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2012年3月11日 (日)

髙山正之『「官僚は犯罪者」は世界の常識』

社会学の教科書で官僚制を扱うので、再読しました。何度読んでも血圧が上がる本です。

以下、今執筆中の原稿の一部を紹介します。

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わが国が近代官僚制を導入したのは明治時代です。明治政府は当初、長州の足軽出身の伊藤博文たちが明治天皇を補弼する、いわゆる側近政治を行おうとしていました。西洋の絶対君主制をモデルにしたわけです。西洋でもそうであったように、このとき官僚制が成立します。

足軽は本来なら上級の武士たちに頭が上がらないはずですが、されだからこそ、その武士という身分を廃し、代わりに自分たちの手足となるべき官僚をつくり出しました。武士も江戸時代を通じて役人だったわけですから、本来ならそのまま官僚になってもよさそうなものですが、下級武士たちによる政権であったからこそ、それまでの制度とそれにまつわるしがらみを断ち切る必要があったのです。

しかし、そうした側近政治を嫌った明治天皇が民撰議院の設立を促したため、1890年に帝国議会が開設されることになります。そのまま順当に行けば帝国議会政府に移行してしまい、伊藤博文たちは失脚する恐れがあったため、国会開設前に官僚が議院内閣制をコントロールできるシステムをつくりました。それが近年の民主党政権でようやく廃止されたかと思ったら2011年9月に復活した事務次官会議です。

こうして「帝国議会」と「足軽元老+官僚」の権力の二重構造が生まれ、その隙間から軍部まで出てくることになりました。学校秀才揃いの軍部が先に述べた官僚制の欠陥をすべて兼ね備えた組織で、わが国を敗戦に導いたことについてはここで触れるまでもないことでしょう。そして、第二次大戦後マッカーサーにより、軍部も元老も廃止されましたが、結果的に元老の手足であった官僚は無傷のまま権力の座に留まったわけです。

「武士らしい高潔さもない、長州の足軽でさえもっていた志もない官僚が棚ぼたで権力を握るとどうなるか。彼らは都心に豪華な宿舎を建て「年金は役人、民間は退職金」の形を崩して年金と退職金を二重取りし、さらに天下りして民の高潔を貪ることだけに邁進している。官僚の権化と評してもよい石原信雄は「官僚は優秀で見識がある」からそれが許され、天下りは「その優秀さを民間で生かす」ためだと弁解する。しかし、石原本人を含め、官僚は尊大ではあっても、優秀な者などいまだかつていなかった。
 せっかく次官会議を通じて戦後の日本を支配しても、彼らは日本に吸い付く寄生虫以上にはなれなかった。考えることは宿主・日本が死んだら寄生できないということだけ。だから何でも平和、何でも現状維持を貫いた。外交官も、外国でいい暮らしをしたいから、波風立つ外交折衝などやらない。彼らが舵を取って日本から覇気がなくなった」(同書20−21頁)

思えば江戸時代の武士は貧乏でした。士農工商の身分制度は江戸時代全体を通じて経済力に関しては商工農士の順番になってしまっていました。武士は、武士道に基づく精神修練を積んでいて初めて武士だといえます。

江戸幕府の制度設計をするとき、学問好きの徳川家康の頭の中には四書五経をはじめ、『貞観政要』のような唐代の政治哲学が入っていたことは間違いありません。その中にはいかに役人の不正「悪跡」を防ぐかという問題意識がありました。また、科挙の試験で上がってきた役人がすぐに汚職をし、公金をごまかしては不正蓄財に走るという史実はつかんでいたことでしょう。

江戸時代を通じて武士が役人を兼ねていた体制は、少なくともこの点に関して実にうまく機能していたと見ることができます。しかし、明治政府になって武士でない役人が登場してからは、上述の状況が出現して今日に至るわけです。
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どうしたもんでしょうね。野田内閣で次官会議は復活しちゃいましたし。今は見事に官僚主導政治になってしまっています。

(PHP研究所2010年1,400円税別)

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