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2012年3月 8日 (木)

ライプニツ『形而上学序説』

『単子論』に至る直前の段階のライプニッツの思想がよくわかる本です。後半のアルノーとの往復書簡の中にも興味深い表現がしばしば見られます。

もちろん形而上学なので、「神」とか「実体」といった概念が頻出すると、ついて行けなくなるところはあります。例えばこんな感じです

「凡て実体は完全な自発性を持っている(悟性を具えた実体においてはそれが自由となっているが)実体に起こることは凡てその観念もしくは存在から出る結果であり、神だけを除けば何一つ実体を決定するものはないということがわかる」(146−147頁)

どうも「実体』というのは単なる物ではないみたいだと思って読んでいくと、

「実際、理性的精神は最も完成しうべき実体であって、その完成の特徴となる点はそれが互いに妨げ合うことが最も少ないということ、むしろ互いに助け合うということである」(157頁)

つまり、精神も実体であって、それが助け合うって何なのでしょう。

という具合に全編を通じて著者の楽観的な信仰はうかがえますが、理屈の通りがよくありません。しかし、主語と述語の関係の中で神学的・哲学的考察を展開したり、ア・プリオリな要素についての議論を展開したりと、後の時代のカントやヘーゲルでおなじみの思考法がすでに見られるところは興味深いです。

で、単子論の萌芽のようなところは例えばこんなところです。

「寧ろ私は凡てのものが生命を持った物体で充満していると思っている。私の考えによれば、コルドモア氏の考えているアトムよりも、比較にならないほど多くの精神があるのである。コルドモア氏がアトムの数は有限だと思っているのに反して、私は精神の数、少なくとも形相の数は無限だと考えている。そして物質は限りなく分かつことができるのであるが、「どんなに小さくてもその中に生命を持った物体が入っていないほどまで小さい部分」を物質に認めることはできない。精神でないまでも、少なくとも原始的エンテレケイアもいくは生命の原理を具えた物質、換言すれば物質的実体で、その凡てに就いて、人が一般に「これは生活している、生命を持っている」と云えるようなものが入っていないほどまで小さい物を認めることはできない」(118−119頁)

このように書簡のなかで述べています。もうこれは「単子論」の寸前まできていると考えられます。ただ、だからといって「単子」が何なのかということになると、本当はよくわからないのです。このあたりが形而上学なんですけどね。

(岩波文庫1950年、2012年復刻版、1040円+税)

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