解釈の確かさが、後に発見されたマルクスの『経済学・哲学手稿』によって裏付けられたこと
・フランス思想がドイツ哲学を吸収し始めた1930年代の思想状況
・ウィトゲンシュタインはフッサールの『論理学研究』をはっきりと意識して、それを乗り越えようとしていたこと
・ポストモダンの思想が単なる非合理主義や土着性の強調に堕する心配があること
・オルテガの「生のための理性」という発想の面白さ

などです。生松敬三は思想史的アプローチなので、あっさりした読み方をすることが多いのですが、その分、いろんなエピソードに通じています。木田元は英独仏ラテンギリシャの5カ国語に通じ、しっかり原典で読みこなした上で、決して西洋崇拝にならずに、健全な日本のおじさん的読解を提示してくれます。タイプの違う博学同士の対話がうまくかみ合って、話題がどんどんふくらんでいきます。これで面白くならないわけがありません。

(講談社学術文庫1996年800円+税)

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2012年3月25日 (日)

ヴェルナー・ゾンバルト『恋愛と贅沢と資本主義』金森誠也訳

ヴェーバーがプロテスタンティズムがきっかけとなって、しかし意図せざる結果として資本主義が誕生したという、風が吹けば桶屋が儲かるような話をしたのが、あの有名な『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1904−05)でしたが、どうも腑に落ちないという人は、本書を読むといいかもしれません。

ゾンバルトは、新興成金層が貴族に伝えた贅沢と、その贅沢奢侈にふける原動力となった、つまり情事の対象としての女性たちの存在に注目しています。貴族相手の高級娼婦から、成金層の愛妾、娼婦とだんだんと情事が世俗化していく中で、こうした女性たちが人びとを奢侈に走らせた原動力となった事例を丹念に調べています。

要するに、人びとのリビドーと贅沢奢侈こそが近代資本主義誕生の動因だと見ているわけです。ややこしいウェーバーの世俗内禁欲の論理とは対照的に、こうした露骨な欲望にも深甚な関心を払うところがゾンバルトの面白いところです。これはこれで物事の一面をとらえていると思います。

ちなみに、落語の三題噺のようなタイトルには「恋愛」とありますが、実際扱われているのは「情事」です。響きはもちろん「恋愛」の方がいいですけど。

ウェーバーを読むと、ついついあの難解な口調が伝染しそうになりますが、そうなってしまうとあまり感心できません。そんなときの解毒剤として、このゾンバルトの本をあわせて読んでおくといいと思います。

(講談社学術文庫2000年1050円税別)

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2012年3月23日 (金)

カール・ポラニー『大転換—市場経済の形成と崩壊』吉沢英成、野口武彦、長尾史郎、杉村芳美訳

本書を読むのは4度目くらいです。ポランニーの邦訳の中では本書がいちばんきっちり翻訳されているとう印象です。「訳者あとがき」にもあるように、翻訳作業は訳者四人による訳稿輪読・討論を重ねながら進められたそうですが、それだけのことはあります。

これにより、ポランニーの原文自体がそもそもかなり曖昧で思わせぶりなところが多いということがわかります。と同時に、このキャッチフレーズ作りのうまい、天性の扇動家的な部分がよく伝わってきます。近くにいた人たちは彼の言動に振り回されて、さぞかし大変だったことでしょう。

しかし、アジテーターというのは時代の空気を読むのに長けていなければ始まりません。ポランニーはその点で当時流行の雑多な思想を吸収しながら、独自の勘のよさによってそれらをつなげて見せました。市場社会の崩壊とその先まで見通したかのような表現は、おそらく本人としては天の啓示を受けたような興奮状態で執筆していたのでしょう。

こんな感じです。

「われわれは、諸国家の内部に、経済システムが社会を支配することをやめ、社会のほうが経済システムに対して優位にたつことを保障するような一つの発展を目撃している。これは、非常に多様なかたちで、すなわち、民主的・貴族的、立憲的・権力的な方法で、あるいはおそらくいまだまったく予知することさえできぬ形態で生ずるかもしれない。(中略)つまり、市場システムはもはや原理的にさえ、自己調整的なものではなくなるであろう。というのは、市場システムは労働・土地・貨幣を包含しなくなるであろうから」(336頁)

マネー経済が拡大しきったかに見える今日において、ポランニーが示唆する方向で考えてみるのも悪くないと思います。暴走した市場経済があるとき突然に、あるいは音もなく徐々に社会の中に組み込まれることになるとしたら、それはそれで歓迎すべきことですから。

ただ、この方向でものを考えるにしても、あくまで方向しか示されていないのもまた、彼のテクストの特徴です。悪くいえば言いっぱなしですが、それは預言者的キャラクターの特徴ですから、読者としては、そうかもしれないなあと思いながら、今日の経済状況を眺めていると、この「預言」が真実みをおびることになるかもしれません。

ポランニーの預言は、頭の片隅に置いておいても損はないと思います。たぶんこれから十分のお釣りが来るでしょう、などと預言者めいたことを言ってみたくなりますが、これも本書の毒にあてられたせいでしょうか。

(東洋経済新報社1975年3200円+税)

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2012年3月21日 (水)

小幡績『すべての経済はバブルに通じる』

教科書執筆のため再読。題名から直ちに内容がわかる本ですが、本の中ではもっとはっきり言っています。資本主義経済とはバブルなのです。もっといえば「ねずみ講」です。

「ねずみ講、これが、お金が増える理由であり、経済成長がプラスを持続するメカニズムであり、資本主義の本質なのです」(同書5-6頁)

最後に買った人は馬鹿を見ますね。実際、今日のマネー経済は実物経済の15〜20倍あると言いますから、もうそろそろ最後が近づいているんじゃないでしょうか。

しかし、騙されているのはわかっていても、次々と金融市場に人々が参入してくれるなら、自分だけは売り抜けられると思っている人もたくさんいるのでしょう。その点まさに「ねずみ講」ですね。

著者は21世紀の自己増殖する金融資本をキャンサーキャピタリズム(癌化した資本主義)と呼んでいます。今日これはすでに構造的に市場に組み込まれているため、これを除去することは不可能だといいます。言い得て妙です。

「自己増殖を止めない金融資本は、投資機会を自ら作る出すことを求める。その成功により、金融資本はさらに増殖するが、実体経済には過度の負担がかかり、金融資本に振り回されることになる。ここに、本来、実体経済の発展を支える存在であった金融資本が、自己増殖のために実体経済を利用するという主客逆転現象が起きる。そして、これが最終的には、実体経済を破壊し、金融資本自身をも破壊させる結果をもたらす」(同書224頁)

このままわれわれはどこまで行くのでしょうね。みんなが「やーめた」ということになると終わることですが、その後の世界の風景は一変するかもしれません。少なくとも人々はしばらくの間は憑き物が落ちたような顔になることでしょう。

(光文社新書2008年760円+税)


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2012年3月18日 (日)

レヴィ=ストロース『野生の思考』大橋保夫訳

以前本書を読んだときは、ショムロー・ボードグの『原始社会の財貨交通』を翻訳する際の訳語の参考にするためだったので、結構適当な読み方をしていたようです。今回読み直してみて、あらためてレヴィ=ストロースの強靱な知性に驚かされました。

レヴィ=ストロースは理数系に強いタイプの頭なので、未開社会の複雑な社会構造を前にして、たじろぐどころかむしろ嬉々としてそこに規則性を見出そうとする人なのでした。彼が見出す「構造」というのはこんな感じです。

「私は『実践』と慣習的行動の間にはつねに媒介項があると信じている。その媒介項が概念の図式なのであって、その操作によって、互いに独立しては存在しえない物質がと形態が、構造として、すなわち経験的でかつ解明可能な存在として実現されるのである。私は、マルクスがほんの少し素描をしただけのこの上部構造の理論の確立に貢献したいと思っている」(154頁)

うまいこと言ってくれますね。でも、この見通しを明るく信じているところがレヴィ=ストロースの特徴です。説明が図式的すぎるような気がすることもありますが、実際に現象が本当に図式的だったりすることはありますし、そう見えていることとそうあることとを繋ぐためのもっとも妥当な近似値モデルはやはり構造なのかもしれません。そもそも私たちの頭が構造的ですから。

というわけで、当時の論敵であった、論壇の寵児サルトルは、ほとんどレヴィ=ストロースによって理論的にはとどめを刺されていたんじゃないかという気がします。

ところで、レヴィ=ストロースが嬉々として取り組むトーテミズムや親族体系の諸問題は、確かに固有かつ独特の論理で動いていて、興味深い対象なのですが、わが国のように原始心性を色濃く残している文化の場合、レヴィ=ストロースが驚いたように驚く必要もない場合があります。

忌み名や名前の剥奪、奪還をはじめ、いろいろと出てくる怪しいモチーフは宮崎アニメや『夏目友人帳』とか『蟲師』の世界に息づいています。少なくともわれわれは西洋のインテリのように驚いてみせる必要はなさそうです。

完訳された『悲しき熱帯』も近いうちに読んでみます。

(みすず書房1976年3600円+税)

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2012年3月14日 (水)

K.ポランニー『人間の経済Ⅰ』

久しぶりに読み返しました。近代市場経済がどのようにして誕生したかということについて、ポランニーの問題意識とマルクスやアダム・スミスのそれとがどう違うかを確認したくて読み返しました。

気がついたことは、ポランニーには本源的蓄財や先行的蓄財という視点がほとんどないということです。そのため、ヨーロッパ人の新大陸での残虐非道な振舞いについても、無視するというよりは、最初から意識に上っていないという感じなのです。

市場経済の発生当初に、とんでもないボッタクリがあったということは事実ですし、そのことが世界経済にもたらした意味をどう評価するかはともかく、少なくとも問題にしたほうが、今日のマネー経済の巨大な力の淵源を探る上でも有効な視点が得られると考えますが、どうでしょう。

一方で、社会統合の形態や、社会制度に組み込まれた原初的経済のあり方については興味深い視点を提供してくれています。本書の編集方針からもたらされる印象では、ポランニーが次第に『大転換』で示されたアクチュアルな視点が、古代社会や民族誌の領域へと移行していった感じがします。

しかし、若森みどり『カール・ポランニー』(NTT出版2011年)によると、どうやらそういう一般的な見方は間違っているようですね。(若森さんの本も近いうちに読んで、ここに感想を上げておきます。)

あらためて読むと、訳文が読みにくい場所が結構目につきました。2~3度読み直してかろうじて分かるといった感じです。語学の問題と言うより、日本語の文章としてもう少し整理してくれるといいのですが。たとえば、

「妥当性はこの場合、第一に正当な人間が正当な機会に正当な種類の物を返さねばならぬことを意味する。正当な人間とは、もちろん対称的に配置された人間である。たしかにそうした対称性なしには、互酬システムが含む複雑な授受関係は起こりえなかった。妥当な行為はしばしば公平と価値考慮の行為であり、少なくとも外観ではそうである」(94頁)

適当に開いた頁から抜書きしてみましたが、ギリギリの線でしょう。原書を横目で見ながらならいいんですけど、これだけで読むと読みやすいとは言えないでしょう。

あと、今や故人となられた玉野井芳郎氏の序文で「ハンガリー語の表記、表音を正しく写し取るなら・・・」(8頁)と
あって、その後にでたらめなことが書かれていますが、1998年に出た特装版でもここは直っていません。誰か訂正してやってください。なお、他にもハンガリー人の人名表記はヘンテコです。「オシュカル・ヤーシィ」ってどうやったらこう読めるのかって感じです。ポーランド語風かな。

ま、偉い先生だから、わかっていても言えないということはあったんでしょう。でもそろそろ直してほしいですね。

([特装版]岩波現代選書1998年2600円+税)

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2012年3月13日 (火)

長谷川三千子『正義の喪失 反時代的考察』

著者のアダム・スミスやマルクスのユニークな解釈が気になっていたので、再読しました。とりわけ第5章の「ボーダレス・エコノミー批判」は必読です。

ボーダレス・エコノミーという言葉は最近あまり聞かれませんが、近代市場経済の暴力性を表す言葉です。市場の暴力というのは、人間を大地=自然の秩序から切り離し、欲望のかたまりにしてしまうことで、アメリカ大陸での2000万人に及ぶ原住民大虐殺なども当然含みます。

この力は当初から国境を越えて波及しましたから、いまやボーダレスといわれても当然という感じがしますが、そこで見失われてしまう問題をあえて拾い上げるところが著者の真骨頂です。

著者はこうした問題に最初に気がついたアダム・スミスやマルクスの著作中の表現を丹念にたどり、彼らが見過ごした問題や、無視した問題、あるいは当たり前に考えて疑おうともしなかった前提自体の抱える問題について、ひとつひとつ謎を解くように考察していきます。

この精密な読解力はさすがに哲学畑の人だけのことはあります。哲学を専門にする人はわが国にもたくさんいますが、著者のように精密な読解力と考察力を兼ね備えた人はそうはいません。

それにしても、今日「無構造な空間」(236頁)としての姿を現した、タガの外れた市場経済の力は、今後どこに向かっていくのでしょう。5章追記にもあるように、全世界の実体経済の額は1日500億ドルから1000億ドルの水準であるのに対して、マネー経済の取引量はその10倍以上の1兆ドルから1兆5000億ドルなのだそうです。

このお金がヘッジファンドによって大量に出し入れされたら、ギリシアに限らず、世界中の国民経済の多くはひとたまりもなく破綻してしまいます。これからこのマネー経済にどう対処していくのでしょうね。

(PHP文庫2003年648円税別)

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2012年3月11日 (日)

髙山正之『「官僚は犯罪者」は世界の常識』

社会学の教科書で官僚制を扱うので、再読しました。何度読んでも血圧が上がる本です。

以下、今執筆中の原稿の一部を紹介します。

**********************
わが国が近代官僚制を導入したのは明治時代です。明治政府は当初、長州の足軽出身の伊藤博文たちが明治天皇を補弼する、いわゆる側近政治を行おうとしていました。西洋の絶対君主制をモデルにしたわけです。西洋でもそうであったように、このとき官僚制が成立します。

足軽は本来なら上級の武士たちに頭が上がらないはずですが、されだからこそ、その武士という身分を廃し、代わりに自分たちの手足となるべき官僚をつくり出しました。武士も江戸時代を通じて役人だったわけですから、本来ならそのまま官僚になってもよさそうなものですが、下級武士たちによる政権であったからこそ、それまでの制度とそれにまつわるしがらみを断ち切る必要があったのです。

しかし、そうした側近政治を嫌った明治天皇が民撰議院の設立を促したため、1890年に帝国議会が開設されることになります。そのまま順当に行けば帝国議会政府に移行してしまい、伊藤博文たちは失脚する恐れがあったため、国会開設前に官僚が議院内閣制をコントロールできるシステムをつくりました。それが近年の民主党政権でようやく廃止されたかと思ったら2011年9月に復活した事務次官会議です。

こうして「帝国議会」と「足軽元老+官僚」の権力の二重構造が生まれ、その隙間から軍部まで出てくることになりました。学校秀才揃いの軍部が先に述べた官僚制の欠陥をすべて兼ね備えた組織で、わが国を敗戦に導いたことについてはここで触れるまでもないことでしょう。そして、第二次大戦後マッカーサーにより、軍部も元老も廃止されましたが、結果的に元老の手足であった官僚は無傷のまま権力の座に留まったわけです。

「武士らしい高潔さもない、長州の足軽でさえもっていた志もない官僚が棚ぼたで権力を握るとどうなるか。彼らは都心に豪華な宿舎を建て「年金は役人、民間は退職金」の形を崩して年金と退職金を二重取りし、さらに天下りして民の高潔を貪ることだけに邁進している。官僚の権化と評してもよい石原信雄は「官僚は優秀で見識がある」からそれが許され、天下りは「その優秀さを民間で生かす」ためだと弁解する。しかし、石原本人を含め、官僚は尊大ではあっても、優秀な者などいまだかつていなかった。
 せっかく次官会議を通じて戦後の日本を支配しても、彼らは日本に吸い付く寄生虫以上にはなれなかった。考えることは宿主・日本が死んだら寄生できないということだけ。だから何でも平和、何でも現状維持を貫いた。外交官も、外国でいい暮らしをしたいから、波風立つ外交折衝などやらない。彼らが舵を取って日本から覇気がなくなった」(同書20−21頁)

思えば江戸時代の武士は貧乏でした。士農工商の身分制度は江戸時代全体を通じて経済力に関しては商工農士の順番になってしまっていました。武士は、武士道に基づく精神修練を積んでいて初めて武士だといえます。

江戸幕府の制度設計をするとき、学問好きの徳川家康の頭の中には四書五経をはじめ、『貞観政要』のような唐代の政治哲学が入っていたことは間違いありません。その中にはいかに役人の不正「悪跡」を防ぐかという問題意識がありました。また、科挙の試験で上がってきた役人がすぐに汚職をし、公金をごまかしては不正蓄財に走るという史実はつかんでいたことでしょう。

江戸時代を通じて武士が役人を兼ねていた体制は、少なくともこの点に関して実にうまく機能していたと見ることができます。しかし、明治政府になって武士でない役人が登場してからは、上述の状況が出現して今日に至るわけです。
************************

どうしたもんでしょうね。野田内閣で次官会議は復活しちゃいましたし。今は見事に官僚主導政治になってしまっています。

(PHP研究所2010年1,400円税別)

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2012年3月 9日 (金)

西原理恵子『この世でいちばん大事な「カネ」の話』

著者のすさまじい半生記とともに語られるお金の話です。1964年生まれの著者ですが、著者の小さい頃はまだまだわが国にはすさまじいが残っていたことがわかります。

著者は貧乏が人間をどのように変えるのかということを家庭生活や地域の生活のなかで味わい尽くしてきたんですね。貧乏の悪循環から抜け出すのが以下に大変かということも、こうして実体験とともに書かれると、説得力が増します。

美大に入っていきなりいろんな雑誌媒体に売り込みに行くはなしとか、体験取材として、賭けマージャンで連戦連敗、5000万円もスッてしまった話とか、世界の貧困地域を取材した話とか、全部面白いです。そして、体験の現場から様々な教訓を引き出しています。

「おわりに」で印象的なことが書かれていたので最後に紹介しておきます。

 生きていくなら、お金を稼ぎましょう。
 どんなときでも、毎日、毎日「自分のお店」を開けましょう。
 それはもう、わたしにとっては神様を信じるのと同じ。
 毎日、毎日、働くことが私の「祈り」なのよ。
 (中略)
 覚えておいて。
 どんなときでも、働くこと、働き続けることが「希望」になる、ってことを。

(理論社2008年1300円+税)

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2012年3月 8日 (木)

ライプニツ『形而上学序説』

『単子論』に至る直前の段階のライプニッツの思想がよくわかる本です。後半のアルノーとの往復書簡の中にも興味深い表現がしばしば見られます。

もちろん形而上学なので、「神」とか「実体」といった概念が頻出すると、ついて行けなくなるところはあります。例えばこんな感じです

「凡て実体は完全な自発性を持っている(悟性を具えた実体においてはそれが自由となっているが)実体に起こることは凡てその観念もしくは存在から出る結果であり、神だけを除けば何一つ実体を決定するものはないということがわかる」(146−147頁)

どうも「実体』というのは単なる物ではないみたいだと思って読んでいくと、

「実際、理性的精神は最も完成しうべき実体であって、その完成の特徴となる点はそれが互いに妨げ合うことが最も少ないということ、むしろ互いに助け合うということである」(157頁)

つまり、精神も実体であって、それが助け合うって何なのでしょう。

という具合に全編を通じて著者の楽観的な信仰はうかがえますが、理屈の通りがよくありません。しかし、主語と述語の関係の中で神学的・哲学的考察を展開したり、ア・プリオリな要素についての議論を展開したりと、後の時代のカントやヘーゲルでおなじみの思考法がすでに見られるところは興味深いです。

で、単子論の萌芽のようなところは例えばこんなところです。

「寧ろ私は凡てのものが生命を持った物体で充満していると思っている。私の考えによれば、コルドモア氏の考えているアトムよりも、比較にならないほど多くの精神があるのである。コルドモア氏がアトムの数は有限だと思っているのに反して、私は精神の数、少なくとも形相の数は無限だと考えている。そして物質は限りなく分かつことができるのであるが、「どんなに小さくてもその中に生命を持った物体が入っていないほどまで小さい部分」を物質に認めることはできない。精神でないまでも、少なくとも原始的エンテレケイアもいくは生命の原理を具えた物質、換言すれば物質的実体で、その凡てに就いて、人が一般に「これは生活している、生命を持っている」と云えるようなものが入っていないほどまで小さい物を認めることはできない」(118−119頁)

このように書簡のなかで述べています。もうこれは「単子論」の寸前まできていると考えられます。ただ、だからといって「単子」が何なのかということになると、本当はよくわからないのです。このあたりが形而上学なんですけどね。

(岩波文庫1950年、2012年復刻版、1040円+税)

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2012年3月 7日 (水)

テリー伊藤『お笑い大蔵省極秘情報』/『大蔵官僚の復讐 お笑い大蔵省極秘情報2』

官僚制を共同体論の視点からまとめようと思って読み返したのがこの2冊です。今は財務省ですね。あらためてキャリア官僚のエリート意識にはげんなりさせられますが、二冊まとめて、ノンキャリアの職員の話も読んでみると、彼らが口をそろえて言うように、こんな権力集中を許している国民がバカだというのはまあ、本当です。

彼らは自分が悪いとか馬鹿だとは決して認めませんが、お役人全体が、答えの見えない状況で戸惑っていることがわかります。本書の出版当時からずっとこの不況は続いているので、おそらく今も何をどうしたらよいかわからないままなんでしょうね。消費税だけは上がりそうですが。

デフレ経済には教科書がないので、こういうときは試験に強い人間よりも、創造性のある人間が出てこなければいけないのですが、お役人はいくら優秀でもそういった頭の使い方はできないようになっていることが、本書を読んでよくわかりました。

本当はこういうときこそ政治主導といきたいところですが、民主党政権も途方に暮れて、自民党の時代よりも明らかに官主導になっています。

明治時代以来の官僚制を根本的に変えるためには、公務員から定年制をなくして、死ぬまで高給で働けるようにするしかなさそうです。結果として妙な天下り機関を減らすことができていいんじゃないでしょうか。試験問題も択一試験を廃止するとかして、もう少しどうにかしたいですね。

いずれにしても、官僚の行動原理はとても閉鎖的で保守的な村社会のそれと同じなので、日本の縮図でもあります。学校歴社会で試験の点数を信仰しているのはヘンですが、官僚でなくてもそういうの結構ありますもんね。これはやはり、よほどうまく制度設計をしないと変わっていかないでしょうね。

(飛鳥新社1996年1262円+税/1998年1300円+税)

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2012年3月 6日 (火)

マルクス『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』城塚登訳

公務員試験の参考書をパラパラとめくっていたら、ヴェーバーに先駆けてマルクスが見事な官僚制批判をしているとあったので、読んでみました。こういうものは探そうとするとなかなか見つからないのが常ですので、とにかく最初から丁寧に読んでみました。

しかし、本文中にそれらしいところは見つかりません。論文「ユダヤ人問題によせて」のほうにもありませんでした。受験参考書のほうをもう一度見てみると、「ヘーゲル法哲学批判の一環として」という微妙な表現で、「『ヘーゲル法哲学批判序説』の中に」とは書かれていません。

これは全集をひもとくしかないのかと思いつつ、何気なく解説を眺めていたら、翻訳者の城塚登が「ヘーゲル国法学批判」としてまとめられた草稿の中から次のような箇所を引用しているのが見つかりました。(参考書の著者も「文庫の解説を読んだ」というのがためらわれて、微妙な表現になったのかもしれません。)

「官僚制の普遍的精神は、それ自身の内部では位階秩序によって、外へ向かっては閉鎖的な職業団体という性格をもつことによって、保護されている秘密であり神秘である。それゆえ公開的な国家精神も国家心情も、官僚制にとっては、その神秘に対する裏切りのように思われる。したがって権威がその知識の原理であり、権威の神格化がその心情なのである。しかし、彼ら自身の内部では、精神主義は極端な物質主義、受動的な服従の物質主義、権威信仰の物質主義、固定した形式行為と固定した原則や直観や伝統のメカニズムの物質主義となっている。ここの官吏についていえば、国家目的は彼の私的目的、より高い地位への狂奔、立身出世に転化している」(175−176頁)

1843年の段階でこれだけの透徹した目をもっていたのはさすがです。この文章などは言いたいことを怨念を込めて凝縮しているような文章ですが、これがマルクスのいかにもマルクスらしいところでもあります。

マルクスというのは稀代のアジテーターで、キャッチコピーを作るのがうまく、「君たちの考えていることや感じていることは、気づかないかもしれないけれど、本当はこんな意味なんだ」と上から目線で煽ってきます。これに影響を受けると、次第にマルクスと同じ口ぶりで世の中を断罪するような連中も出てきます。

ただ、キャッチコピーとしては格好のいい「人間が宗教をつくるのであり、宗教が人間をつくるのではない」(71頁)とか、宗教対立を解決するために「宗教を揚棄する」(11頁)なんて簡単に言われると、いくら若者とはいえキリスト教圏では「それはおかしいでしょ」と思う人は少なくありません。イスラム教圏ではもっとそうでしょう。

そのあたりはマルクスの思想の圏外になってしまいますが、わが国ではむしろ人びとの間で宗教意識が希薄な分だけマルクスは浸透しやすいところがあります。とはいえ、これも団塊の世代が最後くらいかもしれませんが。

それはともかく、マルクスが社会の矛盾を観察し、言語化する手法には見事なものがありますし、論理もポストモダン的なひねりがきいているので、複雑な社会現象の描写に適しています。何のかんのと言っても、学ぶことはたくさんある本です。

(岩波文庫1974年300円)

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2012年3月 3日 (土)

ひろさちや『がんばらない、がんばらない』

「PHP文庫ワンコインフェア」とあって、ついつい買ってしまいました。そのあと古本屋に行ったら300円で売られていましたが、読んでよかったです。著者は仏教の考え方を手変え品変えいろいろな角度から平易に語ってくれます。

印象に残った話をいくつか挙げておきます。

中世インドの宗教哲学者の論争に触れて、神に救われる人間の態度が「猫の道」と「猿の道」の二つに分かれるという話です。母猫から首ねっこををくわえられて何もせずに救われてしまう態度と、母ザルに自分でしっかりと捕まって努力している小猿の態度で、結局は論争には決着がつかなかったそうですが、著者は面白いことを言います。すなわち、

「わたしは、順境にあっては『猿の道』を、逆境のときは『猫の道』を選ぶとよいと考えている。・・・逆境のときには、もがけばもがくほど苦しくなる。努力すればするほど、泥沼にのめり込む。そんなときは、仏の加護を信じてじっとしていたほうがよい」(131頁)

私も今年はどうやら八卦見によると「八方ふさがり」とのことですので、じっとしていることにしたほうがよさそうです。

ほかに「血眼になってする努力はいわば執念であって、仏教は不可としている」というのもいいですね。「仏教でいう精進は、ゆったりとした努力である。ゆったりと、そし着実な努力を続けることを、仏教は教えているのである」(137頁)

そうですよね。

人は正義にこだわるとしばしば「阿修羅」という魔のたぐいになります。そうならないためには、

「あなたは正義にこだわることをやめて、相手にほんの少しだけいたわりの気持ちをもつことだ」(159頁)

みんながこれをできるようになるといいんですけどね。

(PHP文庫2011年476円税別)

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2012年3月 2日 (金)

後藤正治『清冽 詩人茨木のり子の肖像』

茨木のり子の詩は若い時あまりぴんと来なかったので、それなりけりになっていましたが、本書に引用してある作品を読んでみると、丁寧に選びぬかれた言葉が用いられていて心を動かされました。言葉に対する姿勢が一貫して見事です。

私の場合、若い時には狂気の一歩手前にあるような難解な詩をよしとしていたので、この詩人の味わいが余計わからなかったのだと思います。

そのあたりのことは谷川俊太郎がうまく書いています。

「茨城産は一貫して自分と向き合い、きちんと書いてきた詩人ですよね。社会とも向き合ってきた。それは彼女の美質だけれども、表現されるものもまた行儀がよくて、パブリック過ぎるというか、へたをすると教訓的になってしまう。僕の言い方でいえば言葉を生み出す源の無意識下がきれい過ぎる。そこが物足りない」。(123頁)

もちろん著者の作風も晩年にはかなり変化してきていて、そのあたりの事情も本書は丹念に描いています。2007年に刊行された『歳月』は、その谷川俊太郎も称賛しているので、これはやっぱり読んで見る必要がありそうです。

著者の文章は読みやすく、叙述の構成も絶妙です。何より著者がこの詩人の作品と人となりに惚れ込んでいるのがよく伝わってきて、好感が持てます。いい本です。いつか娘に読ませたい本です。

(中央公論社2010年1900円+税)

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